普渡寺=睿親王府
と言うワケで、2008年11月に北京に行った際に観光した場所の第二段。このときの旅のテーマである普度寺=睿親王府です。
結構見かけない様式の建築
で、この普度寺、元々明代には皇城東苑とか小南城とか言われておりました。皇太子が居住する重華宮という宮殿だったようですね。有名なところでは土木の変後、北京に送還された正統帝がこの宮苑の敷地内にあった崇質宮で景泰帝に幽閉されたとか言われてます。まあ、天順帝になってまた皇城に戻るわけですけど。
あんまりかっこよくないドルゴン像
で、清初には睿親王・ドルゴンが重華宮を府邸を定めました。大体、世襲鉄帽子王家でも北京内城に府邸を置くことはあっても、ドルゴンのように皇城内に府邸を置くことはその後もありませんでした。北京に入場した際に一時的に武英殿で玉座についたというのも肯けますね。ドルゴンが執政した当時は夜になっても車馬が絶えることが無かったと言います。
民家一つ分高い基壇の上に建ってます
で、どの文献を見ても「睿親王府は土台が高く、宮城が見渡せた」という類のことが書いてあるんですが、今ひとつピンと来なかった訳です。ちなみに、この高台が皇城と秘密の通路でつながっている…という類の伝説もあるみたいですね。その通路を通ってドルゴンは紫禁城と睿親王府を行き来したとか言うコトになってるみたいです。
車と比較すると基壇が相当高い
ご存じの通り、ドルゴンは齢三十九という若さで狩猟中に死去した後、順治帝により大逆の罪に問われて睿親王家の王位は剥奪されて、皇籍からも抹消されました。
山門の中が睿親王府と普度寺関連の展示室です
この時、府第も没収されたのですが、一時は皇帝と同様に義宗という廟号までドルゴンは追号されていますから、その後王府は再利用されることは無く、次第に荒れてゆきました。
で、順治帝の短い治世が過ぎて康煕帝の御代になると、元々冤罪であったドルゴンの名誉回復が行われ、次いで睿親王府跡もモンゴルから招来したマカカラ仏=大黒天を祀る嗎噶喇廟に改装されました。
マカカラ仏の残骸らしきモノの展示
更に乾隆年間に修築されて嗎噶喇廟は普渡寺もしくは普度寺と改称されます。ちなみに《乾隆京城全図》1では啞滿逹■嘎廟2となっています。
使い勝手良すぎ今の学生恵まれすぎ
おそらく、普度寺に改称される前の地図なんでしょうけど、嗎噶喇廟と音通…と言いたいけど言えないような字面ですね…。それにしても、ディジタル・シルクロードが公開している《乾隆京城全図》のGoogle Earth版=古都北京デジタルマップの使いやすさは異常です。
ちなみにドルゴンは鑲白旗の旗王です
《日下旧聞考》3によると、乾隆年間の普度寺にはマカカラ像とともにドルゴンの遺品(武具など)が安置されていたようです。その後、国家の庇護の元、清末まで普度寺は広大な境内を所有しつつ、《天咫遇聞》4によると、マカカラ像らしき仏像とドルゴンの遺品とともにかれの護衛兵というかバートルの像も残っていたという記述があります。
おされシティー
しかし、さしもの普度寺も辛亥革命後は廃れていきます。中共成立後にはついに南池子小学校の校舎として使用されたようです。文革の被害とも無縁ではなかったはずです。少なくとも1980年代には辿り着くのも難しい様なごちゃごちゃとした胡同の中にあったようで、中の建築はお世辞にも良い保存状態ではなかったようです5。
北京税務博物館(月曜休館)
その後、1990年代の改革開放とともに徐々に整備され、2007年05月16日に北京税務博物館として一般公開されるに至ったわけです6。自分が行った時には周りも景観区としてかなり整備されいて、迷うかと思ってビクビクしながら探したら意外にも一発で発見できました。…もっとも、定休日で北京税務博物館として解放されている本殿には入れませんでしたが…。
看板ドーン!
正直、叡親王・ドルゴンに思い入れが無い人にお勧めできるほどすばらしい観光地ではないのですが、ドルゴンと聞いてピンとくる方は是非訪問してはいかがでしょうか?タダですし…。
本殿の基壇自体も高い
- ディジタル・シルクロード – 文化遺産のデジタルアーカイブ ↩
- ディジタル・シルクロード > 古都北京デジタルマップ > 地名検索 ↩
- 于敏中等編《日下旧聞考》北京古籍出版 巻四十 皇城 ↩
- 震鈞《天咫遇聞》北京古籍出版 巻一 皇城 ↩
- 阿南・ヴァージニア・史代/小池晴子『千年の都北京 樹と石と水の物語』ランダムハウス講談社 P.97 「〈大黒〉を祀る石の基壇」 ↩
- 北京税务博物馆向社会免费开放 ↩