アイシン・グルンの『三国志演義』

 三国志演義についての金文京『三国志演義の世界』東方書店 に

うちつづく農民の反乱などによってすっかり疲弊した中国を、東北の一隅から虎視眈々とねらっていた満州人は、『三国志演義』を満州語に訳して、配下の武将たちに読ませていたのである。i

と言う一文があることで、マンジュ版三国志演義があることが知られています。


 実際にマンジュ語で『三国志演義』…つまり、”Ilan gurun-i bithe“で検索すると、フランス国立図書館(Bibliothèque nationale de France 略称:BnF)の電子アーカイブであるガリカ(Gallica)がヒットしますので、そこで閲覧できます。
 特にマンジュ版『三国志演義』は順治7(1650)年に成立しており、日本語版が完成する元禄5(1692年)年よりも先です。

 さて、マンジュ版『三国志演義』は崇徳年間に翻訳の命令が出されましたが、順治年間に成立しています。しかし、ヌルハチやホンタイジも『三国志演義』の大ファンだったようです。では具体的にどうしてたんだろうとは思いましたが、『帝国を創った言語政策』に具体的な記述があったので、メモ。

ヌルハチ時代からホンタイジ時代まで、マンジュ人の漢文化に対する造詣は深かったし、特に中国庶民文化の「白話小説」と言う作品まで使用していた。「白話小説」とは漢語の口語を用いて作られたのを特徴とするから、マンジュ語を母語とするマンジュ人は本当に理解できたのかを疑わなければならない。事実グルンでは『三国志』の翻訳から劉備・関羽・曹操・諸葛亮という人物まで語られておるが、それらはいずれもマンジュ語のみの形で現れている。書名は漢語で出てくる場合は、『三国志伝』・『通鑑』・『四書』などの書籍があるが、それはあくまでも漢人秀才の上奏文に限っており、彼らマンジュ人は漢文で読むことができないから、マンジュ語に翻訳してから読むのが彼らの目的である。ii

 と言うわけで、ヌルハチもホンタイジも基本的には漢語を解するわけではなく、刊本としての漢語《三国志演義》を読書していたわけではなくて、マンジュ語に訳して理解していた…というのはなるほど言われてみればそうですね…。あと、本格的な史書より白話小説で手っ取り早く知識を得たというのも実にありそうです。

 また、今日まで太祖のヌルハチと太宗のホンタイジは好んで『三国演義iii』を読んでいたことが重視され研究がなされてきた。しかし、マンジュ語を母語とするヌルハチやホンタイジが漢籍中の故事をいかにして知り得たのか、と言うことについてはほとんど検討されていない。iv

 これも、先の記事と同じですね…。なんだか漢人登用に励んでたホンタイジは漢語ペラペライメージがあったんですが、んな訳ないわけですね。

ダハイ・バクシは(中略)……漢籍をマンジュ語に翻訳して、完訳したのは『万宝』・『刑部会典』・『素書』・『三略』、また、未完訳は、『通鑑』、『六韜』、『孟子』、『三国志』・『大乗経』である。v

 で、漢語知識を必要としたホンタイジは”三国志”をはじめとした漢籍の翻訳を、有圏点満洲文字の改訂者であるダハイ・バクシに命じていたのですが、ダハイ・バクシは齢30そこそこで他界してしまいます。なので、着手しながら未訳の漢籍が結構あったわけです。ただ、このリストにある”三国志”が正史《三国志》を指すのか、《三国志演義》を指すのかは判然としません。

(中略)『奏疏稿』天聰六年(1632)九月には、

(前略)且○○汗嘗喜閲『三国志伝』、臣謂此一偶之見、偏而不全。(中略)
かつハンは『三国志伝』を好んで読むが、臣に言わせれば、これはちっぽけな見解であり、偏りがあって完全ではない。(中略)

とあり、(中略)この時点ですでにダハイ・バクシは亡くなっていて、『三国志』(san guwe jy)も未完訳であったが、ここで王文奎が言っている『三国志伝』は、漢文の『三国志伝』なのか、あるいはダハイ・バクシの未完了のものなのかはっきりとはわからない。それは偏りがあって不完全なものであるという。順治七年(1660)に完訳した『三国志』(ilan gurun i bithe/三国の書)には、ダハイ・バクシが翻訳を終えていないことに一切触れておらず、新たに翻訳したかもしれない点を考える必要がある。要するに、ホンタイジが兵書以外に、『三国志伝』も好んで読んでいたことが分かる。vi

 で、ことあるごとにホンタイジは《三国演義》のような俗書ではなく、《資治通鑑》をお読みなさいと漢人官僚に言われます。それでダハイ・バクシも《資治通鑑》の翻訳に着手するわけですが、どうも司馬光の《資治通鑑》そのものではなく、通俗的で簡略化された《綱鑑》を底本にしたようなので、今の目から見ると《三国志演義》とさして変わらないのでは…とも思いますが。ともあれ、ダハイ・バクシは翻訳を完成させる前に没します。

『三国志演義』は中国近世の小説の中でももっとも有名で、おそらくもっとも多種類のテキストが出版された小説である。だが、ダハイ・バクシが用いた底本は正史の『三国志』なのか。あるいは王文奎が述べているテキストなのか、現段階で断言することは極めて難しい。一方、ヨーロッパ人が最初にフランス語に翻訳した底本は漢文の『三国志演義』ではなくマンジュ語ilan gurun i bithe によって、完訳の(San-koué-tchy(Ilan kouroun-i pithé):Historie des Trois Royaumes)である。vii

 で、ダハイ・バクシが訳したのが正史《三国志》なのか?通俗演義《三国志演義》なのか?は、やはり慎重に判断すべきだと繰り返し庄声センセは注意を喚起します…。というか、フランス語訳三国志初訳の底本がマンジュ版だというのは初めて知りましたwいつ頃訳されたんでしょうかねぇ…。気になります。

 さらにマンジュ語文献には、ヌルハチは自らが「聞くところ(donjici)」によって得た漢籍の故事が断片的に記録されている。(中略)
 ちなみに、ヌルハチの身辺で読み聞かせを行う人物が現れることについては、天命十年(1625)六月に記録されている。

十□□にトゥシャが漢文を学んで、ハンが用いて事例(kooli)を告げさせ(alabume)、ハンの家に泊まっていたが、ハンの子の乳母に通じたので殺した。

このように、ヌルハチ身辺で漢文を学んだジュシェン人が家庭教師を務めていたことが確かめられる。また、ヌルハチやその家族に様々な書物の事例(kooli)を教え、このような知識人がヌルハチ時代から学問の伝授に大いに役割を果たしていたと考えられるのである。
 こうしたことで、ホンタイジの時代にも同様に、金国ハンの故事を読み続けていたいたことが分かる。(中略)ホンタイジが鳳凰楼に宗族の諸王から各官員を集めて学問の勉強をしている様子が窺え、講師の担当者は弘文院の筆帖式たちだった。筆帖式は読み上げる際、ホンタイジのコメントでは史書をマンジュ語に翻訳して読んでいたという。とりわけ、マンジュ人は漢文を原点のままに読めるわけではなく、やはりマンジュ語訳にしてからなのは明らかである。viii

 で、マンジュの人々はどのような環境で《三国志演義》を楽しんでいたのか…というと、上記のように鳳凰楼に集合してバイリンガルの官人を囲んでマンジュ語の講義を受けるというものだったと考えてよいのではないでしょうか。マンジュ貴族子弟は読書を課されていたようですが、教師の質もよくなかったからか、ともかく苦痛を伴ったようです。血湧き肉躍る《三国志演義》は、彼らにとっては苦しい勉学の中では唯一の楽しみだったんじゃないかなぁ…などと、夢想したりしちゃいますね…ix

 ちなみに、順治7(1650)年のマンジュ版『三国志演義』にはドルゴンの序文がついているようなので、ドルゴンも『三国志演義』には目を通して有用性を認めていたようです。そういえば、今残っているマンジュ版『三国志演義』は康煕年間のものが多いようですが、順治帝に序文削られてないんですなぁ…。

  1. 『三国志演義の世界』P.9 [戻る]
  2. 『帝国を創った言語政策』P.163~164 [戻る]
  3. 原文ママ [戻る]
  4. 『帝国を創った言語政策』P.138 [戻る]
  5. 『帝国を創った言語政策』P.101 [戻る]
  6. 『帝国を創った言語政策』P.156 [戻る]
  7. 『帝国を創った言語政策』P.173 [戻る]
  8. 『帝国を創った言語政策』P.142 [戻る]
  9. 『帝国を創った言語政策』P.112~118 [戻る]

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