ハルハの8ジャサク
さて、こないだまとめたハルハに関する文章でスッカリ忘れ去っていたのが8ジャサクです。8ジャサクってなんじゃろかい…と調べてみると、順治12(1655)年に定められたとされる、ハルハ部と清朝の交渉窓口とされたハルハの8人の王公です。
(順治十二年十一月)辛丑(二十一日)。喀爾喀部落土謝圖汗下、喇嘛塔爾、達爾漢諾顏等。遣使貢馬宴賚如例。初定例。喀爾喀部落土謝圖汗、車臣汗、丹津喇嘛、墨爾根諾顏、畢席勒爾圖汗、魯卜藏諾顏、車臣濟農、坤都倫陀音、此八札薩克每歲進貢白駝各一。白馬各八謂之九白年貢我朝賞每札薩克、銀茶筒各一重三十兩。銀盆各一。緞各三十。青布各七十。以答之。至是土謝圖汗、丹津喇嘛、車臣汗、墨爾根諾顏、各遣使遵例進貢賞賚如例並賜宴。i
と言うわけで、モンゴルでは割と数字はキリのいい数字だったりして内実が伴わない場合が多いようですが(四天王とか二十八将の類い)、8ジャサクについては上に引用したように実録に記述があります。数えていきますと…
①:トゥシェート・ハーン
②:セツェン(チェチェン)・ハーン
③:ダンチン・ラマ、④:メルゲン・ノヤン
⑤:ビシルレト・ハーン(=ジャサクト・ハーン)
⑥:ロブサン・ノヤン(=エリチン・ロブサン・タイジ)
⑦:セツェン(チェチェン)・ノヤン
⑧:フンドゥレン(クンドゥレン)・トイン
…ということになります。
この辺誰が誰やら…と言うことになりますので、最近読んだ論文を元に整理します。
まず、外ハルハ、七旗ハルハと呼ばれる集団はモンゴルを再編したダヤン・ハーンの第十一子・ゲレセンジュの子孫です。7人の嫡子がそれぞれ部族を従えたので、7旗ハルハ=7ホショーハルハの別名があります。実際にはゲレセンジュの第五子・ダライは無嗣断絶していますが、その後も大体7つの集団に分かれていたようです。
まず、七つに分かれながら緩やかに連合していたハルハは大きく右翼と左翼に分かれますが、右翼(西側)には長子・アシハイ、次子・ノヤンダラ、五子・ダライ、六子・ダルダン、七子・サモの子孫、左翼(東側)には三子・ノーノホ、四子・アミン・ドラールの子孫が配されます。各当主の麾下には当然モンゴル以外の部族もいますし、モンゴルの中でもボルジキン氏族だけではないわけですが、政治的な決定権を持つ支配層はゲレセンジュの子孫の家系図に収まってしまうってことですね。
まず右翼です。右翼左翼の放牧地は、基本的に右翼が西、左翼が東なので、清朝との関わりは左翼より後になります。
1:右翼ハーン家⇒左翼のアバタイ・ハーンがハーンを称した後、アシハイの孫であるライホル・ハーンは右翼内のまとめ役としてハーンを名乗って白樺法典制定の会盟を主催しました。この家系は代々ハーンを排出して、ジャサクト・ハーン家となります。8ジャサク選定の時には④:ビシルレト・ハーンこと、ジャサクト・ハーン・ノルブの代になっています。
2:右翼ホンタイジ家⇒この時代のハルハは左右翼に分かれ、それぞれハーン家、ホンタイジ家、ジノン家が重層的な権威を主張していたようです。ホンタイジ号はハーン号よりは権威が劣りますが、漢語の皇太子が語源にもかかわらず、ハーンを補佐する副王の意味で使われます。ハルハ右翼のハーンはジャサクト・ハーン家ですが、アシハイの子孫のなかでハーン家とはまた別の枝族がホンタイジ家になります。8ジャサクの任命以前、ホンタイジ家からはウバシ・ホンタイジが出てオイラトを制圧し、オイラトのハーンとしてアルタン・ハーン(トゥメト部のアルタン・ハーンとは別のハルハのアルタン・ハーン)と名乗ったようで、オイラトと交流のあったロシアに残っている文書にはアルタン・ツァーリとして記されているようです。つまり、ややこしいことに、ハルハの王公としてはホンタイジですが、オイラトに対してはハーンとして君臨したようです。ウバシ・ホンタイジは結局オイラトの反抗にあって打たれますが、子のバトマ・エルデニ・ホンタイジ…清朝の記録ではオムブ・エルデニはテンギス事件ではハルハ右翼の交渉窓口として記録に頻出します。8ジャサクの時代はオムブ・エルデニの子である⑥:エリチン・ロブサン・タイジの代です。が、後にジャサクト・ハーンを殺害してオイラトに逃げ、また戻った後に追放されたりと、複雑な動きをする家です。
3:右翼ジノン家⇒ゲレセンジュの第二子・ノヤンタイの家系です。この家がハーン家、ホンタイジ家に次ぐハルハ右翼のジノン家です。8ジャサクの時代は⑦:セツェン・ジノン(セツェン・ノヤン)・ドルジの代です。ジノン号は直系子孫に世襲されずに、本家セツェン・ジノン家と分家エルデニ・ジノン家で交互に交代して就位したようです。
4:更に、セレゲンジュの第六子の家系の⑧:フンドゥレン(クンドゥレン)・トイン・ダムバが8ジャサクに選ばれています。
続いて左翼ですね。チャハルの滅亡から清朝と使節を交わしますが、順治年間に入ってテンギス事件から本格的に清朝と交渉を開始する…と言ったイメージでしょうかね。
5:まず、左翼の本家ハーン家です。ゲレセンジュ第三子のノーノホ長子のアバタイはチベット仏教…というかゲルク派のダライ・ラマ3世に帰依して、オチル・ハーンの称号を与えられます。チンギス嫡流の名乗るハーン号ではなく、ダライ・ラマ承認のハーン号をハルハ部で初めて称したのが、このアバタイ・ハーンです(理屈はトゥメトのアルタン・ハーンと同じ)。以後、この家系は代々ハーンを名乗り、トゥシェート・ハーン家となります。8ジャサクの時代は①:トゥシェート・ハーン・チャホンドルジの代です。
6:で、左翼についてはホンタイジ家についてはよくわかりませんが、ゲレセンジュ第四子アミン・ドラールの家系…つまり、セツェン・ハーン家は元々はジノンだったようです。と言うのも、セツェン・ハーン・ショロイは元々はダライ・ジノンと呼ばれており、チャハル滅亡後にその遺衆を摂取した際、ハーン即位を薦める者がいて、トゥシェート・ハーンの承認を得た上でハーン位についたようです。どこかで聞いたような話ですね…清朝のホンタイジが即位した状況とよく似ています。更にホンタイジは天聰年間はスレ・ハン、モンゴル語でセツェン・ハーンと名乗っていますから、やり口からハーン号まで丸かぶりです。と、清朝と色々因縁があった家ですが、8ジャサクの時代はショロイの子、②:セツェン・ハーン・バボの代です。
7:ゲレセンジュ第三子ノーノホ第二子の家系がメルゲン・ノヤン号を代々受け継ぎ、8ジャサクの時代は④:メルゲン・ノヤン・ソノムの代になります。
8:ゲレセンジュ第三子ノーノホ第四子の家系は後のサイン・ノヤン家となりますが、8ジャサクの時代は③:ダンチン・ラマの代です。この人もテンギス事件の時に良く名前が出てきます。
と、言うわけで、乱暴にまとめると右翼はゲレセンジュの長子・次子の子孫を中心とするグループ、左翼はゲレセンジュの三子・四子の子孫を中心とするグループと言えると思います。順治年間の清朝とハルハとの交渉ではこの八家…というか右翼のトゥシェート・ハーン・グムブ、セツェン・ハーン・ショロイ、ダンチン・ラマ、左翼のジャサクト・ハーン・スバンタイ、オムブ・エルデニと、印象の薄いメルゲン・ノヤンの6名の名前が繰り返し出てきます。ひとまずは、ハルハの支配層を交渉窓口・8ジャサクとして清朝が承認した…というのは
ともあれ、左右翼に分裂しているにせよ、ダヤン・ハーンの時代に分枝した他部族よりはハルハとして緩やかにまとまっている印象は受けます。しかし、清朝との交渉の経緯などを見るに、いざというときは3ハーンを中心にしたグループがそれぞれバラバラに個別の窓口と交渉しているような印象があります。セツェン・ハーンと話がついたと思ったらトゥシェート・ハーン麾下が問題を起こし、ハルハ左翼と話がついたと思ったらハルハ右翼が問題を起こすといった具合ですね。
ともあれ、8ジャサクの任命を清朝によるハルハ支配の端緒とする論調はちょっと違うんじゃないかと思った次第。多分、3ハーン家から推挙のあった交渉窓口を清朝が追認したに過ぎないんじゃないかと。やはり、ジューンガルの侵攻でハルハが瓦解するまでは、まだまだハルハは独自性が高いってことですね。
と言うわけで、自分の関心が清朝初期の対ハルハ政策にあったり、そもそも残っている史料が清朝側の分量が圧倒的に多い状況なので、ハルハ目線の記事にはなっていませんので、その辺はご注意を。
文章だけだとわかりにくかったので、勝手にまとめた系図です。多分勘違いがあると思いますが、とりあえず参考までに置いておきます。
◇参考文献◇
前野利衣「ジノンの地位とその継承過程からみた17世紀ハルハ右翼の三核構造」『内陸アジア史研究』第32号
岡洋樹『清代モンゴル盟旗制度の研究』東方書店
二木博史「白樺法典について」『アジア・アフリカ言語文化研究 (Journal of Asian and African Studies)』21号
- 《大清世祖章皇帝實録》巻95 [戻る]