愛新覺羅宗譜

 ネットでツラツラ検索していて、《愛新覚羅宗譜》についての記事を見つけたので、リンクを上げときます。

愛新覺羅宗譜─台灣Wiki

 内容に関してどの巻にどの系譜が載っているのか、ザッと載っていたので抜き出してみます。

學苑出版社1998年影印本31冊分卷內容如下:
甲冊1-4: 德宗景,穆宗毅,文宗顯,宣宗成,仁宗睿,高宗純,世宗憲,聖祖仁,世祖章,太宗文皇帝位下之子孫。
乙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第1子貝勒褚英,第2子親王代善,第3子鎮國公阿拜之子孫。
丙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第4子鎮國將軍湯古代,第5子鎮國莽古爾泰,第6子輔國公塔拜,第7子親王阿巴泰,第9子鎮國公巴布泰,第10子鎮國德格類,第11子鎮國巴布海,第12子鎮國阿濟格,第13子輔國公賴慕布,第14子親王多爾袞,第15子親王多鐸,第16子費揚果之子孫。
丁冊1-4: 顯祖宣皇帝位下第2子貝勒穆爾哈齊,第3子親王舒爾哈齊,第5子貝勒巴雅喇之子孫。
丁冊5: 玉牒之末:太宗文皇帝位下第1子武肅親王豪格之第5子溫良郡王勐峨之第3子延信此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第1子廣略貝勒褚英之第1子安平貝勒杜度之第6子追封懷愍貝子杜努文之第1子蘇努此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第2子禮烈親王代善之第1子克勤郡王岳托支下奉恩將軍興瑞之第1子全亮比支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第2子禮烈親王代善之第2子碩托此比支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第2禮烈親王代善之第3子穎毅親王薩哈之第1子阿達里此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第6子輔國厚公塔拜之第2子額克親之第6子額爾濟圖此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第7子饒余敏親王阿巴泰之第4子安郡王岳樂之第19子務爾占此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第5子莽古爾泰此支降為紅帶子,太祖高皇帝位下第10子德格類此支降為紅帶子。
戌冊1: 景祖翼皇帝位下:第1子武功郡王禮敦巴圖魯,第2子多羅慧哲郡王額爾袞,第3子多羅宣獻郡王齋堪,第5子多羅恪恭貝勒塔察篇古之子孫。
戌冊2: 興祖直皇帝位下:第1子德世庫 第1子 第1子素赫臣,第2子譚圖,第3子尼揚古之子孫。
戌冊3: 興祖直皇帝位下:第2子劉聞 第1子陸虎臣,第2子瑪英格,第3子門圖之子孫。
己冊1-5: 興祖直皇帝位下:第3子索長阿 第1子履泰,第2子務泰,第3子綽奇阿注庫,第4子龍敦,第5子飛永敦之子孫。
庚冊1-2: 興祖直皇帝位下:第5子包郎阿 第1子隋痕,第2子巴孫巴圖魯,第3子對秦第4子郎騰之子孫。
庚冊3: 興祖直皇帝位下:第6子寶實 第1子康嘉,第2子阿哈納,第3子阿篤齊第4子多羅郭齊之子孫。
索引1-2: 愛新覺羅·常林主編。
付錄: 星源吉慶

 この中でも特に宗室與覺羅の項目は注目に値するので、改行を加えて抜き出してみましょう。宗室の中でも罪を犯して民間人に落とされた支族を紅帯子ギョロ(准宗室)の中で罪を犯して民間に落とされた氏族を紫帯子と称したようですね。その中でも紅帯子十八支族を紹介しているのでメモ。

據《玉牒》統計,在宗室各支系中,先後有18個支系被降束紅帶子:
①顯祖塔克世三子舒爾哈齊長子阿爾通阿長子舒爾赫一支⇒シュルガチ(Šurgaci)の長子・アルトゥンガ(Alutungga)の長子・舒爾赫の支族。
②顯祖塔克世三子舒爾哈齊次子阿敏之孫塞克圖次子拉哈禮一支⇒シュルガチの次子・アミン(Amin)の孫・塞克圖の次子・拉哈禮の支族。
③顯祖塔克世三子舒爾哈齊次子阿敏次子愛度一支⇒シュルガチの次子・アミンの二子・アイドゥリ?(Aiduri?)の支族。
④顯祖塔克世三子舒爾哈齊六子濟爾哈朗之孫楊桑長子務能義一支⇒シュルガチの六子・ジルガラン(Jirgalang)の孫・楊桑の長子・務能義の支族
⑤顯祖塔克世三子舒爾哈齊九子腦岱一支⇒シュルガチの九子・腦岱の支族
⑥顯祖塔克世五子巴雅喇四子鞏阿岱一支⇒バヤラ(Bayara)の四子・ゴンガダイ(Gongadai)の支族
⑦顯祖塔克世五子巴雅喇五子錫翰一支⇒バヤラの五子・シガン(Sigan)の支族
⑧顯祖塔克世五子巴雅喇八子德瑪護一支⇒バヤラの八子・德瑪護の支族
⑨太祖努爾哈赤長子褚英曾孫蘇努一支⇒チュエン(Cuyeng)の曾孫・スーヌ(Sunu)の支族
⑩太祖努爾哈赤次子代善九世孫興瑞之子全亮一支⇒ダイシャン(Daišan)九世の孫・興瑞の子・全亮の支族
⑪太祖努爾哈赤次子代善次子碩托一支;ダイシャンの二子・ショト(Šoto)の支族
⑫太祖努爾哈赤次子代善三子薩哈廉長子阿達禮一支⇒ダイシャンの三子・サハリヤン(Sahaliyen)の長子・アダリ(Adali)の支族
⑬太祖努爾哈赤五子莽古爾泰一支⇒マングルタイ(Manggûltai)の支族
⑭太祖努爾哈赤六子塔拜之孫額爾濟圖一支⇒ダバイ(Dabai)の孫・額爾濟圖の支族
⑮太祖努爾哈赤七子阿巴泰四子岳樂十九子務爾佔一支⇒アバタイ(Abtai)の四子・ヨロ(Yolo)の十九子・務爾佔の支族
⑯太祖努爾哈赤十子德格類一支⇒デゲレイ(Degelei)の支族
⑰太祖努爾哈赤十六子費揚古一支⇒フィヤング(fiyanggû)の支族
⑱太宗皇太極長子豪格五子猛我三子延信一支⇒ホーゲ(Hooge)の五子・猛我の三子・ヤンシン(Yansin)

 この中で分かるのが逆に、天聰末年のマングルタイデゲレイ崇徳末~順治初年のショトアダリアイドゥリ順治半ばのゴンガダイシガン雍正初年のスーヌヤンシンくらいですから、半数しか分からないってコトですね。《欽定宗室王公功績表伝》の以罪黜宗室貝勒に伝がある、バヤラの二子・バイントゥも兄弟であるゴンガダイシガンとともに、順治帝ドルゴンのシンパとして罰せられたハズなんですが、嘉慶4年に子孫は宗室に戻されているみたいですね。
 てか、アルトゥンガすら《清史稿》では存在抹殺されているのに、その子供とか…とか、アイドゥリらしき人出てきたよ!とか、色々興味深いんですが取りあえず現物は来週見に行くので楽しみです。

艾度禮 その3

 さて、そんな訳で前回からの続きでアイドゥリのネタです。現政権への不満を願文にしたためていたことがバレたアイドゥリは妻子と、何故か公府直属の医者と供に処刑されました。で、正確な月日が分からないモノの先の記事からそう遠くない段階の記事と思われるのが、次の記事。
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艾度禮 その2

 と言うワケで以前書いた艾度禮という記事にコメントを頂きまして…。
 どうやら、この時に取り上げた鎮國公・アイドゥリが磯部淳史「清朝順治初期における政治抗争とドルゴン政権」『立命館東洋史學』第30號で言及されてる様ですね。こないだ大学図書館に行ってEvernoteにクリップしておいたので、確認してみました。
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《瀋陽状啓》八月二十六日

 さて、清初を扱った論文を読んでいると、《瀋陽状啓》という書名にぶち当たることがあります。これ何かというと、瀋陽ムクデン・ホトンに人質として抑留させられていた李氏朝鮮世子…つまり王太子である昭顕世子朝鮮王仁祖に提出していた報告書ですね。存在は知っていたモノどういった性質の書物かよく分からず、興味はあったのですがほったらかしにしてたんですが、サクッと検索したところ国立国会図書館デジタルアーカイブに戦前の本が登録されてるのをうっかり発見しました。

国立国会図書館デジタルコレクション 瀋陽状啓

 戦前の帝大であった京城帝国大学の法文学部の出版ですね。どうやら朝鮮王朝奎章閣に保管されていた書簡を校訂して出版したようです。影印が巻頭に載っていますが、これを解読するのはさぞ骨が折れたと思います。しかも、純粋な漢文ではなく朝鮮王朝で使用された漢文なので、朝鮮語発想で書かれた文章は非常に読みにくいです。これは日本で書かれた漢文日本語発想で書かれているので却って読みにくいのと同じことでしょうね。語尾に謎の文字列が登場しますが、あまり気にしない方向で読み飛ばしました。
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喀喇城と避暑山荘

 さて、今回はドルゴン終焉の地、喀喇城について。順治7(1650)7月には病床に伏せて死期まで悟ったドルゴンが何故かこの年の11月に狩猟に出かけます。出かけた先の喀喇城で逝去します。

(順治七年)十一月,復獵於 邊外。十二月,薨於喀喇城,年三十九。i
十二月戊子,攝政和碩睿親王多爾袞薨於喀喇城ii

 ところでこの喀喇城って何処なんでしょう。邊外と書かれているからには長城より外だと考えていいんでしょうけど。と、ココで遡って同年7月の記事を見てみましょう。

(順治七年七月)乙卯,攝政王多爾袞議建邊城避暑,加派直隸、山西、浙江、山東、江南、河南、湖廣、江西、陝西九省錢糧二百五十萬兩有奇。iii

 ドルゴンが病床にあった7月に、避暑のために邊外に拠点を建設するために直隸山西浙江山東江南河南湖広江西陝西に課税したとありますね。病身をおしての狩猟も避暑地の選定のためだと考えて良さそうです。で、何のための避暑地かというと、モンゴル政策を重視したドルゴンですからおそらくモンゴル王公の懐柔のためでしょう。終焉の地である喀喇城がその候補地であった可能性は高いと考えられます。

(順治八年二月)辛卯,罷邊外築城之役,加派錢糧准抵八年正賦,官吏捐輸酌給議敘併免之。iv
(順治八年二月)辛卯。諭戶部。邊外築城避暑、甚屬無用。且加派錢糧、民尤苦累。此工程著即停止。其因築城加派錢糧、朕本欲將已徵者發還百姓。v

 で、この避暑拠点建設に対して順治帝…というかポストドルゴン政権とでも言うべき、ジルガラン孝荘文皇后順治帝の連合政権は否定的だったようで、ドルゴンの死後2ヶ月ですぐさま避暑拠点の建設の中止を命令しています。

(順治八年五月)丁亥。上駐蹕喀喇城vi

 それでも、同年5月には順治帝喀喇城に行幸しています。しかし、順治帝喀喇城に赴いたのは後にも先にもこれっきりですね。実際まだまだ南明政権が頑張ってますし、漢土がマダマダ疲弊してる時期に避暑拠点を作るのは現実的ではなかったのかも知れないですね。ドルゴンが避暑拠点の建設を急いだのも死期を悟ったからでしょうし、ドルゴンが居なくなった以上避暑拠点の建設を急ぐ必要は無くなったとみるべきでしょう。
 で、これで避暑拠点が頓挫してしまったのかというとそうではありません。

(康熙十六年九月)丙申。(中略)鎮國公烏忒巴喇、弓矢駕還至喀喇和屯南駐蹕。vii
(康熙十六年九月)丙申,次喀拉河屯viii

 で、時代変わって康煕16(1677)年になると康煕帝が狩猟に喀喇和屯を訪れています。この喀喇和屯って何処なんでしょう?って所ですが、ナンのコトはない、喀喇城のことですね。そもそもがモンゴル語のQara Hoton=黒き城を中途半端に漢語に訳すかそのままモンゴル語の音訳で通すかの違いです。喀拉河屯も同音なので気にすることはないです。なので、これから後はハラ・ホトンで通します。

(康煕四十年十二月。)癸亥。上行圍。射殪一虎。是日、駐蹕喀喇和屯ix

 で、いつ頃かは不明ですがこの頃にはハラ・ホトンに避暑拠点が出来ていたようです。課税されたとか建設されたとか実録にも本紀にも記事は無いのですが康煕16(1677)~康煕40(1701)年の間に建設されていたようです。この辺ザッと調べただけでは分かりませんでした。

康熙四十二年,建避暑山莊於熱河,歲巡幸焉。x

 で、かの有名な避暑拠点である承徳避暑山荘康煕42(1703)年に建設が始まります。ハラ・ホトンがテストケースとして避暑山荘の参考になった事は間違い無いでしょう。なぜ、ハラ・ホトンの拡張という方向に構想が進まなかったのかは謎ですが。

雍正初,遣京兵八百赴熱河之哈喇河屯三處創墾,設總管各官。xi
西南:沽河自獨石口廳入,與湯河、紅土峪、馮家峪、黃崖口、水峪、白道峪、大水峪諸河並入密雲。其西雁溪河入懷柔。有喀喇河屯、王家營、常山峪、 兩間房、巴克什營五行宮。邊牆東首漢兒嶺,西訖幵連口。 喀喇河屯、大店子、三道梁、馬圈子、紅旗、呼什哈、喇嘛洞七鎮。xii乾隆三年(中略)四百駐喀喇河屯xiii

 で、その後ハラ・ホトンはお払い箱になったのかというとそうでも無いようで、雍正年間には駐留兵の規定も決められたようですし、乾隆年間にも駐留兵がいたことは記録があります。拠点的な意味は避暑山荘に譲ったのでしょうが、避暑山荘近辺の中核都市としてその後も存在した様ですね。

熱河所屬總管(中略)千總、委署千總分駐兩間房、巴克什營、長山峪、王家營、喀喇河屯、釣魚臺、黃土坎、中關、十八里臺、汰波洛河屯、張三營、吉爾哈郎園。xiv

 で、なんでハラ・ホトン承徳避暑山荘の近くにあったと断定するかというと、まぁ、ハラ・ホトン承徳と同じく熱河省の管轄だからです。熱河省には他にも波洛河屯ポロ・ホトンという行宮もあったようですね。流石康煕年間お金のかけ方が違う感じデス。

 つまるところ、ドルゴン終焉の地は承徳避暑山荘にほど近い場所で、一度は順治帝に否定はされたものの、避暑拠点を建設してモンゴル諸侯の懐柔のために活用する…というドルゴンの悲願は康煕年間に実を結ぶわけです。モンゴル政策重視はなにもドルゴンの専売特許ではありませんが、避暑山荘建設のアイデア自体はドルゴンが始めて建義したアイデアであったと言うコトです。

 そう言えば、入関前は山海関を重視したダイチンが入関後は古北口を重視するようになるのはまぁ、地理的状況とマンジュの故地よりも対モンゴル政策を重視したことってコトになるんでしょうね。

  1. 《清史稿》卷二百十八 列傳五 諸王四 太祖諸子三 睿忠親王多爾袞 [戻る]
  2. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖本紀一 順治七年 [戻る]
  3. 清史稿卷四 本紀四 世祖本紀一 順治七年 [戻る]
  4. 清史稿卷五 本紀五 世祖本紀二 順治八年 [戻る]
  5. 順治実録巻五十三 順治八年二月 [戻る]
  6. 順治実録巻五十七 順治八年五月 [戻る]
  7. 康煕実録卷之六十九 [戻る]
  8. 清史稿卷六 本紀六 聖祖本紀一 康煕十六年 [戻る]
  9. 康煕実録卷之一百六 [戻る]
  10. 清史稿卷五十四 志二十九 地理一 承德府 [戻る]
  11. 清史稿卷一百二十 志九十五 食貨一 田制 [戻る]
  12. 清史稿卷五十四 志二十九 地理一 承德府 [戻る]
  13. 清史稿卷一百三十 志一百五 兵一 [戻る]
  14. 清史稿卷一百十八 志九十三 職官五內務府 [戻る]
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