再三自分は白旗三王の中ではアジゲの狂人ぶりをいつも喧伝しているワケですが、比較的常識人というかおとなしいと言われるドドも大概だよなぁ…。と言う記事がいくつか出てきたので、メモ代わりに。
tere inenggi han munggatu daru hendume sini eruke Cugehur Beile etuku mahala fiyan encu: efiyen sebjen de dosifi ice jihe monggo nikan de u sailan ujirakū: tere gisun de munggatu jabume ere gisun be beile de alaci omobio seme jabuha : han henbume si ume alara: bi jai šolo bahade elheken ambasa be isabufi hendure sehe :
(天聰五年十一月)同日、HanがMunggatuに向かって言うには、「汝のErke Cugehur Beile は衣服や帽子、風体が異様だ。遊興に耽って新来の蒙古人や漢人をよく養わない。」この言に対してMunggatuが答えるには、「この言をBeileに告げてよいか」と答えた。Hanが言うには、「汝は告げるな。我があらためて暇のあるときに、おもむろに大臣らを集めて言う」と言った。
東洋文庫に行ってようやく都市伝説ではないことが確認できた『内国史院檔 天聰五年』をパラパラ読んでいてこんな記事にぶつかりました。どうも、han=ホンタイジはErke Cugehur Beile=ドドが、麾下の旗人を養うというベイレとしての責務を全うしないのに、傾き者みたいな格好してどんちゃん騒ぎを送っていることを快く思っていないようです。ここで、正白旗人であるムンガトゥにあれどうなっとるんや?と聞くのは、旗人は旗王を補佐し、時に教導する役目を期待されていたからです。なので、ムンガトゥはこの事を旗王であるドドに報告していいかどうかホンタイジに聞いているわけです。ムンガトゥはこの年決められた六部の人事で工部承政となっているので、ホンタイジよりの旗人で…もっと踏み込んで言うとスパイ的な役割を期待されていたんですけど。
(崇徳四年五月辛巳)爾兄睿親王、輿諸貝子大臣、及出征将士、皆有遠行。朕雖避痘、猶出送之。爾乃假托避爲詞、竟不一送、私攜妓女。絃管歡歌、披優人之衣。
で、それから10年近くたって、ホンタイジはドドを叱責するのですが、直接的にはドルゴンが遠征するというのに、天然痘が流行しているのでドドが外出を恐れて見送りに参加しなかったからです。ただ、この時はホンタイジすら天然痘に罹患する危険を冒して遠征するドルゴンらを送っているのにおまえと来たら結局は見送らなかったばかりか、こっそりと妓女と一緒に優人の服に着替えてどんちゃん騒ぎをしてたそうじゃないか!と、やっぱり最終的にはホンタイジの常識から逸脱したドドのファッションについても追求しています。ドドは質実剛健な当時の清朝にあってはセンスが尖りすぎたのかもしれません。
(崇徳八年十月戊子)多羅豫郡王多鐸、謀奪大學士範文程妻。事覺、下諸王・貝勒・大臣鞫訊。得狀。多鐸、罰銀一千兩。竝奪十五牛彔。和碩肅親王豪格、坐知其事不發。罰銀三千兩。
ただ、ドドというとこの記事が有名なのですが、ホンタイジが崩御して二ヶ月という時期に、范文程の妻を誘拐しようとして発覚してます。この時期はドルゴンとジルガランの二巨頭体制の時期です。ドドの処罰はドルゴン派の勢力を削ぐ意図が有るのか?と思いたいところですが、この時は誘拐計画を知りながら通報しなかった…と言う罪状でホーゲが罰を受けています。ドルゴンはこの事件を機に自身の鑲白旗とドドの正白旗を入れ替えていますから(八旗の序列的に正白旗の方が鑲白旗よりも地位が高いのです)、順治帝即位のいざこざで一時期ホーゲに接近したドドを処罰した主体はドルゴンだと考えられます。裏切られるとまでは行ってないんでしょうけど、白旗三王が一枚板ではなかったことの証左としてよく引き合いに出される記事です。
にしても、アジゲにしろドドにしろ精力が有り余る感じの逸話も多いので、ドルゴンの気苦労を思うと何とも痛ましいです。幾ら正妻の喪が明けないうちにホーゲ未亡人であるその妹と婚儀上げたり、同時期に朝鮮からの貢女を求めたりしても、ドルゴンは随分ストイックで周りに当てにできる親族がいなかったんだな…と、応援したい気持ちになります。