清朝漢滿王号対照表(2015/08/02改訂)
と言うワケで、お休み中は、前に橘玄雅的博客というブログの清宗室爵号清语考(简版)iという記事で見かけた、清朝の王号漢文マンジュ文の対応表を見直してました。下の表は、ほぼほぼリンク先の表の引き写しなんです。元々はこの表自体、《满语研究》1997年第02期という雑誌の程大鲲〈清代宗室亲王之封谥〉という論文を元に書かれてるっぽいですね…(自分は論文読んでないです)。
漢滿王号対照表
房数 | 漢文封号 | マンジュ封号 | 附註 |
---|---|---|---|
タクシ(顕祖宣皇帝)系 | |||
第二房 | 誠毅貝勒 | cing baturu iiiii | ムルガチ(Murgaci 穆爾哈齊)。 |
第三房 | 鄭親王 | ujen | シュルガチ(Šurgaci 舒爾哈齊)iv家本流、 ジルガラン(Jirgalang 濟爾哈朗)v。世襲罔替⇒簡親王から改号。 |
簡親王vi | kemungge | 鄭親王家本流、ジドゥ(Jidu 濟度)。 vii | |
敏郡王 | ulhisu | 鄭親王家支流、レドゥ(Ledu 勒度)。 | |
第四房viii | 通達郡王 | hafuka | ヤルハチ(Yarhaci 雅爾哈齊)。 |
第五房 | 篤義貝勒 | joriktuix | バヤラ(Bayara 巴雅喇)。 |
ヌルハチ(太祖高皇帝)系 | |||
長房 | 広略貝勒 | argatu tumen | チュイェン(cuyen 褚英)。 |
安平貝勒 | elehun | チュイェン本流、ドゥドゥ(Dudu 杜度)。 | |
敬謹親王 | ginggun | チュイェン支流、ニカン(Nikan 尼堪)。 | |
第二房 | 禮親王x | doronggo | ダイシャン(Daišan 代善)。世襲罔替⇒康親王から改号。 |
成親王 | mutebure | 禮親王支流、ヨト(Yoto 岳託) | |
克勤郡王 | kicehe | 成親王から改号?(ヨト追封)。世襲罔替⇒平郡王から改号。 | |
衍禧郡王 | fengšengge | 克勤郡王本流、ロロホン (Lolohon 羅洛渾)。 | |
平郡王 | dahasu | 衍禧郡王本流、ロコド (Lokodo 羅可鐸)。 | |
穎親王 | sure | 禮親王支流、サハリヤン(Sahaliyan 薩哈璘)。 | |
順承郡王 | dahashūn | 潁親王本流、レクデフン (Lekdehun 勒克德渾)。世襲罔替。 | |
謙郡王 | gocishūn | 禮親王支流、ワクダ(Wakda 瓦克逹)。 | |
巽親王 | ijishūn | 元禮親王本流、後に革爵され支流。マンダハイ(Mandahai 滿逹海)。 | |
康親王 | nemgiyen | 元禮親王支流、後に本流を継承。ギイェシュ(Giyešu 傑書)。 | |
第七房 | 饒餘親王 | bayan | アバタイ(Abatai 阿巴泰)。 |
端重親王 | jingjixixii | 饒餘親王本流、ボロ(Bolo 博洛)。後に革爵され支流。 | |
tob ujen | |||
安親王 | elhe | 元饒餘親王支流。後に本流を継承。ヨロ(Yolo 岳樂)。 | |
僖郡王 | olhošon | 安親王支流、經希。 | |
勤郡王 | kicehe | 安親王支流、蘊端。 | |
第十二房 | 英親王xiii | baturu | アジゲ(Ajige 阿濟格)。 |
第十四房 | 睿親王 | mergen | ドルゴン(Dorgon 多爾袞)。世襲罔替。 |
第十五房 | 豫親王 | erke | ドド(Dodo 多鐸)。世襲罔替⇒信郡王から改号。 |
信郡王 | akdun | 豫親王本流、ドニ(Doni 多尼)。 | |
ホンタイジ(太宗文皇帝)系 | |||
長房 | 肅親王 | fafungga | ホーゲ(Hooge 豪格)。世襲罔替⇒顕親王から改号。 |
顕親王 | iletu | 肅親王本流、フシェオ( Fušeo 富綬)。 | |
温郡王 | nemgiyen | 肅親王家支流、モンゴ(Mongo 猛峨)。 | |
第五房 | 承澤親王 | kesingge | ショセ(Šose 碩塞)。 |
莊親王 | tob | 承澤親王本流、ボコド( Bokodo 博果鐸)。世襲罔替。 | |
ambalingguxiv | |||
惠郡王 | fulehun | 承澤親王支流、博翁果諾。 | |
第十一房 | 襄親王 | tusangga | ボムボゴル(Bomubogor 博穆博果爾)。 |
フリン(順治帝=世祖章皇帝)系 | |||
第二房 | 裕親王 | elgiyen | フチオワン(Fuciowan 福全)。 |
第四房 | 榮親王xv | wesihun | 孝獻端敬皇后ドンゴ(Donggo 董鄂)氏所生、夭折。 |
第五房 | 恭親王 | gungnecuke | チャンニン(Cangaing 常潁)。 |
第七房 | 純親王 | gulu | ルンヒ(Lunghi 隆禧)。 |
玄燁(康煕帝=聖祖仁皇帝)系 | |||
長房 | 直郡王 | sijirhūn | 胤褆(允褆)。 |
第二房 | 理親王 | giyangga | 胤礽(允礽)xvi。 |
第三坊 | 誠親王 | unenggi | 胤祉(允祉)。 |
第四房 | 雍親王 | hūwaliyasun | 胤禛。後の世宗雍正帝。 |
第五房 | 恒親王 | tomohonggo | 胤祺(允祺)。 |
第七房 | 淳親王 | bolgo | 胤祐(允祐)。 |
第八房 | 廉親王 | hanja | 胤禩(允禩)。 |
第十房 | 敦郡王 | jiramin | 胤䄉(允䄉)。 |
第十二房 | 嘉郡王 | dorolon | 胤裪(允裪)。 |
履親王 | dorolonxvii | 嘉郡王改号、胤裪。 | |
第十三坊 | 怡親王 | urgun | 胤祥(允祥)。世袭罔替。 |
寧郡王xviii | elehunxix | 元怡親王家支流、弘晈。後に本家を継承。 | |
第十四房 | 恂郡王 | boljonggo | 胤禵(允禵)。 |
泰郡王 | hafun | 恂郡王家支流、弘春。 | |
第十五房 | 愉郡王 | hebengge | 胤禑(允禑)。 |
第十七房 | 果親王 | kengse | 胤禮(允禮)。 |
第二十一房 | 慎郡王 | ginggulehe | 胤禧(允禧)。 |
質親王xx | gungmin | 永瑢。慎郡王から改号。 | |
第二十四房 | 諴親王 | yargiyangga | 胤袐(允袐)。 |
胤禛(雍正帝=世宗憲皇帝)系 | |||
第四房 | 寶親王 | boobai | 弘暦。後の高宗乾隆帝。 |
第五房 | 和親王 | hūwaliyaka | 弘晝。 |
弘暦(乾隆帝=高宗純纯皇帝)系 | |||
長房 | 定親王 | tokton | 永璜。 |
第三坊 | 循郡王 | julungga | 永璋。 |
第五房 | 榮親王 | dengge | 永琪。 |
第七房 | 哲親王 | sultungga | 永琮。 |
第八房 | 儀親王 | yongsu | 永璇。 |
第十一房 | 成親王 | mutenggexxi | 永瑆。 |
第十五房 | 嘉親王 | saicungga | 永琰(顒琰)。後の仁宗嘉慶帝。 |
第十七房 | 慶親王 | fengšen | 永璘。世袭罔替。 |
顒琰(嘉慶帝=仁宗睿皇帝)系 | |||
長房 | 穆郡王 | cibsonggo | 和裕皇貴妃リンギャ( Liogiyara 劉佳)氏所生、夭折。 |
第二房 | 智親王 | mergengge | 綿寧(旻寧)。後の宣宗道光帝。 |
第三坊 | 惇親王 | jiramin | 綿愷。 |
jingjixxii | |||
第四房 | 瑞親王 | sabingga | 綿忻。 |
端親王 | tab | 瑞親王改号、載漪。 | |
第五房 | 惠親王xxiii | fulehun | 綿愉。 |
旻寧(道光帝=宣宗成皇帝)系 | |||
第二房 | 順郡王 | ijishūn | 奕綱。 |
第三坊 | 慧郡王 | ulhicungga | 奕繼。 |
第六房 | 恭親王 | gungnecuke | 奕訢。世袭罔替。 |
第七房 | 醇親王 | guluxxiv | 奕譞。世袭罔替。 |
hatanxxv | |||
第八房 | 鍾郡王 | ferguweng | 奕詥。 |
第九房 | 孚郡王 | unenggi | 奕譓。 |
《欽定宗室王公功績表伝》と比較すると、多羅通達郡王(Doroi hafuka giyûn wang)・ヤルハチ(Yarhaci 雅爾哈齊)が抜けてるくらいですかねぇ。ほぼ網羅できると思います。
ともあれ、〈清代宗室亲王之封谥〉読んでみたいですねぇ…。
- http://blog.sina.com.cn/s/blog_4c26e27b01015ipo.html [戻る]
- 原註1:清代の封爵制度が制定されてからは、親王・郡王にのみ封号が授けられ、ベイレ以下の宗室には諡号があるだけである。ムルハチの誠毅貝勒、バヤラの篤義貝勒、チュイェンの広略貝勒、ドゥドゥの安平貝勒などは皆入関前の封号で、爵位制度が制定される前の比較的特殊な事例である。 [戻る]
- 天聰年間と崇徳年間でも封爵の制度は異なる。 [戻る]
- 原註2:鄭親王の爵位は実質的にはシュルガチの代から開始している。シュルガチは死後、和碩莊親王(hošoi ambalinggū cin wang)に封じられている。しかし、檔案によると"莊"は明らかに諡号なので、シュルガチを鄭親王の始祖と看做すことが出来る。 [戻る]
- 元表では鄭親王の始祖をシュルガチとしている。しかし、順治中期以前は王号自体が個々人の称号であった可能性は高い。なので、そもそもUjen Cin Wangという称号自体、シュルガチ家ではなく、ジルガラン個人を指す王号と考えた方が良い…というのが宣和堂の考え。 [戻る]
- 元の表では簡郡王 [戻る]
- 元頁では改号としているが、順治中期以前は個々人で封号が違うというべきというのが、宣和堂の持論。 [戻る]
- この行、元表に無し [戻る]
- 原註3:マンジュは入関前の封号にモンゴル語を常用していた。たとえばチン・バトゥル・ベイレ(誠毅貝勒)の"cing"やジョリクトゥ・ベイレ(篤義貝勒)の"joriktu"は皆モンゴル語の語彙である。 [戻る]
- 元の表では礼王 [戻る]
- 原註4:端重親王の封号は比較的複雑で、清中後期の宗人府の檔案などの記録によると“tob ujen”としているが、程大鲲《清代宗室亲王之封谥》では“jingji”としている。後者は出典を明示していないので、筆者(宣和堂註:この表の作者)は清初ではこう書いていたのでは無いかと思う。しかし、結局の所“tob ujen”と“jingji”の語彙は基本的に似たような意味である。 [戻る]
- 《欽定宗室王公功績表伝(Hesei toktobuha uksun i wang gung sai gungge faššan i iletun ulabun)》では”jingji” [戻る]
- 元の表では武英親王 [戻る]
- 中文Wikipediaの莊親王の項によるとambalinggu [戻る]
- 中文Wikipediaの榮親王の項では「追封他為親王,諡號榮。」と"榮"を諡号としているが、《世祖実録》巻一百十五に「(順治十五年三月)甲子。上以皇子生甫四月而薨。悼之。追封為和碩榮親王。」とあり、《清史稿》巻五 本紀五 世祖 福臨 二 順治十五年の項にも「(三月)甲子,追封皇第四子為和碩榮親王。」とある。他にも「和碩○親王◇◇薨。追封和碩△親王」で諡号を意味するコトもあるが、宣和堂はこの材料だけでは”榮”を諡号と断定できないと考える。 [戻る]
- 廃太子 [戻る]
- 原註5:允裪の封号は興味深い。彼は元々は嘉郡王に封じられ、後に履郡王に改封されているが、マンジュ封号は変更されていない。これは清朝一代でも珍しい特殊事例である。 [戻る]
- =甯郡王 [戻る]
- 原註6:寧郡王と鐘郡王の封号は、筆者(原文作者)の手元の資料では関係する情報は無いが、幸いにも程大鲲《清代宗室郡王封谥考》には、この二つの封号について記述がある。ただし、寧郡王を“alehun”、鐘郡王を“ferguwang”としているが、完全にマンジュ語の意味とは符合しない。転写ミスか誤解があったものと考えられる。筆者(原文作者)はこの文中の前提条件を信じているが、マンジュ語の発音からすると、恐らく寧郡王を“elehun”、鐘郡王を“ferguweng”としたはずである。しかし、具体的な根拠を確認するためにも檔案類を再確認する必要がある。 [戻る]
- 元表では乾隆帝第六房。永瑢は乾隆帝実子だが、慎郡王家の養子に入っている。 [戻る]
- 成親王はヨトの封じられた漢号であるが、マンジュ号はmutebureなので、異なる。 [戻る]
- 中文Wikipediaの惇親王の項ではjingjiだが、jingjiは端重親王のマンジュ号でもある。 [戻る]
- 元の表では惠郡王 [戻る]
- 順治帝第七房 純親王のマンジュ号と被っている [戻る]
- 中文Wikipediaの醇親王の項によるとhatan [戻る]