清初ウラナラ閨閥
前項で触れた四人の皇族の嫁さんがみんなウラナラ氏ブジャンタイiって人の娘さんだった話の続きです。サックリ種明かしをしてしまえば、このブジャンタイって人はフルン四国(海西女直)のウラの最後のベイレ(国主)・ブジャンタイ・ベイレ(Bujantai 布佔泰)のことです。
ブジャンタイは継位前の万暦19(1591)年にヌルハチがハダ、ウラ、ホルチン部など九ヶ国連合軍と戦って破ったグレの戦いで、ヌルハチの捕虜になっています。で、処刑されそうになったところを命乞いして助命して貰って、その後三年間抑留されています。その頃のウラのベイレはブジャンタイの兄・マンタイ・ベイレ(Mantai 滿泰)でしたから、この当時のブジャンタイは王弟みたいな立場ですね。ベイレに近しい親族ですから、戦後、兄であるマンタイ・ベイレからはブジャンタイの保釈要求も出された様です。しかし、ヌルハチが聞き入れなかったようですね。で、抑留されている間、ブジャンタイは宴会に出席して舞を披露して朝鮮使節に感心されたりしたみたいですが、そうこうしているうちにマンタイ・ベイレは部下に殺されてしまいます。
ヌルハチがこの情報を聞くと、万暦24(1596)年7月にブジャンタイを解放してウラに帰国させます。ブジャンタイは帰国後、叔父に命を狙われたモノの何とかベイレ位に即いて、ヌルハチと同盟します。この際にブジャンタイはシュルガチに妹・フナイを嫁がせています。
その後、ブジャンタイはウラ北方のワルカiiに勢力を伸ばし、更に、万暦29(1601)年3月には朝鮮に対して官位を要求し、朝鮮がその要求をはね除けるとウラは朝鮮に侵攻して屈服させた上で官位を得ています。
次いで、11月にはマンタイの遺児・アバハイ(Abahai 阿巴亥)をヌルハチに嫁がせています。これが後の大妃で白旗三王=アジゲ、ドルゴン、ドドの生母です。
同盟関係が続くかに見えたヌルハチとブジャンタイですが、その後、万暦34(1606)年にはワルカの帰属問題で対立し、翌万暦35(1607)年正月、遂にマンジュとウラは戦端を開きます。ヌルハチはシュルガチ、チュエン、ダイシャン、フィオンドン、フルガンに兵三千を預けてウラに向かわせます。遠征軍は烏碣巌でウラ軍と激突しましたが、マンジュ側の勝利に終わります。
更に、翌万暦36(1608)年3月にヌルハチがチュエンとアミンに兵五千を預けて、ウラ本土を襲撃させると、9月にはブジャンタイはヌルハチに使者を送って和平を請うて許されます。今回は和議成立の証しとして、ヌルハチの娘であるムクシ・ゲゲを嫁がせます。
で、ブジャンタイはこの後、ヌルハチと敵対していたイェヘと連携し、妻でありシュルガチの娘であるオンジュ・ゲゲを鏑矢で射て(鏑矢で射ても死にはしないので、呪術的な意味がある模様)虐待し、ヌルハチを挑発します。この時期にやらんでも良いことしてるようにしか見えませんが、記録に残っているのはマンジュの言い分だけですから、ブジャンタイにはブジャンタイの言い分はあるのかも知れませんが、それにしても酷いですね…。
コレを聞くとヌルハチは大いに怒り、万暦40(1612)年、自ら3万の兵を率いてウラに侵攻します。ヌルハチは大兵力を動員したものの、一気にウラ城を攻めずに近隣の食料を焼いて焦土作戦を実行しました。糧食不足となって戦線を維持できなくなったブジャンタイは、またヌルハチに和平を請うて許されます。この際にヌルハチは人質を取っています。あるいはこの時にブジャンタイの娘も捕虜とされたのかも知れません。
太祖以布占泰或有和好之意延及一年又聞布占泰欲將女薩哈簾男綽啟鼐及十七臣之子送葉赫為質娶。v
しばらくはおとなしくしていたモノの、そのうちまた、ブジャンタイはイェヘと接近して、息子の綽啟鼐及び娘の薩哈簾の婚姻の交渉を行ったようです。同時にブジャンタイはシュルガチの娘とヌルハチの娘を監禁したので、またヌルハチは激怒してウラを攻めます。ブジャンタイは三万の兵力をもってマンジュ迎撃に向かい撃ちますが、惨敗してイェヘに逃げ込みます。
ココにウラは完全に滅び、おそらくブジャンタイの息子達とブジャンタイの娘達は、遅くともこの頃までにはヌルハチ庇護下に入ったモノと考えられます。
ここまでザッと見ただけでも、ブジャンタイの背反常ない行動が目につきます。ヌルハチの太妃であるアバハイにしてみれば、人質としてヌルハチの元に居たわけですから、ブジャンタイが裏切れば命の保証は無かったモノと思われます。幸い寵愛を受けて嫡フジンの地位にあったから命があったようなモノで、ブジャンタイが裏切る度にアバハイはヒヤヒヤしていたのではないでしょうか?
また、アバハイの弟…つまり、マンタイの息子であるアブタイはブジャンタイが継位すると、イェヘに逃げたと言いますからvi、マンタイ系とブジャンタイ系が果たして一枚板であったのか?自分は疑問に思います。
ちなみに、太妃・アバハイの弟・アブタイ・ナクチュはヌルハチ在世中はグサ・エジェンに任命されるなど実力者の一人でした。しかし、ヌルハチ崩御後、ホンタイジ即位するや事態は一転して冷遇されたようですvii。
(天聰)二年,以擅主弟多鐸婚,削爵,尋復之。viii。
又違上命,為貝勒多鐸媒聘國舅阿布泰女,論死,上宥之,命奪官,籍其家之半。ix
(天聰二年正月)庚寅。初貝勒多鐸、欲娶國舅遊撃阿布泰之女。貝勒阿濟格、不奏請於上。又不與衆貝勒議。擅令阿逹海、與多鐸爲媒。又同阿逹海至阿布泰家、視其女。至是事聞。上命罰阿濟格銀千兩。駄甲冑雕鞍馬一。雕鞍馬三。素鞍馬八。仍革固山貝勒任。以其弟多爾袞代之。降阿布泰爲備禦。罰銀二百兩。阿逹海座引誘多鐸。又聴信阿濟格言。璵多鐸爲媒擬辟。因係太祖恩養之人。免死。革職。籍其家之半。x
天聰2(1628)年には、アブタイの娘とドドの婚姻を、アジゲの取りなしで行ったようですが、事前にホンタイジなり他のベイレ達に、報告なり連絡なりをしていなかったことから、ホンタイジの逆鱗に触れてアジゲとアブタイは降格の憂き目に遭います。この際、グサエジェンの職を失ったアジゲは、今後ずっと後任とされたドルゴンと、婚姻の当事者であるドドより一段下に置かれます。ホンタイジはどうにもウラナラ閥を目の敵にしていた節があり、アブタイはその頭目とでも見なされたモノか、ホンタイジ在世中は要職には就いていないようです。おまけに、今後ウラナラ氏と、皇族との婚姻は基本禁止という命令まで下されたようですxi。天聰年間はともかく、崇徳年間の諸王の降格人事を見るに、どうやらウラナラ氏と関係のある皇族は狙い撃ちにされているようにも見えます。
初國舅額駙阿布泰原在內大臣列令出入大內及值國家有喪不入內廷私從和碩豫親王多鐸游。諸王、貝勒、貝子、固山額真、議政大臣等、以阿布泰負主恩、無人臣禮。議奪牛錄、除國舅額駙名、為民其優免壯丁百名、仍充公役。xii
また、ホンタイジ崩御後、アブタイは葬儀に参列せずに、ドドとどんちゃん騒ぎをしていたという罪状で罰せられ、ナクチュ(國舅)の称号を剥奪されています。罪状に名前の出ているドドは罰せられた様子もないので、このあたり、アブタイは直接的ではないにせよ、ショトとアダリの事件に関与を疑われて連座した可能性があるのではないでしょうか?
更に、ドルゴン死後、既にアブタイは死去していたにもかかわらずxiii、ショト、アダリの事件で暗躍したという罪でジルガランに弾劾されていたりするのでxiv、事件の影にウラナラ氏がいたというのは、当時は説得力のある説だったようです。
ちなみに、アブタイは《欽定八旗滿洲氏族通譜》巻二十三 烏拉氏によると、正白旗の所属だったようですしxv、ブジャンタイの遺児である第三子バヤンと第六子モー・メルゲンは鑲白旗の所属なのでxvi、白旗三王の制御下にあったことからもブジャンタイ系婚族がマンタイ系婚族と巧いこと連携出来ないながらも、頼ろうとしたというのは有るのかなぁ…という気はしますが…。でも、ブジャンタイの娘達の旦那達は正紅旗だったり、鑲藍旗だったり、鑲紅旗だったりするわけで、そんなに影響あるのか自分は疑問ではあります。
ちなみに同じウラナラ氏の話でもう一つ。ホンタイジの継妃・ウラナラ氏はホーゲの生母なのですが、マンタイ、ブジャンタイの叔父であるボクド(博克鐸)の娘だったようです。ある時、継妃は里帰り?する際に、ヌルハチの嫡子たるアジゲの邸宅の門前を通りかかった際に、輿から降りなかったのを不遜とされて、ホンタイジと離縁させられたという事があったようですxvii。
アジゲは太妃・アバハイの長子ですから、なんだかウラナラ氏内でメンツの張り合いをしていたように見えますね…。また、継妃と太妃・アバハイの父親は従兄弟同士ですから、年齢差は分かりませんが継妃の方が一世代上と言うコトになるはずです。と言うコトは、長幼の序を無視してアバハイはハーンの妻である地位を利用して、継妃を不敬不遜と糾弾して排斥したわけですから、もしかすると、ホーゲとドルゴンの不仲の原因はこのあたりにあるのかも知れませんね…。
と言うワケで、同じウラナラ氏の関係者と言っても、マンタイ系のアブタイ、アジゲ、ドドと、ブジャンタイ系のショト、アダリ、アイドゥリ、ドルフ、バヤン、モー・メルゲンと、ボクド系のホーゲと少なくとも三系統存在して、その利害は一致しなかったのではないでしょうか?それに、ウラナラ閥領袖に擬されるドルゴン自身は、敵対した派閥は徹底的に排除するモノの、それ以外は割と各派閥のバランスを取るような人事をしていたように宣和堂は考えているのですが、それは又別の機会に触れましょう。
- ブジャンタイとウラの系譜については 松浦茂『中国歴史人物選 第11巻 清の太祖 ヌルハチ』白帝社 に依る [戻る]
- 加藤清正と交戦したおらんかいに比定される部族 [戻る]
- 万暦29(1601)年 [戻る]
- 《滿洲實錄》卷三 [戻る]
- 《滿洲實錄》卷三 [戻る]
- 鴛淵一「鄭親王擬定阿布泰那哈出罪奏に就て」人文研究6巻9号 [戻る]
- 鴛淵一「鄭親王擬定阿布泰那哈出罪奏に就て」人文研究6巻9号 [戻る]
- 《清史稿》卷二百十七 列傳四 諸王三 太祖諸子二 [戻る]
- 《清史稿》卷二百二十七 列傳十四 阿山 [戻る]
- 《太宗文皇帝実録》 [戻る]
- 鴛淵一「鄭親王擬定阿布泰那哈出罪奏に就て」人文研究6巻9号 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》卷之一 [戻る]
- 没年は不詳 フジンは老年を理由に罪を免じられている [戻る]
- 鴛淵一「鄭親王擬定阿布泰那哈出罪奏に就て」人文研究6巻9号 [戻る]
- この辺も換旗前か後かで異なるので注意は必要 [戻る]
- 増井寛也「専管権から見たアイシン国の功臣集団とその構成」『立命館文學』第594号 [戻る]
- Wikipedia 清太宗繼妃 [戻る]