清初、清朝とハルハ左右翼との関係史
かーなり時間かかってしまったものの、『満族史研究』第16号の関根知良「順治朝における清朝とハルハの交渉過程───モンゴル語書簡を中心に───」で紹介された清初の清朝とハルハ部との事件を時系列に並べ直して、ソースを《内秘書院檔》、《清実録》、《王公表伝》で確認してまとめてみます。年表は論文に依っていますが、その後につけたメモは自分による勝手な解釈です。モンゴルの人名地名は当該論文に依りましたが…やっぱり発音難しいですよな…。
まずは、清朝とハルハの交渉の開始からです。ホンタイジ期にはすでに交渉が開始しています。
天聰6(1632)年5月⇒後金がチャハル勢力下にあった交易拠点である帰化城(フフホト)を占領する。i
天聰8(1634)年閏8月頃⇒チャハルのリンダン・ハーンがシラ・タラで病没する。ii
天聰9(1635)年5月⇒ハルハ左翼のセツェン・ハーンが後金に朝貢する。iii
天聰9(1635)年7月⇒チャハルのリンダン・ハーンの遺児 エルケ・ホンゴル=エジェイが後金に帰順。iv
天聰9(1635)年⇒スニド部がチャハル部の保護下を離れ、ハルハ左翼セツェン・ハーンに降る。v
天聰10(1636)年4月⇒ホンタイジが帝位に就き、国号を後金から大清に改め、崇徳と改元する。vi
崇徳2(1637)年4月⇒スニド部のメルゲン・タイジ=テンギスが清朝に献馬する。vii
崇徳2(1637)年⇒ハルハ左翼のセツェン・ハーンとトシェート・ハーンが清朝にダライ・ラマの招聘で共同するよう使者を送る。viii
1638年⇒ハルハ右翼のオムボ・エルデニ(ハルハのアルタン・ハーン)がロシアと交渉するも決裂ix。
崇徳4(1639)年10月⇒スニド部が清朝に帰順。x
崇徳5(1640)年正月⇒テンギスと親王アダリの妹が結婚。xi
庚辰(1640)年8月⇒ハルハ左翼のザサクト・ハーンを盟主として、ハルハ左翼とオイラトが同盟を結び、モンゴル・オイラト法典(yeke cāǰiyin bičig?)が成立するxii。
1641年1月⇒ロシアがハルハ右翼のオムボ・エルデニと国交断絶する(オムボ・エルデニ側はこの後1650年頃まで断続的に使者を派遣する)xiii。
崇徳6(1641)年10月⇒テンギスがザサク・ドロ・メルゲン郡王に封じられる。xiv
崇徳8(1643)年8月⇒ホンタイジ崩御xv。アダリがドルゴン擁立を図り処刑される。xvi
順治元(1644)年11月⇒テンギスが清朝に入関作戦成功祝賀の使者を送る。xvii
順治3(1646)年正月⇒スニド部テンギスが元旦朝賀の使者を派遣。xviii
順治3(1646)年5月(2月~3月?)⇒テンギスが清朝から離脱してハルハ左翼セツェン・ハーンの元に逃亡。豫親王・ドドが追撃するxix。
順治3(1646)年7月⇒清朝がテンギスを追跡し、ハルハ左翼のトゥシェート・ハーン及びセツェン・ハーンの軍を撃破。xx
順治3(1646)年9月⇒清朝がトゥシェート・ハーンにテンギスの返還を要求。xxi
と、ここまでがハルハ左翼と清朝の第一段階です。
まず、チャハル部の崩壊に伴ってスニド部のテンギスがハルハ左翼のセツェン・ハーンに降り、更に清朝に降っています。テンギスは清朝で親王アダリの妹婿(=礼親王・ダイシャンの孫娘の婿)に…つまり、清朝皇族の姻戚となって郡王に封じられました。ホンタイジ治下の清朝では、かなり優遇されていたと言うことでしょう。しかし、ホンタイジが崩御したことによってテンギスの環境は変わっていきます。
テンギスと元々仲が悪かった…とされるドルゴンが新たに発足した順治帝政権で摂政王となり、その余波でテンギスの義兄であるアダリが処刑されてしまいます。直接的にはどのような影響があったのかは分かりませんが、その3年後にテンギスは北モンゴルのハルハ左翼のセツェン・ハーンをもう一度頼り、清朝属下を離れます。
ドルゴンは待ち構えていた様に豫親王・ドドに命じてテンギスを追跡させました。一方、テンギスを保護しに出向いてきたハルハ左翼のセツェン・ハーンとトゥシェート・ハーンの軍勢と交戦し、これを散々に打ち破ります。清朝側は今まで殆ど交渉がなかったものの、チャハル遺衆の併呑を目論んでいたハルハ左翼(特にセツェン・ハーン)は清朝とは利害関係が対立する目障りな存在だったと考えられ、どうも外交的に優位な状態に持って行こうと虎視眈々と機会を伺っていたと思われます。なにせ、テンギスの追跡中にハルハ左翼に対して説明を求めたり、テンギスの身柄を求めたりと言った交渉なしに軍を編成して追撃しています。将軍に任じられたドドにはハルハ左翼と交戦したらあわよくばセツェン・ハーンを討ち滅ぼしてしまえ、くらいの指示を出しています。ハルハ左翼と交戦したドドは大勝利したモノの、テンギスを逃したことで、戦勝後にトゥシェート・ハーンにテンギスの身柄を要求していますが、順番が逆なんでは…と思いますよね…。
ともあれ、遊牧民と交戦する際は軍勢の補足が最も困難ですから、交戦に成功した上に打撃を与えたのは大きな意味があります。第一ラウンドで出会い頭にハルハ左翼にクリーンヒットをかましてマウントを取った清朝は以後、交渉を優位に進めることが出来たわけです。
と、ここから長いハルハと清朝の抗争が始まります。
この頃?⇒ハルハ左翼のエルへ・ツォーホル(エルケ・チュフル)が清朝保護下のバーリン部を強襲。xxii
順治4(1647)年3月⇒ダライ・ラマ、パンチェン・ホトクトらチベットの僧侶が清朝に礼物を献上する。xxiii
順治4(1647)年4月⇒ハルハ左翼のセツェン・ハーン、ハルハ右翼のザサクト・ハーンらが清朝に使者を送る。xxiv
順治4(1647)年4月⇒清朝がセツェン・ハーンに使者を送り、テンギスの捕獲とスニド部の民の返還或いはセツェン・ハーン自身がテンギスを殺害することを要求した。xxv
順治4(1647)年5月⇒順治帝がハルハ右翼のザサクト・ハーンの信書様式の不敬を詰問し、かつスニド部にもバーリン部にも無関係なザサクト・ハーンが、テンギス事件やバーリン襲撃事件に干渉することを叱責し、テンギスの身柄の確保を命じる勅書を送る。xxvi
順治4(1647)年8月⇒ハルハ右翼のザサクト・ハーンが清朝に使者を送る。ザサクト・ハーンはハルハ左翼にスニド部やバーリン部の人畜の返還を促すことを約束しつつ、清朝にダライ・ラマの招請を促す。xxvii
順治4(1647)年12月⇒ハルハ左翼のトゥシェート・ハーン、セツェン・ハーンが会盟の場から清朝に使者を送り、清朝の要求を受けてバーリン部の人畜の返還を約束した。xxviii
順治5(1648)年5月⇒ハルハ左翼が清朝にバーリン部の人畜の損害賠償要求に対して謝罪し、(バーリン部の人畜はもう手元になかったから)他から略奪して清朝に返還する使者が出発した。xxix
順治5(1648)年8月⇒ハルハ左翼の使者が到着。清朝はこの謝罪を受け入れ、ひとまず清朝とハルハ左翼の国交が正常化した。xxx
順治5(1648)年9月⇒テンギスが清朝への帰順を申し出て許されるがまもなく病没し、弟のテンギトが北京を訪問してテンギスの爵位を継承した。xxxi
ひとまずは清朝とハルハ部の国交が正常化する。
と、便宜上自分が第二段階に分類したのがこの段です。まず、清朝がテンギス追跡時にハルハ左翼を撃破したことに対する報復として、トゥシェート・ハーンの一族であるエルへ・ツォーホルともう一人のツォーホルxxxiiが清朝麾下のバーリン部を略奪します。清朝はこれに対して直接的な軍事行動には出ませんが、以後、テンギスの身柄とセットで略奪されたバーリン部の人畜の返還をハルハ左翼に要求していきます。
こうした交渉の中で、ハルハ右翼のザサクト・ハーンが使者を送り、清朝とハルハ左翼の仲裁を試みます。おそらく、清朝よりも目上のチンギス・カンの末裔=黄金氏族(Altan Urag)である全ハルハの首領として属下のハルハ左翼と格下の清朝の抗争を裁定する…という意図だったんでしょうが、清朝とは元々帰化城=フフホトの権益で対立していますから、却って清朝はその不敬を詰って逆に支配下のハルハ左翼にテンギスの身柄とバーリン部の人畜の損害賠償の返還を履行させるように強要します。この辺はヤクザ世界や中世武家社会と同じで舐められたらアカン、と言うことですね…。
そして、漢土を手中にした清朝は、対抗措置としてハルハに対して経済封鎖を行います。清朝はハルハに対して明朝にやられて一番痛かった施策を取ったわけで、効果は絶大だったようです。ハルハ右翼のオムボ・エルデニ=二代目ハルハのアルタン・ハーンがロシアとの交渉を粘り強く続けたというのも、この経済封鎖がおそらくは原因でしょう。ハルハ左翼は早速音を上げてトゥシェート・ハーンとセツェン・ハーンらが清朝と会盟してバーリン部の損害補填を約束し、ハルハ右翼もこれをハルハ左翼に履行させることを約束します。
清朝とハルハの関係が改善したことにより、テンギスは再度清朝への帰順を申し出ますが、すぐに病没してしまいます。替わって弟のテンギトが清朝に帰順して兄の爵位を継承します(しかし、駙馬の栄誉は継承されなかった)。
ここで、ひとまずは一段落したかに思えたハルハと清朝の関係ですが、ハルハはちっとも屈服したワケではなかったようで、早くも翌年からまたきな臭い事件が頻発します。
順治5(1648)年11月⇒2ツォーホルが清朝辺境に侵入し狩猟を行ったため、ドルゴンはアジゲ等を大同に配置した。xxxiii
順治5(1648)年12月⇒大同総兵・姜瓖が清朝に反旗を翻す。xxxiv
順治5(1648)年末⇒ハルハ右翼のオムボ・エルデニ、バルブ・ビントがトゥメド部属下の帰化城=フフホトを略奪。xxxv
順治6(1649)年2月⇒ドルゴンが自ら兵を率いて大同に出発するが、ハルハ左翼のセツェン・ハーンが清朝領域に接近したため迎撃に向う。しかし、水不足のため3日後に軍を引き返した。xxxvi
順治6(1649)年8月⇒ハルハ左翼のダンジン・ラマが皇父摂政王と順治帝に使者派遣してハルハ左右翼との和睦を求める書状を送る。xxxvii
順治6(1649)年10月⇒清朝がオイラトのグシ・ハーンにハルハ左右翼に対する軍事援助についての書簡を送る。xxxviii
順治6(1649)年10月⇒ドルゴンが2ツォーホル討伐に出征する。xxxix
順治6(1649)年10月⇒清朝がホシェート部xlに対ハルハ作戦を持ちかける。xli
順治6(1649)年10月⇒ドルゴンが遠征を取りやめて帰還する。xlii
順治7(1650)年3月⇒清朝がハルハ左右翼のトゥシェート・ハーン、ダンジン・ラマ、オムボ・エルデニらに書簡を送り、2ツォーホルにバーリン部の損害賠償を命じ、オムブ・エルデニ、バルブ・ピントゥの罪状を問う。xliii
順治7(1650)年4月⇒清朝がオイラトのホシェート部のオチルト・タイジに対ハルハ戦の協力を要請。xliv
順治7(1650)年10月⇒ハルハ左翼のトゥシェート・ハーン、セツェン・ハーンらの使者が清朝に来朝。xlv
順治7(1650)年11月⇒清朝がハルハ左右翼のザサグト・ハーン、トゥシェート・ハーン、ダンジン・ラマ、オムボ・エルデニらに書簡を送り、清朝に従属するノヤンは毎年駱駝一頭、馬八頭を貢納するよう通達する。xlvi
順治7(1650)年12月⇒ドルゴン死去。xlvii
順治7(1650)年⇒この年、セツェン・ハーン=ショロイが死去。ハルハ右翼は後継者問題で順治12年にショロイの子・バボがセツェン・ハーン位を継承するまで混乱する。xlviii
順治8(1651)年9月⇒トゥシェート・ハーン、セツェン・ハーン、ダンジン・ラマ等が清朝に謝罪し、バーリン部の人畜の補填に馬100頭、駱駝10頭を献上した。清朝はバーリン部の人の返還とハルハの主なノヤンの参朝を条件にこれを許した。xlix
バーリン部の損害補填をハルハ左翼が一部行って一段落したところで、ハルハ左翼のエルへ・ツォーホル等がまた清朝領域に侵入します。交渉の成り行きに納得しなかったと言うことでしょうかね…史料がないので理由は分かりませんが、とにかく、エルへ・ツォーホルが南下してきます。それに対する防御のために英親王・アジゲが大同に駐屯し、現地の大同総兵・姜瓖と諍いを起こした結果、姜瓖が叛乱を起こしますl。大同は漢土とモンゴル高原の間の要衝ですから、まかり間違ってエルへ・ツォーホルらハルハ左翼と連携されると厄介ですから、入関後ほとんど北京から動かなかったドルゴンが親征します。
大同で叛乱が起きると、ハルハ左翼は大同近辺に出馬、一方、ハルハ右翼は前から欲していた帰化城=フフホトに侵攻していますから、清朝が動かなければモンゴル高原の勢力圏を失いかねません。これは緊急性を要する軍事行動だったことは確かです。
ドルゴンはこの時、セツェン・ハーン接近の情報を得てすぐさま迎撃しようとして逃げられますが、これはドルゴンが焦っていたと言うよりも、清朝初期の軍事行動はいつもの行動様式ではないかと…。現場のトラブルに対しては高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応するといった感じの行き当たりばったりなノリが目立ちます。この時は水不足で追跡がままならなかったので、普通に考えて失敗しても当然の博打なんですが、清初の軍事行動は博打的な行動の結果幸運にも成功を収めてきた事が多く、天聰年間の華北侵入にしろ入関作戦にしろ、兵站とか計画性と言う発想は清初の人たちは元々持ち合わせていませんから、この時もいつも通りの平常運転だったのではないでしょうか。なんか出来そうな気がしたので、とりあえずやってみた!位のノリですよね…。
と言うわけで、この時期は軍事衝突こそなかったものの、いつ衝突があってもおかしくない状態が続きます。しかし、軍事的劣勢をひっくり返す機会もなく、経済封鎖でジリジリと締め付けられたハルハ左右翼は再び謝罪の使者を送り、清朝はハルハに対して毎年の貢納を義務づけます。臣従すると言うよりは、同盟の盟主に貢納するイメージでしょうが、清朝優位をハルハに認めさせる要求でしょう。
しかし、対ハルハ外交でも辣腕を振るったドルゴンが逝去し、続いてテンギス事件の一方の当事者であったセツェン・ハーン=ショロイも他界します。主要人物の退場によって外交交渉は速度を落とします。
順治9(1652)年12月⇒清朝、ダライ・ラマを北京に招請に成功。li
1652年⇒ハルハ右翼のオムボ・エルデニが隠居して子のロブサン・ノヤンがアルタン・ハーン位を継承する、と言う伝聞がロシアに伝わる。lii
順治10年2月⇒トゥシェート・ハーン属下のボンタル、清朝に帰順し和碩達爾漢親王に封じられる。liii
順治10(1653)年6月⇒トゥシェート・ハーン等ハルハ左翼、清朝にボンタル属下のバーリン人畜を返還対象に含めるよう要請してliv断られる。lv
順治10(1653)年7月⇒安郡王・ヨロがハルハの侵略に備えて宣威将軍を拝命して帰化城=フフホトに駐留する。lvi
順治10(1653)年9月⇒トゥシェート・ハーンが清朝に馬・駱駝を献上するlvii
順治11(1654)年3月⇒清朝は4ノヤンの参朝がないので前年の貢進を拒絶し、再度4ノヤンの参朝を促した。lviii
順治12(1655)年正月⇒ハルハ右翼のザサクト・ハーン、オムボ・エルデニ等が清朝にバーリン部略奪に関する謝罪の使者を派遣し、馬・駱駝を献上する。lix
順治12(1655)年2月⇒ハルハ左翼の「主たるノヤン」の子弟が清朝入朝のために張家口に到着。lx
順治12(1655)年2月⇒ハルハ左翼のジェプツンダンパ・ホトクトの使者が馬と貂皮を献上した。lxi
順治12(1655)年4月⇒ハルハ左翼の「主たるノヤン」の子弟が参朝して清朝にバーリン略奪の謝罪を行い、馬・駱駝を献上した。lxii
順治12(1655)年5月⇒清朝は前月のハルハ左翼の謝罪を清朝との制約を交わすことを条件に許し、バーリン略奪の返還については宥免した。lxiii
同月⇒清朝はハルハ右翼に対して、再度フフホト略奪の謝罪と「主たるノヤン」の来朝を要請。lxiv
順治12(1655)年10月⇒トシェート・ハーン、セツェン・ハーン、ダンジン・ラマ、メルゲン・ノヤン等、ハルハ左翼が清朝との同盟のための会盟を行う。lxv
順治12(1655)年11月⇒清朝がハルハ左右翼の進貢を許可。⇒8ザサクの設置?lxvi
順治12(1655)年12月⇒ハルハ左翼のトゥシェート・ハーン、セツェン・ハーン、ダイチン・タイジらの使者と安郡王・ヨロが宗人府で誓約を交わした。lxvii
順治14(1657)年2月⇒ハルハ右翼のザサクト・ハーン、オムボ・エルデニ、セツェン・ジノン、フンドレン・トイン等が子弟を清朝に派遣して謝罪させ、馬・駱駝を献上した。清朝はハルハ右翼がフフホトを略奪した罪を許し、同盟の誓約を要求した。lxviii
順治14(1657)年11月⇒ハルハ右翼のザサクト・ハーン、フンドレン・トイン、セツェン・ジノン(?)の三名はこの時点ですでに清朝と誓約を交わしていたが、オムボ・エルデニのみ交わしていなかったため、清朝に誓約を催促される。lxix
順治16(1659)年4月⇒この頃にはオムブ・エルデニの子、ロブサン・ノヤンは清朝と誓約を交わし使者を派遣して進貢して受け入れられた。lxx⇒ハルハ右翼全体が清朝と誓約を交わして、国交が正常化する。⇒九白之貢の成立?
と、ここからが第三段階です。ドルゴンの逝去後すぐに清朝はダライ・ラマの招請に成功しました。これは再三ハルハから要請されていた事案ではありますが、これを機にハルハが雪崩を打って清朝に帰属したというわけでもなさそうですし、ハルハの清朝帰順にどれくらいの効果があったのかは正直よく分かりません。しかしながら、以降は基本的には清朝とハルハの抗争は収束段階に入ります。
まず、順治12(1655)年にトゥシェート・ハーン、セツェン・ハーン(ショロイの子・バボ)、ダンジン・ラマらが率いるハルハ左翼が会盟を行い、安郡王・ヨロが宗人府でハルハ左翼の使者と誓約を交わして、朝貢の義務を課されてひとまず清朝と同盟を結びます。
一方、ハルハ右翼はザサクト・ハーンらは順治14(1657)年には清朝とハルハ左翼と同様の誓約を交わしたようです。しかし、ハルハの第二代アルタン・ハーンであるオムボ・エルデニが代替わりして、第三代のロブサン・ノヤンに権力は委譲されていたことで行き違いはあったものの、順治16(1659)年までにはロブサン・ノヤンも清朝と誓約を交わしたようなので、ここにハルハ左翼も清朝の同盟国となった…といった感じでしょうか。所謂「九白之貢」体制が成立成立したのは実際にはこの頃だと考えられます。
ハルハと清朝の関係はひとまず、朝貢関係…同盟を結んで小康状態となります。しかし、この後、ハルハ右翼のロブサン・ノヤンがザサクト・ハーン=ワンチェクを襲殺して発生した騒乱が原因で、ザサクト・ハーンの属民がトゥシェート・ハーン=チャグンドルジに押収されます。属民の帰属を巡ってハルハ左右翼の対立が激化し、仲裁に入った清朝との盟約をトゥシェート・ハーンの不履行をザサクト・ハーン=チェングンが糾弾し、オイラトを制したジューン・ガルのガルダンに援軍を依頼したことから、第一次清・ジューン・ガル戦が始まります。ジューン・ガルと清朝との交戦の結果、ハルハは清朝の藩部に組み込まれていきますが、この辺は研究が豊富ですし、自分の興味から外れていくので、とりあえずこのまとめはこれまでです。
関根知良「順治期における清朝とハルハの交渉過程 : モンゴル語書簡の分析を中心に」『満族史研究』第16号
若松寛「アルトゥン─ハーン伝考証」『東洋史論集 : 内田吟風博士頌寿記念』同朋社
宮脇淳子「ガルダン以前のオイラット:若松説再批判」『東洋学報』65巻1・2号
矢沢利彦『西洋人の見た中国皇帝』東方書店
『世界歴史大系 中国史4 明▷清』山川出版社
乌云毕力格《五色四藩》上海古籍出版社
齐木徳道尔吉〈1640年以后的清朝与喀尔喀的关系〉《内蒙古大学学报(人文社会科学版)》 1998(04)国家清史编纂委员会・档案丛刊《清内秘书院蒙古文档案汇编汉译》社会科学文献出版社
《大清太宗文皇帝實錄》台灣華文書局總發行
《大清世祖章(順治)皇帝實錄》台灣華文書局總發行
中国第一历史档案馆《清初内国史院满文档案译编》光明日報出版社
《欽定外藩蒙古囘部王公表傳》
註での略称一覧
《内秘書院檔》⇒《清内秘書院蒙古文档案》
《王公表伝》⇒《欽定外藩蒙古回部王公表伝》
《太宗実録》⇒《大清太宗文皇帝実録》
《世祖実録》⇒《大清世祖章皇帝実録》
《内国史院満文档案訳編》⇒《清初内国史院満文檔案譯編》
- 《太宗実録》巻11 天聰6年5月甲子(27日) [戻る]
- 《太宗実録》巻20 天聰8年閏8月庚寅(7日) [戻る]
- 《太宗実録》巻23 天聰9年5月丙子(27日) [戻る]
- 《太宗実録》巻24 天聰9年7月辛亥(3日) [戻る]
- 《王公表伝》巻36 蘇尼特部總傳 [戻る]
- 《太宗実録》巻28 天聰10年4月乙酉(11日) [戻る]
- 《王公表伝》巻36 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 [戻る]
- 《内秘書院檔》第1輯 崇徳2年檔冊(01-02-17、01-02-18) [戻る]
- 「アルトゥン─ハーン伝考証」 [戻る]
- 《王公表伝》巻36 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 [戻る]
- 《太宗実録》巻50 崇徳五年正月辛未(19日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.5⇒「ガルダン以前のオイラット」。及び「アルトゥン─ハーン伝考証」 [戻る]
- 「アルトゥン─ハーン伝考証」 [戻る]
- 《内秘書院檔》第1輯 崇徳6年檔冊(崇徳6年10月30日 01-05-12)《王公表伝》巻36 原封扎薩克多羅郡王騰機思列傳 [戻る]
- 《太宗実録》巻65 崇徳八年八月庚午(9日) [戻る]
- 《世祖実録》巻1 崇徳八年八月丁丑(16日) [戻る]
- 《世祖実録》巻11 順治元年十一月辛丑(17日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.3⇒《内国史院満文档案訳編》中巻 順治三年正月十七日 [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.4⇒《内秘書院檔》第2輯 順治3年檔冊(順治3年5月2日 02-03-11)《世祖実録》巻26 順治三年五月丁未(2日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.4⇒《内秘書院檔》第2輯 順治3年檔冊(順治3年7月18日 02-03-17)及び第2輯 順治3年檔冊(順治3年8月20日 02-03-18)、《世祖実録》巻27 順治三年七月丁巳(13日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.5⇒《世祖実録》巻28 順治三年九月己未(順治3年9月16日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.5⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治四年五月初五日 02-05-30、02-05-31)⇒宣和堂註:《内秘書院檔》の当該部分を確認すると、4/22付けのセツェン・ハーン宛の勅書にはエルへ・ツォーホルには触れていないが、5/5付けのザサクト・ハーン及びダンチン・ラマ宛の勅書にはエルへ・ツォーホルのバーリン略奪の件に触れていることから、4/23~5/5の間にバーリン部襲撃の報告があったと考えるべきか? [戻る]
- 《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治4年3月29日 02-05-23、02-05-24) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.5⇒《世祖実録》巻31 順治四年四月丙子(5日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.6~7⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治4年4月22日 02-05-29) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.8~9⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治4年5月5日 02-05-30)⇒宣和堂註:同様の勅書をダンチン・ラマ、オムブ・エルデニ、ジェプツンダンパ・ホトクトにも送っている(同書 02-05-31~33) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.9~11⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(亥年8月吉日⇒順治4年11月21日 02-05-50) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.11~12⇒《内秘書院檔》第2輯 順治4年檔冊(順治4年12月10日 02-05-51) [戻る]
- 《「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.11⇒内秘書院檔》第3輯 順治5年檔冊(順治5年5月吉日 03-01-43) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.11⇒《世祖実録》巻40 順治五年八月乙未(3日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.12⇒《内秘書院檔》第3輯 順治5年檔冊(順治5年9月16日 03-01-49)、《世祖実録》巻40 順治五年九月丁丑(16日) [戻る]
- 諸説あるものの特定出来ない人物 [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.13⇒《世祖実録》巻41 順治五年十一月癸未(23日) [戻る]
- 《世祖実録》巻41 順治五年十二月戊戌(8日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.12~13⇒《内秘書院檔》第3輯 順治6年檔冊(順治6年10月7日 03-02-25) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.13⇒《世祖実録》巻42 順治六年二月己酉(20日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.14⇒《内秘書院檔》第3輯 順治6年檔冊(順治6年8月初8日 03-02-08、03-02-09) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.14⇒《内秘書院檔》第3輯 順治6年檔冊(順治6年10月7日 03-02-25) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.14~15⇒《世祖実録》巻46 順治六年十月壬辰(7日) [戻る]
- 正確にはグシ・ハーンの二子?オムボ・ゾリクト・バートル・ジノン [戻る]
- 《内秘書院檔》第3輯 順治6年檔冊(順治6年10月初7日 03-02-26 [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.15⇒《世祖実録》巻46 順治六年十月辛丑(16日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.15~16《内秘書院檔》第3輯 順治7年檔冊 順治7年3月初10日 03-03-07) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.16~17《内秘書院檔》第3輯 順治7年檔冊(順治7年4月12日 03-03-11) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.17⇒《内秘書院檔》第3輯 順治7年檔冊(順治7年10月25日 03-03-39) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.23⇒《内秘書院檔》第3輯 順治7年檔冊(順治7年11月22日 03-03-40) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.18⇒《世祖実録》巻51 順治七年十二月戊子(9日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒乌云毕力格〈车臣汗汗位承袭的变化〉 [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.18⇒《内秘書院檔》第3輯 順治8年檔冊(順治8年9月15日 03-04-43) [戻る]
- 『西洋人の見た中国皇帝』P.59 ただし、この本ではアジゲが大同に立ち寄ったのはモンゴル国(ホルチン部?)から王女を皇后に迎える交渉をするために立ち寄ったことになっている。廃后靜妃は順治8(1651)年8月13日に皇后に册封されているので、この頃に交渉していてもおかしくはないが、実録の記録とは食い違う。 [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.18⇒〈1640年以后的清朝与喀尔喀的关系〉☆中国第一历史档案馆蒙文顺治十年档、蒙8号 [戻る]
- 「アルトゥン─ハーン伝考証」 [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.18~19⇒《内秘書院檔》第3輯 順治10年檔冊(順治10年2月29日 04-01-16) [戻る]
- 《内秘書院檔》第3輯 順治10年檔冊(順治10年6月13日 04-01-35) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒《内秘書院檔》第3輯 順治10年檔冊(順治10年6月26日 04-01-36) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒《世祖実録》巻77 順治十年七月辛酉(28日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒《世祖実録》巻78 順治十年九月癸卯(11日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.19⇒《内秘書院檔》第4輯 順治11年檔冊(順治11年3月20日 04-02-03) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒《世祖実録》巻88 順治十二年正月甲寅(29日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒☆《理藩院題本》巻1 順治12年2月12日 [戻る]
- 《世祖実録》巻89 順治十二年四月甲戌(19日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒《世祖実録》巻91 順治十二年四月辛酉(7日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒《世祖実録》巻91 順治十二年五月戊子(5日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20⇒《内秘書院檔》第4輯 順治12年檔冊(順治12年5月22日 04-03-05)、《世祖実録》巻91 順治十二年五月壬寅(19日) [戻る]
- 《世祖実録》巻94 順治十二年十月庚申(10日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.20~21⇒《世祖実録》巻95 順治十二年十一月辛丑(21日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.21⇒《世祖実録》巻96 順治十二年十二月丙子(26日) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.21~22⇒《内秘書院檔》第5輯 順治14年檔冊(順治14年2月18日 05-02-02) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.22~23⇒《内秘書院檔》第5輯 順治14年檔冊(順治14年11月19日 05-02-20) [戻る]
- 「順治朝における清朝とハルハの交渉過程」P.22~23⇒《内秘書院檔》第6輯 順治16年檔冊(順治16年4月20日 06-01-23)、《世祖実録》巻125 順治十六年四月甲寅(24日) [戻る]