康煕帝の諸皇子
と言うワケで、毎日BSで放送されている《歩歩驚心(邦題:宮廷女官 若曦(ジャクギ))》をツラツラ見てます。軽くストーリーに触れると、現代の北京で彼氏に二股かけられた歴女・張暁が何故か清代・康煕朝の八阿哥・胤禩の側福晋・若蘭の妹としてタイムスリップ!八王府で生活する傍ら、康煕帝の皇子達に言い寄られちゃって困ってるウチに、選秀女に紛れて康煕帝のお茶汲み宮女となって康煕帝にも気に入られちゃってどうしよう!という、まぁ、一言で言うと辮髪乙女ゲードラマですね。セットも衣装も貧弱だなぁ…等と、結構馬鹿にしながら見てたんですが、続けて見てみると結構面白いので続きが楽しみなドラマ№1になってますね…。細かいところを上げていくとキリが無いわけですが、歴史との関わりは信長のシェフみたいなモンなので、それくらいにお気楽に構えて見るのが礼儀という感じはしますがw
で、このドラマは宮廷の辮髪プリンス達に言い寄られる歴女が歴史に翻弄されるのが本筋ですが、康煕帝の皇子と関わる関係上、所謂、九襲奪嫡の政争のど真ん中に放り込まれるわけです。で、見てて自分でもこんだらがったので蔵書とWikipediaを見ながら、康煕帝の皇子を纏めてみました。7歳で即位して68歳で没しているからか、とにかく子沢山の康煕帝なんですが、調べると記録に残るだけでも35人も息子がいたんですねぇ…(娘は20人なので合計55人も子供がいたという…)。その殆どが夭折しているのですが、それにしても多い。実は大阿哥の前にも4人も息子がいたんだとか、Wikipedia見るだけでも知らないコトが割とあるんすねぇ…。
皇阿瑪:康煕帝⇒言わずと知れた康煕大帝。7歳で即位して68歳で没するまで、戦争と政争に明け暮れたばかりでなく、文化にも理解があるだけでなく、宣教師と交流して西洋の学問、とりわけ幾何学などにも興味を持ったスーパーマン。
大阿哥:胤禔⇒母は恵妃・ナラ(納喇)氏。元の名は保清(ポーチン?)。雍正帝即位時に允禔に改名。母は恵妃・ナラ氏。康煕帝の五男だが、諸兄はみな夭折したので実質上の皇長子。
対ジュンガル戦で活躍し、康煕37(1698)年に多羅直郡王、鑲藍旗の旗王に封じられる。
皇太子廃嫡後、康煕帝の信任篤く、廃太子の監視の他、塞外や京城の治安を一任された。しかし、廃太子の賜死と八阿哥の立太子を薦めたことから康煕帝の不審を買い、チベット僧に依頼して廃太子に対する呪詛を行ったことを三阿哥から暴露されると、王位を剥奪され自宅軟禁を命じられる。
康煕帝没後も自宅軟禁が解かれることなく雍正12(1734)年に没し、葬礼はグサイ・ベイセ(固山貝子)の礼で執り行われた。子・弘昉がグルン・ベ・ダリレ・グン(鎮国公)を継承している。
キリスト教の典礼問題で活躍したためか、ブーヴェは、大阿哥のことを、たいそう美男で、才気に富み、その他、色々の美質を備えておられますiと、べた褒めしている。
皇太子(二阿哥):胤礽⇒母は康煕朝初期を支えた満洲正黄旗旗人・輔政大臣・ソニンの孫娘の孝誠仁皇后・ヘシェリ(赫舎里)氏。元の名は保成(ポーチェン?)。雍正帝即位後に允礽に改名。
清朝史上唯一の皇太子。嫡次子だが嫡長子・承祜が3歳で夭折し、母后・孝誠仁皇后は皇太子を産んだモノの、紫禁城・坤寧宮にて21歳で産褥死しているので、実質上、唯一の嫡子。
康煕帝は孝誠仁皇后を寵愛していたため、わずか2歳で立太子された。康煕帝からは寵愛されたが、母后の後ろ盾は生まれてから期待出来ない立場にあった。立太子されてからも、マンジュには馴染まない皇太子制度を廻って、他の皇子とそれを担ぐ八旗との間で、九襲奪嫡の政争に巻き込まれることになる。
成人後は何かと大阿哥と比較されその皇太子としての資質を問われ続けたが、ジュンガル戦の後に、成人諸皇子が封爵され、それぞれ、旗王として八旗有力者のバックアップを得ると、更に後継者政争は激化する。マンジュの風習に照らし合わせれば、旗王は等しく皇位を継ぐ資格があるという認識がまだ強かったのだ。皇太子の大叔父である満洲正黄旗の世襲一等公である権臣・ソンゴトを中心に太子党とも言うべき勢力を築き、成人諸皇子達に対抗した。逆方向から見れば、ソンゴトがポスト康煕帝時代を睨み勢力を維持・拡張するために、皇太子を担ぎ上げたと言える。
しかし、皇太子と諸皇子が勢力争いを演じ、権力を奪取するためにはクーデターをも辞さない姿勢を危険視した康煕帝は、康煕41(1702)年、危険を察知して前年引退してたソンゴトを逮捕して幽閉した(後にソンゴトは獄中死)。
これによって、太子党は勢力を大きく削られ、皇太子は諸皇子に対して劣勢に立たされることになった。勢力の挽回を焦ったためか、皇太子は次第に精神的にも追い詰められ、奇行が噂されるようになった。また、康煕帝がマラリアに罹り危篤状態にあった時に、父帝を見舞った皇太子は父帝の健康を気遣うどころか、太子党の取り巻き連中とともに顔を見合わせ喜色を浮かべたことから康煕帝の信頼を一気に失うことになる。康煕帝は日々皇太子と太子党のクーデターに怯え、皇太子はクーデターを口実に廃嫡や賜死されることを恐れ、親子の間には疑心暗鬼が募り一触即発の危険状態に陥った。
そして、遂に康煕47(1708)年、康煕帝は塞外巡視中、内モンゴル、ブルハスタイで王公君臣を一堂に集め皇太子を呼びつけ、その罪をあげつらい廃嫡を宣言して、地に転げ回って大泣きした。苦渋の決断だったという。かくして皇太子は廃嫡の憂き目に遭い、大阿哥の監視の元、紫禁城・咸安宮に幽閉される。
しかし、八阿哥を皇太子に擁立する運動が発覚したため、運動の首謀者と見なされた八阿哥はベイレ位を剥奪されて軟禁された。更に、二阿哥呪詛を行っていたことが発覚し、大阿哥が失脚して自宅軟禁を余儀なくされた。康煕48(1709)年、二阿哥の奇行は八阿哥派の暗躍が原因と見なされ、再び立太子される。
一旦は改悛の意志を見せた皇太子だが、またも太子党がその周りを囲み、以前にも増して康煕帝と諸皇子の勢力と対立した。康煕50(1711)年の南巡中にまたしても、皇太子クーデターの噂が康煕帝に伝えられると、翌康煕51(1712)年、康煕帝は塞外巡視中に皇太子を再び廃嫡し、二阿哥は紫禁城・咸安宮に軟禁される。ちなみに中国史上、二度も皇太子位を廃立されたのは胤礽以外にいない。
康煕帝が崩御すると、二阿哥は雍正帝の命で咸安宮から、北京近郊の祁県鄭家莊の理郡王府(二阿哥の世子である理郡王・弘晳の王府)に移送されたが、解放されること無く軟禁生活が続いた。雍正2(1724)年没。死後、雍正帝に理親王に追封され、爵位は雍正6(1728)年、第二子・弘晳に継承された。
ちなみに、理親王・弘晳は乾隆年間に簒奪を企てて、皇籍を剥奪されて、四十六という名前に改名され、景山の東果園で軟禁されて没している。理郡王家は二阿哥の第十子・弘㬙が継承している。
三阿哥:胤祉⇒雍正帝の即位に際して允祉と改名。母は栄妃・マギャ(馬佳)氏。
ジュンガル戦に従軍し、鑲紅旗大営を任され、康煕37(1698)年、多羅誠郡王、鑲藍旗の旗王に封じられ、次いで康煕48(1709)年に和碩誠親王に封じられる。
幼少より学術に優れ、ブーヴェによると西洋の学問にも興味を示し、幾何学も学んだらしい。康煕帝に命じられ、律呂、算法、暦法に関する全書である《律暦淵源》の編纂を主催している。また、書道にも長じていて、康煕帝の陵墓である景陵の《神功聖徳碑文》も三阿哥の親筆である。また、三阿哥の門客・陳夢雷は《古今図書集成》を編纂に参加している。また、北京郊外に熙春園を下賜されたが、三阿哥は造園のセンスもあったようで、康煕帝が何度もその園林に行幸している。後に精華園として整備され、熙春園の敷地は現在、精華大学のキャンパスとなっている。
皇太子である二阿哥と特に仲が良かったようで、二阿哥の第一次廃嫡時期に大阿哥を二阿哥呪詛の罪で弾劾している。
雍正帝即位後は、皇太子に近かったため危険視されたためか、康煕帝の陵墓・景陵の鎮守を命じられ北京を追い出されている。雍正6(1728)年、収賄容疑で自宅に拘禁され、郡王に降格される。この収賄事件自体は世子・弘晟が主犯格と見なされていたが、三阿哥自身も北京から遠ざけられたことに不満を持っていたらしい。
雍正8(1730)には親王位に復位するが、十三阿哥が死去した際に普段と変わらぬ態度で、肉親の死を悼むようなそぶりを見せなかったため十六阿哥から弾劾され、爵位を剥奪された上に景山の永安亭iiに軟禁され、そのまま雍正10(1732)年に病没する。七子の弘暻が位を継承しているが、降格されベイセ位になっている。
四阿哥:胤禛=雍正帝⇒母は満州正黄旗出身の徳妃・ウヤ(烏雅)氏=孝恭仁皇后。母親が微賎の出身であったために、子供がなかった孝懿仁皇后に養育された。
康煕37(1698)年、ドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に封じられ、康煕48(1709)年、和碩雍親王、鑲白旗の旗王に封じられる。皇太子廃嫡後に八阿哥があからさまに皇太子就任に意欲を顕示したために康煕帝に疎んじられたのを見て、表向きは皇位に興味が無いように振る舞い、仏教や道教に入れ込み、コスプレなどをしながら”天下一の閑人”を自称した。その水面下では、満洲鑲黄旗人・ロンコドや 漢軍鑲黄旗人・年羹堯と結託して皇位を虎視眈々と狙っていた。
康煕帝危篤の際、暢春園(後に圓明園に組み込まれる庭園)には、三阿哥、四阿哥、七阿哥、八阿哥、九阿哥、十阿哥、十二阿哥、十三阿哥と大臣・ロンコドが集められた。しかし、その臨終に立ち会い後継者の名を聞いたのはロンコドのみであった。その際、康煕帝は継承者として四阿哥を指名したとされる。四阿哥は雍正帝として即位するや、兄弟の”胤”字を”允”字に改めさせ、君臣の別を示させている。ちなみに、兄弟の中で最も雍正帝に忠実であった十三阿哥のみ死後”胤”字に復させているが、それも死後のことである。
即位後には首脳陣を一新し、八阿哥を廉親王、十三阿哥を怡親王に封じ、大臣・マチ、大臣・ロンコドを加えた四人を総理事務王大臣に任命して、諸皇子や八旗の有力者と妥協して、宥和政策を打ち出すかのように振る舞う。
しかし、雍正2(1724)年には十阿哥の爵位を剥奪して拘禁し、青海省から凱旋してきた十四阿哥を景陵に左遷し、更に雍正4(1726)年、周囲に自身の起用について不平を漏らした八阿哥の爵位を奪い、皇籍を剥奪してアキナ(狗)と改名させ、八阿哥に近かった九阿哥の皇籍も剥奪してサスヘ(豚)を改名させるなど、皇位を争った兄弟に対してすさまじい弾圧を加える。
弾圧は功臣にも及び、雍正3(1725)年、年羹堯が大逆罪や収賄などで弾劾されるとこれを免職した。また、康煕帝臨終の際にジュンガルに遠征していた同母弟の十四阿哥こそが康煕帝が指名した本来の継承者だったのに、ロンコドと雍正帝が遺詔を偽造して帝位を掠め取った、という噂がでるや雍正帝はロンコドを年羹堯を庇い立てしたことを理由に官位を剥奪し、雍正5(1727)年には八阿哥の党派と結託した罪を問うて、ロンコドを幽閉した。斬刑を請う上奏は取り下げて終身刑としたが、ロンコドは禁固1年あまりで獄中死する。
この後、雍正帝はまず、皇位継承の過程で生じた混乱の元である八旗制度を改革した。すなわち、皇位継承権のある皇子を旗王として分封することをやめ、八旗の有力者が皇位継承に対して発言する機会を奪った。皇帝の独裁権力を確立した。この結果生まれた制度が太子密建であり、皇子達に均しく機会を与えることにより切磋琢磨すさせると言う利点よりも、むしろ有力な皇子を担いで次期皇帝に据えることによって、権勢を恣にしようとする八旗の有力者に対する牽制という意味あいの方が強い。
雍正帝は密偵を四方に放って各地の官僚を監視させ、文字の獄を起こして知識人を弾圧して恐怖政治を強いたためとにかく人気が無く、民間伝承では呂四娘という侠女に仇討ちされたとか、映画では血滴子という秘密警察を使って民衆を弾圧したとか、フィクション世界でも大体悪人とされることがかつては多かった。
しかし、宮崎市定が雍正帝iiiの伝記を書いたことによってストイックな政治家としての再評価が始まり、ドラマ《雍正王朝》によって、ようやく中国大陸でも名君として認識されるようになった。
もっとも、宣和堂の中では、四阿哥・雍正帝はコスプレと道術を愛する変人。猟犬を愛して自分で犬の服をデザインする愛犬家。老眼鏡を愛して臣下に配り倒す眼鏡ッ子…という、勤勉な政治家ではあるモノの愉快な側面をもつ人物……って言うイメージなのだが…。
五阿哥:胤祺⇒雍正帝の即位に際して允祺と改名。母は満洲鑲黄旗人・宜妃・ゴロロ(郭絡羅)氏。幼少から祖母である孝惠章皇后に養育された。温厚な人物と評され、皇位継承には絡まなかったため、九襲奪嫡の政争に巻き込まれることはなかった。
康煕35(1696)年からジュンガル戦に従軍して正黄旗大営を任され、康煕48(1709)年には和碩恒親王、鑲白旗の旗王に封じられた。
雍正10(1732)年に病没している。世子・弘昇が罪を得て親王後継者から外されていたが、第二子・弘晊が王位を継承している。
六阿哥:胤祚⇒母は徳妃・ウヤ(烏雅)氏孝恭仁皇后。四阿哥の同母弟で、十四阿哥の同母兄。6歳で夭折する。
七阿哥:胤祐⇒雍正帝の即位に際して允祐と改名。母は満洲鑲黄旗人の成妃・ダイギャ(戴佳)氏。障害があったらしい。
康煕35(1696)年、ジュンガル戦に従軍し鑲黄旗大営を任された。康煕37(1698)年、ドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に封じられ、康煕48(1709)年には多羅淳郡王、鑲白旗の旗王に昇進した。
雍正元(1723)年には和碩淳親王に封爵されている。三阿哥に協力して、康煕帝の陵墓・景陵の《神功聖徳碑文》を仕上げている。雍正8(1730)年没。世子・弘曙は罪を得て後継者の資格を剥奪されていたので、王位は六子・弘暻が継承している。
八阿哥:允禩⇒雍正帝の即位に際して允禩と改名。母は良妃・衞氏。生母の衛氏は比較的身分が低かったので、大阿哥の生母である恵妃・ナラ氏に養育された。
康煕37(1698)年、ドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に封爵される。康煕47(1708)年、内務府総管事に任命される。同年、皇太子が廃嫡されると、元々八賢王と呼ばれ人望があつかった八阿哥を皇太子に押す声が廷臣の間に広まりった。まず、大阿哥が八阿哥を皇太子に推挙し、また、大臣・マチを始めとした八旗有力者の中にも八阿哥を皇太子に推挙する者が多かった。康煕帝は、これを叛逆と見なし、二阿哥失脚も八阿哥らの策謀と断じたため、八阿哥はベイレ位を剥奪されて拘禁された(翌年復帰)。
この際、ヌルハチの長子・チュエンの末裔であるグサイ・ベイセ(固山貝子)・スーヌの一族は八阿哥を支持した。クリスチャンであったスーヌに同調した宣教師も八阿哥の支持に回った。後々、雍正帝がキリスト教の弾圧を敢行する遠因とも言われている。
二阿哥が再度立太子された際に、一度剥奪された八阿哥の爵位は復活したものの、他の皇子が爵位を進めているのと比較すると、その後も八阿哥は爵位が進められていない事から、康煕帝の後継者からは完全に外されたと考えるべきだと宣和堂は考える。実際、自らの立太子に失敗した後、八阿哥は十四阿哥支持に回った。しかし、皇位を継承したのは四阿哥だった。
康煕61(1722)年、四阿哥が雍正帝として即位すると、和碩廉親王、正藍旗の旗王に封爵され、十三阿哥やロンコド、マチらと共に総理事務王大臣に任命され、雍正朝の枢機を担う要職に就く。しかし、雍正帝との関係は却って悪化し、度々叱責されては職を失った。遂には、雍正3(1725)年、宗人府が八阿哥の爵位剥奪を二度に渡って奏上したが、雍正帝は二度とも却下している。しかし、雍正4(1726)年、またも宗人府の弾劾を受け、今度は王位を剥奪され宗人府に拘禁される。この取り調べの際に雍正帝に楯突いたために、名をアキナ(狗)と改めた上で皇籍を剥奪された。追い打ちをかけて、八阿哥の誅殺を請う上奏がされたが雍正帝はこれを許さなかったが、嫡福晋・ゴロロ(郭絡羅)氏と離縁させ、息子・弘旺は菩薩保と改名させられた。処刑はされなかったが、八阿哥はその年のうちに獄中死し、今度は屍体を処刑する上奏が上がってきたが、これも雍正帝は許さなかった。
その後も八阿哥は皇籍を剥奪されたままだったが、乾隆43(1778)年になってようやく、名を允禩に直し、皇族の系譜である《玉牒》に記述を復帰させ、子孫も皇族として扱われた。ちなみに八阿哥の一人息子・弘旺は、乾隆27(1762)年に没しているので、死ぬまで菩薩保だった模様。
九阿哥:胤禟⇒雍正帝の即位に際して允禟と改名。母は満洲鑲黄旗人・宜妃・ゴロロ(郭絡羅)氏。五阿哥の同母弟。母の実家は裕福だったらしい。
康煕48(1709)年、グサイ・ベイセ(固山貝子)に封じられる。
雍正元(1723)年、即位した雍正帝に西寧駐在を命じられるが、着任が遅れたために弾劾された。更に、雍正3(1725)年に軍糧横領で罪に問われ、接見した官僚に対して不遜の行いがあったため更に罪に問われて、ベイセ位を剥奪されている。翌雍正4(1726)年には八阿哥とともに皇籍を剥奪され、サスヘ(豚)と改名させられている。その後、九阿哥は保定に送られ、直隸総督・李紱の監督下で劣悪な環境に幽閉され、その年の内に病没している(その後、李紱は雍正帝に故意に九阿哥を殺したのではないかと疑われたが、李紱は口をつぐんで何も語らなかったらしい。後、李紱も弾劾を受けて断罪されている。)。
その後も雍正年間では名誉が復帰されることはなかったが、乾隆43(1778)年になってようやく、名を允禟に直し、皇族の系譜である《玉牒》に記述を復帰させ、子孫も皇族として扱われた。子の弘晸がジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・デ・アイシララ・グン(封不入八分輔国公)に封じられたが、罪に連座して位を剥奪されている。
九阿哥が西寧に赴任する際に同行したのが、スーヌの第六子・レシヒンと第十二子・ウルチュンだったが、八阿哥、九阿哥の弾圧に連座して一家揃って塞外へ配流の憂き目に遭った。スーヌの一族はクリスチャンとして洗礼を受けていたので、彼らを援助するために宣教師やキリスト教徒達が、スーヌ一族を慰問に訪れるようになったのだが、これが後のキリスト教の弾圧の遠因となったと言われる。
十阿哥:胤䄉⇒雍正帝の即位に際して允䄉と改名。母は満洲鑲黄旗人・康煕初年の四人の輔政大臣の一人・エビルンの娘、温僖貴妃・ニオフル(鈕祜禄)氏。皇太子以外の皇子の中で最も母親の出身階級が高い。
康煕48(1709)年に多羅敦郡王に封じられ、康煕57(1718)年,弁辦理正黄旗滿洲・蒙古・漢軍三旗事に任命される。
雍正2(1724)年、康煕帝の崩御をハルハ・モンゴルに知らせる使者の役目を命じられるが、モンゴルへの途上で病と称して張家口に居座り、雍正新君を呪う祈祷を密かに行ったことが発覚したので、雍正帝の代行者である八阿哥に王位を剥奪され拘禁される。
乾隆2(1737)年、乾隆帝に許され、グルン・デ・アイシララ・グン(輔国公)に封じられる。乾隆6(1741)年、病没。ベイセの礼を以て弔われた。位は五子・弘暄が継承している。その後の調べで弘暄は雍正13(1735)年に没していることが分かった。十阿哥が没した時には後継者はいなかった模様。
ドラマの中では有名なアホの子として登場するが、Wikipedia見る限りでは、アホの子と言うことでもなさそうなのだけど…。ただ、《清史稿》の雍正帝即位後の記述を見るにやっぱりアホの子みたい…w。
十一阿哥:胤禌⇒母は宜妃・ゴロロ(郭絡羅)氏。五阿哥、九阿哥の同母弟。11歳で病没。
十二阿哥:胤祹⇒雍正帝の即位に際して允祹と改名。母は正黄旗人・定妃・万琉哈氏。幼少時は孝莊文皇后の侍女である蘇麻喇姑に養育された。
康煕48年、グサイ・ベイセ(固山貝子)に封じれる。康煕57(1718)年、弁理正白旗滿洲・蒙古・漢軍三旗事に任命され、康煕61(1722)年、鑲黄旗滿洲都統に任命されている。
康煕61(1722)年、雍正帝が即位すると、多羅履郡王に封じられるが、雍正2(1724)年、職務怠慢や公文書の棄損を理由にグルン・ベ・ダリレ・グン(鎮国公)に降格させられている。雍正8(1730)年に郡王に復位。
雍正13(1735)年、乾隆帝が即位すると、和碩履親王に封じられる。乾隆28(1763)年、病没。康煕帝の皇子の中では最も長命。成人した嗣子がなかったので、乾隆帝の第四子・永珹を養子として王位を継承させている。
十三阿哥:胤祥⇒雍正帝の即位に際して允祥と改名。死後、胤祥に復す。母は敬敏皇貴妃・ジャンギャ(章佳)氏。幼年時代に母を亡くしたので、雍正帝の生母である徳妃・ウヤ(烏雅)氏の元で養育される。駐京禁軍を掌握するなど軍務に従事したようだが、康煕年間は一度も封爵されていない。
康煕61(1722)年、雍正帝が即位すると和碩怡親王に封じられ、総理事務王大臣に任命された。雍正8(1730)年に没し、死後、特に胤祥の名に復している。雍正朝において勲功第一とされ、世襲親王である鉄帽子王に加えられ、清朝九番目の鉄帽子王家となった。
著名な十三阿哥なのに、割と康煕朝で何をやっていたのか全く分からない。また、無位の状態から雍正帝が即位するや、いきなり親王になっているのもなにやら不自然のような…。忠誠無比というだけで他に功績があまり見られないのも不自然だが、雍正帝が手放しで賞賛するくらいなので、おそらく有能だったのだろうがそれを証明するエピソードも見当たらなかった。
十四阿哥:胤禎⇒雍正帝の即位に際して允禵と改名。特に十四阿哥は四阿哥と音が近い名前だったので、他の兄弟と違って全面的に改名している。母は満州正黄旗出身の徳妃・ウヤ(烏雅)氏=孝恭仁皇后。四阿哥=雍正帝の同母弟。
康煕48(1709)年、グサイ・ベイセ(固山貝子)に封じられる。康煕57(1718)年には撫遠大将軍に任命され、ジュンガルのツェワン・ラブタンと対峙している最中に康煕帝が崩御する。
康煕61(1722)年、遠征中の十四阿哥の帰京を待たずに雍正帝が即位したため、凱旋将軍として華々しくパレードを行って帰京することを計画するが、雍正帝には喪中にもかかわらず、派手な行動を計画したことを叱責される。雍正元(1723)年に多羅恂郡王に進封されるが、世論では康煕帝の後継者の最有力候補とされていたため、同母兄の雍正帝に疎まれ、雍正3(1725)年、遠征中の罪を宗人府に問われ、康煕帝の陵墓・景陵の鎮守を命じられて馬蘭峪に左遷され、同時にグサイ・ベイセ(固山貝子)に降格された。更に翌雍正4(1726)にも、宗人府に弾劾され、ベイセ位も剥奪されて景山の寿皇殿に幽閉される。
雍正年間はそのまま幽閉状態だったが、乾隆帝が即位すると釈放されて名誉が回復された。乾隆2(1737)年、グルン・デ・アイシララ・グン(輔国公)に封じられ、乾隆12(1747)年、ドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に進封し、乾隆13(1748)年には多羅恂郡王に復位して乾隆26(1761)に没している。位は第二子・弘明が嗣ぎ、第一子・弘春は泰郡王家に分家した。が、後に罪を得て爵位を剥奪されている。第二子・弘明はベイセ位に就いているが、王位は継承していない。
十五阿哥:胤禑⇒雍正帝の即位に際して允禑と改名。母は順懿密妃・王氏。
雍正4(1726)年、ドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に封じられ、康煕帝の陵墓・景陵の鎮守を命じられる。雍正8(1730)年、多羅愉郡王に進封される。雍正9(1731)年、病没。王位は第三子・弘慶に継承された。
十六阿哥:胤禄⇒雍正帝の即位に際して允禄と改名。雅号は愛月主人。母は順懿密妃・王氏。十五阿哥の同母弟。
雍正元(1723)年、和碩荘親王・博果鐸に跡継ぎがいない事から、養子として和碩荘親王を襲爵。雍正末年には十六阿哥と十七阿哥は特に雍正帝に寵愛された。
乾隆4(1739)年、弘晳の謀反があり、弘晳と交流のあった十六阿哥は公職を退いたが、乾隆7(1742)年には職に復した。乾隆32(1767)年に病没。王位は孫の永瑺が継承した。
十七阿哥:胤礼⇒雍正帝の即位に際して允礼と改名。母は純裕勤妃・陳氏。
雍正元(1723)年、多羅果郡王に封爵され、雍正6(1728)年に和碩果親王に進封される。雍正末年、十七阿哥は十六阿哥とともに雍正帝の寵愛を受けた。十七阿哥は書画が巧みで、春和堂、静遠斎と号した。
乾隆帝が即位すると、総理事務大臣に任命された。乾隆3(1738)年病没。後継者はいなかったが、十六阿哥が請いて王位は雍正帝の第六子・弘曕に継承された。
十八阿哥:胤祄⇒母は順懿密妃・王氏。8歳で夭折。この際に二阿哥が哀悼の意を見せなかったことが、廃嫡の遠因とも言われている。
十九阿哥:胤禝⇒母は襄嬪・高氏。3歳で夭折。
二十阿哥:胤禕⇒雍正帝の即位に際して允禕と改名。母は襄嬪・高氏。
雍正4(1726)年、グサイ・ベイセ(固山貝子)に封じられ、雍正8(1730)年、ドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に進爵、乾隆20(1755)年、病没。一子・弘閏が位を後継した。
二十一阿哥:胤禧⇒雍正帝の即位に際して允禧と改名。雅号は紫瓊道人。母は煕嬪・陳氏。
雍正8(1730)年にグサイ・ベイセ(固山貝子)に封じられ、ほどなくドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に進封した。
雍正13(1735)年に乾隆帝が即位すると、多羅慎郡王に封爵された。
詩と書画に長じており、董源や文徵明と比較され、鄭坂橋等の文人と親交があった。乾隆23(1758)年、病没。位は養孫で乾隆帝の第六子・永瑢に継承された。
二十二阿哥:胤祜⇒雍正帝の即位に際して允祜と改名。母は謹嬪・色赫図氏。
雍正8(1730)年、グサイ・ベイセ(固山貝子)に封じられ、雍正12(1734)年、ドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に進封さられる。乾隆8(1743)年、病没。位は第一子・弘曨が継承している。
二十三阿哥:胤祁⇒雍正帝の即位に際して允祁と改名。母は静嬪・石氏。
雍正8(1730)年、グルン・ベ・ダリレ・グン(鎮国公)に封じられる。
雍正13(1735)年、乾隆帝が即位すると、ドロイ・ベイレ(多羅貝勒)に封じられた。その後、罪に連座して鎮国公に降格されるが、乾隆47(1782)年、グサイ・ベイセ(固山貝子)に封じられる。乾隆49(1784)年、郡王銜貝勒(郡王級の品級のベイレ)に昇進。乾隆50(1785)年、病没。康煕帝の皇子の中で最後まで生きた皇子である。位は子である弘謙に継承された。
二十四阿哥:胤祕⇒雍正帝の即位に際して允祕と改名。母は穆嬪・陳氏。
雍正11(1733)年、和碩諴親王に封じられる。乾隆38(1773)年、病没。王位は第一子・弘暢が継承した。
流石は子沢山。羅列するだけで疲れました…。
各皇子封爵のタイミングは大体固まっており、まず第一期はジュンガルのガルダン・ハーンが病死し、ジュンガル戦が一段落した康煕37(1698)年。第二期は、二阿哥が一次廃嫡から皇太子に復位した康煕48(1709)年。第三期は雍正帝即位直後の康煕61(1722)~雍正元(1723)年。第四期は二阿哥没後の雍正6(1728)~雍正8(1730)年。第五期は乾隆帝即位直後の雍正13(1735)~乾隆2(1737)年に固まっている。
康煕年間が前向きな理由が見えるのに、雍正年間が後ろ向きな理由な気がするのは穿ちすぎというモノだろうか…。
参考サイト⇒
Wikipedia漢語サイトの康煕帝関係の記述
中央研究院 歴史語言研究所 漢籍文献資料庫
参考文献⇒
宮崎市定『雍正帝─中国の独裁君主』中公文庫
岡田英弘『清朝史叢書1 康煕帝の手紙』藤原書店
松丸道雄 他編『世界歴史大系 中国史4 明▽清』山川出版
間野潜龍『中国人物叢書10 康煕帝』人物往来社
ブーヴェ/後藤末雄 訳・矢沢俊彦 校注『康煕帝伝』ワイド版東洋文庫 155
石橋崇雄『大清帝国への道』講談社学術文庫2071
于敏中 等編纂《日下旧聞考》北京古籍出版社
皇子がたくさんいますね。この調子で増えていったら、膨大な数の子孫がいそうですね。
愛新覚羅家の末裔って今何人くらいいるのでしょうか?
これでも、名前が残っている人だけですし、女性は除いてますから、それ考えるとかなりの子孫デスね。まぁ、累代勲功が無いと没落するようにシステム上できてますけど。