シュリーマン旅行記 清国・日本#1

 と言うワケで、ひょんなコトからハインリッヒ・シュリーマン/石井和子『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫 を読んでます。トロイヤ発見の8年前、当時はむしろクリミヤ戦争で財をなした商人として、シュリーマン太平天国の乱平定直後の清国北京上海に訪れていたわけです。どうにも経歴を見ると香具師という印象が強いシュリーマンですが、旅行記は案外観察眼が確かでフィールドワークとしてはしっかりしたモノに思えます。


 紙数的には清国よりも幕末日本に割かれてますが、とりあえず上海天津北京古北口長城の旅程の部分で書かれていることをメモ。

蒸気船
上海天津=蒸気船:燕子飛号(80両 航程59時間…後に5日の記述も)
天津上海=汽船:エッソ号(80両 航程2日半)
 とにかく燕子飛号が気にくわなかった模様。

清国の税関
 元々は清国官吏税関吏を充てていたが、アロー号事件後に締結された北京条約により、賠償金を支払い終えるまで外国人を登用せざるを得なかった。しかし、皮肉なことに結果的にはそれまでよりも税収が遙かに増大し、清国官吏の腐敗が浮き彫りとなったので、清国は自国民の官吏を罷免して、以後税収業務を漢語の出来る西洋人を雇って当たらせるようになった。
 税関吏として採用出来るほど漢語を習熟した西洋人を国内だけでまかなえなかったので、清国政府欧米から若者を招聘し、漢語習得のために1年の猶予を与え、その後業務に就かせた。
 シュリーマンは実際に漢語研修中欧米出身者六名と会って、話を聞いている。

大沽要塞
 シュリーマン天津から北京に向かう途中に大沽要塞を通過している。当時北京条約により、北の要塞に仏軍、南の要塞に英軍が駐留していた。期間は賠償金が支払われるまでの間。

天津
 不潔。清国でも筆頭の汚さ。街並みはゾッとするほど不潔。

馬車
 シュリーマンは二輪の天蓋付きの馬車に搭乗。ヨーロッパの馬車との違いに戸惑い、馬車に乗るのは拷問、清国人が平気なら神経系統の欠陥か特質によるものとしている。

北京
 圧倒的な城壁。街は皇帝の街韃靼人の街漢人の街に別れている。シュリーマンは偉大な城壁を見てマルコ・ポーロに思いを馳せる。

宿
 ゾッとするほど不潔な旅籠。シュリーマンは仏教寺院に1日6フランで宿泊。部屋には調度品がベッドと机と床几が一つずつ。窓はガラス張りではなく障子張り。20時には北京中が眠っているので食事も取れない。緑茶は酷い品質で砂糖もミルクも手に入らない。米の品質も悪く寺には塩さえもない。ナイフフォークはなく箸のみ。

街路
 どの家も中庭に面して窓がある。窓が道に面しているのは商店のみ。どの通りにも半壊若しくは全壊の家があり、ゴミが道に捨てられ山になっている。道にも所々大きな穴があり馬に乗っている時には注意が必要。どこへ行っても埃が陽光を遮り、ボロを纏った乞食につきまとわれる。
 北京では普通の人が輿に乗ることは法律で禁じられている。結婚式でもない限り輿に乗ることは出来ない。

罪人
 1m30cm四方の板状の手枷首枷にした罪人が至る所で見られ、中には10kgの鉄塊を腕や足にくくりつけた罪人も居る。罪人は手枷首枷をしたままでは食事が出来ないため、通行人に食物を恵んで口に入れてくれるように懇願する。罪人の罪状と刑期が手枷足枷や背中に取り付けられた高札に記されている。罪人は刑具が許す範囲で街中を自由に歩き回ることが出来るが、街を一歩でも出ようとすると死刑になる。

刑場
 シュリーマンは実際に刑場を通りかかって、鉄籠に入った斬首された首を見ている。それぞれの籠には罪状を記した高札が取り付けられている。

兵士
 武器を持っていなければ外見上は民間人と一緒。違いは彼らが持った武器と官帽を被った指揮官。

纏足
 清国の女性の美しさは足の小ささだけで計られる。漢人の女性はどんなにおしゃれに無頓着な人でも靴だけは贅沢なモノを履こうとする。
 シュリーマンは実際に纏足の女性の素足を見た模様。また、纏足漢人だけの風習で、モンゴル人纏足にしないコトを喝破。

賭博
 清国人は生来賭け事が好きで、どの通りにも賭博場があり、戸外にも賭場が無数にある。即席料理の行商人が沢山居て、料理の外に菓子を景品にしたおみくじも行っている。また、寺院では神籤が行われている。

古観象台とアダム・シャール
 古観象台に行き、天球儀など青銅製の観測器具を見物i。しかし、この頃は天文台は活動はしていなかった模様iiシュリーマンアダム・シャールの事績に感動しつつ古観象台から16km離れたカトリック墓地に行き、墓参りをしている。墓地の中でもとりわけ大きなだったらしく、墓誌銘までの距離が10mもあったと記している。墓誌銘漢語ラテン語の合壁。

紫禁城
 君主の牢獄。皇帝は旧習に縛られて決して外出できないiiiシュリーマン清国の文明開化のためには、アロー号事件の際に円明園だけでなく紫禁城も破壊すべきであったとしている。
 シュリーマン皇城の城壁近くの塔に登ると、視界を遮るモノはなく、皇城を全景を見渡すコトが可能だった模様。紫禁城全体がまさに朽ち果てんとしており、草木が宮殿の瓦や寺廟を埋め尽くし、庭園石橋も壊れていない橋がなかったと記している。

寺廟
 シュリーマン皇城の帰りにいくつかの寺廟を巡っている。建物自体の荘厳さを讃えながら、荒廃振りと手入れの不備を嘆き、清国皇室がこれらを保護しなかったことを糾弾している。

劇場
 漢人街の通りに三つの劇場があり、二つの劇場は満員だったため、三つ目の劇場の桟敷席で観劇。京劇の舞台は欧州と舞台と違い幕も書き割りも無い…劇場には男性客のみで、女性が観劇する行為は慎みのないことだとされている…客席には白酒、茶、パン(?)、ジャム(?)、スイカのタネ、ブドウの房、野菜、飯、リンゴ、ナシ、タバコが置いてある等々と指摘している。
 清国では俳優は差別(軽侮)されている、また、女性は俳優にならないしきたりがあり、男性女性を演じるコトになるが、それだけの演技力を備えている。
 この日の演目は、英雄的な叙事詩→歌と音楽の入った劇→おどけた芝居→?。幕間がないので、演目は次々にかけられる。シュリーマンはそれぞれに感心しながらおどけた芝居が言葉が分からなくても内容が理解出来た!と俳優の演技力を褒めている。
 また、シュリーマン京劇の伴奏や歌唱法に違和感を感じながらも、観客が満足していたコト、ヨーロッパと違い拍手喝采せずに盛んに賞賛の声を上げるivコトも記録している。
 
食堂
 不潔なコトを除けばまぁまぁの店。
 箸のみでナイフフォークがない。手掴みで食べようとすると、楊枝を出してくれた。取り皿がない。ワインは無かったが玫瑰酒が出てきた。

前菜:野菜の漬物や燻製?、キュウリとソラマメのようなモノをペーストにして油と乳性で味付けした料理
細かく切ってあってこってりとしたスープがたっぷり掛かった鶏料理、魚料理
ツバメの巣のスープ

 店のススメでツバメの巣のスープを食べたモノの、味が無く魚のねばねばしたものに似ている、ジャワ島で見た砂糖煮の方が美味しそうだった。ツバメの巣は強壮剤、あるいはアヘンの解毒剤として食べられる。

 と、長城に行く前に力尽きたので今日はここまで。

  1. 1900年の八カ国連合軍による北京占領の際、観測器はドイツ・フランスに略奪されるている。シュリーマンは略奪以前に古観象台に来ていることになる。 [戻る]
  2. 現在古観象台を管理する北京天文館のホームページである欢迎光临北京天文馆によると、中華民国成立後の1927年までは天文観察を行っていたことになっているのだか… [戻る]
  3. 清代の皇帝の全てが当てはまるわけではないが、当時の皇帝である同治帝に関しては決して嘘ではない [戻る]
  4. この時代は「好!」の掛け声のみで拍手は無かったと言うコトなのだろうか? [戻る]

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