リンダン・ハーンの遺産─制誥之寶とマハーカーラ像─

 清朝の成立に際して必ず触れられる「制誥之宝」という玉璽があります。調べていて結構知らないことあったので、今回はそのメモです。
 概説書『世界歴史大系 中国史4 明▷清』を見ると「制誥之寶」と清朝の成立についてはこんな感じのことが書いてあります。

後金の勢力がモンゴルの東辺におよぶと、元朝の直系で赤峰附近にいたチャハル(察哈爾)部のリグダン・ハーン(林丹汗)は西方へ移動し、内モンゴルの諸部を征服して一六二八年フフホト(呼和浩特)を手中におさめ、大勢力に発展した。ついで彼がチベット遠征に出発すると、その隙に乗じてホンタイジは三二年みずから軍をひきいてモンゴルに進軍し、フフホトを占領した。リグダン・ハーンは三四年病死し、ここにチャハル部は崩壊したのであった。翌年リグダン・ハーンの長子エジェイ・ホンゴル(額哲孔果爾)は、ホンタイジの弟ドルゴン(多爾袞)のひきいる後金軍にくだり、内モンゴルは後金の支配下に入った。このときドルゴンは、元朝の歴代皇帝につたえられてリグダン・ハーンの所有していた「制誥之宝」と漢字で刻まれた印璽を手にいれ、凱旋してホンタイジに献じた。この印璽は「大元伝国の璽」といわれ、元朝の皇帝権のシンボルであるから、その獲得によってホンタイジは東アジアの支配権をえたものとされた。前に述べたように、ホンタイジはすでに多数の漢人をも支配下に置いていたから、一六三六年(崇徳元・崇禎九)年満州人、モンゴル人、漢人から推戴されてあらたに皇帝の位につき、寛温仁聖皇帝と称し、国号を大清と定め、年号を崇徳と改めた。i

 要するに、元朝正統たるリンダン・ハーンチャハル部を制圧した清朝が獲得したのが、元朝の政治的正統を象徴するマジックアイテムである「制誥之宝」だったと言うことです。

〈制誥之寶〉(《庄妃册文・”制诰之宝”印文》⇒《大清图典》1巻P.225)


 では、そもそも「制誥之宝」とは何なの?という疑問については『紫禁城の永光』にまとまった文章があります。

「制誥之宝」とは、皇帝が大官の辞令に捺す印の意味であるが、つたえられるところによると、これは元朝の皇帝の持物であった。順帝が大都(北京)から内モンゴルの応昌にのがれたときもこの印をもっていたが、のちゆくえが知れなくなった。アルタン・ハーンのときになってひとりの羊飼いが、自分の山羊が三日間草を食おうとせず、蹄で地面をけっているのをみて、そこを掘ってみたらこの印がでてきた。それからはアルタン・ハーンの子孫の家につたえられたが、リンダン・ハーンがフヘ・ホトをとったときチャハルの手におち、いままたホンタイジのものとなったのである。つまり大元伝国の璽は元朝の皇帝権の象徴だったのである。ii

 自分は勝手に「制誥之宝」は元朝からチャハル部に先祖代々受け継いできた伝世品だとばかり思っていたんですが、どうやら地中から掘り返されてアルタン・ハーンに献上された印璽であった…という事のようですね。
 で、当たり前のように出てきたアルタン・ハーンについてもちょっと説明しておきます。アルタン・ハーンダヤン・ハーンの孫でダヤン・ハーンが再構成したモンゴル世界で覇を唱えましたが、嫡流であるチャハル部ではなく傍流のトゥメト部の出身です。アルタン・ハーンにはチャハル部を凌ごうと言う野望はなかったようですが、実質的にモンゴル世界アルタン・ハーンを中心に回る時期があったことは確かです。

〈制誥之寶〉(《顺治帝登极诏书》⇒《大清图典》2巻P.90)


 では、この辺で「制誥之寶」獲得の前提条件となる、この時代のモンゴルの事情を整理するために、ちょっと専門書を確認して見ましょう。岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』です。

 リンダン・ハーンはこれより一足さきに西方へ移動を開始し、一六二八年、ハラチン、トゥメトの両ハーン家を滅ぼしてフヘ・ホトを手に入れ、河套のオルドス部族を服従させ、さらに北モンゴルにまで勢力を伸ばした。当時、北モンゴルのハルハ部族で最も強力であったのは、アバタイ・ハーンの甥のトゥメンケン・チョクト皇太子であって、トーラ河の渓谷に居城をかまえ、寺院をたててカルマ・シャマル派(紅帽派)の仏教を保護した教養の高い君主であった。チョクト皇太子は、リンダン・ハーンに忠誠を誓ってその事業に協力したので、リンダン・ハーンは全モンゴルを悉くその勢力下に入れた。
 しかしリンダン・ハーンの覇業は長くはつづかなかった。一六三四年、リンダン・ハーンはチベット遠征に出発し、青海に入ろうとしたが、その途中、甘粛省の武威県、永昌県の方面のシラ・タラの草原で病死した。ハーンと合流するために北モンゴルから南下したチョクト皇太子は、そのまま青海にはいって、この地方を本拠とし、チョクト・ハーンと自称して、軍を送ってチベットを占領した。
 こうして南モンゴルには力の真空状態が現れたが、そこへ後金軍が進出してフヘ・ホトを占領した。
 リンダン・ハーンの遺児エジェイは、母のスタイ太后とともに女直軍に降伏して、一六三五年、瀋陽のホンタイジのもとに連れて来られた。ホンタイジはエジェイを優遇して、自分の次女マカタ・ゲゲと結婚させ、親王の爵位を与えて、部下のチャハル部族とともに遼河の上流域の牧地に居らせた。
 このとき女直軍の将軍たちは、スタイ太后から、「制誥之宝」の四字を刻んだ一つの玉璽を手に入れた。説明によると、これは昔の唐の皇帝たちが使ったもので、モンゴルの元朝が手に入れて使っていたが、トゴン・テムル・ハーンが中国を失って、大都を脱出するときにもこの玉璽を持って行った。ところがハーンが応昌府で死んだ後、この玉璽は行方知れずになった。それから二百年余り経ってから、あるモンゴル人が崖の下で家畜の番をしていたところ、一頭の山羊が三日間草を食べずに地面を掘っているのを見て、その人が山羊が掘ったところを掘り返してみると、玉璽が出てきた。それからその玉璽は、元朝の後裔のトゥメトのボショクト・ハーンのもとにあった。ボショクト・ハーンは同じく元朝のチャハルのリンダン・ハーンに滅ぼされて、玉璽もリンダン・ハーンの手に入った。そういうわけで、この玉璽は、リンダン・ハーンの未亡人のスタイ太后のもとにあったのである。(中略)
 元朝のハーンたちの玉璽を手に入れたホンタイジは、これはチンギス・ハーンの受けた天命が今や自分に移ったとしるしであると解釈した。同じ一六三五年、ホンタイジはジュシェン(女直)という種族名を禁止して、マンジュ(満洲)と呼ぶことに統一した。そして翌一六三六年、瀋陽にマンジュ人、ゴビ砂漠の南のモンゴル人、遼河デルタの高麗系漢人の代表者たちの大会議を招集して、三つの種族の共通の皇帝に選挙され、新しい国号を「大清Daicing」とし、年号を「崇徳 Wesihun Erdemungge」とした。これが清の太宗崇徳帝である。「大清」というのは「大元」と同じく、「天」を意味する。これが清朝の建国であった。iii

 ハラチン部トゥメト部オルドス部ハルハ部ダヤン・ハーンの息子が婿養子として入ったり、分派して成立した部族ですから、チャハル部とは親戚…といってもこの時代の人たちから遡って五世代前くらいに分かれた支族と言うことになります。中でもトゥメト部アルタン・ハーンから三世代後の世代ですが、フヘ・ホト(フフホト)を建設して明朝と交易を行っていたので、この時期には衰えたとは言え他の部族と比較すると相対的に勢力のある部族でした。
 そもそも、チャハル部リンダン・ハーン元朝正統チャハル部の当主として圧倒的な権力を持っていたなら、近親部族をわざわざ武力制圧をしなくても会盟等で勢力下におけば問題なかったハズです。しかし、そうできなかったということはチャハル部元朝正統でありダヤン・ハーン直系という家格が、モンゴル全体…というか近親部族に対してすら圧倒的ではなかったという事なんでしょう。むしろ、この時代にはダヤン・ハーン支流のこれらの家は同列で、チャハル部が宗家として家格がやや上という感覚だったのではないでしょうか。
 結局、リンダン・ハーンの行った元朝再興のための勢力拡大というのは、他の部族からすれば迷惑でしかなかったのではないでしょうか。没落しかけた本家がいきなりしゃしゃり出てきて、これからは本家であるワシの言うことに従え!と一方的に押しつけて来て、終いには家まで押しかけてきてうまみのある利権(フヘ・ホトの交易)や家宝(「制誥之宝」)をかっさらっていくような目に余るジャイアニズム、乱暴狼藉をはたらくわけですから、ハタ迷惑な遠い親戚でしかないですよねぇ…。
 おまけに、リンダン・ハーンモンゴル統一に邁進している頃、身内であるはずのチャハル部の支部からも離反が相次ぎ、漠北のハルハ部清朝に帰順するものが後を絶えなかったとされています。実際、前に記事を書いたテンギスチャハル部の支部であるスニト部の出身ですが、この頃チャハル部から離脱して、ハルハ部チェチェン・ハーン・ショロイの元に逃げこんでます。

〈hese wasimbure boobai/制誥之寶〉(《顺治帝封吴三桂部将告特勅》⇒《大清图典》2巻P.14)


 話がそれました。話を「制誥之寶」に戻しましょう。先ほどから引用箇所で何度も出てきますが、「制誥之寶」発掘のソースどこだよ、山羊ってどこから出てきたんだよ…と思っていたら、《大清文宗皇帝實録》に書いてありますね…。

(天聡9年8月)庚辰。出師和碩墨爾根載青貝勒多爾袞、貝勒岳託、薩哈廉、豪格等征察哈爾國。獲歴代傳國玉璽。先是相傳茲璽。蔵於元朝大内。至順帝爲明洪武帝所敗。遂棄都城。攜璽逃至沙漠。後崩於應昌府。璽遂遺失越二百餘年。有牧羊於山岡下者。見一山羊。三日不囓草。但以蹄跑地。牧者發此。此璽乃見。既而歸於元後裔博碩克圖汗。後博碩克圖汗爲察哈爾林丹汗所侵。國破。璽復歸於林丹汗。林丹汗、亦元裔也。貝勒多爾袞等、聞璽在蘇泰太后福金所。索之。既得。視其文。乃漢篆制誥之寶四常。天賜至寶。此一統萬年之瑞也。iv

 先の引用通り、「制誥之寶」はトゥメト部ボショクト・ハーンが所有していたのを、リンダン・ハーントゥメト部を攻め滅ぼしたときに獲得したようです。「制誥之寶」が欲しくてトゥメト部を滅ぼしたかどうかはわかりませんが…。で、リンダン・ハーン亡き後は未亡人であるスタイ太后の手元にあって、スタイ太后ドルゴンらに帰順したときにホンタイジの手元に来たようです。ただ、アルタン・ハーンがこの「制誥之寶」印を手に入れたかどうかは、《清實録》の記事だけではわからないです。少なくともアルタン・ハーンのひ孫であるボショクト・ハーンが所有していた玉璽ではあったようですが。
 そして、ドルゴンらは、たまたまこの玉璽の献上を受けたわけではなくて、スタイ太后の手元にあることをあらかじめ知っていて、わざわざ探して奪い取ったようですね。あと、どうでもいいことですが、《清實録》全体でも印文の「制誥之寶」の四字について触れられているのは実はこの段だけです。後は「傳國之璽」とかそんな感じになってます。
 ホンタイジリンダン・ハーンの威信材としての「制誥之宝」を利用したのですが、リンダン・ハーンアルタン・ハーン家の威信材としての「制誥之宝」を利用したって事なんでしょうかね。

 しかしながら、この怪しげなマジックアイテムの印文にも疑問が呈されています。片岡一忠『中国官印制度研究』を見てみましょう。

さて、この『制誥之寶』がいわゆる「大元伝国の璽」であるのか、明らかでないが、『制誥之寶』はもっぱら高級官僚の任命文書に押された御宝である。ただ、明朝の文書にみえる明皇帝の使用した御宝『制誥之寶』ときわめて類似しているのは同文同一篆書体であれば、当然といえることであるが、この御宝はもしかして明朝の御宝ではないか、という疑問が起こる。すなわち、ドルゴンが手に入れた「大元伝国の璽」である『制誥之寶』とは明朝の御宝であって、崇徳元年の大清皇帝即位は中華皇帝としての側面も有していた。前掲の荘妃の冊文儀礼であり、さらには翌年の朝鮮攻撃の最終局面で南漢山に籠城した朝鮮国王にたいして、太宗が送った「詔諭」に御宝『制誥之寶』が押されたのは、清がすでに明朝の御宝の一つを手に入れていることを知らしめようとした、政治演出ではないか。その後もこの漢文御宝『制誥之寶』は崇徳六年(1641)九月の漢文勅諭(漢文だけか、満漢合璧かあきらかにできない)に押され、皇帝権の表徴として順治帝の時代まで使用され続けた。v

 というわけで、「制誥之寶」は「大元伝国の璽」かどうかは甚だ疑問だし、むしろ明朝の寶璽そのまま複製したんじゃないか?って説です。、チャハル部が「大元伝国の璽」として特別視していた寶璽をホンタイジが手に入れたことは確かですが、「大元伝国の璽」ってフレーズ自体が盛ってるんじゃないかって話ですよね。本当に土の中から寶璽が出てきたのかもしれませんが、個人的には明朝の寶璽の複製品である可能性もあると思います。ともあれ、ボショクト・ハーンにしろリンダン・ハーンにしろホンタイジにしろ、ある程度その虚構は承知した上で、知らんぷりして乗っかってたんじゃないでしょうか。

 この本では明朝の「制誥之寶」の印文が載ってないので、その真偽についてはなんとも言いがたいんですけど、参考としてこの本に収録されている元朝明朝の「皇帝之寶」の印文を比較してみましょう。

元朝『皇帝之寶』(『中国官印制度研究』P.451【130】)

明朝『皇帝之寶』(『中国官印制度研究』P.453【148】)


 む、元朝の寶璽は漢字のみのが押されてるんですね…。確かに字体だけ見ると「制誥之寶」はどちらかというと元朝より明朝の様式に似ている感じがしますね。ことの真偽については自分には判断できないのでこれまでにしておきますが。
 しかし、朝鮮国王が「制誥之寶」を押してある文書を見て驚くとしたら、「大元伝国の璽」としての「制誥之寶」ではなく「明朝の寶璽」としての「制誥之寶」が清朝の手に落ちているという点で、清朝もそういう効果を狙って押している…という話は面白いですね。

 さて、自分は疑問だったんですが、そもそも「制誥之寶」って後世言われるほど、獲得すると自動的に皇帝に即位できるようなマジックアイテムである!と当時は思われていたんでしょうか?探してみると、《大清太宗文皇帝實録》にその辺のことも書いてますね。「制誥之寶」獲得の翌月には、後の定南王孔有徳と後の靖南王耿仲明ホンタイジを焚きつけてます。

(天聡9年9月)辛酉。都元帥孔有徳奏言。竊觀自古受命之主必有受命之符。昔文王時鳳凰鳴於岐山。今皇上得傳國寶璽、二兆略同。此寶實非尋常。乃漢時所傳迄今二千餘年。他人不能得。惟我皇上得之。蓋皇上愛民如子。順時合時雖寶璽在千里之遠。應運呈祥之天啟其兆。登九五之尊。而享天下之福無疑也。不但臣一人喜而不寐。即中外聞之莫不懽忻鼓舞以爲堯舜之治。今得復見矣曷勝忭躍分當赴闕拜賀。緣未奉命。不敢擅離職守。謹齋戒焚香。遙拜具奏。總兵官耿仲明奏言。夫玉璽者、乃天子之大寶。國家之上瑞。有天下者所必用也。今皇上合天心愛百姓。故天賜寶璽。可見天心之黙佑矣。惟願蚤正大統。以慰臣民之望。理宜赴闕拜賀。因未奉命。不敢擅行。謹率諸臣。遙叩以奏。vi

 詳細を訳すのも馬鹿馬鹿しいので略しますが、ホンタイジが「制誥之寶」を得たことは、周文王の時代に鳳凰岐山で鳴いたという瑞兆と同じで尋常なことではない。漢代から二千年あまりの歴史のうちで、ほかの誰でもないホンタイジだけがなしえたことだ云々と美辞麗句を並べますが、要するにホンタイジが「制誥之寶」を手にしたのは瑞兆なので、天意に従って即位をすべきだと言ってるわけです。
 ただ、注意に値するのは孔有徳耿仲明も、「制誥之寶」が「大元伝国の璽」であるなんて一言も言ってないあたりですね。「傳國寶璽」ですから、この文章も周文王が使っていた寶璽を紆余曲折の後にホンタイジが獲得したみたいに読もうと思えば読めてしまいます。よくよく考えれば、ホンタイジ中華皇帝として即位するなら、「制誥之寶」が明朝の寶璽であっても、全く不都合ないんですよね。それに、二人は漢人ですからモンゴルの正統云々は関係ないわけです。
 と言うわけで、当時でも「制誥之寶」は手に入れたら皇帝になれるマジックアイテムだと、清朝治下の漢人はそう取れやしないか?と喧伝したわけですね…。ホンタイジも知らんぷりしてそれに乗っかるわけです。まぁ本気で信じていたら王莽かな?ってなる話ですよね。

〈han i boobai/皇帝之寶〉(《顺治帝颁给五世达赖喇嘛的勅谕》⇒大清图典》2巻P.206)


 さて、「制誥之寶」が政治面での元朝の正統を象徴した…という話は怪しくなってきましたが、リンダン・ハーンは宗教面でも元朝の継承の象徴する威信材を所有していたと言う説が、八旗制度についての専門書『大清帝国の形成と八旗制』で紹介されています。

石濱裕美子[二〇〇七:五三頁]は、国璽獲得が大元の政治権力を象徴する遺物であるならば、マハーカーラ仏伝来は、大元時代に隆昌したチベット仏教を象徴する遺物であるとして、聖俗二つの大元伝来の遺物将来とそれを寿ぐ祝祭を「即位式は元朝の政治の復興を、実勝寺の落慶式は元朝の仏教の復興を満洲皇帝が宣言する場であった」と位置づける。vii

 チベット仏教の「マハーカーラ像」も「制誥之宝」と共にチャハル部から清朝に伝来して、モンゴル正統を象徴する威信材であったとする説ですね。

 と言うわけで、引用されている石濱裕美子『清朝とチベット仏教』を確認するとこうあります(引用箇所とは違いますが、こっちの方がまとまってたのでこちらを引用)。

 チンギス・ハン直系の最後のハーンとして知られるリンデン・ハーン(Tib. ling dan rgyal po>Mon. lingdan qaγan>Man. lindan han>Chi. 霊丹汗)は、モンゴル年代記『エルデニ・イン・トプチ』(ET)によると、1593年にチャハル国生まれ、1603年にハーンに即位し、1617年にチベットからサキャ派の高僧ダクチェン・シャルパ・フトクト(sakiai bdagcan sarba qutuγtu)を招いて灌頂を授かった。シャルパ・フトクトはこの時、パクパの鋳造したマハーカーラの仏像をチャハルにもたらした。リンデンは「白い都」を意味する定住都市チャガーン・ホト(caγan qota)を築き、そこにチベット寺を多数建てた(ET.p.221)。また、リンデン・ハーンはチベット仏教の興隆につとめ、1628年から1629年までの間、大蔵経(カンジュル)をモンゴル語に翻訳したことでも知られる。(中略)
 ホンタイジは、リンデンの遺児たちを収容しチャハル部の制圧を終えると、1636年、当時の都ムクデン(瀋陽)において改めて即位式を行い、元朝の政治の象徴である大元伝国の璽をチャハルから得たことを宣言し、これによって元朝の政治の継承を示し、同じくリンデンから奪い取ったマハーカーラ尊を祀るための寺の建設に着手し、元朝の仏教を継承することを人々に示した。同年、この寺を構成する殿(あらか)の一つにシャルパ・フトクトの遺骸を入れた仏塔が安置された。この即位式と寺の建立の盛儀から見ても、新興の満州人の国にとって、伝統あるチャハル部のハーンに対する勝利がいかに大きな意義を有していたかが分かろう。viii

 と言うわけで、この引用からリンダン・ハーンチベット仏教サキャ派の庇護者であったことが分かります。チョクト・ホンタイジが庇護したカルマ・シャマル派とは違いますが、双方紅帽派と称されて、黄帽派と称されるゲルク派とは区別されます。チベット仏教については自分は不案内なので、この辺ザッとすっ飛ばします。
 サキャ派元朝フビライ・ハーンが庇護したパクパが開いた…とされる宗派で、これをリンダン・ハーンが庇護したというのは、元朝の再興を企図したということを意味しています。リンダン・ハーンが強く意識したアルタン・ハーンダライ・ラマ三世フヘ・ホトに招待して”ダライ・ラマ”という称号を奉ったことで知られていますから、アルタン・ハーンダライ・ラマ率いるゲルク派の庇護者です。ということで、トゥメト部ゲルク派と縁が深いわけですね。
 ゲルク派アルタン・ハーンの時代からモンゴルに対する布教を始めてその勢力を伸ばしますが(むしろ、モンゴルに布教したことによって、チベット仏教界で勢力を伸ばしたって気もしますが)、リンダン・ハーンの頃には、サキャ派などがモンゴルへの布教を活発化させて巻き返しを謀っていたようで、ゲルク派サキャ派などとの宗派対立は先鋭化していきます。リンダン・ハーンは最後にチベットへの遠征途中に天然痘で病没しますが、チベット遠征とこの宗派対立と無関係ではなかったはずです。リンダン・ハーンが横死したためにその真意についてはよくわからない部分もありますが、その後、合流する予定だったチョクト・ホンタイジチベットに侵攻してゲルク派サキャ派その他の宗派対立…に端を発する政治対立に武力介入していることから、リンダン・ハーンも宗派対立の応援に行ったと考えた方が自然だと思います。

〈hese wasimbure boobai/制誥之寶〉(《顺治帝颁给四世班禅的谕旨》⇒大清图典》2巻P.201)


 清朝に話を戻します。つまるところ、ホンタイジリンダン・ハーン元朝の政治面での正統の証であるトゥメト部伝来の「制誥之宝」と、元朝の宗教面での正統の証であるサキャ派の「マハーカーラ像」を丸々奪い取って、元朝の正統を清朝が獲得した!と喧伝するのに利用したと言うことです。実際には今まで見てきたようにチャハル部というかリンダン・ハーン個人の政治的・宗教的なマジックアイテムにすぎないわけで、「制誥之宝」はアルタン・ハーン家が、「マハー・カーラ像」はサキャ派がでっち上げた威信材まもしれませんし、今まで見てきたようにさして古い歴史があるものではなかったのです。この辺はわかっててあえてやってるんでしょうけど。

 そして、清朝の歴史に於いて更に重要なのは、こうして獲得したことを散々喧伝しておきながら、清朝自身はさして「制誥之宝」にも「マハー・カーラ像」…ひいてはサキャ派にも威信を感じているような素振りもなく、あまり拘りがないってあたりですね。

 清朝は入関直後こそ、重要な文章には「制誥之寶」を押しています。順治帝即位時に作成された《順治帝登極詔書》にも押されているくらいです。ただ、本来の用途としては「制誥之寶」は大官任命の文書に押される印璽なので違和感がありますよね。なので、順治7(1650)年あたりからは満漢合璧「han i boobai/皇帝之寶」印が使用されていますし、本来の用途としての「制誥之寶」も順治4(1647)年からは満漢合璧「hese wasimbure boobai/制誥之寶」が新たに作成されて使用されているあたりix清朝自体はそんなに元朝伝来「制誥之寶」自体には霊力あらたかなマジックアイテムだ!と神聖視していたようには見えません。おそらく、チャハルからマジックアイテムが転がり込んできた事実が重視されて、使用することで権威を高める…という発想がなかったんじゃないですかね。
 時代下って乾隆帝交泰殿に安置した二十五種類の玉璽の中には、改めて作成された満漢合璧「hese wasimbure boobai/制誥之寶」が使用されていて、オリジナルはいつの間にか表に出なくなっています。本当に元朝からの天命が「制誥之寶」によってもたらされたと考えていたのなら、もう少し大事にしているのではないかと…個人的には思います。《三国演義》大好きな清朝なら、マジックアイテム争奪戦の勝者として延々使い続けそうなもんですけど。

〈han i boobai/皇帝之寶〉(《皇父摄政王以疾上宾哀诏》⇒《大清图典》2巻P.161)


 一方、ホンタイジは「マハーカーラ像」をムクデン(盛京=瀋陽)に実勝寺を創建して安置しましたが、入関後に北京に移送したという話も聞きませんx。これも、清朝の権威を象徴するマジックアイテムだと認識していたのなら、もっとイベントを盛り上げて北京に持って行ってもいいハズなのにそうしてません。
 また、盛京チベット仏教施設である実勝寺護国四塔寺(順治2(1645)年落成)はサキャ派チベット仏教寺院ですが(おそらく、ホンタイジによる創建指示による)、入関後、北京順治8(1651)年に竣工された一塔二寺(尊勝塔、普勝塔、普静禅林)は、ゲルク派チベット仏教寺院です(この前年にドルゴンが死去しているので、おそらくはドルゴンの指示で創建)。もし、清朝チベット仏教の宗派について、リンダン・ハーンのように元朝正統を意識していれば、サキャ派庇護に拘りそうなものですが、チベットゲルク派の優勢が決定づけられた後はxiモンゴル支配…特にこの時期に清朝と抗争関係にあったハルハ部xiiとの交渉に有効なのは、ゲルク派であるのは明白な状態ですから、ここでも拘りなく宗派を変えてます。一言に清朝チベット仏教の大施主であった…と言っても、この時代はまだまだ宗派対立が存在して、チベット仏教界の内での権威についても流動的なんですね。その後、おそらくはアルタン・ハーンを意識して、順治帝ダライ・ラマ五世北京に招いて自ら会見しているわけですxiii
 口では元朝正統を継承した!と喧伝しながら、獲得したマジックアイテムにも宗派にも全く拘っていないあたり、むしろ清々しい程です。どうも、清朝チベット仏教を信仰した…という言い方には違和感あるな…と思っていたのですが、やはりモンゴル支配に利用するためにチベット仏教を庇護したと言う方が実態には近いのではないでしょうか。

实胜寺玛哈噶喇楼(《大清图典》1巻P.226)


 まぁ、リンダン・ハーンの遺産については、清朝自身が喧伝した程は拘ってないって言う結論になりました。マジックアイテムも使い捨てですよ。

□参考文献□
片岡一忠『中国官印制度研究』東方書店
石濱裕美子『早稲田大学学術叢書 清朝とチベット仏教 ─菩薩王となった乾隆帝─』早稲田大学出版部
岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店
岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の永光 ─明・清全史─』講談社学術文庫
岡田英弘 訳注『蒙古源流』刀水社
Walther Heissig(ハイシッヒ)/田中克彦(訳)『モンゴルの歴史と文化』岩波文庫
杉山清彦『大清帝国の形成と八旗制』名古屋大学出版会
世界歴史大系 中国史4 明▷清』山川出版
※モンゴル・チベットに関する参考文献についてはTwitter上で遊牧民先生にご教授いただきました。ありがとうございました。

  1. 『世界歴史大系 中国史4 明~清』山川出版社 P.312~313 [戻る]
  2. 岡田英弘/神田信夫/松村潤『紫禁城の永光 ─明・清全史─』講談社学術文庫 P.159~160 [戻る]
  3. 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店 P.82~84 [戻る]
  4. 《大清太宗文皇帝實録》巻24 [戻る]
  5. 片岡一忠『中国官印制度研究』東方書店 P.266 [戻る]
  6. 《大清太宗文皇帝實録》巻25 [戻る]
  7. 杉山清彦『大清帝国の形成と八旗制』名古屋大学出版会 P.232 [戻る]
  8. 石濱裕美子『早稲田大学学術叢書 清朝とチベット仏教 ─菩薩王となった乾隆帝─』早稲田大学出版部 P.14 [戻る]
  9. 『中国官印制度研究』P.272 [戻る]
  10. もしかしたら、摂政王府の跡地がマハーカーラ廟とされたのは、ここが移送先だったのかもしれないが、そこまでは調べがついていない。 [戻る]
  11. 先のチョクト・ホンタイジがゲルク派を支持するオイラトのホショト部グシ・ハーンに撃破されて、チベットではゲルク派の優位が確立する。 [戻る]
  12. ハルハ部のアバタイ・ハーンはダライ・ラマ三世の承認を得てハーンを名乗っていたり、トシェート・ハーン・ゴンボの息子のゲルク派のモンゴル活仏ジェプツンダンパ一世がハルハ部の名目的な盟主となっていたことから、ハルハ部ではゲルク派が有力であったと考えられる。つまり、リンダン・ハーンの失敗は宗教政策にもあったと考えられ、この辺拘りなく鞍替えしてる清朝はリンダン・ハーンと同じ轍を踏むことを避けている。 [戻る]
  13. 会見の要請自体は順治5(1648)年から行っているので、恐らくセッティングはドルゴンが行っている。ドルゴンが決めたことを片っ端から否定した順治帝にしては、ドルゴンの既定路線をそのまま受け入れるなんて珍しい… [戻る]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です