『大清帝国の形成と八旗制』メモ1 ─八旗を構成する氏族─
と言うワケで、杉山清彦『大清帝国の形成と八旗制』名古屋大学出版会 をツラツラ読んでいました。要するにヌルハチからホンタイジに至るまでの「ダイチングルン」と「八旗制」については、おおよそこの本だけで用が足りてしまう素晴らしい本です。自分にとっては飛ばし読みすることが出来ない、中身の詰まった良著でした。個人的な感想にはなりますが、巻末の参考文献だけでも買う価値はあります。およそ、八旗制度についてはこの本を読むことがこれからの研究の原点となるはずです。これハードル高いわーどうすんだろホント。
と言うコトで、この項は自分の個人的な備忘録です。こんな事書いてましたよーと言う目安にでもどうぞ。
表1-2
i
西暦 年号 正黄旗 鑲黄旗 正白旗 鑲白旗 正紅旗 鑲紅旗 正藍旗 鑲藍旗 1619 天命4 エイドゥ アドゥン ホホリ ヤングリ ドビ ボルジン ムハリヤン ? 1620 天命5 〃 〃 〃 ? ? 〃 〃 ? 1621 天命6 フルガン 〃 〃 アバタイ タングタイ 〃 〃 ジルガラン 1622 天命7 〃 アブタイ 〃 〃 〃 〃 イキナ? スバハイ 1623 天命8 ブサン 〃 ? ? ホホリ? ? トボホイ? ? 1624 天命9 ? ? ? ? ? ? ? ? 1625 天命10 ? ? ? ? ? ? ? ? 改換 鑲白旗 正白旗 正黄旗 鑲黄旗 1626 天命11 チェルゲイ カクドゥリ ナムタイ ダルハン ホショトゥ ボルジン トボホイ グンサタイ 1627 天聰元 トゥルゲイ 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 1628 天聰2 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 1629 天聰3 〃 〃 〃 〃 〃 ユンシュン 〃 〃 1630 天聰4 イルデン 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 1631 天聰5 〃 〃 レンゲリ 〃 〃 イェチェン セレ フィヤング 1632 天聰6 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 1633 天聰7 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 1634 天聰8 〃 アサン ナムタイ 〃 イェクシュ 〃 〃 〃 1635 天聰9 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 改換 正藍旗 鑲黄旗 1636 天聰10
崇徳元トゥルゲイ 〃 タンタイ ダルハン ドゥレイ 〃 バイントゥ 〃 1637 崇徳2 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 1638 崇徳3 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 1639 崇徳4 イングルダイ 〃 〃 〃 〃 〃 〃 アイドゥリ 1640 崇徳5 〃 〃 〃 〃 イェクシュ 〃 〃 〃 1641 崇徳6 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 1642 崇徳7 〃 〃 〃 ホロホイ 〃 〃 〃 〃 1643 崇徳8 〃 〃 〃 〃 ドゥレイ 〃 〃 〃 改換 正白旗 鑲白旗 1644 順治元 イングルダイ アサン 〃 バハナ 〃 〃 〃 バドゥリ
表は割愛…しますがと言うワケで、表入れました(2015/04/08追記)、凄い…。阿南惟敬センセの労作である「清初固山額真年表考」の入関前の八旗グサエジェンの表がアップデートされてますね。
参考:清初固山額真年表考
ii
西暦 年号 正黄 鑲黄 正紅 鑲紅 正白 鑲白 正藍 鑲藍 1620 天命5 逹爾漢轄 阿敦 湯古代 博爾晉轄 棟鄂額駙 阿巴泰 穆喀連 済爾喀朗 1621 天命6 逹爾漢轄 阿敦 湯古代 博爾晉轄 棟鄂額駙 阿巴泰 穆喀連 済爾喀朗 1622 天命7 逹爾漢轄 阿布泰 湯古代 博爾晉轄 棟鄂額駙 阿巴泰 穆喀連 蘇巴海 1623 天命8 逹爾漢轄 逹爾哈 布山 博爾晉轄 棟鄂額駙 楞額礼? 托博輝? 顧三台 1624 天命9 車爾格 逹爾哈 棟鄂額駙 博爾晉轄 ? 楞額礼? 托博輝? 顧三台 1625 天命10 車爾格 逹爾哈 和碩図 博爾晉轄 ? 楞額礼? 托博輝? 顧三台 1626 天命11 車爾格 逹爾哈 和碩図 博爾晉轄 ? 楞額礼? 托博輝? 顧三台 1627 天聰元 納穆泰 逹爾哈 和碩図 博爾晉轄 喀克篤礼 車爾格 托博輝 顧三台 1628 天聰2 納穆泰 逹爾哈 和碩図 雍舜 喀克篤礼 図爾格 托博輝 顧三台 1629 天聰3 納穆泰 逹爾哈 和碩図 雍舜 喀克篤礼 図爾格 托博輝 顧三台 1630 天聰4 納穆泰 逹爾哈 和碩図 雍舜 喀克篤礼 図爾格 托博輝 顧三台 1631 天聰5 楞額礼 逹爾哈 和碩図 葉臣 喀克篤礼 伊爾登 色勒 篇古 1632 天聰6 楞額礼 逹爾哈 和碩図 葉臣 喀克篤礼 伊爾登 色勒 篇古 1633 天聰7 楞額礼 逹爾哈 和碩図 葉臣 喀克篤礼 伊爾登 色勒 篇古 1634 天聰8 楞額礼 逹爾哈 葉克舒 葉臣 喀克篤礼 伊爾登 色勒 篇古 1635 天聰9 楞額礼 逹爾哈 葉克舒 葉臣 阿山 伊爾登 色勒 篇古 1636 天聰10
崇徳元譚泰 拜尹図 葉克舒 葉臣 阿山 図爾格 逹爾哈 篇古 1637 崇徳2 譚泰 拜尹図 杜雷 葉臣 阿山 図爾格 逹爾哈 篇古 1638 崇徳3 譚泰 拜尹図 杜雷 葉臣 阿山 図爾格 逹爾哈 篇古 1639 崇徳4 譚泰 拜尹図 杜雷 葉臣 阿山 図爾格 逹爾哈 篇古 1640 崇徳5 譚泰 拜尹図 葉克舒 葉臣 阿山 図爾格 逹爾哈 篇古 1641 崇徳6 譚泰 拜尹図 葉克舒 葉臣 阿山 図爾格 逹爾哈 篇古 1642 崇徳7 譚泰 拜尹図 葉克舒 葉臣 阿山 図爾格 何洛会? 篇古 1643 崇徳8 譚泰 拜尹図 葉克舒 葉臣 阿山 図爾格 何洛会? 篇古 1644 順治元 譚泰 拜尹図 葉克舒 葉臣 阿山 図爾格 巴哈納 篇古
…こうしてみるとかなり違いますね…。何で入関前の表なのかというと、順治元年以降は《八旗通志》に表があるからですね(当然、乾隆以降は有りませんが)。で、この表だとちゃんと崇徳末年の正藍旗のグサ エジェンはアイドゥリになっていて、グッとテンション上がります。てか、天聰元(1627)年と天聰9(1635)年と崇徳8(1643)年の換旗含めてかなり手が入ってますね。これは便利です。ただ、年代が西暦だけ付されているので、正直却って見づらいです(なんで、引用するに当たって年号を入れました)。
(1)正黄旗(中略)
このヌルハチ=ドルゴン軍団のグサ=エジェンは、実に三朝、四半世紀にわたって、ニュフル氏エイドゥ家とジャクム地方タタラ氏一族の両家によって独占されていたのである。iii
ヌルハチ時代の正黄旗=ホンタイジ時代の鑲白旗の構成に関するまとめ部分。天聰以後、グサ エジェンはニュフル氏エイドゥ家のチェルゲイ、トゥルゲイ、イルデンに独占されていました。彼らは供に同母兄弟だったようですが、皆アジゲの属下にいたようです。しかし、後にアジゲと対立したエイドゥ家が鑲黄旗に移籍した後は、ジャクム地方タタラ氏のイングルダイがグサ エジェンを務めています。イングルダイはドルゴンの腹心中の腹心であるだけで無く、ホンタイジからの信任も篤く、かつアバタイの娘婿でもあります。
図1-1iv
これも図は割愛しますが、ヌルハチ期に活躍したものの、後に失脚したために伝が残らない、鑲黄旗グサ エジェン・アドゥン(Adun 阿敦)と正黄旗グサ エジェン・ブサン(Busan 布山)がイングルダイと同族のジャクム地方タタラ氏であることを史料を示して明らかにしてます。更にアドゥン、ブサンの兄弟はヌルハチ生母である宣皇后ヒタラ氏の妹の子で、ヌルハチとは従兄弟に当たることを指摘しています。グレイト。しかし、ブサンは天聰3(1629)年に間諜を引き入れて匿ったとして失脚して監禁され、アドゥンは…アドゥンは何かよく分からんけど失脚したので、兄弟揃って《満洲原檔》段階で事績が削除されたようですね。なもんで、独立した伝が《八旗通志》や《八旗満洲氏族通譜》などに立てられなかったので、出自のよく分からない人になっていたようです。
(2)鑲黄旗(中略)
すなわち鑲黄旗は、マンジュ譜代の大族ジャクム地方タタラ氏・マチャ地方トゥンギャ氏・ムキ地方イルゲン=ギョロ氏と、外様衆きっての名門であるフルンのウラ=ナラ氏、ウェジのナムドゥル氏が固めていたのである。v
これはヌルハチ時代の鑲黄旗=ホンタイジ時代の正白旗に関するまとめ部分です。天聰以後、グサ エジェンはウェジのナムドゥル氏のカクドゥリ、ムキ地方のイルゲン ギョロ氏のアサンが務めてますね。ウラ ナラ氏のニルは鑲黄旗=正白旗に所属していたみたいなので、ホンタイジ崩御後にウラ ナラ氏のマンタイの息子・アブタイとドドが私的に会合していたと言うのも、甥と叔父というだけで無くて、旗王とその属下のニルの有力者と言う側面が大きいわけですね。アブタイはかつて自分の娘とドドの婚姻を上げてホンタイジに処罰を受けていますが、ドルゴンでは無くドドと縁が深いのもこのあたりでしょうね。
このドンゴ氏の世系については、これこそが左衞ギョロ氏の嫡流であることを隠蔽しようとしたためか、『通譜』はホホリの先世を記さず、『満洲実録』によって祖父が知られるのみである。しかし、伝記史料を博捜した増井の考証によれば、『通譜』で「国初来帰」として平凡に列挙される「Nikan Aita 努愷愛塔」なる人物が、実はホホリの世代より六代を遡って明中期に比定される、事実上の始祖であるという(図1-2)。vi
この本読んで始めて知ったんですが、五大臣ホホリの出身氏族、ドンゴ氏は実はドンゴ地方ギョロ氏でギョロ氏の嫡流だったと言うことですね。ともかくアイシン ギョロ氏の方が傍流って事のようで、それを隠蔽したんじゃ無いかって話です。元々ヌルハチ自体がそんな大族の出身ではないってことは、当然こう言うこともありうるんでしょうねぇ。ともあれ、このドンゴ氏ホホリは元々は正白旗に配属されたようですが、ダイシャンの同母姉妹を娶った関係で正紅旗に転属されています。かつ、ホホリの子供であるホショトゥ エフとドゥレイはそれぞれダイシャンの娘を娶ってこれも正紅旗に配属されています。一族ごと縁故を元に転属したということですね。
(3)正白旗(中略)
ホホリ転出後の正白旗グサ=エジェンは不明だが、ホンタイジが即位すると、以後シュムル氏のヤングリ一門が歴任している。すなわち、レンゲリ(Lenggeri 楞格理)・ナムタイ(Namutai 納穆泰)はその弟、またタンタイ(Tantai 譚泰)はその従弟に当たる。ヤングリの一門はクルカ部長の名家で、彼は「奴酋之最親信者」(『建州見聞録』)といわれ、五大臣に次ぐ重臣として活躍した。ヤングリ家はサルフ戦の時期は鑲白旗に属していたようだが、天命後期には正白旗に移っており、以後その一門が新ハンの直属軍団の長を独占しているのである。vii
と言うワケで、ヌルハチ時代の正白旗=ホンタイジ時代の正黄旗の構成ですね。コメントに困りますが…。
(4)鑲白旗(中略)
鑲白旗は当初チュエンの遺子ドゥドゥが領しており、(中略)このときは右のヤングリがグサ=エジェンを務めていた。その後、一六二一年以降はヌルハチの庶子アバタイ(Abatai 阿巴泰)が任に就き、天命後期にドゥドゥが鑲紅旗に移されると、アバタイが旗王に昇格した。
代わってグサ=エジェンにはゴロロ氏(Gorolo 郭絡羅)氏のダルハン(Darhan 逹爾漢)が就任し、以後十五年にわたって在任する。viii
と、流石にこの本でも全てのグサについてどこの氏族が…って感じになってないんですよね。ゴロロ氏が中核になっているんでしょうが…。ホンタイジ時代に鑲黄旗は正藍旗とシャッフルしてますから確認するのは難しいんですが。
この軍団は天聰に入ると鑲黄旗と改称してホーゲが入封し、さらに一六三五(天聡九)年の正藍旗の獄に伴って新正藍旗となったが、見かけ上の変化に関わりなく、引き続きダルハンが在任した。(中略)
なお、ダルハンの後任となったホロホイ(Holohoi 何洛会)は、順治前期のドルゴン摂政期にとりわけ活潑に活動する人物であるが、それが仇になってドルゴン没後に失脚・処刑され、氏族さえも分からなくなってしまった。しかし、その父アジライ(Ajilai 阿吉頼)の代からヌルハチに仕えてニルを領し、ホロホイ自身は専管ニル分定にも与っており、これも成り上がりということは考えられない。ix
で、順治元年にホーゲを告発するホロホイについてのことが書かれてますね。ホロホイはホーゲに伴って鑲黄旗から正藍旗に移籍し、グサ エジェンになってますから、ホーゲはホロホイのことを腹心中の腹心だと思っていたでしょうね…。婚姻関係確認したいところですが、ホロホイはドルゴン失脚後すぐに順治帝に処刑されてますし、その辺の痕跡は恐らく残ってないんでしょう。てか、順治帝はどうにも異母兄ホーゲを特別視していたようで、ドルゴン失脚後に真っ先にやったのが、ホーゲの肅親王復位と継子フシェオへの継承、ホロホイの断罪ですから、推して知るべしですね…。
(5)正紅旗(中略)
このようにダイシャン領旗のグサ=エジェンは、一族有力者・庶子と言ったアイシン=ギョロ氏一門、ドンゴ氏嫡系、ウェジ諸路首長家と、これも有力者が占めており、就中ホホリ家は旗王ダイシャンと緊密な通婚関係をも結んでいた。x
ダイシャンが婚姻関係を通して領旗を掌握していた様子がわかりますね。
(6)鑲紅旗(中略)
建州左衛正系のドンゴ氏は、ドンゴ本部の部長ホホリ家が正紅旗、ワルカシ地方に遷居したリクドゥ一門が鑲紅旗にそれぞれ編成され、本部で伯仲する勢力を誇ったルクス家が正白旗に入ってそれぞれ首脳となったのである。
これらワンギヤ・ドンゴ両氏はそれぞれ四ニルを領し、役職・領有ニルとも旗内で重きをなした。このように鑲紅旗は明初以来の建州衛・建州左衛の名門が首脳を構成したのである。xi
個人的にはよく分からなかった両紅旗の構成員が分かったような気がします。
(7)正藍旗(中略)
改易以前の正藍旗は、明確に在任を確認しうる全員が覚羅出身であるという特徴をもつ。(中略)覚羅ニルについて専論した細谷は、当時の覚羅はハンの一門に連なるものとしての特権が全く窺われなかったことを指摘しており、かつてヌルハチに敵対的だったゆえに、ハンの領旗ではない紅旗・藍旗に配されたのではないかと示唆している。xii
これは、ホンタイジによって解体される前の正藍旗についての記事デス。旗揚げ当初、ヌルハチは一族の協力を得られなかったというのはよく言われますが、制圧後には藍旗や紅旗に配属されたと…。むしろ、覚羅が多く所属していると言うコトは、強みでは無く不安定要素だったのでは無いかと…ふむ。
(8)鑲藍旗
鑲藍旗は、ヌルハチの同母弟シュルガチの領旗である藍旗に起源する。当初は二ベイレと称されたアミンが率い、その失脚後は、親ホンタイジ派で後の輔政王ジルガラン(Jirgarang 済爾喀朗)が継承して順治期に至った。この軍団の任用の特徴は、ジルガラン・フィヤング(Fiyanggū 偏古/シュルガチ第八子)・アイドゥリ(Aiduri 愛度礼/アミン次子)など、宗室シュルガチ一門から多く起用されていることである。(中略)すなわち、鑲藍旗のトップの座は、一門のシュルガチ王家と、外様のイェヘ=ナラ氏王族とが占めており、彼らは婚族でもあったのである。xiii
康煕帝の時代には鑲藍旗はマンジュの古風をよく残す旗として知れられるようになります。旗王が乱立した結果細分化してしまった両紅旗と、強力な旗王家が分家せずに宗室がその周りを固めた鑲藍旗は好対照ですね…。
と、メモなんですが長くなるので、一旦切ります。