清代の起居注冊と実録の編纂
加藤直人『清代文書資料の研究』汲古叢書131 をつらつら読んでいると、起居注冊や実録の編纂過程が分かって面白かったので、ツラツラと年表にまとめてみたら、なんか大変な感じになってしまいましたよ…。
なんだか表が壊れてるので巧いこと表示できないかもしれませんが、折角作ったので置いておきます。
清朝起居注及び実録編纂年表
年号 | 西暦 | 起居注冊 | 実録 | 事件 |
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万暦43 | 1615 | 万暦43(1615)年以降16人のアンバンと8人のバクシにより穀物庫の出納記録を行うようになる⇒併せて重要事件やハンの言動について記録されるようになる?i | 12月、エルデニ・バクシ《太祖紀》=《定本(an i bithe)》成立ii。 | |
天命元 | 1616 | 正月元旦、ヌルハチ、ハン位に即く。国号は後金。年号は天命iii。 | ||
天命11 | 1626 | 8月、ヌルハチ崩御、ホンタイジ即位する。年号は天聰iv。 | ||
天聰元年 | 1627 | 《八旗値月档》を付けるようになるv。 | ||
天聰3 | 1629 | これより以前、bithe boo=書房(文館)が成立vi。 | ||
天聰6 | 1632 | この当時の書房は八旗当直記録などマンジュ文献の保管、史書の作成、満漢文の翻訳を職掌としていた。しかし、漢字文献は保管しておらず、書房を管轄するベイレも居なかった⇒ハン直属のだった?vii | ||
天聰7 | 1633 | 10月、書房のバクシに命じて「太祖行政用兵之道」を記録した史書の作成を命じる。⇒《太祖武皇帝実録》編纂の開始viii | ||
天聰8 | 1634 | 4月、ガリン(Garin 剛林)ら挙人16名を選抜し、書房のバクシの人材を確保する。ix | ||
天聰9 | 1635 | 《太祖実録戦図》完成?x | 9月、チャハル部平定、ダイシャン失脚xi。12月、正藍旗の獄xii。 | |
天聰10 | 1636 | 3月、文館を改組した内三院設立xiii | ||
崇徳元 | 1636 | 11月、《太祖太后実録(dergi taidzu,taiheo i yabuha yargiyan kooli githe)》告成xiv。xv | 4月、ホンタイジ帝位に即く。国号は大清、年号は崇徳xvi。5月、遼金元三史の満文編訳開始xvii。 | |
崇徳4 | 1639 | 6月、満文遼金元三史翻訳完成xviii。 | ||
崇徳8 | 1643 | 8月、ホンタイジ崩御。フリン即位xix | ||
順治元 | 1644 | 3月、明が滅亡する。4月、ホーゲ失脚、清軍が山海関から入関。10月、北京遷都。順治帝再度即位するxx。 | ||
順治2 | 1645 | 翰林院を内三院に分属させるxxi。 | 4月、李自成敗死。5月、ドルゴンが皇叔父摂政王を称する。6月、南明福王弘光政権滅亡xxii。 | |
順治3 | 1646 | 8月、南明唐王隆武・紹武政権滅亡。12月、張獻忠敗死xxiii。満文遼金元三史、刊刻されるxxiv。 | ||
順治5 | 1648 | 3月、ホーゲ失脚後、獄死。9月、ジルガラン南征。11月、ダイシャン薨去。ドルゴンが皇父摂政王を称す。12月、大同で姜瓖叛乱するxxv。 | ||
順治6 | 1649 | 正月、《太祖武皇帝実録》編纂、《太宗文皇帝実録》編纂開始xxvi。 | 8月、姜瓖の叛乱、鎮圧されるxxvii。 | |
順治7 | 1650 | 順治重修《太祖武皇帝実録》ほぼ完成xxviii。 | 4月、満文《三国志演義》完成xxix。12月、ドルゴン薨去xxx。 | |
順治8 | 1651 | 2月、ガリン、ドルゴンに追従して《太祖武皇帝実録》及びホンタイジに関する記録を改竄した旨で斬刑に処されるxxxi。《太祖武皇帝実録》、《太宗文皇帝実録》の編纂が一旦ストップxxxii? | 2月、ドルゴン反逆罪に問われ、反対派復活。ドルゴン派の粛清始まるxxxiii。 | |
順治9 | 1652 | 正月、再度、《太祖武皇帝実録》編纂、《太宗文皇帝実録》編纂開始xxxiv。 | 4月、宗人府設立xxxv。 | |
順治12 | 1655 | 正月、起居注官の設置が上奏されるxxxvi。 | 12月までに順治重修《太祖武皇帝実録》、初纂《太祖文皇帝実録)》告成xxxviixxxviii。また、内三院から翰林院を分立させ、所轄として国史館が開設される。国史の編纂は以降国史館の管轄となるxxxix。 | 6月、内務府を廃して十三衙門を設立。xl。 |
順治15 | 1658 | 7月、内三院を改組して内閣成立。xli。 | ||
順治16 | 1659 | 5月、鄭成功の南京侵攻xlii。 | ||
順治18 | 1661 | 6月、翰林院が内三院に復す。xliii。 | 正月、順治帝崩御。康熙帝即位。2月、十三衙門を廃して内務府を再建。6月、内閣を廃して内三院を復活。xliv。 | |
康熙元 | 1662 | 4月、南明桂王永暦政権滅亡xlv。 | ||
康熙6 | 1667 | 9月、《世祖章皇帝実録》編纂開始xlvi。11月、《太宗文皇帝実録》校訂開始?xlvii。 | 6月、ソニン逝去。7月、康熙帝親政開始xlviii。 | |
康熙8 | 1669 | 3月、《世祖章皇帝実録》草稿告成。xlix | 5月、オボイ失脚l。 | |
康熙9 | 1670 | 8月、内三院を改組して内閣とし、翰林院を復活させるli。12月、翰林院の定数が決まるlii。 | ||
康熙10 | 1671 | 3月、翰林院所属の10名が日購官に任命され、8月16日、起居注が設立され、日購官が起居注官の職掌も兼ねるliii。翌9・10月より《ilire tere be elehe dangse=起居注冊》が作成されるliv。 | ||
康熙11 | 1672 | 日講起居注官増員lv。 | 5月、《世祖章皇帝実録》告成lvi。 | |
康熙12 | 1673 | 日講起居注官増員lvii。 | 8月、《太宗文皇帝実録》編纂開始lviii。 | 11月、三藩の乱始まる lix。 |
康熙14 | 1675 | 3月、チャハルのブルニ親王が三藩の乱に呼応して叛乱。5月、鎮圧される。二阿哥・胤礽が立太子されるlx。 | ||
康熙16 | 1677 | 日講起居注官増員lxi。 | ||
康熙20 | 1681 | 日講起居注官増員lxii。 | 10月、三藩の乱平定lxiii。 | |
康熙21 | 1682 | 9月、重修《太宗文皇帝実録》告成lxiv。10月、三修《太祖武皇帝実録》編纂開始lxv | ||
康熙22 | 1683 | 7月、台湾鄭氏政権滅亡lxvi。 | ||
康熙23 | 1684 | 起居注官に対して守秘義務に関する諭旨を下すlxvii | ||
康熙25 | 1686 | 2月、三修《太祖武皇帝実録》告成。lxviii | ||
康熙28 | 1689 | 7月、ネルチンスク条約締結 lxix。 | ||
康熙29 | 1690 | この年、対ジューンガル戦開始 lxx。 | ||
康熙31 | 1692 | 日講起居注官増員lxxi。 | ||
康熙36 | 1697 | 康熙帝、ジュ-ンガルに親征、ガルダン死亡するlxxii。 | ||
康熙37 | 1698 | ジューンガル親征の論功行賞で皇子6名を封爵。九王奪嫡の契機となる lxxiii。 | ||
康熙43 | 1704 | ソンゴトゥ失脚 lxxiv。 | ||
康熙47 | 1708 | 9月、第一次皇太子廃嫡 lxxv。 | ||
康熙48 | 1709 | 3月、再び二阿哥・胤礽が立太子されるlxxvi。 | ||
康熙50 | 1711 | 戴名世の筆禍事件(文字の獄)lxxvii。 | ||
康熙51 | 1712 | 3月、第二次皇太子廃嫡lxxviii。 | ||
康熙52 | 1713 | 10月、康煕帝が翰林院のレベルの低下を嘆くlxxix。 | ||
康熙53 | 1714 | 2月、翰林院の辞職者が定員の2/3に上るlxxx。 | ||
康熙56 | 1717 | 3月、起居注官による機密漏洩事件が発覚lxxxi。 | ||
康熙57 | 1718 | 3月、起居注衙門を廃止lxxxii。 | チベット遠征lxxxiii。 | |
康熙61 | 1722 | 起居注官が復活lxxxiv。 | 《聖祖仁皇帝実録》編纂開始lxxxv。 | 11月、康熙帝崩御。雍正帝即位lxxxvi。 |
雍正2 | 1724 | この頃、起居注冊の作成過程に変更が加わるlxxxvii。 | 4月、敦郡王・允䄉拘禁。貝子・允禟追放lxxxviii。 | |
雍正4 | 1726 | 廉親王・允禩、貝子・允禟皇籍剥奪され拘禁lxxxix。 | ||
雍正5 | 1727 | 雍正5年以降、起居注冊は毎月2分冊で作成されるxc。 | 9月、キャフタ条約締結xci。11月、《八旗通志》編纂開始xcii。 | |
雍正8 | 1730 | 軍機処設立xciii。 | ||
雍正9 | 1731 | 12月、《聖祖仁皇帝実録》告成xciv。 | ||
雍正12 | 1734 | 11月、四修《太祖武皇帝実録》、三修《太宗文皇帝実録》、重修《世祖章皇帝実録》編纂開始?xcv。12月、四修《太祖武皇帝実録》、三修《太宗文皇帝実録》、重修《世祖章皇帝実録》校訂開始?xcvi。 | ||
雍正13 | 1735 | 《世宗憲皇帝実録》編纂開始xcvii。 | 8月、雍正帝崩御、乾隆帝即位xcviii。 | |
乾隆元 | 1736 | 日講起居注官増員 xcix。 | ||
乾隆4 | 1739 | 12月、乾隆四修《太祖武皇帝実録》、三修《太宗文皇帝実録》、重修《世祖章皇帝実録》告成c。 | 4月、《八旗通志》告成ci。10月、理親王・弘晳の簒奪事件発覚cii | |
乾隆6 | 1741 | 3月、《聖祖仁皇帝実録》序文ciii。 | ||
乾隆8 | 1743 | 5月もしくは7月、満漢文の《満洲実録》この頃成立?civ | ||
乾隆38 | 1773 | この頃、起居注冊の草本は漢文のみで月に二分冊で作成されていたcv。 | ||
乾隆44 | 1779 | 正月、《満洲実録》の編纂開始cvi | ||
乾隆46 | 1781 | 春、《満洲実録》告成cvii。 | ||
嘉慶元 | 1796 | 乾隆帝の退位に伴い、嘉慶帝中心の《嘉慶帝起居注冊》と、乾隆年号の《太上皇帝起居注冊》と嘉慶年号の《太上皇帝起居注冊》の3種類cviiiが作成されるcix。 | 正月元旦、乾隆帝退位、嘉慶帝即位cx。 | |
嘉慶4 | 1799 | 《太上皇帝起居注冊》編纂終了cxi。 | 《高宗純皇帝実録》編纂開始cxii。 | 正月、太上皇帝=乾隆帝崩御cxiii。 |
嘉慶8 | 1803 | 日講起居注官増員cxiv。紆余曲折を経た清朝起居注官も嘉慶年間で確立し、《嘉慶事例》にまとめられるcxv。 | ||
道光4 | 1824 | 《仁宗睿皇帝実録》編纂開始cxvi。 | ||
咸豊2 | 1852 | 《宣宗成皇帝実録》編纂開始 cxvii。 | ||
同治元 | 1862 | 起居注冊の粗略化が始まるcxviii。 | 《文宗顕皇帝実録》編纂開始cxix。 | |
光緒元 | 1875 | 起居注冊の粗略化が更に進むcxx。 | ||
光緒5 | 1879 | 《穆宗毅皇帝実録》編纂開始cxxi。 | ||
宣統元 | 1909 | 起居注冊の粗略化が加速するcxxii。 | 宣統年間に《徳宗景皇帝実録》編纂開始cxxiii。 | |
宣統4 | 1912 | 清朝滅亡cxxiv。 |
つまり、皇統に関わる事件が起こって、解決するとなんだか実録まとめにかかってない?と言う気がしたのですよね。この辺、皇帝権の確立と無関係じゃないのでこれだけでテーマにしても面白いと思うんですけどねぇ。李自成とか張獻忠、南明三王朝に台湾鄭氏勢力が滅亡しても、三藩の乱が起こっても(チャハル以外)、あんまり気にしていないことがここからも分かるんじゃないかと思います。
ヌルハチはハン位を視野に入れた頃から記録を残すことを意識しますし、ホンタイジは四ベイレの掣肘に成功すると、《太祖太后実録》に着手しています。
ドルゴンは政権を固めたあとに実録の編纂を命じていますし、順治帝はドルゴン死後にその編纂作業を責任者ごと否定しています。この期間は特に政争によって実録の記述そのものが焦点とされているだけにわかりやすい事例だと思います。
康煕帝もオボイ失脚前後で実録編纂作業に不明瞭な記事が残っています。根拠無く想像するに、一度オボイに都合よく編纂された実録をまた編修し直したんじゃないかと思えます。また、翰林院や起居注官の設置も皇帝権の確立とともに進んできたのでしょう。康煕帝はそれまで満文ベースの記録が主流だった清朝の記録を起居注官を設置することで漢文ベースに変換しています(日々の記録は漢文のみで残し、月々の記録は草本作成段階で満文に訳して残される)。ですが、宮中の機密事項を外部に漏らされるような事態を憂慮していた康熙帝は、機密漏洩事件を機に起居注官を廃止しています。
で、雍正帝ですが即位してまず起居注官を復活させたり、実録の編纂を命じたりと、どうも康煕帝の治世の否定と評価を行っているように見えます。九王奪嫡に一定の結末を見たとされる廉親王失脚前ですから、これは康煕帝時代との区切りを強く意識したって事でしょうか?廉親王の失脚後はむしろ八旗制度の完成として位置づけられる《八旗通志》の編纂を命じ、次いで太祖太宗世祖三朝の実録の編纂も命じています。皇統の確立と言うよりは、八旗制度の整理を完遂した区切りのように思えます。結局、完成は乾隆年間に持ち越すワケですが、太祖太宗世祖実録完成の時期も理親王・弘晳による皇位簒奪計画が発覚した時期の発表ですから、偶然にしても意図を感じてしまいます。皇統の正当性を誇示すべきタイミングですよねぇ…。
皇統が安定して起居注作成のノウハウが確立し、実録の再編も行われなくなるのはこう見ると嘉慶年間ってことになります。嘉慶道光咸豊と記録的には安定した清朝も、同治光緒宣統と時代を経るに従って資金難や綱紀の弛緩で起居注冊編纂が簡素化し、マンジュ語本は次第に形骸化していくと言う感じです。
本来は方略、列伝など清朝が編纂した他の史書のコトも抑えたかったんですが、その辺は手元の資料では手に余るので、またの機会という感じですかね。
ちなみに、『清代文書資料の研究』の中でも特に史料価値の高い《逃人档》の部分で、天命~天聰あたりの《八旗値月档》を《逃人档》の記事から復元する趣旨の下りがあったので、それだけメモ。両黄旗⇒両藍旗⇒両白旗⇒両紅旗と言う順番で輪番していた模様。
天命十一年 十月:(当直旗の記載無し) 十一月:両藍旗 十二月:(記事無し)
天聰元年 正月:両紅旗 二月:両黄旗 三月:両藍旗 四月:両白旗 五月:両紅旗 六月:両黄旗 七月:両藍旗 八月:両白旗 九月:(記事無し) 十月:両黄旗 十一月:両藍旗 十二月:両白旗
天聰二年 正月:両紅旗 二月:両黄旗 三月:両藍旗 四月:両白旗 五月:(記事無し) 六月:両黄旗 七月:両藍旗 八月:両白旗 九月:両紅旗 十月:両黄旗 十一月:両藍旗 十二月:両白旗cxxvi
なお、《満文原档》や《内国史院 天聰五年档》にも、この八旗当直記録である《八旗値月档》が使用されていた模様。
他にもまとめたいことがあったので、とりあえず項を改めます。
- 『清代文書資料の研究』P.59 [戻る]
- 散逸?『清代文書資料の研究』P.39。ゲンギュエン・ハンとしてヌルハチが即位するまでの記録。内容は《満文原档》に忠実に引き継がれている。⇒同書P.59 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.66 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68 [戻る]
- ホンタイジ即位頃、八旗中の色を同じくする正鑲二旗がペアになって一ヶ月ごとの当番制で当直記録=《八旗値月档》を付けるようになった⇒『清代文書資料の研究』P.62 [戻る]
- 八旗当直記録は書房(文館)の記録と平行して実施された。 ⇒『清代文書資料の研究』P.67 ただし、文館の職掌は外交文章、奏章や過去の事績を記録することで、日々の出来事を記録することではなかった模様。 同書 P.69 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.69 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.70 『ダイチン・グルンとその時代』P.133 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.70 [戻る]
- 《満洲実録》図画の元絵か?⇒『清代文書資料の研究』P.24 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68 [戻る]
- 『大清帝国の形成と八旗制』P.238 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68 内国史院はハンの起居・事績の記録や表文。祭文などの作成、史書の編纂など。また、六部文書や外交文書も適宜記録した。⇒『清代文書資料の研究』P.37 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.23、『明清史論考』P.314 [戻る]
- 《満洲実録》の満文はほぼ順治重修《太祖武皇帝実録》と同じ。ただし、ドルゴンにより削除されたドルゴン生母の記事は残る。⇒『清代文書資料の研究』P.27 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68 [戻る]
- 『ダイチン・グルンとその時代』P.134 [戻る]
- 『ダイチン・グルンとその時代』P.134 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.68 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.70 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.70 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.70 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.70 [戻る]
- 『ダイチン・グルンとその時代』P.139 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.25、『明清史論考』P.315 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.25 [戻る]
- (順治七年四月)辛丑。以繙譯三國志告成。賞大學士范文程、剛林、祁充格、甯完我、洪承疇、馮銓、宋權、學士查布海、蘇納海、王文奎、伊圖、胡理、劉清泰、來袞、馬爾篤、蔣赫德等、鞍馬、銀兩有差。⇒《世祖章皇帝実録》巻四十八 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72 [戻る]
- (順治九年二月)乙亥。刑部尚書固山額真公韓岱等、審議剛林等罪狀。(中略)以擅改國史一案、訊剛林。據供、睿王取閱太祖實錄、令削去伊母事、遂與范文程、祁充格、同抹去。後白之和碩鄭親王、和碩巽親王、和碩端重親王、和碩敬謹親王、未經奏聞。擅改實錄。隱匿不奏。(中略)又將盛京所錄太宗史冊、在在改抹一案、訊之剛林。據供、纂修之時、遇應增者增、應減者減、刪改是實。舊稿尚存。 《世祖章皇帝実録》巻五十四 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.30 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.30 [戻る]
- (順治九年四月)設立宗人府衙門。《世祖章皇帝実録》巻六十四 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.21 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.25 [戻る]
- しかし、《明実録》と比較して体裁が整っていなかった為、鄭親王ジルガランに編纂を命じたが、同年5月にジルガランが死去した為沙汰止みとなる『明清史論考』P.358 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.37 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- (九月)丙午。纂修世祖章皇帝實錄。《聖祖仁皇帝実録》巻二十四 [戻る]
- 『明清史論考』P.359 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- 三月甲午朔。世祖章皇帝實錄、纂修草藳告成。《聖祖仁皇帝実録》巻二十八 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.72 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.211 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.212 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.211、P.213 =日講起居注官:満人4、漢人8、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式4、満漢文筆帖式4、漢軍筆帖式4 P.218 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.213 日講起居注官が作成した草本を総辨記注(起居注)官が校訂を行い清書して正本を作成し、翰林院掌院学士が検閲を行った。⇒同書P.224 [戻る]
- =日講起居注官:満人4、漢人8、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.218 [戻る]
- =日講起居注官:満人5、漢人10、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218 [戻る]
- 『明清史論考』P.359 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- =日講起居注官:満人6、漢人10、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218 [戻る]
- =日講起居注官:満人6、漢人18、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- 『明清史論考』P.359 [戻る]
- 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.9 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.229 [戻る]
- 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.9 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 [戻る]
- =日講起居注官:満人6、漢人12、満漢字主事1、満字主事1、漢軍主事1 満文筆帖式8、満漢文筆帖式6、漢軍筆帖式4 『清代文書資料の研究』P.218 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 『清代文書資料の研究』P219 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 『清代文書資料の研究』P.219 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 『清代文書資料の研究』P.219 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.219 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.219 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.219 [戻る]
- しかし、翰林院の人員が交代で近侍し、重務・要旨があれば内閣の諸臣が記録し保管させ、簡便な形で起居注冊の様な記録は継続して保存された⇒ 『清代文書資料の研究』P.220~221 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 [戻る]
- =日講起居注官:満人6、漢人12 『清代文書資料の研究』P.221 [戻る]
- (十二月乙亥)命大學士二等伯馬齊、為聖祖實錄館監修總裁官。⇒《世宗憲皇帝実録》巻二 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.76 [戻る]
- 月末に各衙門から提出された資料の中から皇帝の行動だけが記載された档子を日付ごとに分け、日々の担当起居注官の氏名を記して冊子にして保管し、一月分溜まったところで草本が作られ、校訂を経て正本が作られた。年末に冊子の綴じ部に翰林院印を捺印して内閣大庫に保管した⇒『清代文書資料の研究』P.222 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78 [戻る]
- 雍正年間から上奏文が飛躍的に増加した為、中央に大量の情報が流れ込んだことから。「上 dergi debtelin」と「下 fejergi debtelin」の二冊組み。⇒『清代文書資料の研究』P.222 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78 [戻る]
- 《八旗通志初集》 奉勅纂修八旗通志諭旨 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78 [戻る]
- (十二月)己酉。恭纂聖祖仁皇帝實錄聖訓告成。《世宗憲皇帝実録》一百十三巻。《聖祖仁皇帝実録》序。 [戻る]
- 『明清史論考』P.359⇒《高宗純皇帝実録》乾隆三年十月癸未を引用 [戻る]
- 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.14⇒《世宗憲皇帝実録》雍正十二年十二月庚子を引用 [戻る]
- 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.78 [戻る]
- =日講起居注官:満人8、漢人12『清代文書資料の研究』P.227 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.74、『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.14、乾隆四修《太祖武皇帝実録》序文、乾隆三修《太宗文皇帝実録》序文、乾隆重修《世祖章皇帝実録》序文 [戻る]
- 《八旗通志初集》御製八旗通志序 [戻る]
- (乾隆四年十月)己丑,莊親王允祿、理親王弘晳 等緣事,宗人府議削爵圈禁。《清史稿》 巻十 本紀十 高宗 [戻る]
- 《聖祖仁皇帝実録》序 [戻る]
- 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.4 [戻る]
- 当然、正本・副本は満漢2種類が作成される⇒『清代文書資料の研究』P.224 また、乾隆30年代後半には起居注冊の満文表題は《ilire tere be ejehe dangse 起居を記した档子》から《ilire tere be ejehe cese 起居を記した冊子》に改められ、この表題は宣統朝まで継承される⇒同書P.224~225。 [戻る]
- 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.2 ただし、今西春秋は絵はすでに完成していたとしている。 [戻る]
- 『対校 清太祖実録』「清太祖実録纂修考」P.3 [戻る]
- それぞれ満漢体2種存在するので計6種 [戻る]
- 基本的に中身は同じ⇒『清代文書資料の研究』P.225 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.80 [戻る]
- 『清代文書資料の研究』P.227 [戻る]
- 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.80 [戻る]
- =日講起居注官:満人10、漢人12 以降清朝滅亡まで定員変更無し。『清代文書資料の研究』P.227 [戻る]
- まず、日講起居注官が作成した草本を、総辨記注(起居注)官が校訂を行い、翰林院掌院学士が検閲を経て清書を行い正本・副本を作成、正本の冊中及び表紙と題簽の合わせ目に騎縫印として翰林院印を捺印した後、皇帝の御覧を経て鉄の箱に入れて起居注官と内閣学士立ち会いの下施錠して封印し、内閣大庫に保管した⇒『清代文書資料の研究』P.229~230 [戻る]
- 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類 [戻る]
- 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類 [戻る]
- 起居注冊の寸法が縮小され、表紙が黄絹から黄色の薄紙になり、月の誤記や干支の未記入が見られるようになる⇒『清代文書資料の研究』P.230 [戻る]
- 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類 [戻る]
- 1頁あたりの文書量が1葉表裏7行 計14行だったものが、1葉表裏5行 計10行に減り、以前は見られなかった記事と記事の間の空白が挟まれるようになり、記載内容も貧弱になる。また、満文本での省略が目立つようになり、形骸化が進む。捺印が雑で押し忘れも目立ち、訂正箇所に紙を貼るなど以前では考えられない杜撰さが目立つ。⇒『清代文書資料の研究』P.230~231 [戻る]
- 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類 [戻る]
- 文書量が1葉表裏4行 計8行になり、捺印も朱肉ではなくインクのようなもので乱雑に捺されている。記事も極めて簡便である。⇒『清代文書資料の研究』P.231 [戻る]
- 《清史稿》卷一百四十六 志一百二十一 藝文二 史部 編年類 [戻る]
- 『世界史大系 中国史4 明▽清』年表P.84 [戻る]
- 参考文献:加藤直人『清代文書資料の研究』汲古叢書131
松村潤『明清史論考』山川出版社
今西春秋『對校 淸太祖實錴』國書刊行會
杉山清彦『大清帝国の形成と八旗制』名古屋大学出版
承志『ダイチン・グルンとその時代-帝国の形成と八旗社会-』名古屋大学出版
神田信夫他 編『世界史大系 中国史4 明▽清』山川出版 [戻る] - 『清代文書行政の研究』P.62~63 [戻る]