昭顕世子は瀋陽を目指す

 時間が空きましたが、昭顕世子の日記の続きです。この辺は他に裏の取りようがないので、《朝鮮王朝実録》や《清世祖実録》も確認せずにダラダラ読んでいきます。一部前回と重複しますが、北京から瀋陽までの行程を見ていきます。

二十四日 辛亥 晴
世子留北京。(中略)○午時、世子發行、出自東門。申時、至通州城東十里許江邊、止宿。內官・司禦・宣傳官・禁軍以下落留者、并錄于下。(中略)○皇帝・固山額眞、領率甲軍之還瀋者、世子一時出來、軍兵之數、十餘萬云、而蒙人居多焉。領兵將南斗爀軍兵、亦爲出還、而直向山海關大路而行。

 5月24日、晴。世子北京に滞在。(中略)
 昼頃(午時)、世子一行は東門(朝陽門?)から出発した。
 昼過ぎ(申時)、通州城から東へ10里の川辺に到着したのでここに宿泊することにした。文官、軍属で行軍途中に脱落した者は以下の通り(省略)。皇帝グサ・エジェンの命令で軍を引き連れて世子のように瀋陽に一時的に帰る兵は十余万と言う噂だ。内訳としてはモンゴル人が多い。領兵將南斗爀が引き連れている軍は山海関大路(昭顕世子の往路のような山海関を通過して遼東に行くルート?)を直行した。

 と言うことで、世子一行は半日で通州近くまで進み、宿泊します。宿を取ったというよりは野営を張ったという感じでしょうかねぇ。朝鮮軍山海関大路を直行するのを横目に世子一行は別ルートを進むようです。

二十五日 壬午 晴暁乍雨
世子止宿處。○講院・薬房問安。答曰、知道。○卯初、發行、至夏店、少歇。未末、三河縣川邊、止宿、去夏店、三十里也。

 5月25日 晴のち雨
 世子は宿處に泊まった。講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝早く(卯初)に出発して夏店(現在の河北省三河市西?)に到着し、水分を補給された。昼過ぎ(未未)に三河県(現在の河北省三河市)の川辺で宿泊した。夏店から30里である。

 通州から三河県ですから、この日は来た道をそのまま遡行してる感じですね。ちなみに夏店三河県の西にあった駅宿iのようです(往路でも立ち寄ってました)。

二十六日 癸丑 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、到邦均店、少歇、去三河、四十里也。申時、到薊州城南五里許、止宿、去邦均、三十里也。

 5月26日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)に出発し、邦均店(現在の天津市蓟州区邦均镇)に到着し水分を補給した。三河県から40里である。夕方前(申時)には薊州城(現在の天津市蓟州区)から南に5里の場所に到ったのでここで宿泊した。邦均店から30里である。

 で、三河県から一日で薊州まで遡行してます。行きと同じで基本的には街で宿を取らずに宿営…まぁビバークとかキャンプとか言う感じなんですかね。相変わらず追い立てられるような旅程です。邦均店夏店薊州の間にある駅宿ですii

二十七日 甲寅 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、不由山海關大路、迤東北作行、至遵河下流水邊、止宿、去薊州七十里也。

 5月27日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発。山海関大路を経由せず、東北に方向転換して遵河(?不明)下流の水辺で宿泊した。薊州から70里である。

 ここで、帰路は往路とは違う進路を取ることが事が判明します。理由は定かではありませんが、北京で別れた南斗爀率いる朝鮮軍山海関大路を遡行した事をワザワザ記したのは、世子一行と違う進路で瀋陽に帰ったことを強調したモノと思われます。でも、世子一行は何で転身したのか…ドルゴンの気が変わって連れ戻されることを恐れたのかとも思ったのですが、読み進めていくとちょっと様子が違うみたいなんですよね…続けましょう。

二十八日 乙卯 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、至遵河縣東十里許、少歇、去下流、四十里也。至山屯營城東五里許、止宿、去遵河四十里也。山屯、乃喜峰口之直路、而山海關亦不遠、實是東北之要害也。山高峽長、處處負險所、以設關防開摠府、以重其地、而往年爲清人所陷、城外民居、盡爲燒毀、城內則人民尚爾殷盛焉。

 5月28日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発。遵河県(遵化県?現在の河北省唐山市遵化市)から東に十里の場所で水分を補給し、更に下流に降って40里進んだ。山屯営(三屯営?現在の河北省唐山市迁西县三屯营镇)城から東に五里の場所で宿泊。遵河県から40里である。三屯営喜峰口(現在の河北省唐山市迁西县と宽城县の境)の玄関口で、山海関(現在の河北省秦皇岛市山海关区)からもそう遠くない。(北京)東北の要害である。山高く峡谷は長く、所々の難所に関所や詰所が作られていてこの地が要害の地である事が分かる。往年、清人はここを陥落させ、城外の民家はことごとく焼き払われたが、城内は人々でまだ賑わっていた。

 続いて世子一行は恐らくは遵化県、恐らくは三屯営と順調に旅程をこなしていきますが、比較的メジャーな長城の関所である喜峰口をスルーして東に行ってますから、何らかの目処が立っているようですね。あと、三屯営清朝華北侵入で焼き払われたと言う話は、恐らく天聰年間に喜峰口から清軍が侵入した己巳之変の時のことでしょうね。

喜峰口

《清史图典》第一冊 太祖太宗朝 P.106《直隶长城险要关口形势图卷・喜峰口》

二十九日 丙辰 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、渡灤河上流、過東寨里。申時、到河邊、止宿。是日、行七十里。

 5月29日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発。灤河(河北省と内モンゴル自治区を経由して渤海に流れる大河)上流を渡り、東寨里(現在の河北省唐山市迁西县罗家屯镇东寨村)を通過した。夕方前(申時)には川辺に着き、宿泊した。この日の行程は70里である。

 ここでも世子一行は順調に長城線を東行するような進路を取っています。灤河は位置的にも矛盾しませんし問題ないでしょう。

六月初一日 丁巳 晴
講院・薬房問安。答曰、平安。○卯時、發行、過建昌城外、去長城冷口纔五里許。建置經略衙門、故城名謂之建昌略也。城中將官、領軍儀、持羊酒梨果、出迎清將于城外、清將坐于廟堂、受拜而禮送。午時、出冷口東、去山海關百八十里云。大川、自蒙古地南流、山形峭峻、中折如門、城頭兩邊、各設煙臺・砲樓、西則名曰最勝臺、尤爲高爽、臺閣羅絡城上、城下有人家數百戸、設木柵于兩煙臺間、水流柵下、最勝臺下有出入之路、而水漲則不得通矣。去冷口二十里許川邊、止宿、卽蒙古地界也。是日行八十里。

 6月1日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、調子がいいととの仰せだった。朝(卯時)出発。建昌城外(現在の河北省唐山市迁安市建昌营镇)を通過し、長城冷口(現在の河北省迁安市)から5里の場所に来た。経略衙門が置かれたのだが、元の都市名である建昌がその名称の由来である。城中の将官は軍儀を率いて羊肉、酒、梨などの果物を携えて清将を城外で出迎え、清将は廟堂で待機してこれを受領して返礼した。昼時(午時)、冷口から東に向かった。山海関から180里の場所という。大川はモンゴルから南に流れている。山容は峻厳で途中で折れ曲がり門のようになっており、両端には煙台や砲台が作られていた。西の台は最勝台といい最も高い位置にある。台閣羅格は城の上にあり、城下には人家が数百戸あった。木柵が両煙台の間に設けられていて、柵の下には水が流れていて、最勝台の下にも水が流れこんでいて、水を堰き止めれば通行出来ない仕掛けになっている。冷口から20里の川辺で宿営した。ここはモンゴルの境界内で、この日は80里進んだ。

 と、建昌営に到着すると、どうやら世子清将率いる清軍と同行若しくは連携していたことがようやく分かります。世子一行が通りかかるまで、建昌営はまだ清朝に帰順していなかったようで、世子と同行した清将に帰順した様子が描かれています。北京に入るまでと異なり、一応降伏した礼物は受け取っているようですね(ちゃんと返礼もしてますけど)。往路と違って、住民が辮髪にするかどうかが帰順の証しとはなっていないようで、その辺も気になります。
 そして、いよいよ世子一行は冷口から長城を出てモンゴル領域に入ります。どうして冷口から北上したのかは記述がない以上不明ですが、考えるに入関後の治安状態とか敵対勢力の有無を確認する清将に同行したってイメージでしょうかね。でも、どうも記述の中では件の清将なり清軍は主要な任務のついでに世子の護衛をしている感じがします。ただ、世子は予めドルゴンにルートを指定されて同行してた様な印象は受けます。流石に情勢不安で安全確認もされていないルートを藩王世子に護衛もつけずに放り出すのもどうかと思いますし。

冷口

《清史图典》第一冊 太祖太宗朝 P.106《直隶长城险要关口形势图卷・冷口》

初二日 戊午 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行四十里許、止宿。此後所經、皆無人之境。故地名、莫由知之。山高谷狹、樹木葱鬱、軍馬沓至、不能得達、緣崖攀木、魚貫而行、其險阻跋涉之苦、有不可言。草莽間、往往有髑髏、乃清人年前西犯時往來之地云矣。

 6月2日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して40里の行程のところで宿営した。この後の行程は人の居ない領域なので、地名などは知るよしもない。山は高く谷は狭く、樹木は鬱蒼としていて、軍馬でなければ到達出来ないような場所で、木に掴まって崖をよじ登り、相い連なって進んだ。道中、道が険しかったことの苦労は言葉で尽くすことが出来ない。草むらの中には、時々白骨化した骸があったが、恐らくは清人が数年前に華北侵攻した時の進軍ルートだった(時の被害者)と言う話である。

 と言うわけで、いよいよモンゴルに入ったので、地名すら満足に今後は出てきません。一応出てくる部分もありますが、正直どのルートを経由して瀋陽にたどり着いたのかは確定出来ませんでした。
 あと、行き倒れた髑髏は清朝華北侵入のせいにされているのはどうなんでしょうかねぇ…。喜峰口(天聰3年の己巳之変)や青山関龍井口城子嶺(崇徳3年の戊寅虜変)はともかく、冷口って進軍ルートに入った事あったんですかねぇ…。戊寅虜変の時に退却時に冷口使おうとしたら、防備が堅くて青山関に抜けたと言う話があるんですが、被害が出てるとしたら領側なンじゃないですかね…。

初三日 己未 陰夕乍雨
講院・薬房問安。答曰、平安。○卯時、發行、行四十里許、止宿。○禁軍鄭振一、領率瘦病夫馬落後。【清人有先行出瀋者、一行粮餞將乏之意、傳令于館所。】

 6月3日 曇り、夕方から雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、調子がいいととの仰せだった。朝(卯時)出発。40里の行程で宿営した。禁軍鄭振一は病気や栄養失調などで脱落した人馬を統率するために残った。【元註:清人瀋陽に先行する者がいたので、一行の糧食が窮乏していることを瀋陽館に伝える事を託した】

 と言うわけで、復路でもやはり脱落者が出始めます。北京の食糧事情がよろしくないなかで、逃げ出すように瀋陽に出発したという経緯から、糧食豊富という状態ではなかったんだと思いますが、出発から10日もしない内に早馬出して瀋陽館に無心しなくてはいけない状態に追い込まれてしまっています。留まるも地獄だったんでしょうけど、進むも地獄ですね…。

初四日 庚辰 陰
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行六十里許、止宿。

 6月4日 曇り
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して60里の行程のところで宿営した。

初五日 辛酉 陰
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行七十里許、止宿。

 6月5日 曇り
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して70里の行程のところで宿営した。

初六日 壬戌 陰
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行六十里許、止宿。

 6月6日 曇り
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して60里の行程のところで宿営した。

初七日 癸亥 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行六十里許、止宿。○禁軍金擎一、以病落後、使禁軍金志雄救護、留待鄭振一偕來。

 6月7日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して60里の行程のところで宿営した。禁軍金擎一は病気になった後脱落したが、禁軍金志雄を救護に向かわせて、鄭振一と合流して休ませた。

 三日同じような内容の記事が続いた後に脱落者が出たので後発隊とした様なことが書かれてますね…。いよいよ健康状態も食糧事情も逼迫してきます。

初八日 甲子 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行六十里許、止宿。

 6月8日 晴れ
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して60里の行程のところで宿営した。

初九日 乙丑 晴夜雨
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行四十里、少歇。午後、行六十里、止宿大川邊、卽大凌河上流也。是日、渡此川上流七度。○內官金希顏、領率內卜、日暮落後。

 6月9日 晴れ、夜に雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して40里の行程のところで休憩し、午後に60里進んだところで、大きな川の川辺で宿営した。これは大凌河の上流である。この日、この川の上流を7度渡った。一行の荷物を運搬していた内官金希顏が日暮れに脱落した。

 同じ記事がまた出てきた後に、大凌河の上流で何とか渡河した後に、一行からはぐれた集団が出ます。この日は日が暮れても宿営しなかったみたいですね。

初十日 丙寅 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○朝、內官金希顏、來到、上下卜物、盡爲霑濕、人馬夜行飢餒、故止宿處留。清將夜送家丁二人促行。

 6月10日 晴れ
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝、内官金希顏が合流したが、荷物は全部ビショビショに濡れていて、人馬は夜通し歩いて飢えていたのでここに留まって宿営した。夜に清将が家丁二人を送ってきて先導させた。

 昨日はぐれた集団と合流は出来たモノの、ビシャビシャに濡れてるわ、夜通し歩いてクタクタだわでこの日はお休みしたようですね。清将が家丁を送り込んでることから、清軍とは行動は共にしていないようですけど、しばしば連絡が取れるような位置関係だったみたいですね。

十一日 丁卯 雨
講院・薬房問安。答曰、知道。○質明、清人已發、未及打火、食前發行、行四十里許、風雨大作、不得行。

 6月11日 雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。日が昇りきる前に清人はすでに出発した。火を起こす前で朝食もとらずに40里進んだが、風雨がきつくなったために進めなくなった。

 相変わらず清軍との距離感が分かりませんが、夜明け前には世子一行を待たずに清人は出発してますね…。で、北京あたりでよく見た火を起こさず=食事を取らず進行する事への恨み辛みをまた書き連ねています。

十二日 戊辰 晴夕雷電乍雨
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯初、發行、行四十里許、少歇。午後、行六十里、止宿。所經無水、人馬飢渇、甚矣。陪衛軍兵粮絶、使宣傳官尹廷俊、領率往義州衛、取粮追來、此去義州、迤東南二日程許云矣。

 6月12日 晴、夕方から雷雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝少し早めに(卯初)出発して40里の行程のところで休憩し、午後に60里進んだところで宿営した。水のないところだったので、人馬ともにとても飢渇した。持ってきた兵粮が尽きてしまったので、宣伝官尹廷俊に領卒を率いて義州衛(現在の辽宁省锦州市义县)に行って糧食を持ってこさせることにした。ここから義州へは東南に二日の行程ほど離れているという。

 と言うわけで、糧食がいよいよ底を尽きて近くの拠点=義州衛から無心することにしたようですが、この時、一番近い義州衛からは2日の距離だったようです。

十三日 己巳 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯初、發行、行四十餘里、少歇。午後、行二十里許、止宿。

 6月13日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発して40里の行程のところで休憩し、午後に20里進んだところで宿営した。

十四日 庚午 晴
講院・薬房問安。答曰、平安。○卯時、發行、行二十五里許、至一處沮洳之地、蘆葦如束、泥濃沒馬、中央水深一丈、橫木作架、奉世子以渡、卜物則皆卸馬、荷擔以運、騾驢駞馬之屬、陷没僅出、以此遲留。日勢已晚、因爲晝點。○衙譯李■[於/叱]石輩來現、賜羊一口・米一斗。先是、到薊州城外、止宿處設幕之際、■[於/叱]石有不遵下令之事、世子親責之。是後、累日陪行、而切不現謁、今日渡渠之時、相値於駕前、不得已現謁。○午後、行五十里許、止宿。始出義錦大路、西去義州衛、二日程矣。○是夕、下令曰、登程已久、露宿經過、一日爲苦、而駞馬俱疲、不得致遠、明曉、擇率若干員役、各騎清馬、持數日粮、疾馳先行、落後人馬・卜物、則使申繼黯、領率追來。

 6月14日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、調子がいいととの仰せだった。朝(卯時)出発。25里進んだところで湿地帯に出た。葦が束のように生えており、泥が濃くて馬が填まってしまった。中央部分は水深一丈あったので、木で即席の橋を作り、世子を担いで渡っていただいた。荷物はみな馬から下ろして担いで運んだが、ロバがラバか駱駝のように泥に足を取られて遅々として作業が進まなかったので、昼時までかかってしまった。(中略)午後、50里進んだところで宿営した。ようやく義錦大路(義州と錦州をつなぐ幹線?)に出た。義州衛の西、2日ほどの場所である。この夕方、出発してからすでにかなりの日数が経過しており、野営が続き、駱駝も馬も疲弊しているため、明日からは若干の選抜メンバーに数日の糧食を持って騎馬で先行させ、残りの人馬、荷物は申繼黯に任せて後を追わせる命令を下した。

 また、似たような記述が続いて行きでも見たような湿地帯に突入です。で、義錦大路と呼ばれる幹線に出てきて義州衛まで西から2日の行程に出てきた…と言うのですが、これが一体どこなのかよく分かりません。錦州(現在の辽宁省锦州市)、義州を繋ぐ幹線道路もあったんでしょうが、どこまで伸びていたのかよく分からないです。で、いよいよ食料が尽きかけてきたので先行部隊を選別したワケですが…。

十五日 辛未 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○質明、發行、內官金希顏、文學李䅘、司僕主簿趙壤、譯官徐尚賢・梁孝元、禁軍朴希復等四人、各色掌張難伊、理馬閔有信、公贖加外等四名、驛子姜■[古/邑]同、軍牢澤伊、刷馬駈人三名、陪從先行、行十五里許、至古塔下、打火。又行十五里許、清將以爲、此去柵門不遠、後軍兵留待齊會、一時入柵、世子不可先行云。世子不得已止宿。申繼黯等、領率追來。

 6月15日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。夜明けとともに(質明?)出発。内官金希顏文学李䅘司僕主簿趙壤訳官徐尚賢、同・梁孝元禁軍朴希復ら四人、各色掌張難伊理馬閔有信公贖加外ら四人、駅子姜[古/邑]同軍牢澤伊刷馬駈人三人は世子に陪從して先行した。15里進むと古塔に行き着いたので、火を起こし(て食事を取っ)た。また15里進むと、清将が「ここから柵門までは遠くないが、後続の軍兵を待ってから一緒にを越える。世子だけ先行させるわけにはいかない」と言うので、世子はやむを得ずここで宿営した。申繼黯らは後続の部隊を率いて追いついた。

 と言うわけで、先行部隊はいきなりの辺りに屯っていた清軍に足止めを食らいます。で、このなんですが…やっぱり長城線とは違うッぽいですね。行きは長城柵門は別々に記述されているので、同じ建築物を指しているワケではなさそうですが、位置関係がよく分かりません。よって、この日の現在位置は義州からほど近い場所なんでしょうが、文字通り義州から西の位置なのか、行きと同じようなコース通っているのかこの記述だけではよく分かりません。それに、先遣隊に補給の用意を命じたハズなのに、その後、義州衛には立ち寄った形跡がない上言及もされませんから、その辺も謎ですよね…。

十六日 壬申 晴
講院・薬房問安。答曰、知道。○質明、清將率若干騎、取徑路馳往。世子一時作行、行五十里許、入柵。柵內有庄頭家、世子少歇、欲爲晝點、而泉井皆竭、一行不得飲、因卽發行。○譯官李信儉・禁軍金繼壽・衙譯韓甫龍等、賫持內書及留館狀達、來到。○申時、到渠邊止宿。都摠都事權霌・金瑜等、領水剌饌物、自瀋陽迎候。是日、行七十里。○申繼黯等、領率卜物、曉頭先發、由大路入柵。【譯官徐尚賢、持行次入柵之報、先往瀋陽。】

 6月16日 晴
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。夜明けとともに(質明?)、清将は若干の騎兵に先行させたので、世子も一緒に先行し、15里進んでに入った。の中には小作人頭の民家があったので、世子はお昼頃まで休憩したいとの仰せだったが、井戸や湧き水の類いはすべて枯渇しており、皆喉の渇きを訴えたのですぐに出発した。訳官李信儉禁軍金繼壽衙訳韓甫龍らが内書(?)や瀋陽館で保管していた報告書(留館狀達)を奉じて(瀋陽から?)やって来た。昼過ぎ(申時)、運河沿いに着いたのでここで宿営した。都摠都事權霌金瑜らが王族の食事を(水剌⇒スラ、饌≒飯饌⇒バンチャン?)を持って瀋陽から迎えに来た。この日は70里の行程だった。申繼黯らは一行と荷物(卜物?)を率いて夜明けから出発して(義錦)大路からに入った。

 やはり、漢土…ここは清朝直轄領モンゴルとの境界として機能しているみたいですね…。の中に入ったらまともな食事にありつけると心の支えにして来たのに、いきなりあてが外れて食事どころか飲み物にも事欠く有様でゆっくりとお茶すら出来なかったようですね。そんな状態でスラッカン(水刺館)の王族ごはんが瀋陽から着いたらさぞや美味しく感じたことでしょう。それにしても、ご飯についてはかなり臨場感ある紀行文ですよね…。

十七日 癸酉 雨
講院・薬房問安。答曰、平安。○質明、發行、行六十里、到遼河城外、晝點。未時、渡河、行二十里許、止宿。是日大雨、一行盡爲沾濕。

 6月17日 雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、調子がいいととの仰せだった。夜明けとともに(質明?)出発して60里進んだ。遼河城(大凌河城?=現在の辽宁省锦州凌海市一带?)に昼(晝點)到着。昼過ぎ(未時)、20里進んだ所で宿営。この日は大雨で一行は皆ずぶ濡れになった。

 と言うわけで、遼河城という地名がよく分かりません…。大凌河城なら錦州近くなのですが、似てるようで違う遼河城なわけでして…。まぁ、大凌河上流では正しく『大凌河』表記なので、大凌河城の部分だけ『遼河城』表記ってワケではないと思いますが、それらしい地名は出てくるモノの場所の特定は現段階では無理ですね。

十八日 甲戌 雨
講院・薬房問安。答曰、知道。○卯時、發行、行四十里、到永安橋、少歇于橋邊。留館人員、并來迎于永安橋。中路、清將行拜禮于皇帝墓、世子亦隨行焉。○未時、世子從北門、入還館所。○前參贊臣李敬輿・前判書李明漢・前同知臣許啓、誠惶誠恐、謹再拜上啓于王世子邸下。伏以臣等、脫南冠之囚、獲逐東返、喜北辰之近、猶切西悲、千里言旋、一心如戴。伏念臣等、忠慚死國、智昧周身、造次危迫之機、奚論有罪無罪、終始曲全之德、專荷大朝小朝、朔氣成春、恩渥洽露。伏遇王世子邸下、誠能感物、孝在寧邦、瞻望龍樓、久違日三之問寢、棲遑鶴野、幾痛陽九之罹災、仰體睿念之欲生、特濟微命於不測、臣等敢不漣漣灑涕、步步回頭、備嘗艱難、未效割股之願、歸與父老、益殫延頸之忱、臣等不勝感激惶恐之至、謹奉啓稱謝以達。

 6月18日 雨
 講院、薬房がお加減を確認したところ、分かったとの仰せだった。朝(卯時)出発。40里進んだ所で(盛京郊外の)永安橋に到着したので、世子は橋のそばで休憩された。瀋陽館に残っていた人員が永安橋まで迎えに来た。途中、清将は皇帝の陵墓に拝礼に行ったので世子も随行した。昼過ぎ(未時)、世子北門から(盛京に入城し)瀋陽館に帰還された。(後略)

 と、遼河城?という場所から翌日には瀋陽に到着しています。遼河城大凌河城だったとすると180Km離れた瀋陽にワープしたことになります。他に遼河城に相当しそうな場所が思いつかないので、この問題には決着がつきそうにありませんが…。
 ただ、食糧事情は北京と比べて雲泥の差で良かっただろう瀋陽に到着して、人質の身とは言え住み慣れた瀋陽館にようやく帰ってきたわけです。4/9に出発してから二ヶ月あまりしてようやくの帰還ですが、入関作戦に同行して移動に一ヶ月程度かかっている事を考えると、やはりトビウオターンの強行軍です。日程だけ見ると行きより帰りの方がウルトラ強行軍なんですね…何だってこんなに急き立てたれるように瀋陽目指したんでしょうか…。お腹が空いてた以外の積極的な理由が見当たらないのがナンですが…。
 明代にしても清代にしても朝鮮使節北京に向かう場合は、基本的には陸路国境を越えて瀋陽なり遼陽を通過して山海関経由で北京に入っていますからiii、復路とは言えモンゴル経由で帰還することはありません。まぁ儀礼的な使節団の順路と戦時中の行軍ルートを比較してどうするんだった話ですが…。
 あと、帰路に皇帝の陵墓に寄ってるわけですが、この位置から行けるのはホンタイジの陵墓である昭陵なんでしょうけど、この頃には整備済んでいたんでしょうかねぇ…。ともあれ、永安橋昭陵瀋陽の北側にあるので、そうなるとやはり毉巫閭山を北回りのルートを辿ってきたと考えた方が合理的ですが…遼河城が引っかかります…。遼河辺りにあった防御施設くらいの緩い解釈でいいのかしら…。

(仁祖22年6月)○癸未(27日)/賓客任絖、輔養官金堉等在瀋陽馳啓曰:“世子之行,六月十八日還自北京。淸人將於八月望日,移都北京,兩宮亦將一時入往,夫馬三百匹之內,世子命減五十匹。第念,驛馬疲困已甚,不可以駕轎,若買騾代之,則事甚便易,請令廟堂指揮。九王言曰:‘元孫本非久留之人,卽令還送本國,諸孫則世子之行,宜一時率來。麟坪大君則未經痘疫,待鳳林大君人來,交替出去,而鳳林則自本國,直到北京爲當。’云。且‘前頭將有大擧,極擇砲手、火兵之壯健者,整齊於七月之前,來待於安定之間,聞令卽赴師期。而若不精擇,則相臣、兵判難免其罪。’云。俄而鄭譯又來,言于館所曰:‘質子九員中一人不來,事極不當,依前充數入送。鳳林之行,亦趁七月二十五日入瀋爲當。’云。”iv

 で、世子が6/18に瀋陽館に戻ったことは《朝鮮王朝実録》でも確認が取れます。ここでは、北京から帰還した世子が飼馬300匹の内50匹が損害があったことが第一に触れられていて、そこかよ?って感じもしますが、入関作戦成功の興奮なり、明朝滅亡の悲嘆より現実的な飼馬の損害に触れているのは個人的には印象的です。更に、7月には鳳林大君(後の孝宗)が世子に替わって北京に直接来るように、ドルゴンから指示があった旨言及されています(天然痘に罹患していない麟坪大君は免除されてます)。おまけに火砲の精兵を選んで7月には寄越せ、基準に達していない場合は罪に問うからそのつもりでと付け加えてますね…。さらに、瀋陽館から随行した職員の内9人に1人は帰ってこなかったというのになんと理不尽極まりないことに、補充するように求められているので鳳林大君一行はまず7/25までに瀋陽入りして欲しいと、瀋陽館からもメッセージがあったようですね。
 …と言うわけで、《昭顕瀋陽日記》の記述を補う面白い記事はあるものの、世子のルートに関わるような記述はありませんでした。
 瀋陽館の位置と昭顕世子のその後についてちょっと調べて居るので、まとまったらまた記事を上げると思います。

参考文献:
동궁일기역주팀 편『影印 昭顯瀋陽日記 昭顯乙酉東宮日記(영인 소현심양일기 소현을유동궁일기)』민속원(民俗苑)
김동준 지음『역주 소현심양일기4 소현을유동궁일기(訳註 昭顯瀋陽日記4 昭顯乙酉東宮日記)』민속원(民俗苑)
于敏中 等編《日下舊聞考》北京古籍出版社
清史图典》第一冊 太祖太宗朝 紫禁城出版社
松浦章『近世中国朝鮮交渉史の研究』思文閣
朴趾源/今村与志雄 訳『熱河日記1 朝鮮知識人の中国紀行』東洋文庫325

  1. 《日下旧聞考》巻101 京畿⇒「明李貢併三河驛記略 三河縣東有驛曰公樂,西有驛曰夏店,皆去縣二十里。」 [戻る]
  2. 《日下旧聞考》巻114 京畿⇒「薊州三十里至邦軍店,三十五里至下店。松漠紀聞 〔朱昆田原按〕邦軍今志作邦均。下店今志作夏店。〔臣等謹按〕邦均店在州西三十里。夏店隸三河縣境。」 [戻る]
  3. 『近世中国朝鮮交渉史の研究』に引く《通文館志》によると、清朝への朝鮮使節は鴨緑江⇒鎮江城⇒湯站⇒柵門⇒鳳凰城⇒鎭東堡⇒鎭夷堡⇒連山關⇒甜水站⇒遼東⇒十里堡⇒盛京⇒邊城⇒巨流河⇒白旗堡⇒二道井⇒小黒山⇒廣寧⇒閭陽驛⇒石山站⇒小遼河⇒杏山驛⇒連山驛⇒寧遠衛⇒曹庄驛⇒東關驛⇒沙河驛⇒前屯衞⇒高嶺驛⇒山海關⇒深河驛⇒撫寧驛⇒永平府⇒七家嶺⇒豊潤縣⇒玉田縣⇒薊州⇒三河縣⇒通州⇒北京と言うルートを辿って北京に到っている。また、乾隆年間の朝鮮使節団の紀行文でもある『熱河日記』の旅程は更に詳細だが、基本的に多様なルートを辿っている。 [戻る]
  4. 《朝鮮王朝實錄》仁祖實錄 卷45 二十二年(1644) [戻る]

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