清の実録館
と言うわけで、《清实录研究》に実録の編纂場所……つまり、実録館の位置が載っていたので比定してみました。位置については……正直自信有りません…。と言うのも、実録館は常設の役所ではなく、皇帝代替わりの実録編纂時期にのみ官員が任命される性質の役所なので位置がころころ変わるんですね…。雍正~乾隆にかけての実録館は実録の告成後しばらく放置されたようですが、乾隆30年頃に国史館(《清史列傳》などを編纂した)に転用されたように、その時々の空いている場所を転々としたようです。
しかし、実録の簡易版を《東華録》と称したように、概ね東華門近くに設置されたようです。まぁ咸豐年間以降はほぼ場所は固定されたようですが…。この辺、紫禁城に関する本を見ても今ひとつ詳しく載ってないんですよね…。ただ、Wikipediaの日本語版紫禁城の項には実録館の満文=yargiyan kooli bithei kurenも載っているので何かしら詳しい本があるんでしょうけど…って、これ咸安宮に付随する形で載ってますから、嘉慶年間の実録館ですかね。
《清实录研究》では《日下旧聞考》だけでなく《國朝宮史》、《國朝宮史續編》、《清宫述闻》《清会典》などなどを駆使して各実録館を比定しています。正直、こんなに場所分かるんだとびっくりしました。
実録略称 | 編纂 | 巻数 | 実録館の場所 | 編纂開始 | 草稿完成 | 実録告成 | 告成式典 | 編纂年月 |
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太祖太后実録 | 崇徳初纂 | 8巻?i | 盛京国史院? | 天聰6(1632)年11月28日 | 崇徳元(1636)年11月15日(乙卯) | 4年 | ||
太祖武皇帝実録 | 順治重修 | 東華門橋東迤北ii | 順治6(1649)年正月8日(丁卯)iii | |||||
4巻iv | 東華門橋東迤北v | 順治9(1652)年正月29日(辛丑) | 順治12(1655)年2月12日(丁卯) | 順治12(1655)年4月29日(癸未)? | 3年 | |||
太祖高皇帝実録 | 康熙三修 | 10巻vi | 内館:午門西、外館:東華門外小南城vii | 康熙21(1682)年10月18日(辛卯)viii | 康熙23(1684)年9月11日 | 康熙25(1686)年2月20日(甲辰) | 康熙25(1686)年10月27日 | 4年 |
乾隆四修 | 10巻首3巻ix | 三朝実録館:東華門橋東迤北x | 雍正12(1734)年11月29日(庚子) | 乾隆4(1739)年12月10日?xi | 5年 | |||
太宗文皇帝実録 | 順治初纂 | 65巻xii | 東華門橋東迤北xiii | 順治9(1652)年正月29日(辛丑) | 順治12(1655)年2月12日(丁卯) | 順治12(1655)年4月29日(癸未)? | 6年 | |
康熙重修 | 内館:午門西xiv、外館:東華門外小南城xv | 康熙12(1673)年7月15日(壬午)xvi | 康熙21(1682)年9月22日(丙寅) | 康熙21(1682)年9月22日(丙寅) | 9年 | |||
乾隆三修 | 65巻首3巻xvii | 三朝実録館:東華門橋東迤北xviii | 雍正12(1734)年11月29日(庚子) | 乾隆4(1739)年12月10日?xix | 5年 | |||
世祖章皇帝実録 | 康熙初纂 | 内館:午門西xx、外館:東華門外小南城xxi | 康熙6(1667)年9月5日(丙午)xxii | 康熙8(1669)年3月1日 | 康熙11(1672)年5月20日(乙丑) | 康熙11(1672)年5月20日(乙丑) | 5年 | |
乾隆重修 | 144巻首3巻xxiii | 三朝実録館:東華門橋東迤北xxiv | 雍正12(1734)年11月29日(庚子)xxv | 乾隆4(1739)年12月10日?xxvi | 5年 | |||
聖祖仁皇帝実録 | 雍正勅纂 | 300巻首3巻xxvii | 東華門橋東迤北xxviii | 康熙61(1722)年12月19日(庚午)xxix | ?xxx | 雍正9(1731)年12月20日(乙酉) | 雍正9(1731)年12月20日(乙酉)xxxi | 9年 |
世宗憲皇帝実録 | 乾隆勅纂 | 159巻首3巻xxxii | 東華門橋東迤北?xxxiii | 雍正13(1735)年10月3日(戊辰)xxxiv | 乾隆6(1741)年12月11日(壬寅) | 乾隆6(1741)年12月11日(壬寅) | 6年 | |
高宗純皇帝実録 | 嘉慶勅纂 | 1500巻首5巻xxxv | 咸安宮後清字経館xxxvi | 嘉慶4(1799)年2月9日(丁酉) | 嘉慶8(1803)年9月12日(甲辰)xxxvii | 嘉慶11(1806)年3月4日(壬午) | 嘉慶12(1807)年正月11日(癸丑) | 7年 |
仁宗睿皇帝実録 | 道光勅纂 | 374巻首4巻xxxviii | 鷹狗処xxxix | 嘉慶25(1820)年9月7日(庚申)xl | ?xli | 道光4(1824)年3月30日(壬巳) | 道光4(1824)年4月20日(癸丑) | 4年 |
宣宗成皇帝実録 | 咸豐勅纂 | 476巻首5巻xlii | 東西両所房間xliii | 道光30(1850)年2月20日(癸未) | ?xliv | 咸豐6(1856)年10月1日(乙酉) | 咸豐6(1856)年11月1日(乙卯) | 6年 |
文宗顕皇帝実録 | 同治勅纂 | 356巻首4巻xlv | 東西両所房間xlvi | 咸豐11(1861)年10月26日(辛未)xlvii | 同治2(1863)年9月26日(庚午)xlviii | 同治5(1866)年11月22日(丁丑) | 同治5(1866)年12月8日(癸巳) | 5年 |
穆宗毅皇帝実録 | 光緒勅纂 | 374巻首4巻xlix | 東西両所房間l | 光緒元(1875)年2月2日(庚午)li | 光緒2(1876)年11月25日(壬午)lii | 光緒5(1879)年11月7日(丙子) | 光緒6(1880)年3月20日(乙亥) | 4年 |
徳宗景皇帝実録 | 清室私纂 | 597巻首4巻liii | 東西両所房間liv⇒民国成立後に移転 | 宣統元(1909)年2月2日(壬子) | 宣統4=民国2(1913)年12月19日 | 宣統19=中華民国16(1927)年lv | 18年? | |
宣統政紀 | 清室私纂 | 70巻首1巻lvi | 東西両所房間lvii⇒民国成立後に移転 | 宣統5=中華民国3(1914)年正月19日 | 宣統5=中華民国3(1914)年2月 | 1934年?lviii | 1ヶ月? |
ついでなので、各実録の編纂開始と告成の時期、分かれば稿本の成立時期と告成式典の時期も表にしてみました。康熙から乾隆の三朝実録の編纂にかかった時間が割と長いような気がします…。まぁ、清朝滅亡後に完成した《穆宗景皇帝実録》とかは比較するのは難しい気はします。
あと、《清实录研究》では《世宗章皇帝実録》を小南城で編纂したと言うことが書かれているわけですが、小南城は清初には睿親王府が置かれて康煕年間に嗎噶喇廟に改装されたlix…と言うことはウルトラ丸ごとスルーなのが気になりました。しかし、ドルゴン全体ブッ殺すマンであった順治帝の記録をドルゴン旧宅で編纂するって言うのはなんというか、皮肉なことするなぁ…と。
参考文献:
谢贵安《清实录研究》上海古籍出版社
《清實録》1巻 影印説明 中華書局
『紫禁城宮殿』講談社
赵广超《紫禁城100》故宫出版社
于敏中 等《日下旧聞考》北京古籍出版社
オルタイ・張廷玉 等《國朝宮史》北京古籍出版社
慶桂 等《國朝宮史續編》北京古籍出版社
章乃炜《清宫述闻》故宫出版社
- 『明清史論考』P.320 [戻る]
- 《清実録研究》P.46 [戻る]
- ※ドルゴン薨去、ガリン処刑につき中断 [戻る]
- 『對校 大淸太祖實錄』P.4 [戻る]
- 《清実録研究》P.46 [戻る]
- 『對校 大淸太祖實錄』P.4 [戻る]
- 《清実録研究》には康熙三修太祖高皇帝実録の実録館に記述はないが、直前に告成した康熙重修太宗文皇帝実録の実録館と康熙初修世祖章皇帝実録の実録館と同じ場所ではないか? [戻る]
- 後に太祖の諡号が改称されたため、康熙22(1683)年2月4日に再度編纂を命じている [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 《清実録研究》P.47 [戻る]
- 《清実録》太祖高皇帝実録 首巻3 [戻る]
- 『明清史論考』P.340 [戻る]
- 《清実録研究》P.46 [戻る]
- 起居注館の向かいだったという。起居注館は太和門西撫の熙和門にあったので、午門内の西部といえば確かにそうなる。 [戻る]
- 《清実録研究》P.46 [戻る]
- 実録館の開館は8月壬戌 [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 《清実録研究》P.47 [戻る]
- 《清実録》太宗文皇帝実録 首巻3 [戻る]
- 起居注館の向かいだったという。起居注館は太和門西撫の熙和門にあったので、午門内の西部といえば確かにそうなる。 [戻る]
- 《清実録研究》P.46 [戻る]
- 実録館開館は20日。また、康熙2(1663)年説も? [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 《清実録研究》P.47 [戻る]
- 実録館の人事は12月16日だが、実際に開館したのは雍正13年11月1日 [戻る]
- 《清実録》世祖章皇帝実録 序文 [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 《清実録研究》に記述はないが、三朝実録館と同じ場所か? [戻る]
- 実録館の開館は雍正元(1723)年正月8日 [戻る]
- 編纂の終わった巻から審査している。少なくとも雍正元年3月に首巻2冊を進呈、雍正4年段階で康熙47年の実録をチェックしている。雍正5年段階で雍正6年には完成予定であった。 [戻る]
- 乾隆6年3月24日日付の乾隆帝による序文あり。 [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 三朝実録館と同居?《清実録研究》P.48 [戻る]
- 実録館開館は11月1日 [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 《清実録研究》P.47 [戻る]
- 但し、それ以前にも嘉慶6年5月には乾隆10年迄の稿本、嘉慶7年12月26日には乾隆20年までの稿本が進呈されている [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 東華門稍南文華殿東北石橋三座門内⇒《清実録研究》P.50 [戻る]
- 実録館開館は10月12日 [戻る]
- 道光2年7月24日段階で嘉慶十五年迄進呈 [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52 [戻る]
- 咸豐2年4月5日段階で道光十五年迄進呈 [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52 [戻る]
- 同治帝は幼少であったので、当然慈禧太后=西太后らが実録館開館と共に実録纂修を命じている [戻る]
- 同治帝が幼少であったため恵親王・綿愉、醇群王・奕訢らが代行して審査した。 [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52 [戻る]
- 光緒帝は幼少であったので、当然慈禧太后=西太后らが実録纂修を命じている [戻る]
- 光緒帝は幼年であったため、 慶親王・奕劻らが代行して審査した。 [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52 [戻る]
- 盛京小紅綾本の成書。皇史宬大紅綾本には宣統13=中華民国11(1922)年12月の日付がある。ちなみに中華書局版《清實録》は北京大學図書館蔵の定稿本であってこのどちらでもない。 [戻る]
- 《清實録》影印説明 [戻る]
- 東華門内三座門迤北⇒《清実録研究》P.52 [戻る]
- 《大清歴朝實録》出版。底本は盛京小黄綾本。それまでに異同のあった可能性もあり。ちなみに中華書局版《清實録》では北京大學図書館蔵の定稿本を使用している。 [戻る]
- この辺の事情は普渡寺=睿親王府を参照。 [戻る]