冰嬉
長年の懸念事項である冰嬉に関する記事を見つけたのでメモ。
と、最近冰嬉で検索するとコレばっかり引っかかるんですよね…。《後宮 甄嬛傳(邦題:宮廷の諍い女)》という人気ドラマの一シーンです。
この動画の03:44頃から安陵容のフィギュアスケートが始まります。で、人気ドラマの有名なシーンで使用されたことで、割と冰嬉自体がメジャーになったようで、圓明園ではこんなアトラクションもやるようになったみたいですね…。
それはさておき…。実は清朝の宮廷画の中に《冰嬉図》と題されたモノが結構あり、わりとメジャーな画題なんですよね。自分も美術展などで清朝の宮廷絵画が来るときは冰嬉が題材の絵画あると喜んで見に行きます。2012年に開催された北京故宮博物院200選展で展示されていた〈乾隆帝紫光閣遊宴画巻〉には冰嬉大会の様子が描かれていました。これも面白い絵画で、冰嬉大会の様子が右から左に流れる絵巻でどうやら時間経過も現しているようで、冰嬉競技を黄色い皇帝専用のソリから観戦して、審議を行って入賞者に賞を与えて宴会を行う様子が描かれています。紫光閣は南海にある明代からの宮殿で、外交的な宴会に使われました(人民共和国成立後も来賓者との会談をココでやってた模様)。紫光閣の幔幕の外では宴会用の食事を用意している様も描かれているので、宣和堂は非常に気に入っている絵画です。
しかし、割と実像の冰嬉って言うのがこれまたよくわからんのですよね。で、いつも乾隆年間までの北京について調べるときに自分がよく見る《日下旧聞考》を見ると、簡単に表記があります。
冬月則陳冰嬉,習勞行賞,以簡武事而修國俗云。i
《日下舊聞考》でもよく引用される《國朝宮史》にもサラッと記述ありますね。
入苑門,即太液池也。(中略)冬月水澤腹堅,則陳冰嬉於此,循國俗修武事而習勞行賞之意寓焉。ii
國俗舊有冰嬉,以肄武事。皇上率循舊典,爰於每歲冰堅之候,於太液池聚八旗武士陳之。御製冰嬉賦一篇,以敘其事。內廷諸臣恭注。乾隆十年校刊iii
欽定書で國俗認定されているわけですから、清朝治下、乾隆朝では国技と言って良い相当メジャーなスポーツだったようです。ただ、ココに書かれているように、あくまでも軍事演習であるという側面が強調されます。《日下舊聞考》では続けて乾隆帝の冰嬉ポエムも載っているんですが…まぁ引用するとこんな感じデス。
御製《冰嬉賦(有序)》:陸行之疾者,吾知其為馬;水行之疾者,吾知其為舟、為魚;雲行之疾者,吾知其為鵾、鵬、雕、鶚。至於冰,則向之族莫不躄躠膠滯滑擦而莫能施其技。國俗有冰嬉者,護膝以芾,牢鞵以韋。或底合雙齒,使齧凌而人不踣焉,或薦鐵如刀,使踐冰而步逾疾焉。較東坡誌林所稱更為輕利便捷,惜自古無賦者,故為賦之。其辭云:歲暮星窮,和叔告冬。陰凝北陸,律中黄鍾。景長而土圭可測,瑞兆而雲物皆同。撫序兮羣辟殷聘,考時兮三農蕆功。有厲疾之征鳥,鮮求信之蟄蟲。叫嚴飆兮栗烈,凜肅氣兮穹窿。於斯時也,火井無燠,温泉不熱。何水不凝?何波不結?阻平川之會海,徒望奫潫;勒奔峽之傾流,惟聞幽咽。澌盈九曲,謝神禹之剔鬟;凍合三山,駐王喬之旌節。躍魚之表孝曾傳,覆鳥之昭祥見說。則有鏡呈太液,璧寫龍池。占昏危之應宿,值顓頊之司時。沍而不流兮,礙矜鱗之鯉;凝而原澈兮,疏倒影之梅(叶)。皓皓皚皚兮,映白塔之孤矗;溓溓泠泠兮,隔玉蝀之橫欹。載取載藏兮,順彼月令;以訓以賚兮,陳我冰嬉。爰答歲華,率循舊典。陳旅集衆,既雷動而風行;結部整行,埒春搜而秋獮。元冥受律,戢水族與波臣;蚩尤秉旗,乃暴禦而祟遣。於是戎士憑怒,武卒振拳。渴思一試,遑慮誰先!齊撙撙其轇轕兮,昈陸離以屬聯。駭營營其佖路兮,紛偨傂以羅駢。袒劉呂之左右兮,各殊事以布班。倏陰陽之閉闔兮,期奏績以勤宜。衣短後,膝蔽前。鞾齒雙利,鞵刀兩儇。編伍森列,齊隊便旋。於斯少息,以待號令之傳焉。爾其屯萬人於中堅兮,屬堪輿以壁壘。奔八神以周衞兮,招丁甲而發指。亘長縆以節止兮,羣總總而切儗。驛綵旌以傳符兮,看縱縱之立俟。心無別營,目不他視。遂乃朱旗颭,捷步騰。緹衣揚,輕武[輕/足]。聳擢布濩,豗逐䞴趟。踧沑波流,蠭軼猋驚。閃如曳電,疾若奔星。蹂蹈雲衢,揚揮玉京。故其為聲也,軯礚隱訇,礌硠激越。硡砰殷麟,雜沓遝震疊。謍振天棖,響匉地臬。慴波底之娵隅,墮林間之巢鶻。元武縮殼而屏氣,燭龍守珠而閉闕。起湧泉,會奔物。雖天籟之號竅,比千鈞於一髪。其為狀也,似東皇整駕於若木之墟,羲帝弭節於扶桑之津。應真掛錫以凌虚,茅君驂龍以羾天(叶)。過驥羣而駿足搶捍,上扶搖而鵬翼圖南(叶)。蠖畧回翔,演沱糾紛。鏡大圓而晶皛皛,珠萬琲而爛爛璘璘。交差曼衍,[厤/心]落皴鱗。突都盧兮輕趫,迅龍驤兮麟振。奕六虯兮沛艾,御八風兮穆旼。首進者却視而小憩,繼至者錯履而蹵跟。虞後來之比肩,更前往而擢身。傑者得幟,疇與比倫?遺者失誌,第如逡巡。復有革戲,其名圓鞠。漢家有執機之譬,黄帝作練戎之俗。武由是習兮,其争也君子;好謀而成兮,如祭則受福。申明誓兮衆聽無譁,陳廣場兮各司其局。乃其冰牀駐於琉璃之界,豹尾扈於鸑鷟之隈。千官儼立於懸圃,萬隊佇待乎瑤階。[厤/心]天之旗,影捎朵殿;照雲之蓋,光熻趯臺。殆而容與,惄若㣶徊。執事者中立而不倚,争捷者有前而無回。珠球一擲,虎旅紛來。思摘月兮廣寒之窟,齊趁星兮白榆之街。未拂地兮上起,忽從空兮下迴。突神龍之變化,蕤翔鳳之髤䰄。鶣[票鳥]燕居,姌嫋鴻猜。怡情悅目,有如是哉!夫其伯仲分,甲乙第。併前行賞,縱後亦逮(叶)。勇者特旌,任者均賜。普被曰仁,有差曰義。則豈啻西苑飾紅板之柁,温泉設錦鞍之戲而已乎!重曰:仲尼有言,射觀德兮。安不忘危,舊是式兮。惟歲之晏,以休以息兮,一日之樂,匪賚曷得兮。敬告後人,無或逾則兮。iv
興味深いキーワードは散見されるモノの、長い割に基本的にポエムなので何のこっちゃかよく分からん記述になってますね。スピードスケートみたいな競技と、サッカー?みたいな競技のことを書いてるみたいです。ただ、冰嬉図に書かれる門を設置してその周りをグルグル旋回して弓で的を射る競技とは何か違う気もします。
で、ネットで見つけたのは百度百科のこの記事デス。⇒冰嬉
色々興味深い事は書かれているんですが、この中で紹介されている文献の中で、一番冰嬉について詳しいのは吳振棫の《養吉斎叢録》と言う書物です。作者の吳振棫は嘉慶年間の進士で同治十年に卒していますが、地方官を歴任した人ですね。雲南大理知府、山東登州・沂州・濟南知府、安徽鳳陽知府、山東登莱青道、貴州粮儲道、貴州按察使、山西布政使、四川布政使など地方官を歴任し、咸豊2(1852)年には雲南巡撫、咸豊4(1854)年に陝西巡撫、咸豊5(1855)年に四川總督、咸豊7(1857)年に雲貴總督に転じています。これは太平天国の乱に乗じた騒乱の鎮圧に対しての人事で、吳振棫は前任者が失敗した雲南の回民(イスラーム教徒)と漢人の対立で生じた騒乱を鎮圧していますから、政治手腕は確かな人だったようですね。ともあれ、実際に皇帝の行っていた行事にアクセスしうる人の記録だと言うことは確実だと言うことですね。乾隆年間の冰嬉とは厳密には違うんでしょうけど、参考までにあげてみましょう。
冰嬉之制,所以習武行賞,俗謂跑冰鞵。即《金鼇退食記》v所載:西苑冰上擲毬之戲,而實不止擲毬一事。歲十二月,西苑三海層冰堅冱,於是擇令辰,聖駕御冰牀臨觀焉。或五龍亭,或闡福寺,或瀛臺等處,無定地。冰鞵以一鐵直條嵌鞵底中,作勢一奔,迅如飛羽。始曰「搶等去」。上御之冰牀二、三里外,樹大纛,衆兵咸列。駕既御冰牀(亦曰拕牀)。嗚一礮,樹纛處亦嗚一礮應之(謹案:宣宗御制觀冰嬉應制詩云:「爆竹如雷殷,池冰若砥平。」又云:「堅冰太液鏡中邊,翠輦行時竹爆宣。」蓋所鳴爲竹爆也)。於是衆兵馳而至。御前侍衛立冰上,搶等者馳近。御座,則牽而止之。至有先後,分頭等、二等,賞各有差。繼曰「搶毬」兵分左右隊,左衣紅,右即衣黃。既成列,御前侍衛以一皮毬猛踢之至中隊,衆兵爭搶,得毬者復擲,則復搶焉。有此已得毬,而彼復奪之者;或墜冰上,復躍起數丈,又遙接之。又繼以轉龍射毬。走隊時,按八旗之色,以一人執小旗前導,二人執弓矢隨於後,凡執旗者一二百人,執弓矢者倍之,盤旋曲折行冰上。遠望之,蜿蜒如龍將近,御座處設旌門,上懸一毬,曰天毬,下置一毬,曰地毬。轉龍之隊疾趨至,一射天毬,一射地毬(謹按:宣宗御制觀冰嬉應制詩云:「彩毬連命中,羽笴疊相鳴。」又云:「鳥翔旗色初分隊,魚貫髇聲每應弦。」蓋所射骲箭也)。中者賞。復折而出,由原路盤曲而歸其隊。其最後執旗者一幼童,若以爲龍尾也。舊制,八旗兵皆演冰鞵,分日閲看,按等行賞。道光初惟,命內務府三旗預備,後則三旗亦停止,僅給半賞之半而已。
乾隆間,歳奉皇太后觀冰嬉。道光閒,亦嘗奉皇太后觀冰嬉。
按:曩時閲冰嬉,若尚在國恤期內,則走隊時撤去各色旗,惟用弓矢。又按:冰牀聯句詩云:「高注旗森攢豹尾,夾趨柄蜿刻龍頭。」又「檀榻簇葩匡既好,柘檐纈翠蓋斯觩。方祵茸燠敷貂座,圓極虛明屏廚幬。」此言御用冰牀之制也。又御前蒙古王等,凡至西苑,亦賜坐冰牀隨行。vi
訳:冰嬉は軍事演習として奨励されていた。俗に言う”跑冰鞵“である。《金鼇退食筆記》に記載があるが、西苑での氷上の擲毬戯(ボールを擲つスポーツ)は、ただボールを投げると言うだけのモノではない。十二月になると、西苑三海では氷が硬く張るので、辰の日を選んで?陛下が五龍亭や闡福寺、瀛臺など場所は決まってはいないが幸行遊ばされて冰牀から観戦される。スケート靴は真っ直ぐの鉄片を靴底に填め込んで使い、勢いを付けて滑ると、飛ぶような速さがでる。初めに「搶等去」と言う競技を行う。陛下の冰牀の2~3里より外側に大きな旗を立てて選手を全員整列させる。陛下の冰牀(または拕牀と言う)が到着すると、ボーンという音で合図を送る。すると、大きな旗を立てているところからもボーンという音で応じる(原註:道光帝の〈宣宗御制觀冰嬉應制詩〉では、「爆竹が雷のように鳴り響き、池の氷は研いだようになだらかだ」とか「硬い氷で太液を鏡のようになっている中で、青緑色の輦車は爆竹で始まりを宣言する」とあるので、コレは恐らく爆竹を使ったのであろう)。合図を聴くと選手が入場して、氷上の侍衛近く御前の所までに如何に早く馳せ参じられるか競争し、御座を引いて所定の場所で止める。この早さを競って、一等、二等などを決める。賞品には各々差がある。
次に「搶毬」と呼ばれる競技を行う。選手を左右の隊に分け、左は紅色の着物を着て、右は黄色の着物を着る。二隊が整列しているところに、御前侍衛が皮毬(ボール)を隊の中に蹴り込むと、選手達はボールを取り合い、ボールを確保した者がボールを蹴り、又ボールを取り合う。既にボールを確保した選手も、ボールの争奪に参加する。ボールが氷上に落ちても、ボールが数丈跳ねたところで、また遠投してプレイを続ける。
続けて、毬を射的の的にする。隊列を組んで氷上を走る時には、八旗に応じた小旗を持った選手に先導させ、続く二名の選手が弓矢を執ってこれを追う。おおよそ小旗を持つ選手は1~200人で、弓矢を執る選手はその倍の人数。選手達は氷上を旋回曲折するので、遠くからコレを見ると、龍がとぐろを巻いているように見える。また、御座の近くに旌門を設置して門の上にボールを一つ掛ける。これを「天毬」と呼ぶ。また、門の下にもボールを一つ掛ける。コレを「地毬」と呼ぶ。コースをとぐろを巻きながら疾駆して滑ってくる選手は、天毬に一射、地毬に一射弓を射る(原註:道光帝の〈宣宗御制觀冰嬉應制詩〉によると、「色とりどりの毬に続けて命中し、矢羽は畳みかけるように鳴る」とか「鳥は旗色分けて飛び、魚は一列になって鏑矢の音に応じる」とあるので、恐らく鏑矢で射たのであろう)。的に当てた選手はもう一度コースに出て、また元のコースを回ってそのチームに戻る。最後尾の旗を持つ選手は幼童なので、これは龍尾と見なすのだろう。旧制では八旗兵は皆スケート靴を履いて表演を行い、何日間かに分けて観戦し、審議の上で表彰を行った。道光初年に内三府に命じて上三旗のみの表演になり、また後になって上三旗の表演もやめてしまったので、その規模は四分の一に縮小した。
乾隆年間、皇太后は冰嬉の観戦を好まれた。道光年間にも皇太后のために冰嬉が開催された。
原註:国初の冰嬉では各旗の旗を持ったりせず、ただ弓矢を用いるだけだった。原註2:〈冰牀聯句詩〉によると、「高注旗森攢豹尾,夾趨柄蜿刻龍頭。」とか「檀榻簇葩匡既好,柘檐纈翠蓋斯觩。方祵茸燠敷貂座,圓極虛明屏廚幬。」とあり、これは御用の冰牀について言及しているのである。また、御前にモンゴル諸王が訪問された時などは、だいたい西苑で冰牀を下賜されて随行したようだ。
と、敢えてスポーツ単語に置き換えて超訳してますが、道光咸豊あたりの冰嬉はこんな感じだったようです。この頃になると八旗対抗スケート大会じゃ無かったみたいですね…残念です。あと、再現演目みたいに八旗の甲冑着て滑ったわけじゃないみたいですね。甲冑じゃ無くてユニフォーム着て滑ってます。
で、大きく分けると、競技はこんな感じなんですかね。
1:待機場所から皇帝観戦ポイントまでのスピードスケート
2:集合した後の氷上ボール争奪戦
3:氷上にコースを設定しゲートを設置しての氷上流鏑馬
コレで見ると、フィギュアスケートの入り込む余地がなさそうですね…。にしても、数日間に渡って競技を続けたって言うことは、むしろグランプリシリーズとか冬季オリンピックとか、そういう感じのイメージですかね。あと、旌門に掛けられてる鞠は二つになっていますが、絵画で見るとどうにも門には一つしか鞠というか的は一つしか掛かってないように見えます。旗を背負う選手と矢を射かける選手の割合も異なります。乾隆年間と道光年間ではルールが違うんですかねぇ…。また、先に挙げた〈乾隆帝紫光閣遊宴画巻〉はどうやらモンゴル諸侯王が北京に来訪した際に催行された冰嬉の様子を描いたモノという事が図録の解説viiにもありますから、来賓を招いての御覧試合をこの頃からやってたって事ですよね。
更に《養吉斎叢録》で引用されていた《金鰲退食筆記》を見ると確かに記述がありますね。ただ、現行の《金鰲退食筆記》とは内容一致しませんが…。ちなみに《金鰲退食筆記》は康煕年間の高士奇の著作です。康煕帝に抜擢された人物で、康煕年間に没しているので冰嬉に関しては康煕年間の冰嬉…と言うコトになるんでしょう。
人呼瀛臺南為南海、蕉園為中海、五龍亭為北海。寒冬冰凍以木作平板下用。二足裹以鐵條一人在前引繩可坐三、四人、行氷如飛名曰拖床。積雪殘雲景更如畫。又于冰上作擲毬之戲、每隊數十人各有統領、分伍而立以皮作毬擲于空中。俟其将墮羣、起而爭之以得者為勝、或此隊之人將得則彼隊之人。蹴之令逺喧笑馳逐以便捷勇敢為能本朝用以習武所著之履皆有鐵齒行冰上不滑也。viii
3~4人でスケート履いて縄で冰牀を引いたと…これが皇帝が載る冰牀でしょう。続けて氷上でボールを投げるスポーツを行ったようです。リーダーを決めて数十人単位のチームに分かれて、列に並んで皮で作ったボールを空中に放り投げて、群がってボールを取り合って最後に確保した者を勝者としたことなんかが書かれてますね。アメフトで言うところのヘイルメリーを氷の上でやったみたんですかね。《養吉斎叢録》では記述がありませんでしたが、二つに分けたチームにリーダーがいたことも明記されていて興味深いです。
しかし、やっぱり、絵画に描かれるような旌門に的を掛けてグルグル廻りながら矢を射かける競技のことは書いてないみたいですね…。冰嬉というと、文章上では擲毬之戲とか搶毬とか言われる氷上サッカーのような競技の方がむしろメジャーだったかのような印象受けますね。
さて、先の百度百科の記事では冰嬉は以下の競技があったとしてます。
1:一般のスケート
2:氷上で的を射る競技
3:ボールを使った競技
4:個人、ペアによる演技
で、4番目の競技が今日のフィギュアスケートのような競技だったとしているわけですが、紹介されている文献確認する限りそんな演目なさそうですね…。おまけに、冰嬉自体は何度も繰り返し書かれているように、軍事演習の一環として捉えられているわけで、ボールを使った競技にせよ、氷上の門の的を射る競技にせよ、いくらか鷹狩り的な側面が認められるのですが、フィギュアスケートにそんな側面があるとは思えません。そもそも、冰嬉自体に冬の閲兵式みたいな意味合いがあったんでしょうから、フィギュアスケートは要らないでしょうねぇ…。上に添付した動画でも、圓明園では氷の上に雪が積もっている様子が写ってましたが、どうやらこれは清代も同じだったようで、《冰嬉図》でも積雪を掻き分けて滑ったところが道になってコースとして機能している様がちゃんと描かれています。フィギュア競技やるなら雪どかさないといけないですよね…。
また、百度百科では冰嬉のフィギュアにはいろんな演目があったとして金鷄獨立、蜻蜒點水、紫燕穿波、鳳凰展翅、哪吒探海、雙燕飛、朝天蹬とそれらしい名前を7つくらい上げているんですが、こうなるとソースは何処にあるんだと言いたいですね…。必殺技かよ…。
と言うワケで、雍正年間に冰嬉の表演中にいきなり后妃とはいえ、宮女がフィギュアスケーターとして乱入したら、雍正帝ならふざけたコトするな!って激怒しかねないリスキーな行為だったのではないでしょうか…w