ドルゴンの対モンゴル政策 その1 テンギス事件の巻(2017/02/18訂正)
たびたび、ドルゴンの対モンゴル外交については比重の大きさは感じていたものの今ひとつ流れを捉え切れていなかったのでメモ。
まず、ドルゴンとモンゴル外交の経緯を追っていくと…
①:順治3年5月⇒”騰機思”の離反
②:同年7月⇒ドドによる”騰機思”遠征
③:~順治4年5月迄⇒”二楚虎爾”の清朝との敵対
④:~順治5年8月迄⇒”騰機思”の投降
⑤:順治5年12月⇒大同総兵・姜瓖の叛乱⇒ドルゴン2度(順治6年2月と7月)遠征
⑥:順治6年10月⇒大同総兵・姜瓖の叛乱平定
⑦:順治6年10月⇒ドルゴンの”二楚虎爾”遠征
⑧:順治7年7月⇒ハラ・ホトン離宮建造の奏上
⑨:順治7年12月⇒ドルゴン、ハラ・ホトンで狩猟中に薨去
と言うことになります。順治3年からこっち、順治7年に死没するまで、ドルゴンは毎年モンゴル関係で忙殺されていた事になるかと思います。特に姜瓖と二楚虎爾については、ドルゴン本人が軍を率いて遠征してます。ドドやホーゲが他界し、アジゲが信用ならない状況下では他に選択肢はなかったんでしょうけど、少なくとも漢土の南明以上にモンゴル情勢は重視していたと考えられます。
なんですが、そもそも、騰機思とか二楚虎爾って何やねんって所からですよね…。
書いてたら長くなったので、今回はまず、①と②、④のテンギス(Tengis 騰機思)について見ていきましょう。まずは《欽定外藩蒙古回部王公表傳》の蘇尼特部總傳から。
元太祖十六世孫圖嚕博羅特、再傳至庫克齊圖 墨爾根 台吉、號其部曰蘇尼特 。(中略)初皆服屬於察哈爾。以林丹汗不道、徙牧瀚海北、依喀爾喀。
天聰九年、綽爾袞子素塞偕喀爾喀 車臣汗 碩壘遣使貢方物。i
スニト部はチンギス・ハンの16世の孫、トルボロト?(圖嚕博羅特)から引き継いだクコチト?(庫克齊圖)メルゲン タイシの代にスニト部と号したと。チンギス・ハンの系譜に連なる由緒正しき部族ですよと。
で、元々スニト部はチャハル部に所属していたのですが、天聰9(1635)年、リンダン・ハーンが無道だったので…というかリンダン・ハーンが病死してチャハル部が崩壊したからですね、漠北に逃げてハルハ部のチェチェン・ハーン(Sečen Qaγan 車臣汗) ショロイ(碩雷 Šoloi)に帰順したと。なので、スニト部はハルハ部生え抜きというわけじゃなくて、むしろチャハル部遺衆と言った方が良さそうです。
と、余談ですが、チェチェン・ハーンというのが一般的な呼称ですが、綴り的にはSečen Qaγan…まぁセチェン・ハーンですよね。他の称号よりもセチェン・ハーンは扱いが重く、大元ウルスのクビライの尊称ですから、この名前を名乗ること自体がチャハル部を引き継いで大元の正統を継ぐ印象を与えます。どの時期からショロイがこのハーン号を使用したのかは分かりませんが、チャハル部遺衆を接収して同じく大元の正統を継いだと称してモンゴル王公にセチェン・ハーンと呼ばせたホンタイジと発想が丸かぶりです。ホンタイジとショロイは北元の後継として真っ向から対立すると立ち位置だったと言うコトになるかと思います。以後見ていく《世祖章皇帝實録》では、ショロイは必ず碩雷汗なり碩壘汗と記述されていて、車臣汗となっていないので違和感があったんですが、清朝としては順治年間のテンギス事件の時点では、ショロイのチェチェン・ハーンなりセチェン・ハーンというハーン号を認めるわけには行かなかったんだと思います。テンギス事件が解決を見た時点で《世祖章皇帝實録》でも車臣汗になってますから、もしかしたらその程度なのかもしれませんがwともあれ、時代が降って乾隆になって、《欽定外藩蒙古回部王公表傳》が編纂されるくらいの時期には、ハルハ部のハーン号がチェチェンだろうとセチェンだとろうと意に介さないくらいには主従関係が確定され、かつハーン号を変更することなく世襲させるに至ったのではないかと思います。
ともあれ、テンギス事件当時は、清朝にとってハルハ部のチェチェン・ハーン ショロイはいずれは打倒しなくてはならない潜在的敵対勢力の一つではあったようです。
蘇尼特部總傳⇒崇德二年,塔巴海達爾漢和碩齊子騰機思、騰機特、莽古岱、哈爾呼喇偕台吉、偉徵等,各遣使來朝,賜朝鮮貢物。(中略)
四年(中略)冬、騰機思、叟塞各率屬自喀爾喀來歸、入覲、獻駝馬。
五年正月、賜叟塞、騰機思、騰機特、莽古岱、哈爾呼喇及台吉 佈達什希布、阿玉什、噶爾瑪 色稜、額爾克、辰寶、茂海、伊勒畢斯等甲冑、銀幣。
十月、台吉 烏班岱、棟果爾、鄂爾齊、博希、沙津等來貢馬,賚冠服、鞍轡。
六年、授騰機思 扎薩克多羅郡王。七年、授素塞 扎薩克多羅杜稜郡王。以騰機思掌左翼、素塞掌右翼。ii騰機思列傳⇒原封扎薩克 多羅 郡王 騰機思列傳
騰機思、蘇尼特部人。姓博爾濟吉特、元太祖二十世孫。初號墨爾根 台吉。
崇徳二年、表貢駝馬。賜其使阿巴圖布幣。
三年五月、復遣阿巴圖來朝。
十二月、遣塔布囊 巴克察爾、鄂齊爾等貢駝馬。賚銀幣。
四年、率子弟及部衆來歸。賜宴。
五年正月、以阿巴圖往來勤力。賜號達爾漢。
九月、騰機思、尚郡主。授和碩額駙。iii
で、《欽定外藩蒙古回部王公表傳》ではテンギスの事績はスニト部総傳と原封ジャサクドロ郡王テンギス列傳にそれぞれ乗っているので、それぞれ紹介していきます。原封ジャサクドロ郡王テンギス列傳によると、テンギスはメルゲン・タイジという称号があったようですね。
で、崇徳2(1637)年にテンギスは弟のテンギトとその他のタイジと共に清朝に使者を送り、崇徳4(1639)年冬にテンギスとスニト部のもう一方の有力者であるソーサイセオセ?(叟塞)が入朝して、スニト部はテンギスとソーサイセオセ?それぞれに率いられてハルハ部を離脱して清朝に帰順しました。
で、その後たびたび朝貢に訪れて、郡主=清朝公主を下賜され、更に崇徳6(1641)年にはジャサク・ドロ郡王に封じられ、翌年にはソーサイセオセ?がジャサク・ドロ・トゥリンドゥーレン郡王に封じられて、それぞれスニト部の左翼、右翼を管轄したと…要するにスニト部を二分してテンギスとソーサイセオセ?に分治させた…というか、実情に合わせて王号を授けたってとこですかね。
實録見ていきましょう。
(崇徳二年四月乙酉)蘇尼特部落騰機思 墨爾根 台吉。特遣使臣。跪進馬二十匹。iv
まず、崇徳2年4月にスニト部を代表して、テンギス メルゲン・タイジが使節を清朝に送って馬を献上してきています。
(崇徳四年十月)庚寅。蘇尼特部墨爾根 台吉 騰機思、騰機徳、叟塞 濟農等、率大小諸貝勒、阿霸垓部額齊格 諾顏、達爾漢 諾顏等、各率部衆、自喀爾喀來歸。v
(崇徳四年十二月)壬寅。(中略)蘇尼特部墨爾根 台吉 騰機思、巴圖魯 叟塞 濟農等至。命和碩親王以下、大臣以上、迎於演武場、宴之。vi
で、2年後にはスニト部は清朝に帰順します。弟のテンギトと、スニト部のもう一方の有力者であるソーサイセオセ?も引き連れてきたようです。で、ここを見ると、ソーサイセオセ?にはバートル・ジノンという称号があったようです。というか、後の王号であるトゥリンドゥーレンは名乗ってなかったんですね。
(崇徳五年正月)丁巳。召蘇尼特部墨爾根 台吉 騰機思下百有十四人、濟農 叟塞下六十七人、進宮。賜宴。vii
(崇徳五年正月)辛未、以多羅郡王 阿達禮妹、許配蘇尼特部墨爾根 台吉 騰機思。是日、初行聘禮。設宴。和碩親王以下、牛彔章京以上各官倶集崇政殿。上御座。騰機思行三跪九叩頭禮。復詣皇后前。行三跪九叩頭禮。獻甲、冑、雕鞍、馬、駱、酌納之。倶賜阿達禮。viii
(崇徳五年八月壬辰)以多羅郡王 阿達禮妹、下嫁蘇尼特部墨爾根 台吉 騰機思、命和碩親王、和碩福金、固倫公主以下、固山額眞、承政以上、倶朝服赴宴。騰機思具九九牲畜獻上。酌納之。以其餘賜阿達禮。ix
で、翌年崇徳5年正月には、テンギスやソーサイセオセ?は部下を引き連れてホンタイジに謁見して宴会に招かれています。この席で何らか話があったものか、テンギスは郡王・アダリの妹xと結納を交わし、同年8月には実際に婚儀を行っています。
アダリはサハリヤンの子でその王位を継承していますから、清朝内でも序列は相当高い皇族です。テンギスは皇族を娶って清朝の婿になりますから、以後、エフ(額駙)と呼ばれます。また、テンギス列傳では郡主と称されているので、おそらくはテンギスが郡王に封じられたタイミングで、アダリ妹はジャサクドロ郡主に封じられたものと思います。この辺、モンゴル王公の正夫人も夫の封爵に応じた爵位を与えられてますが、無条件に与えられたわけではないようです。まぁ、アダリ妹の場合は問題ないでしょうけどね。
(崇徳6年正月丁丑)外藩十三旗(中略)蘇尼特部落額駙 騰機思等、以慶賀元旦、獻貂裘、貂皮、駱馬等物。酌納之。xi
(崇徳六年十月壬子)蘇尼特部落騰機思 額駙、(中略)來朝。貢馬。xii
(崇徳六年十月)壬申。冊封蘇尼特部落墨爾根 台吉 騰機思爲多羅墨爾根郡王。xiii
で、テンギス・エフはその後もしばしば来朝して献上品を届けてた様ですが、崇徳6年10月に《欽定外藩蒙古回部王公表傳》にあるとおり、郡王に封じられます。封号はタイジ時代のままでドロ メルゲン郡王に封じられたようです。崇徳6年の元旦慶賀の序列を見ると、テンギスは皇族の婿殿にしては序列が紹介されている中では最下位になっていますが、テンギスはホンタイジには優遇されていたと言うことになるかと思います。
六年正月、來朝。
十月、封扎薩克多羅郡王。留墨爾根號。詔世襲罔替。弟騰機特封多羅貝勒。莽古岱、哈爾呼喇授二等台吉。騰機思長子額琳辰、騰機特長子博木布授三等台吉。諸子各授四等台吉。xiv
で、実はこの辺は《欽定外藩蒙古回部王公表傳》の方が詳しいですね…。ジャサクドロ郡王はテンギス一代の封爵ではなく、子々孫々テンギスの子孫はこの爵位を継承することを認められてますね。更にテンギスの弟達もこの時に封爵されています。テンギトがドロ ベイレに、マングルタイ、アルフラ?が二等タイジ、テンギスの長子・エリンチェン?とテンギトの長子・ボムブ?が三等タイジ、他の諸子が四等タイジに封爵されています。タイジに等級なんてあるんだ!って思いましたが、ここは大筋に関係ないのでスルーしておきます。
順風満帆に思われる清朝内でのテンギスの待遇ですが、清朝入関後、様子が変わります。一旦《欽定外藩蒙古回部王公表傳》に戻ります。
スニト部総傳⇒順治三年、騰機思以車臣汗 碩壘誘叛率弟騰機特及台吉 烏班岱、多爾濟斯喀等逃喀爾喀。上遣師偕外藩軍由克嚕倫追剿至諤特克山及圖拉河、騰機思、騰機特遁、獲其孥。烏班岱、多爾濟斯喀為四子部落軍陣斬。師旋以烏班岱從子託濟弗從叛、且隨剿、賜所俘。xv
テンギス列傳⇒順治元年、率台吉 阿喇海來朝。賜宴及雕鞍、弓、矢、皮幣。
先是、騰機思依喀爾喀 車臣汗 碩壘、後來歸受封。碩壘忌之誘。仍附已。
三年、騰機思偕騰機特及台吉 烏班岱叛、將奔附碩壘牧。豫親王 多鐸奉命、徴外藩兵。㑹剿至盈阿爾察克山、偵賊屯衮噶嚕。即分兵扼險。騰機思遁。擊之諤特克山。迎郡主。還大軍由圖拉、追剿至布爾哈圖。斬台吉 茂海及騰機特子多爾濟 巴圖舍津、騰機思孫噶爾瑪、特穆徳、博音圖等。碩壘遣子本巴、約土謝圖汗 衮布兵來援。我軍迎擊於扎濟布拉克大敗之。騰機思走色楞額河。xvi
順治3(1646)年、突然テンギスは、弟テンギトはじめとしたスニト部のタイジを誘って一時身を寄せていたハルハ部のチェチェン・ハーン ショロイを頼って逃げます。テンギス列傳によると、元々自分の麾下にあったテンギスが清朝から封爵を受けたことを快く思わないショロイがテンギスに誘いをかけていたって事なんでしょうかね。知らせを聞いた清朝は討伐軍を派遣して追撃しますが、テンギス、テンギト兄弟は被害を出しながら逃げおおせます。
補足すると、チェチェン・ハーン ショロイはハルハ右翼の実質的な指導者です。この時代のハルハ部は左翼=ジャサクト・ハーン(Jasaγ-tu Qaγan 扎薩克圖汗) スバンダイ(Subandai 素班第)、右翼=チェチェン・ハーン ショロイとトゥシェート・ハーン(Tüsiyetü Qaγan 土謝圖汗) グムブ(Gümbü 袞布)の三巨頭態勢でした。
この辺、細かく實録で見直していきましょう。
(順治元年十一月辛丑)歸化城土默特部落章京 古祿格等、鄂爾多斯部落濟農 薄博等、喀爾喀部落塞臣 綽爾濟、蘇尼特部落騰機思 阿喇海等、以賀遷都、各貢貂皮、駝馬等物。酌納之。賜宴。并賜雕鞍、弓、矢、皮幣等物。xvii
まず、順治元(1644)年から遡ってみると、トゥメト部、オルドス部、ハルハ部と共にスニト部のテンギスは北京遷都の祝賀挨拶に貂皮や駱駝などの献上品を贈ってます。この頃はスニト部というかテンギスもハルハ部と共に清朝に朝貢を行っているわけで、清朝との対立は見て取れませんね。
(順治三年五月)丁未。以蘇尼特部落騰機思、騰機特、吳班代、多爾濟思喀布、蟒悟思、額爾密克、石達等、各率所部叛奔喀爾喀。 xviii
ところが、順治3(1646)年5月、テンギスは弟のテンギト始め、スニト部の有力者を誘って、清朝治下を離脱してハルハ部に逃げ込んだとの情報が入ります。
テンギス離反の理由については《世祖章皇帝實録》には書かれていませんが、康熙帝が實録の中でこういう風に語っています。
(康熙二十八年九月戊戌)又諭曰、昔太宗文皇帝、以次收定四十九旗蒙古。後欲全收北邊喀爾喀、未及行、而太宗文皇帝賓天。後蘇尼特 騰機思、懷恨睿王、反入喀爾喀。喀爾喀欲殺騰機思所尚我國公主。騰機思向喀爾喀哭云、我如何負太宗文皇帝仁恩、殺我妻耶。爾等欲殺我妻、將我一並加戮。如此堅執。故我國公主、未曾遇害。xix
これは康熙帝が当時のスニト部の治安の悪さに関する話題の中で、過去のテンギスについての挿話を語る場面です…。なので、ドルゴンと同時代の人物であるテンギスについての記事が《聖祖仁皇帝實録》に収録されているわけです。
かつて、ホンタイジはハルハ部併呑の野望を持ちながら崩御しました。後にスニト部のテンギスがドルゴンに恨みを抱いて、清朝に背いてハルハ部に奔りました。ハルハ部はテンギスに投降の条件として、テンギスの妻である清朝公主の殺害を提示しますが、ホンタイジからの恩義を理由にテンギスはそれを拒みます。最終的に康熙帝はこういうことがあって、藩部に降嫁した公主は酷い目に遭ったことがないと〆てます。
ここで触れられているテンギスの嫁こと清朝公主はアダリの妹でしょう。
テンギスがドルゴンを恨みに思う契機は史料上からは分かりません。しかし、崇徳8(1643)年、順治帝の即位に不満を抱いたアダリはドルゴンに即位を促しますが、ドルゴンには拒否され、祖父であるダイシャンに告発されて、ドルゴンの認可を得てアダリは処刑されています。康熙帝が言うにはテンギスは愛妻家だったようですから、義兄を処刑したドルゴンに恨みを抱いて…というか後ろ盾として期待したアダリが処刑されたことで身の危険を感じて、ちょうど折良く投降を誘ってきたチェチェン・ハーンに乗ったと言うことでしょうかね。
世祖實録に戻りましょう。テンギス離反の報を受けて、清朝は素早く動きます。
諭集外藩諸蒙古兵於克魯倫河、命和碩德豫親王 多鐸、爲揚威大將軍、同多羅承澤郡王 碩塞等、率內外大兵征之。賜之敕曰。茲命爾和碩德豫親王 多鐸、爲揚威大將軍、統領內外大兵往征背叛蒙古 蘇尼特等部落。爾受命御衆。凡行軍之事、必同諸將商確、以圖萬全。勿謂已能而違衆。勿恃將勇兵強而輕敵。隊伍營寨、瞭望聽靜、一切慎防。勿得怠惰。信賞必罰。相度機宜、乘其不備而破之。我將士有首先陷陳、破敵立功者。及臨陣敗走、惑亂軍心、干犯重刑者。可同衆定議奏聞。其各官所犯小過、及護軍校驍、騎校以下、犯罪應斬者。同衆商確。即行發落。祗承勿怠。爾其慎之。
攝政王 多爾袞率諸王大臣。出安定門。送和碩德豫親王 多鐸行。誡之曰。聞騰機思、騰機特等、已奔喀爾喀部落碩雷。果爾、即將碩雷一併取之。至於臨陣。將帥皆宜躬先破敵。勿得退後、以冒虛名。儻敵人敗入杭崖。可即班師。再行整兵征討。務盡根株。xx
順治帝…という名目で実際にはドルゴンでしょうけど、モンゴル諸部に対してケルレン河(Kherlen 克魯倫河)での兵の招集をかけ、和碩徳豫親王・ドドを揚威大將軍に任命し、多羅承澤郡王・ショセ始め内外の大軍を付けてテンギス討伐を命じました。その後、ドルゴンは見送りに際してドドに、テンギス、テンギトらは既にハルハ部のチェチェン・ハーン ショロイの元に去ったのだから、おまえはショロイの衆も併呑するつもりで事に当たれ云々と言ったとあります。もうちょっと、テンギスやショロイに事情を聞くとかありそうですが、はじめからこういう指示出してるんですよね。
で、その2ヶ月後、順治3(1646)年7月にはドドから戦勝報告が入ります。
(順治三年七月丁巳)揚威大將軍 和碩德豫親王 多鐸等、師至營噶爾察克山。聞騰機思等、屯於袞噶魯台地方。隨令蒙古固山額真 庫魯克、達爾漢、阿賴等、率兵先出遶其後。扼據險隘。大軍繼進。騰機思等、聞風遁去。卽令外藩蒙古 巴圖魯郡王 滿朱習禮、同梅勒章京 明安達禮等、乘夜進追。次日及之於歐特克山。賊迎戰。大破之。斬其台吉 毛害。併迎下嫁騰機思 格格還。我兵渡土喇河。複遣鎮國將軍 瓦克達等、率兵追之。陣斬騰機特子多爾濟、巴圖舍津、騰機思孫噶爾馬、特木德克博音圖、斬首無算。盡獲其家口輜重。次晨、我軍至博兒哈都山。遣貝子 博和托等、率兵與瓦克達等、合軍追剿。斬首千餘級。生擒八百餘。獲駱駝一千四百五十隻。馬一萬九千三百餘匹。牛一萬六千九百餘頭。羊十三萬五千三百餘隻。至是捷聞。xxi
地理関係まで手が回らなかったのでそのままで適当に訳しますが、揚威大将軍・ドドらの軍はガルチャク?(噶爾察克)山で野営し、その際に、テンギスらがコンガルダイ?(袞噶魯台)地方に宿営しているという情報をつかみます。即座にクルク ダルハン アライ?(庫魯克 達爾漢 阿賴)らモンゴル・グサエジェン率いる兵が攻撃しましたが、どうやらテンギスは逃走したようです。すぐさまホルチン部のバートル郡王 マンジュシリやメイレン・ジャンギン ミンガンダリらが夜通し追跡し、翌日オトク?(歐特克)山で追いついて撃破しました。テンギスのタイジ・モーハイ?(毛害)を斬り、降嫁していた清朝公主のテンギス夫人=アダリ妹を保護しました。更にトーラ(Туул 土喇)河を渡り、鎮国将軍 ワクダらが兵を率いて追跡し、テンギトの子や、テンギスの孫を始め無数の首を斬り、テンギスの部衆や輜重を捕獲しました。翌朝、軍はボルハト?(博兒哈都)山に到り、ベイセ ボホトらはワクダと兵を併せて残党を掃討しました。斬首は千余級、生け捕り八百あまり。家畜は書いてある通りいっぱい捕獲したので、戦勝報告をしたと。
スニト部はこの際に大打撃を被り、テンギスやテンギトの親族が斬られたり、清朝皇族出身のテンギス夫人を奪われたり、部衆や家畜、財産を奪われて実質的に清朝の支配下に入ったようですが、テンギスやテンギト兄弟は逃げ延びたようです。
ということで、ドドらの追跡は続きます。
(順治三年八月乙酉)揚威大將軍 和碩德豫親王 多鐸等奏報、我師自土勒河西行。於七月十三日、至查濟布喇克地方、喀爾喀部落土謝圖汗兩子、率兵二萬。橫列查濟布喇克上游。我師嚴陣而前。敵來迎戰。我師遂擊敗之。追逐三十餘里。斬殺甚衆。獲駱駝二百七十餘隻。馬千一百餘匹。次日、喀爾喀部落碩雷汗之四子、本霸 巴圖魯 台吉等、率兵三萬。遮查濟布喇克道口而來。我師列陣奮擊敗之。追逐二十餘里。復斬殺甚衆。獲駱駝二百餘隻。馬七百六十餘匹。及問俘卒、言碩雷家口部衆。悉走塞冷格地方。衆議將欲前進、因馬疲乏。於七月十六日、班師還矣。捷聞。下所司察敘。xxii
ドドはト-ラ(Туул 土勒)河を西に進み、7月13日にはジャチプラク?(查濟布喇克)地方に着くと、トゥシェート・ハンの二人の子供が二万の兵を率いてジャチプラク?の川の上流で横陣を構えていました。清軍は陣を堅く組んで前進して応戦し、ついに打ち破りました。30里あまり追撃して、散々に兵を斬り殺し、駱駝を270匹あまり、馬を1,100匹あまり捕獲しました。次の日、ショロイ ハンの四子、ブムバ・バートル・タイジ(Bumba Baγatur tayiji 本霸巴圖魯台吉)らが兵三万を率いて、ジャチプラク?の道を封鎖しました。清軍は陣を構えて撃破し、20里あまり追撃して、また散々に兵を斬り殺し、駱駝200匹あまり、馬760匹あまりを捕獲しました。そして、捕虜を尋問したところ、ショロイらの部族は皆、サイレンゲセレンゲ(塞冷格)地方…テンギス列傳ではセレンゲ(Selenge 色楞額)河となってますが、そこに逃げたという情報を得ました。諸将は追撃しようとしましたが、馬が疲れ果てて不可能でした。7月16日に軍を返して、戦勝を報告しました。
どうやらドドはテンギスを追撃する途中にトゥシェート・ハーン2万の軍と、チェチェン・ハーン3万の軍に遭遇するや、問答無用で軍を突っ込んで兵を斬りまくって家畜を奪ったようです。最後通告をして降伏を促すとかありそうなもんですが、会敵するなりいきなり攻撃を仕掛けたようですね。なおも追撃しようとして馬が疲れたので断念したようです。と言うわけで、ハルハ部に打撃を与えることには成功したものの、結局テンギスとテンギトは取り逃がしてしまったようです。テンギス兄弟のことは割とあっさりあきらめているので、最初からスニト部追撃はハルハ部を攻撃する口実だったかのような印象受けます。
で、9月になってハルハ部から使者が北京に到着します。
(順治三年九月)己未。遣喀爾喀部落土謝圖汗、所屬額爾德尼 托尹、貢馬使臣歸。諭之曰。爾等速往、各語爾主、草青以前、可將騰機思、騰機特擒之以獻。如此、則遣使來朝。否則使來定行覊留。此番兵去、非爲征爾等、不過往追逃叛騰機思、騰機特之偏師也。而爾土謝圖、碩雷二汗。尚不能支、若不擒獻騰機思、騰機特、大軍進發。追亡捕叛。爾尚何所逃耶。xxiii
ハルハ部のトゥシェート・ハーン傘下のエルデニ・タイン?(額爾德尼 托尹)の使者が馬を献上して帰順を申し出た。順治帝…と言いつつドルゴンは「おまえらは速やかに帰って、おまえらの主人に草原の草が青くなる前にテンギスとテンギトを捕らえて献上させよ。賊を捕まえずに来朝することは許さず、その場合は使者は拘留する。賊が逃げおおせているのに、おまえらが兵も出さずに、叛徒テンギス、テンギトの残党を逃がしでもしたら、大軍を発して賊を捕まえるが、おまえらも逃げ場は無いと思え。」と諭された。
と言うわけで、打撃を与えたハルハ部から使者が来るやテンギス、テンギトを捕まえて連行しろ!と恫喝したようですね。よく見るとテンギス兄弟を捕らえて寄こせと言っていて、殺せとは言ってません。
(順治三年九月丙寅)攝政王次兀藍諾爾、是日、出征和碩德豫親王師至。攝政王出營五里外迎之。率出征內外王、貝勒、貝子、公等、諸大臣。吹螺拜天。行三跪九叩頭禮畢。至設涼帳所。攝政王坐於金黃涼帳內。出征王、貝勒、貝子、公等、暨諸大臣。兩翼序立。聽鳴贊官贊行三跪九叩頭禮。衆仍跪。和碩德豫親王、土謝圖親王、卓禮克圖親王、承澤郡王、英郡王、扎薩克圖郡王等、進前跪、行抱見禮。出征王、貝勒、傍坐藍涼帳內。貝子以下、章京以上、照各旗坐。大宴之。xxiv
そして、数日後摂政王ドルゴンはウアイノール?(兀藍諾爾)に到着しました。モンゴルの地名についてはよく分からないので、この辺もスッ飛ばします。この日、出征していた豫徳親王ドドの軍も帰ってきたため、摂政王ドルゴンは宿営地から五里以上離れた場所まで遠征軍を出迎えました。そして、出征していた清朝皇族とモンゴル王公の王、ベイレ、ベイセ、公らと諸大臣を引き連れて宿営地に戻りました。(ドルゴンは)法螺貝を吹いて天を奉り、三跪九叩頭の礼を行い、テント(涼帳)を張ったところまで来ました。摂政王 ドルゴンは黄金のテントの中に座り、出征していた王、ベイレ、ベイセ、公と諸大臣は八旗両翼の序列に従って並び、鳴贊官の掛け声で三跪九叩頭を行い皆跪きました。豫徳親王 ドド、トシェート親王xxv オーバ、ジョリクト親王xxvi ウクシャン、承澤親王 ショセ、英郡王 アジゲ、ジャサクト郡王xxvii バイスガル?(拜斯噶勒)らは前に進んで跪き、抱見礼で挨拶をした。出征していた王、ベイレらは(ドルゴンのテントの)そばにある藍色のテントの中に座り、ベイセ以下ジャンギン以上の者は所属旗ごとに分かれて座って大宴を催しました。
三跪九叩頭の礼を実に自然に受けているあたり、ドルゴンは実質的にハンとして皇族とモンゴル王公に接していたことが分かりますね。ともあれ、ドドはハルハ部との遭遇戦や、テンギス、テンギトを取り逃がしたことを責められることなく慰労を受けている事から、やはり、当初からテンギス、テンギトらスニト部離反の機を捉えてハルハ部に打撃を加えることが目的だったようですね。少なくともこの段階では、ドルゴンは想定した戦果をドドが短期間で挙げたことで、わざわざ北京を離れて出迎えて慰労しているくらいなので、意に沿わない行為ではなかったはずです。
しかしながら、スニト部問題はまだ続くようです。
(順治三年九月)癸未。蘇尼特部落台吉 托濟、伊叔吳班代叛逃。托濟率所部、同四子部落達爾漢卓禮克圖、追之。吳班代爲衆兵所戮。以聞。上嘉之。賜以叛犯家口牲畜。其達爾漢卓禮克圖、及有功官兵。并分賜有差。xxviii
その月の内に、スニト部のトチ?(托濟)とその叔父のウバンダイ(吳班代)も清朝に背いて逃亡しました。トチ?はスニト部以外にも声をかけたようですが、四子部のダルハン・ジョリクト=オムブ?(俄木布)はこれを追撃して、ウバンダイを討ち取りました。清朝はこの知らせを聞いて喜び、捕獲したウバンダイの部衆や家畜などの遺産はダルハン・ジョリクト麾下の兵に論功行賞を行って褒美として分け与えました。
と言うことで、遠征軍が帰還するやいなや、スニト部の遺衆がまた清朝からの離脱を謀って四子部から攻撃を受けたようです。ここでも主犯格と見なされているトチ?に関しては取り逃がしているようですが、ダルハン・ジョリクトは注意されるでもなく褒美を受けてますから、離反したスニト部の支配層を是が非でも排除しようとか根絶やしにしようとか、そういう意図もないように見えます。
で、しばらく清朝はハルハ部にテンギスの受け渡しを要求しますが、ノラリクラリと要求を躱して2年が経過します。その間は恐らくハルハ部に保護されていたんだと思います。で、そんなタイミングで突然こんな事件が起こります。まずは《欽定外藩蒙古回部王公表傳》スニト部総傳を見ましょう。
(順治)五年、騰機思及騰機特悔罪乞降。詔宥死、仍襲爵如初。xxix
順治5年、テンギスとテンギトは清朝を離反した罪を後悔して降伏してきたので、死罪には処さずに爵位は離反前に戻したとあります。一体何があったんでしょうか?
とりあえず實録を見てみましょう。
(順治五年八月)辛酉。上御太和殿。受蘇尼特部落騰機特等朝賜宴。
癸酉。上出獵。賞蘇尼特部落騰機特等緞疋等物。
丁丑。上還宮。(中略)以蘇尼特部落故郡王 騰機思弟騰機特、襲封。xxx
経緯はよく分かりませんが、順治5年8月、テンギスの弟であるテンギトが清朝に帰順して、北京で順治帝に謁見した後、一緒に狩猟を楽しみ、亡きテンギスのドロ郡王位を継承しています。
それはそうと、いきなりテンギトが帰順するのはいいとして、テンギスはどこに行ってしまったのでしょうか。杜家骥センセはテンギスが順治4年段階で清朝に降ったものの漠北で病没し、テンギスがその後を受けて北京を訪れたとしていますxxxi。
と言うところで、《清初内国史院满文档案译编》を見てみましょう。
(順治4年12月18日)是日。苏尼特部落乌巴希 台吉、伊尔毕斯 台吉、沙金 台吉、鄂林臣 台吉、海色 台吉、伊斯西特 台吉六人自腾吉斯来归、赐羊皮里二等蠎缎披领各一、缎各二、毛青各一。xxxii
これによると、順治4年12月中旬、スニト部の有力者6人がテンギスから離反して清朝に下ってます。順治4年もあと2週間という年の瀬の段階でも、まだテンギスは帰順していない事が分かります。
と、ぐるぐるいろんな史料をたぐったわけですが、もう一度《欽定外藩蒙古回部王公表傳》のテンギス列傳を読んでみたら、この辺のこと全部書かれてますね…。
(順治)四年、車臣汗 碩壘、土謝圖汗 衮布各遣使謝罪。諭擒獻騰機思。
五年、騰機思以我使達徳鄂爾濟圖等、宣諭招撫仍、偕騰機特悔罪降。比至、騰機思病死。詔宥前罪、騰機特襲封扎薩克多羅郡王。除墨爾根號。xxxiii
順治4年、テンギスが頼ったショロイどころかショロイに協力したゴムブも清朝に謝罪を入れており、その際にテンギスとテンギトの捕縛を命じられています。テンギスとしては居心地が悪かったんでしょう。順治5年にはテンギスは清朝の使者・オルジト?(鄂爾濟圖)に会い、テンギトと共に清朝から離反したことを悔いて、再度清朝に帰順しますが、テンギスはすぐに病死してしまいます。テンギトが北京に来るのは順治5年8月ですから、順治5年1月からの8月迄の間ですかね…。で、このオルジト?という人物を検索したら《八旗滿洲氏族通譜》に傳がありました。
鄂爾濟圖
鑲藍旗包衣人。世居科爾沁地方。天聰時来歸。由閒散徃招叛逆蘇尼特 滕吉思。乗夜前徃、宣示上諭蘇尼特 滕吉思、即復歸化。叙功授騎都尉。xxxiv
なんらか、テンギスなりスニト部に縁のある人が送られたのかと思っていたのですが、そういうわけではないんですね。オルジト?は鑲藍旗のボーイで、ホルチン地方の出身。天聰年間に帰順していました。無官のまま上諭でテンギスの元に行って帰順させたとあります。何でこの人が使者に選ばれたんでしょうね…。まぁ、モンゴル問題はモンゴル出身の旗人に処理させるという原理原則を見ることができると言えなくもないですけど、オルジト?は蒙古衙門に所属していたわけでもなさそうですしね…。
ともあれ、帰順して北京にやって来たテンギトがテンギスの元のジャサク ドロ 郡王位を継承したのは先に見たとおりです。ただ、テンギス列傳ではキチンとメルゲン号は除かれた旨明記されています。それに、清朝皇族の婿=エフ(額駙)の地位と、子々孫々の王位の継承を保証した世襲罔替はこの時は復活しなかったようですから、まるまる元通りというわけではなかったと言うことになるかと思います。
と言うことで、テンギス・テンギトによるスニト部離反の問題…一括りにとりあえずテンギス事件と仮称しておきましょう、この問題は解決します。念のため、その後、スニト部もちょっとは追っておきましょう。
一次襲、騰機特、騰機思弟。
崇徳六年、封多羅貝勒。
順治三年、從騰機思叛奔喀爾喀。
五年、來降仍賜宴。賚尋、命襲扎薩克多羅郡王。
康熙二年、卒。騰機思子薩穆扎襲。
二次襲、薩穆扎、騰機思第四子。初由三等 台吉封多羅貝勒。互見彼傳。xxxv
と言うわけで、テンギトは康熙2(1663)年に薨去し、ジャサク ドロ 郡主位はテンギスの第四子・サムジャ?(薩穆扎)に継承されます。
折角なので、サムジャ?の列傳も見ましょう。
附多羅貝勒 薩穆扎列傳。
薩穆扎、原封郡王騰機思子。
崇徳六年、授三等台吉。
順治三年、從父叛奔喀爾喀。
五年、來降。
六年、尚郡主、授和碩額駙。尋封多羅貝勒。詔世襲罔替。
康熙三年、其叔父扎薩克郡王 騰機特卒、薩穆扎晉襲爵。xxxvi
と言うわけで、エフ(額駙)の地位と、世襲罔替の特典は、順治6年段階でテンギスの息子であるサムジャが継承していたようですね。明記されていませんが、もしかするとサムジャ?はアダリ妹の息子だったのかもしれませんね。
ちなみにサムジャ?のお相手ですが、《清初内国史院满文档案译编》を見ますと…。
(顺治六年正月)初五日、将多罗 顺承郡王之姊配与苏尼特之撤玛査 台吉、宰三九牲畜。皇父摄政王下内大臣等・尚书 尼堪・启心郎 沃赫前往、宴于格格之家。宴前、撤玛査 额驸率其友往皇父摄政王家行三跪九叩礼。xxxvii
と言うことで、サムジャ?のお相手は順承郡王レクデフンの姉だったようですね。レクデフンはサハリヤンの第三子でアダリの弟です。ので、サムジャ?がアダリ妹の息子だったとすると、実の叔母がお相手ということになるんでしょうか…この辺は確証は得られないんですが。ともあれ、国家間の婚姻もある特定の家系に行わせるという原則が守られていたようです。
ともあれ、順治6年1月5日にサムジャは順承郡王レクデフンの姉との結婚を行い、その場でドルゴンなど清朝の要人の祝福を受けたばかりか、前日には睿親王府に出向いてドルゴンに三跪九叩頭を行っているようですね。
テンギスとドルゴンの確執で発生したスニト部離反問題が、テンギスの後継者であるサムジャ?がドルゴンに三跪九叩頭することで終結を見たということになるんですかね…。
おまけ
(順治六年正月)癸酉。封蘇尼特部落騰機思子撒瑪查 台吉、為貝勒。xxxviii
ちなみに實録ではサムジャ?のベイレ封爵は記事にしているものの、レクデフン姉との婚儀と世襲罔替は記事にしてませんね…。
おまけ2
(順治六年九月戊午)以蘇尼特部落噶爾麻、於其兄騰機思等遁回時、獨率所部來歸。封為多羅貝勒。xxxix
ちなみに、テンギスに同調しなかった弟・ガルマ?(噶爾麻)も離反に与しなかった事を評価されて封爵されていますが、サムジャ?婚儀の後ですね…。もっと早くに評価できそうなもんですが…。
で、冒頭で挙げた二楚虎爾や姜瓖についてはまた次の機会に…。
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 蘇尼特部總傳 [戻る]
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 蘇尼特部總傳 [戻る]
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 [戻る]
- 《太宗文皇帝實録》巻三十五 [戻る]
- 《太宗文皇帝實録》巻49 [戻る]
- 《太宗文皇帝實録》巻49 [戻る]
- 《太宗文皇帝實録》巻50 [戻る]
- 《太宗文皇帝實録》巻50 [戻る]
- 《太宗文皇帝實録》巻52 [戻る]
- 《玉牒》によると頴親王サハリヤン次女らしい⇒杜家骥《清朝滿蒙联姻研究》上巻 P.137 [戻る]
- 《太宗文皇帝實録》巻54 [戻る]
- 《太宗文皇帝實録》巻58 [戻る]
- 《太宗文皇帝實録》巻58 [戻る]
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 [戻る]
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 蘇尼特部總傳 [戻る]
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻11 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻26 [戻る]
- 《聖祖仁皇帝實錄》 巻142 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻26 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻27 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻27 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻28 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻28 [戻る]
- ジャサク・ホショ・トシェート・チンワン(扎薩克和碩土謝図親王) [戻る]
- ホショ・ジョリクト・チンワン(和碩卓哩克図親王) [戻る]
- ジャサク・ドロ・ジャサクトギュンワン(扎薩克多羅扎薩克図郡王) [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻28 [戻る]
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 蘇尼特部總傳 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻40 [戻る]
- 杜家骥《清朝滿蒙联姻研究》上 P.137 [戻る]
- 《清初内国史院满文档案译编》中巻 P.428 [戻る]
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 [戻る]
- 《八旗滿洲氏族通譜》巻六十七 附載滿洲旗分内之䝉古姓氏 彰札爾氏 [戻る]
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 [戻る]
- 《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻36 傳第20 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 附多羅貝勒薩穆扎列傳 [戻る]
- 《清初内国史院满文档案译编》下卷 P.2 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻42 [戻る]
- 《世祖章皇帝實錄》巻46 [戻る]