アバタイの嫁

 饒餘郡王・アバタイは庶出ながら、鑲黄旗旗王⇒正藍旗旗王としてホンタイジを支え続けた旗王です。庶出なので嫡出の兄弟…たとえばドルゴンやドドに比べると一段低い地位に甘んじ無ければならなかった反面、弟である太宗・ホンタイジからの信任は厚く、死後ですが親王に追封されるまでになっています(ホンタイジ逝去後なので恐らくドルゴンの遺志の入った人事)。本人的には功績の割に嫡出の異母兄弟に比べて出世が遅いことに不本意だと思っていたようですが、たとえば崇徳元年には序列的には同列だったドゥドゥと比べればキチンと評価されていますし、むしろ厚遇されている様にも思えます。で、そんな複雑な事情を抱えるアバタイですが、鈴木真「清初におけるアバタイ宗室-婚姻関係を中心に-」iを読んでいて、面白いコトが書いてあったのでメモ。

 清朝宗室の家譜である『宗譜』および『玉牒』(宗室女子の情報も含む)によれば、アバタイには4子7女が確認できる(夭折した子女を除く)が、いずれもホイファ=ナラ氏出身の嫡夫人サムハ(Samha)との間の子である。夫婦の間に最初に生まれた長女の生年が甲辰年(1604)、すなわちアバタイが16歳のときのことなので、アバタイがサムハを娶ったのは、アバタイが成人した(15歳となった)その前年あたりと考えてよいであろう。このサムハに関する逸話としては、以下の事件が知られる。
 アバタイがホンタイジから娘を差し出すように命じられた際、アバタイは妻サムハの言に従って二度もハンの命令を拒絶したとして、崇徳元年(1636)5月3日に罪を議されている。『老檔』同日条にはこの時のこととして、

多羅饒餘貝勒(アバタイ)は妻に逆らわず、聖主の旨に背き、むすめを二度「与えよ」というと、妻の言を容れて拒んだ。衆和碩親王・多羅郡王、衆大臣らが審理して、多羅饒餘貝勒の嫡妻を死罪に擬して、聖主に言を奉った。

とあってアバタイを掣肘したサムハも死罪に擬された。しかしホンタイジは、以後政治に㖨しないこと、夫アバタイに逆らったり無理強いしたりしないよう厳命した上で、サムハの罪を免じている。
 この事件から、嫡夫人サムハの、夫アバタイに対する影響力の強さが窺えよう。

 《太宗実録》を確認したら該当の記事あったので載せておきます。

(崇徳元年五月丙午)議多羅饒餘貝勒阿巴泰罪。阿巴泰受制於妻。上兩次有旨、命嫁其娘。皆以妻言不從。因命和碩親王、多羅郡王、及衆大臣審擬。阿巴泰妻罪應死。上宥之。阿巴泰奏聴妻言、兩次違旨。應罰銀四百兩、入官。又阿巴泰當明巡撫袁崇煥對敵時、不輿和碩肅親王豪格迎戰而散。多羅武英郡王阿濟格見之、曾鞭其馬首。時已定罪、蒙恩寛宥。乃阿巴泰以事久遺志、反誑稱輿袁崇煥交戰有功、應再罰鞍馬十匹、銀四百兩。議上。從之。ii

 ほぼほぼ概要は一緒ですが、この時の娘が何女だったのかとか、アバタイの嫁の名前とかがすっかり飛んでいるので、やっぱり《満文老檔》凄いと言うコトになりますね。あと、アバタイの嫁を赦したと言うだけで、政治というか政略結婚に口出しするなとクドクド厳命したことも飛んでます。で、なんだかアバタイはついでに袁崇煥と対陣した時にホーゲを見捨てて逃げたのをアジゲにチクられて更に罰受けてますね…。

 アバタイはダイシャンに次ぐくらい子沢山なのは知ってましたが、生母が皆同じだというのは確認してませんでした。一夫多妻が当たり前の時代ですから、1人で4男7女の11人を出産するというのは、この時代でも珍しいのではないでしょうか?夭折した子供は記録から省かれているので、幼少児の死亡率を考慮すれば、もしかしたらサムハはもっと生んでいたのかも知れません。と言うか、双子や三つ子が居ないと仮定すると、十年以上常に妊娠してることになりますから、なんか凄いですね。
 子沢山というのにも驚いたんですが、何より個人的にはホンタイジに忠実というイメージを持っていたアバタイが、嫁の意見の方を優先してホンタイジの意向を二度も無視しているってことですね。おまけに、恨み深いホンタイジが特に罰すること無く、アバタイに…と言いつつ多分サムハに対して、政治的な問題=政略結婚に口出しするな、ホンタイジに逆らうなと厳命…と言うより、言い聞かせた…お願いしたって感じですかね…このあたり、驚きました。ホンタイジはアバタイの嫁には一目置いていたというか、頭が上がらなかったんでしょうか?何とも謎です。
 論文ではこのあと、サムハの実家のイェヘ=ナラ氏の権勢について述べています。名家でありホンタイジも無視できない政治力を有していたようです。更に、モンゴルと婚姻を結んで自己のヒエラルキーを上げようとしているホンタイジは手駒にすべき実子がまだ幼かったので、女子が多いアバタイ家は特に重視され、実際、天聰年間にはモンゴルとの婚姻にアバタイ家の娘のうち、四女がハラチン王家に、七女がホルチン王家に嫁いだことも紹介しています。で、この後問題になってくる六女もどうやらボルジギット氏に嫁いだようですが、これが崇徳5年のことのようです。上の記事もこの六女に関する事件だったと言うのが、この論文が取っている説ですが、多分それが事実でしょう。先に七女を嫁がせて手元に残して、ホンタイジからの縁談を二度も断っているところを見ると、六女はアバタイの嫁が特に可愛いがっていた娘だったんでしょうかね…。
 ともあれ、この後、この六女の婚姻に絡んで又一騒動起きたようです。論文を引用しましょう。

 そして崇徳5年(1640)3月にボルジギット氏の一等侍衛塞爾祜稜に嫁いでいるが、婿の詳細は不明である。ただ、この婚姻の翌月の『大清太宗文皇帝実録』巻51、崇徳5年4月乙亥(24日)条に、以下のような記載がある。この日、アバタイ家の侍女らが刑部に密告したことにより、以前アバタイの娘のひとり(六女であろう)が、巴山(パサン)ニルの克什訥(ケシネ)家の、琥珀を売る常二なる者を勝手に府第に呼び寄せていたこと、アバタイ夫人(サムハ)が六女を外藩の者・国内の者のいずれと婚約させるのが吉であるのかを占わせていたことなどが露顕した。刑部は以前(おそらく前述の崇徳元年の5月の事件のこと)、ホンタイジが、そのアバタイの六女を外藩に嫁がせようと命じても、国内の者に嫁がせようと命じても、二度とも夫人サムハが従わなかったことを再びとりあげ、それのみならずサムハが勝手に娘の相手を占いで選んで嫁がせたこと(おそらくはこの前月に一等侍衛塞爾祜稜に嫁がせたこと)を重く見なし、夫人と六女とを死刑、アバタイには罰銀1,000両の上、多羅貝勒の爵位を革去するよう奏上した。結果、ホンタイジの命により、アバタイの革爵は赦されて罰銀1,000両を支払い、夫人サムハは死を免ぜられて三子ボロの家で養われることになり、六女も死を免ぜられて婿を選んで嫁がされることになった。あらためて一等侍衛塞爾祜稜に嫁したのか、別の婿が選ばれたのかわからない。

 驚くべきことに、アバタイ夫人・サムハはホンタイジの命令を二度も断って叱責されたのに、四年後に又同じネタで事件を起こした…と言うコトのようですね。それも、占い師に娘が国内・国外の誰に嫁ぐべきか占わせて、ホンタイジにお伺いを立てるでも無く、その結果に従って勝手に嫁がせたようです。ホンタイジの命令に二回も背いた上で、まだ六女が独身だったことが驚きですね…。しかも、この論文読む限りはホンタイジに許可を得ないで勝手に六女を嫁がせたことより、占い師に嫁ぎ先を占わせたことが問題だったようです。
 と、言うわけで《太宗実録》の当該箇所も見てみましょう。

乙亥。先是、多羅饒餘貝勒・阿巴泰女、擅令巴山牛彔下克什訥家販賣琥珀人・常二、至於府第。又令使女三人輿二太監結爲姉弟。福金以其女許字國人及外藩執吉。令鳴讚官代都、問卜於黒際盛家。二使女及常二、首於刑部訊實。
福金於從前上曾兩次命以此女輿外藩、不従。又令輿國中人、亦不従。擅自擇嫁。遣官問卜、又失於閫教。
福金輿其女、倶應論死。阿巴泰屢違上命、私庇福金、全無家法。阿巴泰應革去多羅貝勒爵。罰銀一千兩。代都、黒際盛、及使女一人、太監一人、倶應論死。其一太監實供應鞭一百、入官。出首二使女、應斷出奏聞。
上命免福金死、令随其子貝子・博洛贍養。其女又免死、令擇嫁之。阿巴泰免奪爵、罰銀一千兩。代都免死、鞭一百、貫耳鼻。不據實吐供之太監・尼滿、使女・艾尼克、伏法。據實吐供之太監糾、鞭五十、入官。黒際盛免死、座以應得之罪、禁止賣卜。出首二使女斷出。常二、自首免罪。iii

 上の文章では関係者として、アバタイ、アバタイ夫人(サムハ)、アバタイの娘(六女)、侍女三名、太監(宦官?)二名、琥珀商人?・常二(チャンル?)、鳴讃官ivの代都(ダイトゥ?)、卜者の黒際盛(ヘシチェン?)という名前が挙がってます。どうやら取り調べの時には出頭した侍女二名と常二、そして太監一名は素直に供述し、その他の侍女の艾尼克(アイニク?)と太監の尼滿(ニマン?)は虚偽の供述を行ったとされています。もしかしたら主人を庇ったのかも知れませんね。
 《太宗実録》の記述にある事件のあらましは鈴木センセの論文の通りですが、事情聴取を行った刑部はサムハと六女は死罪、アバタイの爵位を剥奪した上で罰金・銀一千両とし、代都、黒際盛、侍女一名(艾尼克?)、太監一名(尼滿?)らについては皆死罪、事実を供述した太監には鞭五十回の上で身柄を宮廷付けとし、侍女二人は断出?vする様に奏上しています。
 これに対してホンタイジは、サムハの死罪を免じてベイセ・ボロの家に移し(自宅謹慎?)、六女は死罪を免じて(多分、塞爾祜稜に)嫁がせ、アバタイは爵位剥奪を免じて罰金・銀一千両、代都は死罪を免じて鞭打ち百回の上に耳や鼻に穴を開け、偽証をした太監・尼満と侍女・艾尼克は法を適用し(恐らく死罪)、正しい証言を行った太監(糾?)は鞭打ち五十回の上財産を没収して宮廷付けとし、黒際盛は死罪を免じて以後占卜を禁じました。自首してきた侍女二名は断出とし、常二は不問に付したようです。

 実録を見るに、どうやらこの案件も旗王が身内から告発される案件だったようですね。あの陰険なホンタイジに対して、外交政策上必要な適齢期の娘を差し出すことを拒んだ上に、数年経過したとは言え相談も無く勝手に嫁がせて恥をかかせた…と言う事件にしては、罪状に対する罰則が手ぬるい印象があります。まぁ、夫の元から離されて息子の家で厄介になるという罰にどう言う意味があるのかよく分からないんですが、もしかしたらボロと不仲だったり、ボロの嫁と仲悪かったりするのかも知れませんし、個人財産を没収されることが前提だったのかも知れません。この辺は想像の範囲を超えませんが。
 それはさておき、どうやらサムハは勝手に娘を結婚させたことで罪に問われたわけでは無く、皇帝の指図を袖にした上に占いの結果で娘の結婚相手を決めたことが罪だと認識されていたようですね。勝手に娘の結婚を決めたことについてはあまり触れられていないように思います。正直、え?怒るところそこなの?と言う印象です。てっきり崇徳元年の段階で六女はホンタイジの命令通りにモンゴルに嫁いだもんだと思ったら、その後も独身を貫いた上に母親が占いで決めた相手に嫁いでいるわけです。天聰年間にホンタイジや大臣に相談も無く、勝手にアブタイの娘とドドの婚姻を取り仕切っただけで爵位を剥奪されたアジゲと同じくらいの罰を受けてもしかるべきだとは思うんですが、アバタイもアバタイの嫁もさしたる降格や罰を受けるわけで無く、罰金だけで済んでいるのはなんだか依怙贔屓なんじゃ無いかと勘ぐりたくなります。
 また、他の旗王が身内から告発される案件では告発者が庇護されたり褒賞を受けたり、罪に荷担している場合はその罪を免じられたりするのですが、侍女二名と常二は罰せられはしないモノの賞されても居ない印象を受けます。他の使用人達は死罪に処せられているのでそれに比べればマシなんでしょうけど、厄介事を持ち込んでくれた…というニュアンスで読んでしまったんですが、これも穿ちすぎでしょうか…。

  1. 『歴史人類』第36号, 2008年03月 [戻る]
  2. 《太宗実録》巻二十九 五月丙午条 [戻る]
  3. 《太宗實録》巻五十一 四月乙亥条 [戻る]
  4. 儀式の時に祭文を読む官吏 [戻る]
  5. 切り出す?アバタイ家から他の家に移す? [戻る]

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