『八旗制度の研究』メモ3 ─順治年間に死亡した公以上の宗室─
と言うワケで、久しぶりに谷井センセの本のメモです。今回は順治年間に死去した公以上の宗室の卒年別の表です。これも貴重な表ですね。比定させるのに非常に手間取りましたけどグレイトです。
| 死亡年 | 死亡時点で公以上であった宗室(爵・没時の年齢) | 政治的理由によるもの |
|---|---|---|
| 順治元年 | Aiduri1(35歳・処死) | |
| 二年 | ||
| 三年 | Huše2(鎮国公・19歳)、Abatai3(郡王・58歳)、Lolohon4(郡王・24歳)、Hoto5(貝子・28歳) | |
| 四年 | Unggu6(Bohoto 第1子・輔国公・21歳) | |
| 五年 | Bohoto7(貝子・39歳)、Dunun8(輔國公・23歳)、Daišan9(親王・66歳)、Subutu10(貝子・24歳)、Gunggan11(Amin第4子・輔国公・26歳) | Hooge12(40歳・自尽) |
| 六年 | Dodo13(親王・36歳)、Boni14(輔国公・5歳)、Jingji15(郡王・6歳)、錦柱16(輔国公・26歳) | |
| 七年 | Nusai17(貝子・23歳)、Dorgon18(摂政王・39歳) | |
| 八年 | Fuldun19(世子・19歳)、G'olai20(鎮国公・22歳)、Kalcufūn21(貝勒・24歳)、Kiyangdu22(貝子・23歳)、Šunggutu23(輔国公・20歳)、Sibsilun24(輔国公・23歳) | Ajige25(47歳・自尽) |
| 九年 | Mandahai26(親王・31歳)、Bolo27(親王・40歳)、Lekudehun28(郡王・24歳)、Hūdibu29(貝勒・18歳)、Wakda30(郡王・47歳)、Nikan31(親王・43歳) | Kanggadai32(47歳・処死)、Sihan33(43歳・処死) |
| 十年 | ||
| 十一年 | Šose34(親王・27歳) | |
| 十二年 | Balcuhūn35(貝勒・26歳)、Babutai36(鎮国公・64歳)、Sabi 37(貝子・26歳)、Durhu38(貝勒・41歳)、Hailan39(輔国公・34歳)、Jirgalang40(親王・57歳)、Udahai41(貝子・55歳)、Ledu42(郡王・20歳) | |
| 十三年 | Bombogor43(親王・16歳) | |
| 十四年 | Unggo44(G'olai 第1子・輔国公・11歳)、Fekejiku45(貝子・25歳)、Tarna46(郡王・15歳)、Masan47(鎮国公・20歳) | |
| 十五年 | Terhu48(貝子・40歳)、Sengge49(鎮国公・27歳)、Unciha50(鎮国公・21歳)、Gunai51(鎮国公・6歳)、Martu52(鎮国公・28歳) | |
| 十六年 | Jahana53(輔国公品級・49歳) | |
| 十七年 | Babuhai54(輔国公・39歳)、Jidu55(親王・28歳)、Mandu56(輔国公・3歳)、Lasita57(輔国公・44歳)、Nisha58(親王・10歳)、G'ag'ai59(鎮国公・32歳)、Labuhū60(鎮国公・13歳)61 | |
| 十八年 | Doni62(郡王・26歳)、Ciksin63(貝勒・12歳) |
前半、順治7(1650)年までのドルゴン執政期と、後半、順治8(1651)~順治18(1661)年のフリン=順治帝親政期で大体二分されるものの、やはり数に偏りが見られます。特にドルゴン死後の順治8(1651)年と順治9(1652)年の人数の多さ、特に順治9(1652)年の爵位の高さと旗色の偏りに不自然さが残りますが…谷井センセ自体はこんな感じに仰ってます。
次の世代の年長者で、そろそろ長老格になりかけていたボロやワクダ・ニカンが40歳代で死んでいるのも、当時としては異とするに足りない。だが、血統からしても政権を支える中核となることが予想され、然るべく実績を積まされてきたロロホン・レクデフン・マンダハイ・ショセ・ジドゥ・ドニといった諸王が20~30歳代で次々と死んだのは想定外であったに違いない。順治年間には、ホーゲ以外の順治帝の兄弟2人に加え、ヨトの5子(1郡王・4貝勒)・ジルガランの3子(世子および1親王・1郡王)・ドゥドゥの5子(1貝勒・3貝子・1輔国公)を始め、有力諸王の家系の若い世代に多くの死者を出している。戦地での死もあるが、多くは自然死であり、おそらく天然痘の流行と無関係ではあるまい。64
うーん…天然痘の流行というのは妥当な見方であると思いますが、どうも偏りがあるある……と思うのは穿ちすぎですかねぇ…。
| 年号 | 西暦 | 死者数 |
|---|---|---|
| 順治元年 | 1644 | 1(輔國公1) |
| 順治二年 | 1645 | 0 |
| 順治三年 | 1646 | 4(郡王2、ベイセ1、鎮國公1) |
| 順治四年 | 1647 | 1(輔國公1) |
| 順治五年 | 1648 | 6(親王2、ベイセ2、輔國公2) |
| 順治六年 | 1649 | 4(叔親王1、郡王1、輔國公2) |
| 順治七年 | 1650 | 2(皇父摂政王1、ベイセ1) |
| 順治八年 | 1651 | 7(親王1、世子1、ベイレ1、ベイセ1、鎮國公1、輔國公2) |
| 順治九年 | 1652 | 8(親王3、郡王2、ベイレ1、ベイセ1、鎮國公1) |
| 順治十年 | 1653 | 0 |
| 順治十一年 | 1654 | 1(親王) |
| 順治十二年 | 1655 | 8(親王1、郡王1、ベイレ2、ベイセ2、鎮國公1、輔國公1) |
| 順治十三年 | 1656 | 1(親王) |
| 順治十四年 | 1657 | 4(郡王1、ベイセ1、鎮國公1、輔國公1) |
| 順治十五年 | 1658 | 5(ベイセ1、鎮國公4) |
| 順治十六年 | 1659 | 1(鎮國公品級) |
| 順治十七年 | 1660 | 7(親王2、鎮國公2、輔國公3) |
| 順治十八年 | 1661 | 2(郡王1、ベイレ1) |
上の表を人数と爵位をまとめ直しましましたが、やっぱりおかしくないッスかねぇ?順治5(1648)年、順治8(1651)~9(1652)年、順治12(1655)年、順治17(1660)~18(1661)年ってそれなりに政変の起こってる最中に処死以外に死者が多すぎる気はするんですが…。
まぁ、記録に残らない部分を想像してもしょうがないので、谷井センセのスタンスが一番妥当だとは思うんですが…やっぱり腑に落ちませんね…w
ただ、この表も全部を網羅してるわけでも無いですし、時系列に列んでいるわけでも無いので、いずれその辺まとめた記事を作りたいですねぇ…。
- 鎮國公・アイドゥリ 艾度里⇒アミン第四子 [↩]
- 鎮國公・フセ 祜塞⇒ダイシャン第八子 [↩]
- 饒餘郡王・アバタイ 阿巴泰 [↩]
- 衍嬉郡王・ロロホン 羅洛宏⇒ヨト第一子 [↩]
- ベイセ・ホト 和托⇒アジゲ第一子 [↩]
- 輔國公・ウング 翁古⇒アバタイ第二子ボホト第一子 [↩]
- ベイセ・ボホト 博和託⇒アバタイ第二子 [↩]
- 輔國公・ドゥヌン 杜努文⇒ ドゥドゥ第六子 [↩]
- 禮親王・ダイシャン 代善 [↩]
- ベイセ・スブトゥ 蘇布圖⇒アバタイ第一子シャンギャン第一子 [↩]
- 輔國公グンガン 恭阿⇒アミン第四子 [↩]
- 肅親王・ホーゲ 豪格 [↩]
- 豫親王・ドド 多鐸 [↩]
- 輔國公・ボニ 博尼⇒アバタイ第二子ボホト第一子ウング第一子 [↩]
- 郡王・ジンジ 精濟⇒ダイシャン第八子フセ第二子 [↩]
- 輔國公・錦柱⇒アバタイ第二子ボホト第二子 [↩]
- ベイセ・ヌサイ 努賽⇒シュルガチ第八子フィヤング第六子 [↩]
- 皇父摂政王・ドルゴン 多爾袞 [↩]
- 世子・フルドゥン 富爾敦⇒ジルガラン第一子 [↩]
- 鎮國公・ゴライ 郭賴⇒アミン第六子 [↩]
- ベイレ・カルチュフン 喀爾楚渾⇒ヨト第三子 [↩]
- ベイセ・キヤンドゥ 強度⇒アバタイ第一子シャンギャン第二子 [↩]
- 輔國公・シュングトゥ 舒翁固圖/嵩布圖⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第五子ハンダイ第三子 [↩]
- 輔國公・シブシルン 席布錫倫⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第五子ハンダイ第二子 [↩]
- 英親王・アジゲ 阿濟格 [↩]
- 巽親王・マンダハイ 滿達海⇒ダイシャン第七子 [↩]
- 端重親王・ボロ 博洛⇒アバタイ第三子 [↩]
- 順承郡王・レクデフン 勒克徳渾⇒ダイシャン第三子サハリヤン第二子 [↩]
- ベイレ・フディブ 祜世布⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第九子フディタ?(祜世塔)第一子 [↩]
- 謙郡王・ワクダ 瓦克達⇒ダイシャン第四子 [↩]
- 敬謹親王・ニカン 尼堪⇒チュエン第三子 [↩]
- 元ベイセ・カンガダイ 鞏阿岱⇒ヌルハチ五弟バヤラ第四子 [↩]
- 元鎮國公・シハン 錫翰⇒ヌルハチ五弟バヤラ第五子 [↩]
- 承澤親王・ショセ 碩塞⇒太宗ホンタイジ第五子 [↩]
- ベイレ・バルチュフン 巴爾楚渾⇒ヨト第四子 [↩]
- 鎮國公・バブタイ 巴布泰⇒ヌルハチ第九子 [↩]
- ベイセ・サビ 薩弼⇒ドゥドゥ第七子 [↩]
- ベイレ・ドゥルフ 杜爾祜⇒チュイェン第一子ドゥドゥ第一子 [↩]
- 輔國公・ハイラン 海蘭⇒ヌルハチ二弟ムルガチ第五子ハンダイ第一子 [↩]
- 鄭親王・ジルガラン 濟爾哈朗 [↩]
- ベイセ・ウダハイ 吳達海⇒ヌルハチ二弟ムルハチ第四子 [↩]
- 敏郡王・レドゥ 勒度⇒ジルガラン第三子 [↩]
- 襄親王・ボンボゴル 博穆博果爾⇒太宗ホンタイジ第十一子 [↩]
- 輔國公・ウンゴ 翁古⇒アミン第六子ゴライ第一子 [↩]
- ベイセ・フケジク 佛克齊庫⇒アバタイ第二子ボホト第三子 [↩]
- 郡王・タルナ 塔爾納⇒アバタイ第三子ボロ第四子 [↩]
- 鎮國公・マサン 馬山⇒アミン第三子グルマフン第三子 [↩]
- ベイセ・テルフ 特爾祜⇒チュイェン第一子ドゥドゥ第三子 [↩]
- 鎮國公・センゲ 僧額⇒アミン第三子グルマフン第二子 [↩]
- 鎮國公・ウンチハ 溫齊喀⇒シュルガチ第四子トゥルン第一子トゥンチハ第一子 [↩]
- 鎮國公・グナイ 顧鼐⇒チュイェン第一子ドゥドゥ第七子サビ第二子 [↩]
- 鎮國公・マルトゥ 馬爾圖⇒アミン第三子グルマフン第一子 [↩]
- 輔國公品級・ジャハナ 扎喀納⇒シュルガチ第三子ジャサクト第二子 [↩]
- 輔國公・バブハイ 拔都海⇒ヌルハチ第六子タバイ第六子 [↩]
- 簡親王・ジドゥ 濟度⇒ジルガラン第二子 [↩]
- 輔國公・マンドゥ 滿度⇒シュルガチ第四子トゥリン第一子トゥンチハ第一子ウンチハ第一子 [↩]
- 輔國公・ラシタ 喇石塔⇒ヌルハチ二弟ムルハチ第十子 [↩]
- 敬謹親王・ニスハ 尼思哈⇒チュイェン第二子ニカン第二子 [↩]
- 鎮國公・ガガイ 郭蓋⇒アミン第五子 [↩]
- 鎮國公・ラドゥフ 喇篤祜⇒シュルガチ第八子フィヤング第六子ヌサイ第一子 [↩]
- Fulehe 鎮國公・フレヘ 傅勒赫⇒アジゲ第二子も順治17年4月卒 [↩]
- 信郡王・ドニ 多尼⇒ドド第二子 [↩]
- ベイレ・チクシン 齊克新⇒アバタイ第三子ボロ第八子 [↩]
- 谷井陽子『八旗制度の研究』京都大学学術出版会 P.404~405 [↩]




