アジゲの末路について

 と、図書館に行った時に《清史列傳》をパラパラめくるとこんな記事に遭遇しました。

清史列傳⇒八年正月、攝政王薨於喀喇河屯、王赴喪次、即歸帳。其夜、諸王赴臨、王獨不至。而私遣人至京召其第五子郡王勞親以兵迎脅摂政王所属人附己。詐言摂政王悔以多爾博爲子、曾取勞親入正白旗、又怨摂政王不令豫親王子多尼詣己、詰責豫親王舊属阿爾津、僧格、且諷端重親王博洛等速推己摂政。至石門、上迎喪、王不去佩刀、勞親兵至、王張纛與合隊、左右座舉動甚悖。攝政王近侍額克親、吳拜、蘇拜等首其欲爲乱、鄭親王等即於路監守之。至京、鞫實、議削爵、幽禁、降勞親貝子。閏二月、以初議阿濟格罪尚輕、下諸王大臣再議、移繋別室、籍其家、子勞親等皆黜宗室。三月、阿濟格於獄中私藏兵器事覺、諸王大臣復議「阿濟格前犯重罪、皇上従寛免死、復加恩養、給三百婦女役使及童僕、牲畜、金銀、什物、乃伋起亂刀四口、欲暗掘地道與其子及親腹人約期出獄、罪何可貸?應裁減一切、止給婦女十口及随身服用、餘均追出、取入官。」。十月、監者告阿濟格謀於獄中舉火、於是論死、賜自盡、爵除。 (中略 乾隆)四十三年正月、諭曰「朕覽實録載英親王阿濟格秉心不純、往追流賊、誑報已死、又擅至沿邊索馬、且向巡撫囑託公事、過跡昭著、雖前此亦有微勞、究不足以抵其罪、黜爵實由自取。至其子孫前此降爲庻人、削其宗籍(後略)」i


 ドルゴン死亡時にアジゲがクーデターを企てた事が書かれてます。まず、順治8年1月、ドルゴンの遺体が京師に入る前に、アジゲが息子である郡王ロウチンドルゴンの旧臣の元に送っった事が書かれてます。この際にロウチンは、ドルゴンは生前ドルポを養子としたことを悔やんでいたとか、ロウチン正白旗に編入された際にもドドが息子であるドニを挨拶に寄こさなかったことを愚痴っていたなどど言って、ドド旧臣であるアルチンソンゲを難詰したり、端重親王ボロロウチンを摂政に推薦しなかった事をあげつらったと…。いやに具体的です。その後、アジゲロウチンの引き連れた兵と合流して帯刀したまま、葬列を迎えに行った順治帝王公と対峙します。ドルゴン旧臣のエクチンウバイスバイらもアジゲにつきますが、鄭親王ジルガラン順治帝を守り通します。これだけ決定的なタイミングで叛乱起こしたのなら、何で討ち漏らしたのか謎ですから、アジゲ摂政王を継ぐことが既定路線だったのを、順治帝ジルガランが結託してアジゲ一派を些細な事を理由に排除した…とも考えられそうですが、清朝の公式見解ではアジゲが叛乱を起こそうとして失敗したという事になります。権力闘争が激しい割に武力衝突にまで発展しない清朝の皇族間の抗争らしいと言えばらしいですね。ともあれ、ここでアジゲは捕縛されて、議政王大臣会議の審議を経て幽閉され、アジゲは幽閉、ロウチンベイセに降格されます。
 その後、閏二月、罪の重さに比して罰が軽すぎると、再び議政王大臣会議が開かれて、アジゲの幽閉場所を移し財産を没収し、ロウチンはじめとした息子たちは皇籍を剥奪されました。アジゲはこれまで幽閉されていただけで、ここであえて別室に繋がれるとされているのは、もしかすると自宅謹慎程度で済まされてたのが、牢獄に移されたんですかね…。すると翌三月、アジゲが牢獄に刀四振りを隠し持っていたことが発覚し、また議政王大臣会議にかけられます。ここで、アジゲは死罪に処されるような重罪を犯したのに死を免じられただけでなく、獄中で不自由がないように婦女や童僕合計300人、牧畜、金銀や食器が支給されたのも関わらず、刀を隠し持っていた上に、密かにトンネルを掘って家族や腹心を脱獄計画を練っていたようです。この際支給された婦女童僕は召使いとか身の回りの世話をする人たちでしょうけど、300人はいかにも多いでしょうし、牢獄というイメージから想像できない生活してそうです。更に脱獄計画を練るとか、他の皇族には見られない破天荒ぶりです。流石に一切の支給を打ち切り、婦女10人を身の回りの世話に残して、他は没収して国庫に戻したようです。
 10月、今度は牢獄からアジゲが牢獄に放火しようとしたと報告があります。議政王大臣会議では流石に死罪とされ、アジゲは死を賜わって自尽します。なんだかんだ、アジゲは叛意を明らかにしたというのに、死一等を免じられた上、獄中で大尽生活を送ったあげく、脱獄計画とか放火計画とかを練って…と好き放題しないと、死罪には問えなかった…と言うことでしょうか。妥協しない順治帝にしては悠長なことしているイメージですねぇ…。案外アジゲの処断については順治帝をしても慎重になる案件だったんですかね。
 で、時は流れて乾隆43年正月に、《世祖章皇帝実録》を読んだ乾隆帝は「アジゲは流賊を追跡すれば李自成は死んだと虚報を流し、辺境に行けば勝手に馬を放牧するし、公事を巡撫に任せたりと、ろくでもないことばかり目立つ。わずかな功績があったとしても、結局罪を相殺するには足りないので、皇籍を剥奪されたのは当然だろう。その子孫は庶民に落とされ皇籍を剥奪されている。」と、まぁ乾隆帝アジゲは散々な評価を下されていますね。

 あらら~?と思ったのは《清史稿》ではこの辺の詳しいことはスッ飛ばされているからですね。

清史稿⇒(順治)八年正月,多爾袞薨于喀喇城,阿濟格赴喪次,諸王夜臨,獨不至,召其子郡王勞親以兵脅多爾袞所屬使附己。喪還,上出迎, 阿濟格 不去佩刀。勞親兵至, 阿濟格張纛與合軍。多爾袞左右訐阿濟格欲為亂,鄭親王濟爾哈朗等遣人于路監之。還京師,議削爵,幽禁。逾月,復議繫別室,籍其家,諸子皆黜為庶人。十月,監守者告阿濟格將于繫所舉火,賜死。(中略)乾隆四十三年,命阿濟格之裔皆復宗籍。ii

 実に簡潔すぎて面白いところが抜け落ちてます。

 で、折角なので乾隆年間編纂の《欽定王公宗室功績表傳》を確認して見ました。ちなみにこれは《四庫全書》収録の《欽定王公宗室功績表傳》です。

欽定王公宗室功績表傳⇒(順治)八年正月、攝政王薨於喀喇河屯。王赴喪次即歸帳。其夜、諸王赴臨、王獨不至。而私召其第五子郡王勞親。上迎䘮、王又不去佩刀。攝政王近侍額克親、吳拜、蘇拜等發其意圖攝政事。鄭親王等即于路監守之。至京、議削爵、幽禁。降勞親貝子。閏二月、以初議阿濟格罪尚輕、下諸王大臣復議。因移繋別室、籍其家、子勞親等皆黜宗室。十月、監者告、阿濟格欲于獄中舉火論死。賜自盡爵除。乾隆四十三年正月、諭曰「朕覽實録載英親王阿濟格秉心不純、往追流賊、誑報已死、又擅至沿邊索馬、且向巡撫囑託公事、過跡昭著、雖前此亦有微功、究不足以抵其罪黜爵實由自取。至其子孫前俱降為庶人、削其宗籍(後略)」iii

 こちらも《清史稿》とあんまり変わらないですね…。乾隆帝のあたりは《清史列傳》と全く変わりませんが。

 更に《八旗通志》初集を確認して見ました。

八旗通志初集⇒(順治)八年正月、睿王多爾袞薨、阿濟格計圖攝政。世祖従衆議幽禁之、併革所管牛彔。十月、欲於獄中舉火、衆議當正法。得旨、「賜令自盡。」iv

 もっと簡潔ですね…。

 ついでに《欽定八旗通志》も確認して見ました。

欽定八旗通志⇒(順治)八年正月、攝政王多爾袞薨於喀喇河屯。王赴䘮次即急歸、夜又不至、而私召其子勞親。上迎䘮王、又不去佩刀。攝政王近侍額克親、呉拜等、發其計圖攝政。鄭親王等、即於路監守之。至京、議削爵、幽禁。降子勞親貝子。革所管佐領。閏二月、復議移繫別室、籍其家子、勞親等黜宗室。十月、監者告、其欲於獄中舉火。衆議當正法得、㫖賜自儘爵除。乾隆四十三年正月、諭曰「朕覽實録載英親王阿濟格秉心不純、往追流賊、誑報已死、又擅至沿邊索馬、且向巡撫囑託公事、過跡昭著、雖前此亦有微功、不足以抵其罪黜爵實由自取。至其子孫前此降為庻人、削其宗籍(後略)」v

 ちょっと《清史列傳》に似た文章出てきますが、簡潔ですね…。

 で、《清史列傳》の元ネタの一つとされる《國朝耆獻類徴初編》を確認して見ました。

國朝耆獻類徴初編⇒八年正月、攝政王薨於喀喇河屯、王赴喪次、卽歸帳。其夜、諸王赴臨、王獨不至。而私遣人至京召其第五子郡王勞親以兵迎脅摂政王所属人附己。詐言摂政王悔以多爾博爲子、曾取勞親入正白旗、又怨摂政王不令豫親王子多尼詣己、詰責豫親王舊属阿爾津、僧格、且諷端重親王博洛等速推己摂政。至石門、上迎喪、王不去佩刀、勞親兵至、王張纛與合隊、左右座舉動甚悖。攝政王近侍額克親、吳拜、蘇拜等首其欲爲亂、鄭親王等卽於路監守之。至京、鞫實、議削爵、幽禁、降勞親貝子。閏二月、以初議罪尚輕、下諸王大臣再議、移繋別室、籍其家、子勞親等皆黜宗室。三月、阿濟格於獄中私藏兵器事覺、諸王大臣復議「阿濟格前犯重罪、皇上従寛免死、復加恩養、給三百婦女役使及童僕、牲畜、金銀、什物、乃伋起亂心蔵刀四口、欲暗掘地道與其子及心腹人約期出獄、罪何可貸?應裁減一切、止給婦女十口及随身服用、餘均追出、取入官。」。十月、監者復告阿濟格謀於獄中舉火、於是論死、賜自盡、爵除。(中略)乾隆四十三年正月、諭曰「朕覽實録載英親王阿濟格秉心不純、往追流賊、誑報已死、又擅至沿邊索馬、且向巡撫嘱託公事、過跡昭著、雖前此亦有微勞、究不足以抵其罪、黜爵實由自取。至其子孫前俱降為庶人、削其宗籍(後略)vi

 おお…ビンゴ。文字の異同はちょっとずつありますが、ほぼほぼ同じ文章ですね…。しかし、《國朝耆獻類徴初編》は元ネタも記載しているのですが、これは《欽定宗室王公功績表傳》所収と書かれているんですよね…。《四庫全書》と違うエディションなんですがこれは…。実際には《王公宗室功績表傳》も何個かエディションあって、立伝されている王公の順序も少しずつ違うんですよね…。と言うわけで、『中国史籍解題辞典』の「宗室王公表伝」の項目を引いてみると…。

そうしつおうこうひょうでん 宗室王公表伝 12巻 巻首1巻 清・和碩誠親王允秘等奉勅撰。漢文本及び満文本あり。清朝の宗室の爵位と襲次表とその伝。乾隆帝の命により編纂され、乾隆29年殿版として刊行。『国朝耆獻類徴初編』(巻首)所収のものは「重編」で、嘉慶10年(1805)までの記述である。又この「重編」は『清史列伝』(巻1~3)にも収められている。vii

 うーん…《四庫全書》自体も成立は乾隆年間なので、これは初編本が《四庫全書》に収録されたんでしょうね。ただ、その重編本の確認が取れないので何とも言えませんが、おそらくは《宗室王公表傳》初集⇒《國朝耆獻類徴初編》⇒《清史列傳》という転載の仕方みたいですね。
 と言うわけで、実は實録も確認したんですがちょっと分量多いので、今回はこれまで。

  1. 《清史列傳》巻一 宗室王公傳一 阿濟格 [戻る]
  2. 《清史稿》卷二百十七 列傳四 諸王三 太祖諸子二 阿濟格 [戻る]
  3. 《欽定王公宗室功績表伝》巻三 [戻る]
  4. 《八旗通志初集》巻一百四十 宗室王公列傳十二 [戻る]
  5. 《欽定八旗通志》卷一百三十一 人物志十一 [戻る]
  6. 《國朝耆獻類徴初編》巻首之三 欽定宗室王公功績表傳巻三 傳一 親王 [戻る]
  7. 『中国史籍解題辞典』P.213 [戻る]

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