孝荘文皇后と愉快な仲間達-ダイチン諸王編1

 と言うワケで、「辮髪を惜しんで大事が成せるか!」「辮髪も守れずに国を守るだと?」「だが、これからは死んでも辮髪は失わない」などの名台詞と共に、一気に辮髪ドラマの金字塔になった態のドラマ『宮廷の泪 山河の恋』のお話です。取りあえず、あらすじだけでも見て欲しい…。
 と、今回はドラマの主役の一人、ドルゴンとその兄弟たちです。

 

ドルゴン(Dorgoni 多爾袞)ホショ・メルゲン・チンワン
 ヌルハチ最後のアンバ・フジン大妃ウラ・ナラ氏(Ula Nara Hala 烏拉那拉氏)=アバハイ(Abahai 阿巴亥)の第二子(ヌルハチの皇十四子)。万暦40(1612)年出生。天命11(1626)年のヌルハチの死亡時には、既にベイレではあったようだが15才であったため後継者とはならなかった。しかし、ヌルハチ晩年には議政王大臣の前身?ジャクン・ホショ・ベイレ(Jakūn hošo-i beile 八和碩貝勒ii)の一人に数えられている。ちなみに、母親のアバハイアンバ・フジンであったため、ヌルハチに殉死しているが、マンジュの風習としては当時は珍しいことではなかった模様。
 天聰2(1628)年にはホンタイジチャハル部(čaqar 察哈爾)侵攻に従って弟・ドドと戦功を上げ、メルゲン・ダイチン(Mergen Daicing 墨爾根戴青)の称号を贈られる。以後、ホショ・メルゲン・ダイチン・ベイレと称される。天聰3(1629)年、ホンタイジの対攻勢に従い、承徳方面より龍井関から長城を越えて、華北に進撃、北京に迫り、袁崇煥祖大寿山海関の援軍を薊州で破った。この後、袁崇煥ホンタイジとの密通を疑われて崇禎帝により処刑される。翌天聰4(1630)年もドルゴンマングルタイと共に華北に再度侵攻。アミン北京東方の永平(現在の河北省秦皇島市盧竜県)を制圧するが、大明の反撃を受けてアミンは退却し、アミンは失脚した。天聰5(1631)年に六部が設置されると吏部を任される。次いで大明祖大寿遼西錦州の東方に大遼河城を築くとアバタイ(abatai 阿巴泰iii)と共にこれを攻め落とした。更に翌天聰6(1632)年にはホンタイジに従ってチャハル部に出征してフフホト占領に貢献し、次いで天聰8(1634)年にはホンタイジの対侵攻に従い…と各地を転戦。
 更に、リンダン・ハーンの病死にともない、天聰9(1635)年にはヨトサハリヤンホーゲ(Hooge 肅親王・豪格)とチャハル部に再度侵攻し、リンダン・ハーンの遺民を接収し、次いでリンダン・ハーンの妃・ニャンニャン太后(後の康惠淑妃=バトマ・ゾー)の降伏を受け、更にリンダン・ハーンの息子・エジェイ・ホンゴル(Ejei Khongghor 額哲孔果爾)と、その生母・スタイ(Sutai 蘇泰)太后が大元の伝国爾「制誥之寶」を持って降伏してきた。チャハル部制圧とこの玉爾を得たことにより、ホンタイジは翌崇徳元(1636)年、ダイチン・グルン皇帝として二次即位を行うiv。この即位に際してドルゴンホショ・メルゲン・チンワン(hošo-i mergen cin wang 和碩睿親王)に封じられている。ホショ・メルゲン・ダイチン・ベイレからの称号引き継ぎと考えて良いだろう。
 同年、武英郡王・アジゲ豫親王・ドド長城を越えて大明に侵攻し、華北を略奪。更にホンタイジダイチン皇帝として推戴する様に強要された朝鮮が反発したため、ホンタイジ朝鮮に侵攻。ドルゴンホーゲと共に江華島まで侵攻、朝鮮は降伏して大明との国交を断絶、ダイチンと君臣関係を結ぶ。
 崇徳3(1638)年、奉命大將軍として大軍の左翼を任され、右翼のヨトと共に大明に侵攻する。左翼軍を率いて董家口から長城を壊して大明に侵攻。河北から山東にかけて蹂躙し、山東省の要衝・済南を破り、翌崇徳4(1639)年に青山関から帰還した。このようにダイチンは度々華北に侵攻して略奪を繰り返したが、山海関を制圧することが出来なかったため大軍を動かし、補給線を保つことの出来る幹線を確保することが出来なかったのである。
 しかし、崇徳5(1640)年に祖大寿が守る錦州城を包囲した際、ドルゴンは勝手に持ち場を離れたことからホンタイジの怒りを買って、ジルガランに将を代えられ郡王に降格された。翌崇徳6(1641)年に薊遼総督洪承疇錦州の応援に駆けつけると、ドルゴン錦州近くの松山杏山でこれを大破し、翌崇徳7年には松山洪承疇を生け捕り、兵糧のつきた錦州城が降伏したため、祖大寿ダイチンに降った。この功績により、ドルゴン親王に復帰している。李自成鎮圧に功績のあった洪承疇を旗下に加えたことは、ダイチンの漢地占領にとって非常に有益であった。この時点で大明も息が続かず、ダイチンに使者を送り、講和交渉がされたが実現されなかった。
 崇徳8(1643)年にはホンタイジが崩御。後継者選出のために旗王が会議を行ったが、両白旗アジゲドド兄弟はドルゴンを推し、両紅旗ダイシャンホンタイジの嫡長子・ホーゲを推した。しかし、ホーゲホンタイジから引き継いだはずの両黄旗はというと、正黄旗の旧勲・ソニン鑲黄旗の旧勲・オボイホンタイジの第九皇子・フリンを推している。結局、ドルゴンホーゲが帝位を辞退し、ドルゴン両藍旗ジルガランフリン支持に回ったので、ドルゴンジルガラン輔政国政としてフリン順治帝を支えることになる。この際にドルゴン孝荘文皇后が協力してフリンを帝位に就けたのでは?と言う説もある。確証はない。
 更にフリン即位後にホーゲ擁立を画策したとしてドルゴンに即位をうながしたとしてvダイシャンの第二子であるグサイ・ベイセ(Gūsai Beise 固山貝子)・ショト(šoto 碩託)、ダイシャンの第三子・サハリヤンの長子であるドロ・ギユン・ワン((Doroi Giyūn Wang 多羅郡王)・アダリ(Adali 阿達里)を処刑した。親族を処刑されたダイシャン両紅旗はこれにより勢力を削られる。
 順治元(1644)年3月、闖王李自成北京を落とし、崇禎帝景山で首をくくって自害すると、大明は実質的に滅亡する。4月、正藍旗所属でホーゲの部下であったホロホイ(何洛会)がホーゲの謀反を告発したため、黄旗旗人が誅殺されホーゲ親王位と宗籍を剥奪され庶民に落とされた。同時に范文程漢人山海関を経由して中原を占領する好機と進言した。これを承けて4月、ドルゴンは再び奉命大将軍に任命されると洪承疇を参謀とし、アジゲドドが率いる両白旗と皇帝直属の鑲黄旗の三旗を中心としたマンジュ八旗と、モンゴル八旗の大半、紅衣砲を有する漢軍八旗、元毛文竜旗下の孔有徳耿仲明天助兵、同じく元毛文竜の部下であった尚可喜天祐兵で編成された遠征軍を率いて南下した。今までの略奪を目的とした遠征ではなく、長期的な占領を目的としたため、行軍中の略奪や殺害を厳禁した。
 さらに山海関を守っていた呉三桂李自成に降ることを潔しとせずにダイチンに救援を請うた。呉三桂はあくまで「大明が復興した暁には関外の領土を割譲する」と条件を出したのに対し、ドルゴンは「李自成を討伐すれば呉三桂藩王に封じることを約束する」と、まるでスタート段階が違う条件を出して呉三桂にこれを承服させて主導権を握った。交渉のハッタリで大明の精鋭を労せずして手に入れたワケで、呉三桂は初めこそその気は無かったのかも知れないが、降伏の証しに薙髪してドルゴンから約束通り平西王に封じられ、李自成を破って北京に着くころには立派にダイチンの一翼を担っていたのである。
 かくしてドルゴン率いるダイチン遠征軍は、山海関を通りぬけて闖王軍を鎧袖一触で蹴散らかし、慌ただしく即位した李自成が火をつけた後の北京に入城した。同年5月、てっきり呉三桂大明太子朱慈烺を神輿に担いで入城するモノと思っていた北京住人は崇禎帝の位牌を持って門外で凱旋を待ったが、軍を率いて現れたのが辮髪ドルゴンで大いに度肝を抜かれたモノの、李自成が入場した時と同じように万歳を唱えてこれを歓迎した。ドルゴンは難なく紫禁城に入って焼け残った武英殿の玉座についた。その後、景山に捨て置かれていた崇禎帝の葬儀を行い、北京内城を八旗の駐屯地に指定して漢人を外城に移した。これ以降、ドルゴンは自ら戦場に赴くことはなくなり、もっぱら指示を出すだけになる。
 同年6月になると、ドルゴン北京遷都を決めてムクデン・ホトン(盛京=瀋陽)より順治帝を移動するように指示を出し、9月には順治帝北京に迎え入れて10月には改めて武英殿大清の国号と順治の紀元を宣言して盛大に順治帝の即位式典を挙行した。この即位に伴って、ドルゴン叔父摂政王に封じられ、ジルガラン信義輔政叔王アジゲホショ・スレ・チンワン(Hošoi Sure Cin Wang 和碩英親王)に封じた。更にホーゲを宗籍に復帰してホショ・ファフング・チンワン(hošo-i fafunggu cin wang 和碩肅親王)に再び封じた。ホーゲ張献忠討伐を命じ、アジゲ靖遠大将軍に任命して、旗下に平西王・呉三桂尚可喜の軍をつけて李自成討伐、ドド定国大将軍に任命して、旗下に孔有徳耿仲明をつけて江南平定を命じた。内三院の大学士に漢人を任命し、占領地の地方官たる知州知県を採用するため貢生を招集して試験するなど、この頃から漢人を積極的に採用している。
 翌順治2(1645)年にはアジゲ李自成勢力を潰滅に追い込み、ドド揚州を屠り、南京を落として南明福王政権を滅亡させる。ドルゴン皇叔父摂政王を称する。ホーゲ四川に侵攻。この年に薙髪令、所謂辮髪令を施行。平定されていた江南地区は薙髪令の施行により大きな叛乱を招く。また、この年に早くも《明史》の編纂を命じている。
 翌順治3(1646)年、ホーゲ靖遠大将軍に任命、張献忠を敗死させる。また、この年に会試・殿試を再開して科挙を復活させ漢人官僚の採用に本格的に乗り出す。また、八旗の経済基盤である旗地確保のために圏地政策を施行し、また、旗地耕作を放棄した漢人奴隷=アハ(Aha 阿哈)の逃亡対策を施行した。ドルゴン漢地での方策は殆どが大明の旧制をそのまま施行することが多かったが、薙髪令圏地逃人対策は大きな反発があってもマンジュ側の都合を優先させている。もっとも、旗地の配置では自らの勢力下にある正白旗のために原則を曲げて本来黄旗が管轄すべき永平府を奪取したりしているvi
 順治4(1647)年、ジルガランの邸宅の作りが不遜だとして罰し、輔政を停止させる。代わってドド輔政叔徳豫親王に任じている。
 順治5(1648)年、ホーゲが「ドルゴンが帝位簒奪を計画している」と誹謗した罪を着せて親王位を剥奪して幽閉しviiジルガランを連座させて親王から郡王に降格させ南征を命じる。更にダイシャンが没すると、ドルゴン皇父摂政王を称した。ここにおいてドルゴンホンタイジ没後に後継者争いをした旗王たち…ホーゲダイシャンジルガランを圧倒し、その影響力を両白旗から全八旗に拡げ、李自成張献忠らの勢力を鎮圧し、南明勢力を潰して漢地の征服をほぼ完了させている。わずか五年でこれだけのことをしているあたり驚嘆に値する。
 しかし、翌順治6(1649)年にはドドドルゴンアンバ・フジン(追尊 義皇后)が相次いで他界している。またこの年にようやく、孔有徳定南王耿仲明靖南王尚可喜平南王に封じている。
 翌順治7(1650)年にはハラ・ホトンviiiで狩猟中のドルゴンは急死する。

 と、基本的な事績だけ書き連ねても結構な分量になります。しかし、その実像は案外分からないんですが、北京占領直後にドルゴンに実際に会見した日本人の記録が残っています。

一、臣下衆の事キウアンス、ハトロアンス、シイアンス、ホウセンス、古の衆名覚申候。此外歴々御座候よし申候、仕置等は万事八人にて被仰付候由に候。右のキウアンスは王の叔父にて御座候。年三十四五に見へ申候。細く痩せたる人には御座候。此人第一の臣下にて、上下共におそるゝ事歴々の衆も、直々物申事成不申候由に御座候。町の御通りの節見申候。町人其人其他も頭を地につけ罷在候。日本の者共は不憫に思召候由にて御前ちかく度々被召出、御懇に被仰候。ix

…シラッと議政王大臣会議のことに触れてるような気がしますが、ともあれドルゴンのことを当時の人達はドラマの様に十四爺などとは言わず、キウアンス…つまり九王子と呼んだみたいですね。何故、九王子なのかというと、おそらくはヌルハチ末期のジャクン・ホショ・ベイレ(八和碩貝勒)xが関係しているのかと思われます。この記事の報告者である国田兵右衛門北京に滞在したのが順治元(1644)年から順治2(1645)年の間なので、正にドルゴンが数えで34~35才の頃の記事なワケです。ドラマでは背の高い筋骨隆々の偉丈夫に書かれる事の多いドルゴンですが、この記事によると日本人の目から見ても細く痩せた人だったみたいですね。街を練り歩けば上下こぞって頭を地に着けるくらい圧倒的な権力を持ちつつ、漂着した日本人に対しても気配り出来るとか、何となく出来すぎた人物像のようにも思えます。

一、キウアンス鷹狩りに御出候を、一度見申候大鷹千宛据出候由申候。我等共見申候処、鷹の数は存不申候得共、誠に千据も可有之哉と存候程多く見へ候。御供の衆も猶以て多く御座候。是は北京にて見申候。xi

 ハラ・ホトンで急逝したときも鷹狩りをしていたことを思うとフラグかよ!とすら思いますが、やはりドルゴンは鷹狩りが好きだったようで、しかも千羽も居るかと言うくらい鷹と多くの家来を連れて北京で鷹狩りしたみたいですね。
 あと、何かと縁の深いドルゴンホーゲですが、生年を見るとドルゴン万暦40(1612)年、ホーゲ万暦37(1609)年なので、実は甥のホーゲの方が3才年長なんですね…。何となくホーゲの方が年下だと思ってたんですが。
 それはそうと、ホンタイジ時代までドルゴンは戦でも人並み以上に功績上げてますね。しかし、入関する直前にホーゲを陥れているあたり、これに入関自体が博打だったんじゃないかと思いますね…。自派でかためた遠征軍見てるとこれで失敗したら帰る場所無かったんじゃないかと言うくらい。死ぬ間際と死後の動きを見ると、鄭親王・ジルガランが殺される前に殺しちゃル!というメンタリティーであってもおかしくないんじゃないかと思えます。それに、都合良く死んだドルゴンの死を利用したにしては随分手際が良いような気がしてきましたね…。アジゲではジルガランはじめ反対派とやり合うには難しかったんでしょうし、事実先手を打たれたみたいですし。ともあれ、人口比で圧倒的に不利なダイチンを以てニカン大明故地を5年ソコソコで占領したというのは相当な胆力なワケで、やっぱりドルゴンは未来人なんじゃ無いかと思うくらいチートはいってますね…。
 しかし、ドラマの様に忍者のようなコトするタイプでもないでしょうし、忙しすぎてロマンスに割くような時間無かったんじゃないだろうか?と普通に思います。

ホショ・メルゲン・チンワン 成宗義皇帝  ドルゴン

ホショ・メルゲン・チンワン 成宗義皇帝 ドルゴン

ドド(Dodo 多鐸)ホショ・エルケ・チンワン
  ヌルハチ大妃ウラ・ナラ氏アバハイの第三子(ヌルハチの皇十五子)として万暦42(1614)年出生。ヌルハチ晩年にはドルゴン同様に議政王大臣の前身?ジャクン・ホショ・ベイレ(Jakūn hošo-i beile 八和碩貝勒ii)の一人に数えられている。
 天聰2(1628)年にはホンタイジチャハル部遠征に加わり、ドルゴン共々戦功を上げ、ホンタイジよりエルケ・チュフル(erke cūhur 額爾克楚呼爾)の称号を賜っている。おそらく、ドルゴン同様ホショ・エルケ・チュルフ・ベイレと称されたと考えられる。
 以後、ドルゴンに従って各地を転戦し、崇徳元(1636)年、ホンタイジの二次即位に際して、ホショ・エルケ・チンワン(Hošoi erke cin wang 和碩豫親王)に封じられている。これも、ドルゴン同様天聰2年の賜号に基づく親王号だと考えられる。また、六部のうち礼部を管轄する様になる。この年の朝鮮侵攻の際に南漢山朝鮮の援軍を撃破する。何故かこの頃から鄭親王ジルガランとコンビで作戦に参加することが多い。この辺の記事ではとにかく、個人的武勇にまさる記事が多く、戦場で馬を失って敵から奪って帰ってきたとか、奇襲に遭って退却しながら味方と合流して反撃したとか、派手な記事が多い。
 しかし、崇德3(1638)年には兵営に妓女を連れ込んだことが発覚した事がホンタイジの逆鱗に触れて、崇徳4(1639)年、前年に奉命大將軍として出征する兄王・ドルゴンを見送らずにいたことが判明する。天然痘が蔓延する中、ホンタイジですら見送ったというのに、ドドは仮病で見送りをサボり、妓女を呼び込んで乱痴気騒ぎをした(おしろいを塗って優人の服を奪って着てというから、目もあてられたない乱痴気騒ぎだった模様)。その他七つの罪状を上げられ親王から一気にベイレに降格されドルゴンの監督下に置かれる、兵部を管轄する様命じられるが、寧遠城攻めに加わって戦功を上げている。崇徳5(1640)年から崇徳6(1641)年までは錦州~松山方面で従軍し、内応を誘って洪承疇を捕らえたことからドロ・エルケ・ギュンワン(Doro erke giyūn wang 多羅豫郡王)に昇格。
 順治元(1644)年にはドルゴンの入関に従い李自成を打ち、順治帝の二次即位に際してホショ・エルケ・チンワン(Hošoi erke cin wang 和碩豫親王)に復帰。更に定国大将軍を任命され孔有徳耿仲明を配下に、李自成を追いかけて、翌順治2(1645)年には陝西で打ち破り、湖広に追いやった。以後は江南方面の平定を命じられる。揚州に入るや後に《揚州十日記》で記録される虐殺を行ってこれを落とし、転じて南京に迫って朱由崧を生け捕り、南明政権の一つ、福王政権を潰滅する。北京に凱旋して和碩徳豫親王に封じられる。
 順治3(1646)年には揚威大将軍に任命されて、叛乱を起こしたモンゴルスニト(蘇尼特)部のタンジス(騰機思)を鎮圧してこの年のウチにまた北京に凱旋する。
 順治4(1647)年にはジルガランの失脚に伴って輔政叔徳豫親王に封じられ、実質的にダイチンのナンバー2になる。
 順治6(1649)年、天然痘のため死去。享年数えで36才。

 とにかく鬼のように強いお武家さん。ドルゴンもさることながら、旗下にこんなチート級の同腹の弟が居たら占領政策がはかどったに違いないですね。もっとも、揚州では虐殺も行っているので、果たして政治的なナンバー2になったところで戦場ほど実力が発揮できたのかは謎ではあるんですが。ただ、兄のアジゲよりは余程かマシだった…というのが世間の評価っぽいです。
 と、ドルゴンのところでも見た『韃靼漂流記』にドドも出てくるので見てみましょう。

一、シイアンス。是はキウアンス弟にて御座候。
年三十に御成候が殊外学者にて御座候由申候。その他ダヽスイ、オウゼヒクワ杯と申す人も歴々にて軍功致され候衆とうけたまはり申候。xii

 皇十五子ドドが何故シイアンス十王子なのかはドルゴンの処でも紹介したジャクン・ホショ・ベイレのなかの十人の最年少であったからだと考えられます。って、あら意外…。殊の外学者さんだったと。他の人と勘違いしたんじゃない?という意見もあるモノの、学者のように博識で思慮深いドドというのも否定できないのではないでしょうか。
 ともあれ、チート級の戦上手の上、軍営に妓女を連れ込む風流さというのはドラマのイイ題材だと思うんですが、軍営に妓女連れ込んだって言うのはどこのソースに載ってるんでしょうねぇ…。いや、多分《太宗實録》とか見れば載ってるんでしょうけど。
 

ホショ・エルケ・チンワン 輔政叔徳豫親王 ドド

ホショ・エルケ・チンワン 輔政叔徳豫親王 ドド

アジゲ(Ajige 阿濟格)
 ドルゴンドドの同母兄。ヌルハチ大妃・ウラ・ナラ氏アバハイの第一子(ヌルハチの皇十二子)として万暦33(1605)年出生。幼い時期にタイジ(Taiji 台吉)に封じられる。天命10(1625)年にマングルタイに従ってチャハル部に出征、翌天命11(1626)年にはショトに従ってモンゴル・ハルハ部(Khalkha 喀爾喀)に遠征、更にアンバベイレダイシャンに従ってジャルート(Jarud 扎魯特)に転戦、戦功を上げてベイレに封じられる。ヌルハチ死後、ホンタイジが即位すると、天聰元(1627)年アミン・ベイレに従って朝鮮に遠征し、次いでホンタイジの対親征に参加して、マングルタイ・ベイレ寧遠城を攻めて明兵を殲滅した。また、ホンタイジが城を出た明兵に攻撃を仕掛けようとすると、諸ベイレはこぞって反対したがただアジゲだけが賛成し、アジゲの奮戦により勝利した。
 天聰2(1628)年、勝手に弟・ドドの婚礼を取り仕切ったとして爵位を削られ、後に復帰。天聰3(1629)年、ジルガラン大明錦州寧遠城を攻めた。更にホンタイジ華北親征に従い戦功を上げて天聰4(1630)年、大凌河戦に参加して、祖大寿とその弟の祖大弼を打ち破った。天聰6(1632)年にはホンタイジチャハル部遠征に従い、天聰8(1634)にはホンタイジの対親征に参加と各地を転戦。
 崇徳元(1636)年、ホンタイジの二次即位によって、ドロ・バートル・ギュンワン(Doroi baturu giyūn wang 多羅武英郡王)に封じられている。何故、弟であるドルゴンドド親王なのに、なぜアジゲが一段下の郡王なのかはよく分からないが、終始弟たちより一段下の扱いを受けている。史料を読んでいると残念な感じが漂っているし、乾隆帝が定めた鉄帽子八大王からも漏れているあたりなんだか納得してしまう。そもそもアジゲって名前からして、マンジュ語では”小”って意味だったりするので、何か可哀想な感じがしてくる。
 ともあれ、同年、またアバタイ(Abatai 阿巴泰)、揚古利と共に大明華北に侵入。凱旋するとホンタイジの出迎えを受けたが、アジゲのやつれっぷりにホンタイジが涙したという。さらに第二次朝鮮侵攻では牛莊の守備についたが、翌崇徳2(1637)年、毛文竜の本拠・皮島を攻めるショトに助勢した。崇徳4(1639)年には大明への大侵攻に参加し、帰還するやアバタイとまた錦州寧遠を襲撃した。崇徳6(1641)年には今度はジルガラン錦州を襲撃し、夜襲をしかけて明兵を蹴散らした。その後、到着した洪承疇の援軍も撃退した。援軍を撃退した後も錦州、松山、杏山は籠城を続けたが、ホンタイジムクデン・ホトンに帰還し、アジゲにはドゥドゥ(dudu 杜度⇒ヌルハチ嫡長子・チュエンの長子)とドドを付けて錦州を包囲させた。敵将・洪承疇が夜襲を仕掛けてきたがアジゲはこれを撃退し、兵二千を降伏させた。崇徳7(1642)年も包囲を続け、遂には錦州は陥落している。
 順治元(1644)年にはドルゴンに従って入関。李自成北京から追い払い、順治帝の二次即位に際してホショ・バートル・チンワン(Hošoi baturu cin wang 和碩英親王)に晋封されている。同時に靖遠大将軍に任命されて李自成を追い、陜西省に入って李自成の退路を断って八戦して全勝し、李自成を追い出して陝西全土を降伏させた。更に李自成追撃の命を受けて、南京占領を計画していた李自成勢力を河南から湖広にかけて追撃し、李自成を敗死させ、劉宗敏を斬り、宋献策を生け捕り、連戦連勝して大明の各地の軍隊もアジゲに降伏を申し出ている。アジゲは詔書を待たずに北京に凱旋したが、ドルゴンはこれを軍規違反とし、加えて李自成の死を事前に知らせなかったこともて罪に問うて郡王に降格している。李自成を一気呵成で滅ぼした後でこの不手際が実にアジゲっぽい。後に親王に復帰し、順治5(1648)年には天津曹県で起こった叛乱を鎮圧し、更に大同総兵・姜瓖の叛乱を鎮圧した。しかし、大同に慰労に来たドルゴンに対し、「ドド輔政徳豫親王として評価されているのに、俺はまだ評価されていないと思う。順治帝の叔父でもないジルガラン叔王って名乗ってるくらいだから、俺が叔王って名乗ってもいいよね」と言う内容のコトを直訴した。ドルゴンアジゲの発言を妄執として斥け、六部に関連する仕事から遠ざけ、漢人官僚アジゲと接触することを禁じた。もう、言ってることがワケが分からないので、さすがにこれは曲筆なのでは…と思うモノのアジゲならあり得るのではないかと思わせる何かがある。
 順治7(1650)年暮れにドルゴンが死去すると、順治8(1651)年正月にはその葬儀が執り行われたが、諸王ベイレが集合する中アジゲは独り現れず、却って息子の多羅郡王・労親を使いにやってドルゴンの旧部下を脅して自分に味方するように強要させた。葬儀が終わり、順治帝アジゲを出迎えたところ、アジゲは佩刀を付けたままで対応し、労親の率いる兵と合流した。ドルゴンの旧部下達はアジゲの暴挙を許したが、ジルガランアジゲを拘束し、北京に帰るやアジゲの爵位を剥奪して幽閉した。また、アジゲの家族は宗籍から除籍されて庶人に落とされた。この辺はアジゲドルゴンの部下の支持を取り付けていた可能性もあるため、曲筆も充分考えられるが、アジゲのことなので脇の甘いところをジルガランに衝かれた可能性が高い。その年の10月には幽閉されている牢獄に放火しようとしたため死を賜った。これもさすがに…とは思うモノのアジゲならやりかねない何かがある。ドルゴンドドは叛逆罪に問われて爵位を剥奪されたモノの、乾隆年間には名誉を回復して子孫も八大鉄帽子王として爵位を復活させているのに、アジゲは全く名誉を回復されていない。自らが恃んだように功績はあるものの、やっぱり評価できない何かがあるのだ。《清史稿》でも何の爵位も付されていない。

 ちなみに、ドラマには全く出て来ないあたり、やはりアジゲな感じがします。

 と、そんなアジゲ?らしき人物も『韃靼漂流記』に登場します。

ハトロアンスと申すはキウアンスの兄にて。是も王の叔父にて候。荒き人にて分別もあらく候ゆへ、御仕置等の事には御構無之よしに候。年五十斗に見へ申候。いも顔にて、ふとく逞敷眼さし恐敷見へ申候。大剛の人にて、合戦の時も、城を破候にもおもひかけ候へば、不勝といふ事なきよし申候。大明と韃靼と合戦の時、度々手柄も有之、内城を攻申され候時、城内より降参可仕と申候に付、王より御赦免可在之と被仰付候得ども、ハトロアンス合点不申、数多殺し申候。此科にて知行の内、何ほどやらん被召上候と申候。国の作法にて、如何にも律儀に正直候故、如此の儀にても述懐無此由に候。xiii

 ハトロアンスを誰に否定するのかは諸説在るモノの、この時期に北京で三人の親王を並べるとして、ドルゴンドドと並べるのはアジゲしかいないとおもわれ、かつ、ハトロアンスバートル・ワンスなのなら、やはりアジゲなのではないかということです。『ヌルハチの都』では《盛京城闋圖》に描かれた王府を比定するのにアジゲの府第を巴図魯郡王府(バートル郡王府)に比定していますxiv。《盛京城闋圖》の全幅を確認しわけではないので不安ですが、巴図魯郡王府豫親王府近くで叡親王府の隣ですからおそらく間違いないでしょう。まぁ、それに多羅武英郡王ってマンジュ語ではドロ・バートル・ギュンワンなので、普通にバートル・ワンスでも間違い無いと思います。ならば、ドルゴンメルゲン・ワンスドドエルケ・ワンスではないのかと言う気はしますが取りあえず置いておきます。
 ともあれ、日本人の目から見ても目つきの悪い芋みたいな顔したおっかない人という印象だったみたいですね。降伏してきた明兵を命令無視して撫で切りって言うのは《清史稿》あたり見ても出て来ないんですが、なんだか在っても驚かない気はします。

  1. Wikipediaによると、マンジュ語でアナグマを意味するらしい [戻る]
  2. 実際には九人居るが、ドルゴン、ドド兄弟は幼年だったため二人で一人とカウントしてるのでは?と言う説がある。⇒岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店P.439 [戻る]
  3. ヌルハチ第七子 [戻る]
  4. 松村潤『明清史論考』山川出版社「天聰九年のチャハル征討をめぐる諸問題」 [戻る]
  5. この辺、ホーゲ推戴派のダイシャン系の人がドルゴン擁立するのに違和感があったのだが、磯部淳史「順治帝即位をめぐる黄旗旗人の動向について」立命館東洋史学30号、「清朝順治初期における政治抗争とドルゴン政権」立命館東洋史学32号あたりを読むと、そうでもなさそうなので訂正した [戻る]
  6. この問題は後々まで尾を引く。ドルゴン死後に断罪された理由の一つに挙げられ、更に康煕年間に鑲黄旗のオボイが正白旗のスクサハを断罪する理由にもなっている。アミンの失脚にも関連しているので、清初の重要拠点と考えて良い。 [戻る]
  7. この年のウチに獄中死。ホーゲの死後、そのフジンは多くドルゴンに再嫁したらしい [戻る]
  8. 現在の内モンゴルで承徳避暑山荘にほど近い場所 [戻る]
  9. 園田一亀『韃靼漂流記』東洋文庫P.22 [戻る]
  10. ジャクン・ホショ・ベイレ⇒アミン、マングルタイ、ホンタイジ、デゲレイ、ヨト、ジルガラン、アジゲ、ドルゴン、ドドを指すが、これにアンバベイレ・ダイシャンを加えると、アジゲ、ドルゴン、ドドの兄弟はそれぞれ8番目、9番目、10番目になる [戻る]
  11. 園田一亀『韃靼漂流記』東洋文庫P.23 [戻る]
  12. 園田一亀『韃靼漂流記』東洋文庫P.22 [戻る]
  13. 園田一亀『韃靼漂流記』東洋文庫P.23 [戻る]
  14. 三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』ランダムハウス講談社P.150 [戻る]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です