その後の「制誥之寶」とマハーカーラ像

 今回は前回の補足です。実録パラパラめくって調べたら結構抜けていたので。
 さて、前回でも検証したように、「制誥之寶」は獲得すれば直ちに帝位に着けるマジックアイテムだ!と、ホンタイジは喧伝したかったようです。

(天聰九年八月)庚辰(三日)。出師和碩墨爾根戴青貝勒多爾袞、貝勒岳託、薩哈廉、豪格等征察哈爾國。獲歷代傳國玉璽。先是相傳茲璽。藏於元朝大內。至順帝為明洪武帝所敗。遂棄都城。攜璽逃至沙漠。後崩於應昌府。璽遂遺失越二百餘年。有牧羊於山岡下者。見一山羊。三日不嚙草。但以蹄跑地。牧者發之。此璽乃見。既而歸於元後裔博碩克圖汗。後博碩克圖為察哈爾林丹汗所侵。國破。璽復歸於林丹汗。林丹汗、亦元裔也。貝勒多爾袞等。聞璽在蘇泰太后福金所。索之。既得。視其文。乃漢篆制誥之寶四字璠璵為質。交龍為紐。光氣煥爛。洵至寶也。多爾袞等喜甚曰皇上洪福非常。天錫至寶。此一統萬年之瑞也。遂收其璽。i

 前回もあげた箇所ですが、「制誥之寶」獲得の報告を聞くなり一統萬年の瑞なりですから、ホンタイジはやっと俺のターンがきた!みたいな意識を持っていたものかと思います。モンゴルっていうならハルハの去就はまだ不確定ですし、モンゴル高原という意味ではオイラトも残ってんじゃないの?って言いたいところですが、ヌルハチの頃から敵対していたチャハルリンダン・ハーンが横死し、その報せを受けて即座にチャハル遺衆を摂取して、明朝モンゴルの交易の要衝であったフヘ・ホト(フフホト、帰化城)まで手に入れたわけですから、まぁ…浮かれたんでしょうね…。実際、チャハル遺衆についてはチェチェン・ハーン・ショロイが、フヘ・ホトについてはジャサクト・ハーン・スブデイがそれぞれ興味を示していましたが、ホンタイジがこれに先んじて動いて無傷で摂取した経緯があります。マゴマゴしてたら手に入らなかったかもしれないわけですから、博打で大当たりしたようなもんです。浮かれもするわけです。

〈制誥之寶〉(《庄妃册文・”制诰之宝”印文》⇒《大清图典》1巻P.225)


 で、浮かれついでに、翌天聰10(1636)年4月にホンタイジは国号を後金から大清に改め、年号を天聰から崇徳に改めて大清皇帝として即位します。

(天聰十年四月)乙酉(十一日)。上以受尊號。祭告天地。受寬溫仁聖皇帝尊號。建國號曰大清。改元爲崇德元年。(中略)讀祝官捧祝文至壇上。北向跪。讀祝文。其文曰。(中略)征服朝鮮。混一蒙古。更獲玉璽。遠拓邊疆。今內外臣民、謬推臣功、合稱尊號、以副天心。臣以明人尚爲敵國。尊號不可遽稱。固辭弗獲、勉徇群情。踐天子位。建國號曰大清。改元為崇德元年。ii

 この時、即位の根拠として朝鮮半島を征服し、モンゴルを統一して玉璽=「制誥之寶」を獲得したことが挙げられています。大層な持ち上げぶりですが、《清實録》ではこの後「制誥之寶」がどこでどう使われていたのかについては触れられていません。実際には档案に捺印されている寶璽を確認すると順治年間の前半では使用が認められるというのは前回に触れたとおりです。では、その後どこに行ってしまったのか?

 結構な期間が空きますが、雍正帝が「傳國璽」について発言している箇所を発見しました。

(雍正七年十二月丁酉=二十七日)土司冉元齡、又有川省姦徒楊承勳等結黨一案。(中略)夫民間所謂金鑲玉印。即歷代傳國璽也。當日元順帝將此璽攜歸沙漠。是以明代求之未獲。我太宗文皇帝天聰九年。察哈爾林丹汗之母。將此寶進獻。至今藏於大內iii

 四川省の反乱勢力が「金鑲玉印」を所有していた…という事件に際して、雍正帝が発言した箇所です。リンダン・ハーンの母親が献上したことになってますが、元順帝が沙漠=ゴビ砂漠に持ち帰り明朝が手にすることができなかったけど、ホンタイジが獲得した「傳國璽」ですから、「制誥之寶」で間違いないでしょう。そいつなら俺の横で寝てるぜ?くらいの軽さで、今は大内紫禁城に保管してあるんだけどな、と発言しています。少なくとも雍正7(1729)年までは、使用してはいないものの「制誥之寶」は大内に保管されていたことが判明しました。…まぁ、雍正帝が宮中に保管していたのは順治年間に使用されていた満漢合璧の「hese wasimbure boobai/制誥之寶」であった可能性は捨てきれませんが…。

〈hese wasimbure boobai/制誥之寶〉(《顺治帝颁给四世班禅的谕旨》⇒大清图典》2巻P.201)

 で、有名な乾隆帝による玉璽制度の改訂があるわけです。この際、康熙朝では29寶だった寶璽が徐々に増え、乾隆11(1746)年には35寶に増えていたため、乾隆帝が25寶に整理したというアレです。ちなみに25寶に絞ったのは《周易》の大衍天数に因んでのことだそうです。乾隆帝らしいっちゃ乾隆帝らしいですね。
 で、この時整理された寶璽は《大清會典》にまとめっています。各寶璽の頭には筆者:宣和堂が確認の意味で番号振ってます。

御寳、先期知㑹內務府、轉行宮殿監。至期學士率典籍官、赴乾清門驗用如遇。行幸駐驆以內務府總管一人監視之。交泰殿御寳二十有五
①「大清受命之寳」以章皇序(白玉、方四寸四分、厚一寸。盤龍紐、髙二寸。)、
②「皇帝奉天之寳」以章奉若(碧玉、方四寸四分、厚一寸一分。盤龍紐、髙三寸五分。)、
③「大清嗣天子寳」以章繼繩(金、方二寸四分、厚八分。交龍紐、髙一寸七分。)、
④「皇帝之寳」以布詔赦(青玉、方三寸九分、厚一寸。交龍紐、髙二寸一分。)、
⑤「皇帝之寳」以肅法駕(栴檀香木、方四寸八分、厚一寸八分。盤龍紐、髙三寸五分。)、
⑥「天子之寳」以祀百神(白玉、方二寸四分、厚八分。交龍紐、髙一寸三分。)、
⑦「皇帝尊親之寳」以薦徽號(白玉、方二寸一分、厚七分。盤龍紐、髙一寸三分。)、
⑧「皇帝親親之寳」以展宗盟(白玉、方二寸二分、厚一寸二分。交龍紐、髙一寸二分。)、
⑨「皇帝行寳」以頒錫賚(碧玉、方四寸八分、厚一寸九分。蹲龍紐、髙二寸五分。)、
⑩「皇帝信寳」以徴戎伍(白玉、方三寸三分、厚六分。交龍紐、髙一寸六分。)、
⑪「天子行寳」以册外蠻(碧玉、方四寸八分、厚一寸九分。蹲龍紐、髙二寸三分。)、
⑫「天子信寳」以命殊方(青玉、方三寸八分、厚一寸三分。交龍紐、髙一寸七分。)、
⑬「敬天勤民之寳」以飭覲吏(白玉、方三寸一分、厚一寸五分。交龍紐、髙一寸七分。)、
⑭「制誥之寳」以諭臣僚(青玉、方四寸、厚二寸。交龍紐、髙二寸七分。)、
⑮「勅命之寳」以鈐誥勅(碧玉、方三寸五分、厚一寸三分。交龍紐、髙一寸八分。)、
⑯「垂訓之寳」以揚國憲(碧玉、方四寸、厚一寸五分。交龍紐、髙二寸。)、
⑰「命徳之寳」以奬忠良(青玉、方四寸、厚一寸四分。交龍紐、髙二寸一分。)、
⑱「欽文之璽」以重文教(墨玉、方三寸六分、厚一寸五分。交龍紐、髙一寸六分。)、
⑲「表章經史之寳」以崇古訓(碧玉、方四寸七分、厚二寸一分。交龍紐、髙二寸二分。)、
⑳「廵狩天下之寳」以從省方(青玉、方四寸七分、厚二寸。交龍紐、髙二寸五分。)、
㉑「討罪安民之寳」以張征伐(青玉、方四寸八分、厚二寸。交龍紐、髙二寸五分。)、
㉒「制馭六師之寳」以整戎行(墨玉、方五寸三分、厚一寸四分。交龍紐、髙二寸二分。)、
㉓「勅正萬邦之寳」以誥外國(青玉、方三寸八分、厚一寸五分。盤龍紐、髙二寸三分。)、
㉔「勅正萬民之寳」以誥四方(青玉、方四寸一分、厚一寸五分。交龍紐、髙二寸。)、
㉕「廣運之寳」以謹封識(墨玉、方六寸、厚二寸一分。交龍紐、髙二寸。)iv
盛京尊藏御寳十
①「大清受命之寳」(碧玉、方四寸八分、厚一寸九分。蹲龍紐、髙二寸四分。)、
②「皇帝之寳」(青玉、方四寸八分、厚一寸九分。交龍紐、髙二寸七分)、
③「皇帝之寳」(碧玉、方五寸、厚一寸八分。盤龍紐、髙三寸)、
④「皇帝之寳」(栴檀香木、方三寸八分、厚六分。素紐、髙五分。)、
⑤「奉天之寳」(金、方三寸七分、厚九分。交龍紐、髙二寸。)、
⑥「天子之寳」(金、方三寸七分、厚九分。交龍紐、髙二寸。)、
⑦「奉天法祖親賢愛民」(碧玉、方四寸九分、厚一十五分。交龍紐、髙二寸。)、
⑧「丹符出騐四方」(青玉、方四寸七分、厚二寸。交龍紐、髙二寸二分)、
⑨「勅命之寳」(青玉、方三寸七分、厚一寸八分。交龍紐、髙二寸五分。)、
⑩「廣運之寳」(金、方二寸四分、厚八分。交龍紐、髙一寸五分)。v

 
 今回の主題である「制誥之寶」は交泰殿二十五寶に含まれていて、14番目にリストアップされています。なんとも微妙な順位ですね…vi

〈han i boobai/皇帝之寶〉(《皇父摄政王以疾上宾哀诏》⇒《大清图典》2巻P.161)


 で、交泰殿二十五寶乾隆11(1746)年に制定された後に、乾隆13(1748)年に印文の様式を整えて刷新されています。

(乾隆十三年九月癸亥=十二日)伏讀〈御製盛京賦〉。(中略)唯篆體雖舊有之。而未詳備。寶璽印章。尚用本字。朕稽古之暇。指授臣工。肇爲各體篆文。儒臣廣搜載籍。援据古法。成三十二類。vii

 乾隆帝乾隆13(1748)年、〈盛京賦〉という賦を詠んだ時に、なんだか思いついてしまったようですね。清文満文の書体を篆書にすることを何やら思いついて32種類も制定してしまったようです。ほとんど〈御製盛京賦〉にしか使用されなかったようですが…viii。ついでに、今使ってる寶璽があんまりかっこよくないので、この際かっこいいのを作り直そう!ってことになったようです。

番号玉璽漢印文玉璽満印文材質1辺厚さ紐式高さ使用分野
1大清受命之寶abkai hesei aliha daicing gurun i boobai白玉4.4寸1.0寸蟠龍紐2.0寸皇序を章らかにする
2皇帝奉天之寶han i abaka de jafara boobai碧玉4.4寸1.1寸蟠龍紐3.5寸奉若を章らかにする
3大清嗣天子寶daicing gugun I siraha abkai jui boobai2.4寸0.8寸交龍紐1.7寸継縄を章らかにする
4皇帝之寶han i boobai青玉3.9寸1.0寸交龍紐2.1寸詔勅を布く
5皇帝之寶han i boobai栴檀香木4.8寸1.7寸蟠龍紐3.5寸法駕を粛しむ
6天子之寶abkai jui i boobai白玉2.4寸0.6寸交龍紐1.3寸百神を祀る
7皇帝尊親之寶han i niyaman be wesihulere boobai白玉2.1寸0.6寸蟠龍紐1.3寸徴号を薦める
8皇帝親親之寶han i niyaman be niyamalara boobai白玉2.2寸1.1寸交龍紐1.2寸宗盟を展べる
9皇帝行寶han i yabubure boobai碧玉4.8寸1.8寸蹲龍紐2.5寸錫賚を頒する
10皇帝信寶han i akdun boobai白玉3.3寸0.5寸交龍紐1.6寸戎伍を徴する
11天子行寶abkai jui i yabubure boobai碧玉4.8寸1.8寸交龍紐2.3寸外蛮を冊する
12天子信寶abkai jui i akbun boobai青玉3.3寸1.2寸交龍紐1.7寸殊方を命ずる
13敬天勤民之寶abka de ginggulere irgen be gosire boobai白玉3.1寸1.4寸交龍紐1.7寸覲吏を飭する
14制誥之寶hese wasimbure boobai青玉4.0寸1.9寸交龍紐2.7寸臣僚を諭す
15敕命之寶hesei tacibure boobai碧玉3.5寸1.1寸交龍紐1.8寸誥敕を鈐す
16垂訓之寶tacibure be wesire boobai碧玉4.0寸1.4寸交龍紐2.0寸国憲を揚げる
17命德之寶hesebuhe erdemui boobai青玉4.0寸1.3寸交龍紐2.1寸忠良を獎める
18欽文之璽bithe be ginggulere boobai墨玉3.6寸1.4寸交龍紐1.6寸文教を重じる
19表章經史之寶nomun suduri be temgetulere boobai碧玉4.7寸2.0寸交龍紐2.2寸古訓を崇める
20巡狩天下之寶abkai rejergi be šurdeme baicara boobai青玉4.7寸1.9寸交龍紐2.5寸省方を従える
21討罪安民之寶weilengge be dailara irgen be elhe obure boobai青玉4.8寸1.9寸交龍紐2.5寸征伐を張る
22制馭六師之寶gubcingge cooha be uheri kabalara boobai墨玉5.3寸1.3寸交龍紐2.2寸戎行を整える
23敕正萬邦之寶tumen gurun be tacibume tob obure boobai青玉4.1寸1.4寸蟠龍紐2.3寸外国を誥する
24敕正萬民之寶tumen irgen be tacibume tob obure boobai青玉3.9寸1.4寸交龍紐2.0寸四方を誥する
25廣運之寶forgen be badarambure boobai墨玉6.0寸2.0寸蟠龍紐3.0寸封識を謹むix

 で、思い立ったが吉日で、その6日後には寶璽についての諭旨を出しています。

(乾隆十三年九月己巳=十八日)諭、國朝寶璽。朕依次排定。其數二十有五。印文向兼清漢。漢文皆用篆體。清文則有專用篆體者。亦有即用本字者。今國書經朕指授篆法。宜用之於國寶。內青玉皇帝之寶。本係清字篆文。乃太宗時所貽。自是以上四寶。均先代相承。傳為世守者。不宜輕易。其檀香皇帝之寶以下二十一寶。則朝儀綸綍所常用者。宜從新定清文篆體。一律改鐫。該衙門知道。x

 玉璽の印文は上四つの「大清受命之寳」、「皇帝奉天之寳」、「大清嗣天子寳」、青玉製の「皇帝之寳」はそのままにして、その他の21寶璽については満漢合璧で統一され、清文満文については乾隆帝直々の”指導”を経た篆刻で作成されたようですxi。で、寶璽が一律刷新されたことを関連省庁に伝達した…と言うことで、元の寶璽はこのときに棄却でもされたモノか、行方はわからないようですね。

番号玉璽漢印文書体材質1辺厚さ紐式高さ
1大清受命之寳〔満楷書体〕碧玉4.8寸1.9寸蹲龍紐2.4寸
2皇帝之寳〔満璽書体〕青玉4.8寸1.9寸交龍紐2.7寸
3皇帝之寳〔満璽書体〕碧玉5.0寸1.8寸交龍紐3.0寸
4皇帝之寳満璽書体栴檀香木3.8寸0.6寸交龍紐0.5寸
5奉天之寳満璽書体3.7寸0.9寸交龍紐2.0寸
6天子之寳満璽書体3.7寸0.9寸素龍紐2.0寸
7奉天法祖親賢愛民満楷・漢篆碧玉4.9寸1.5寸交龍紐2.0寸
8丹符出驗四方満楷・漢篆青玉4.7寸2.0寸交龍紐2.2寸
9敕命之寶満楷・漢篆青玉3.7寸1.8寸交龍紐2.5寸
10廣運之寶漢篆書体2.4寸0.8寸交龍紐1.5寸 xii

 で、漢語Wikipediaの清朝玉玺传国玺と言う項やその他ネット記事xiiiによると、「大元伝国の璽」である「制誥之寶」は、これ以前に乾隆帝によって贋作と認定されて、この交泰殿二十五寶からは漏れていたとされています。で、二十五寶の選から漏れた、旧来使われていた寶璽については盛京に送られた…とされています。
 後々、交泰殿二十五寶に含まれていた「制誥之寶」は盛京十寶の「丹符出騐四方」と入れ替わって、以後「制誥之寶」は盛京十寶に含まれる…とあるんですが、自分が確認した範囲ではそういう事実はなさそうですね…。
 嘉慶11(1806)年に完成した《國朝宮史續編》巻23 典禮17 冊寶1に挙げられている御定交泰殿二十五寶は《乾隆會典》と内容に変更はありませんxiv。《清史稿》巻104志79輿服3 皇帝御寶も確認しましたが、内容については《乾隆會典》と変わりがありません(漢字の異同があるくらい)…ので、ちょっと根拠がわかりませんねぇ。
 どっちにしろ、交泰殿二十五寶盛京十寶の制定以降「制誥之寶」オリジナルの行方はわからなくなるようです…。

 ちなみに、ネット記事ではその後、義和団事件からの八カ国聯合軍北京進駐の際に、東北三省ロシア軍が進駐したので盛京十寶避暑山荘に移され、民国成立後に古物陳列所(故宮博物院の前身。咸安殿跡地の武英殿近辺にあった)に移送されたことになっています。イヤに具体的なのでちょっと気になりますねぇ。


 と、ここでもう一つの崇徳マジックアイテムマハーカーラ像についてです。

(天聰八年十二月丁酉= 十五日)是日、墨爾根喇嘛、載護法嘛哈噶喇佛像至。初元世祖時、有帕斯八喇嘛、用千金、鑄護法嘛哈噶喇像、奉祀於五臺山。後請移於蒙古薩思遐地方。又有沙爾巴胡土克圖喇嘛、復移於元裔察哈爾國祀之。墨爾根喇嘛、見皇上威德遐敷。臣服諸國。旌旗西指。察哈爾汗不戰自遁。知天運已歸我國。於是載佛像來歸。上遣畢禮克圖囊蘇、迎至盛京。xv

 と言うことで、實録検索すると、マハーカーラ像については天聰8(1634)年に記述があります。シャルマ・ホトクト・ラマによってチャハルに招来されたマハーカーラ像を、メルゲン・ラマと言う人がホンタイジに献上した…と言う記事デス。
 「制誥之寶」獲得より9ヶ月前の記事ですが、メルゲン・ラマが「天運が清朝に帰した」ことを知って、マーハーカーラ像を献上しに来たようです。順番としてはマハーカーラ像⇒「制誥之寶」ですが、即位時の比重は「制誥之寶」>マハーカーラ像だったんではないでしょうか…。

 と、その翌々年、天聰10(1636)年、ようやっとマハーカーラ像を安置する仏寺の創建が命じられます。同時にリンダン・ハーンが敬ったという、故シャルマ・ホトクト・ラマの骸も寺中に奉納したようですから、リンダン・ハーンの慰霊でもしているようですね。

( 天聰十年正月壬子=六日)上命備陳諸祭物、祀嘛哈噶喇佛於佛寺內。又以已故沙爾巴胡土克圖、自孟庫地方送佛像至。命造銀塔一座、塗以金、藏其骸骨於塔中。置佛殿左側。禮祀之。時奉佛之鞏格林臣喇嘛、阿木出特喇嘛、獻駝馬。俱卻之。xvi

 で、その2年後の崇徳3(1638)年、マハーカーラ像奉納のために作られた、実勝寺が落成します。

(崇德三年八月)壬寅(十二日)。實勝寺工成。先是上征察哈爾國時。察哈爾汗懼、出奔圖白忒部落。至打草灘而卒。其國人咸來歸順。有墨爾根喇嘛、載古帕斯八喇嘛所供嘛哈噶喇佛至。上命於盛京城西三里外、建寺供之。至是告成。賜名實勝寺。鑄鐘、重千觔。懸於寺內。東西建石碑二。東一碑、前鐫滿洲字。後鐫漢字。西一碑、前鐫蒙古字。後鐫圖白忒字。碑文云。

「幽谷無私、有至斯響。洪鐘虛受、無來不應。而况於法身圓對、規矩冥立。一音稱物、宮商潛運。故如來利見迦維。託生王室。憑五衍之軾、拯溺逝川。開八正之門、大庇交喪。於是元關幽鍵、感而遂通。遙源濬波、酌而不竭。既而方廣東被、教肄南移。周魯二莊、同昭夜景之鑒。漢晉兩明、並勒丹青之飾。自茲遺文間出。列剎相望。其來蓋亦遠矣。至大元世祖時。有喇嘛帕斯八。用千金鑄護法嘛哈噶喇、奉祀於五臺山。後請移於沙漠。又有喇嘛沙爾巴胡土克圖、復移於大元裔察哈爾林丹汗國。祀之。我大清國寬溫仁聖皇帝、征破其國。人民咸歸。時有喇嘛墨爾根、載佛像而來。上聞之、乃命眾喇嘛往迎、以禮舁至盛京西郊。因曰。有護法、不可無大聖。猶之乎有大聖、不可無護法也。乃命工部、卜地建寺於城西三里許。搆大殿五楹。裝塑西方佛像三尊。左右列阿難、迦葉、無量壽、蓮華生、八大菩薩。十八羅漢。繪四怛的喇佛城於棚廠。又陳設尊勝塔。菩薩塔。供佛金華嚴世界。具上嵌東珠。又有須彌山七寶八物。及金壺金鐘金銀器皿俱全。東西廡各三楹。東藏如來一百八龕託生畫像。并諸品經卷。西供嘛哈噶喇。前天王殿三楹。外山門三楹。至於僧寮、禪寶、廚舍、鐘鼓音樂之類、悉為之備。營於崇德元年丙子歲孟秋、至崇德三年戊寅歲告成。名曰。蓮華淨土實勝寺。殿宇弘麗。塑像巍峩。層軒延袤。永奉神居。豈惟寒暑調、雨暘若、受一時之福利。將世彌積而功宣。身逾遠而名劭。行將垂示於無窮矣。大清崇德三年戊寅秋八月吉旦立。國史院大學士剛林撰滿文。學士羅繡錦譯漢文。弘文院大學士希福譯蒙古文。道木藏古式譯圖白忒文。筆帖式赫德書。」

上率內外諸王、貝勒、貝子、文武眾官、出懷遠門、幸實勝寺xvii

 碑文の内容についてはリンダン・ハーンというか同時代のチャハルと比較して、チベット仏教への理解度が低いと『清朝とチベット仏教』では指摘されていますがxviii、ともあれ実勝寺が創建されて、マハーカーラ像が奉納されます。


 と、その後のマハーカーラ像ですが、やはり清朝を通じて盛京こと瀋陽実勝寺から動かなかったようです。かつ、1946年までは同地に安置されていたことが、漢語Wikipedia实胜寺の項から確認できます。これによると、1946年、国民党政権時代にマハーカーラ像は盗難され、続いて発生した火災によって、少なくとも大殿嘛哈噶喇樓は焼失したようです。と言うわけで、現在残っている瑪哈噶喇樓は1984年までに再建された建築のようです。
 また、検索すると、去年1月にマハーカーラの金仏が作られてxix、更に今月奉納祭りが再現されたようですxx。ネットの記事を読むに、”2016年,在信众襄助下,按照历史原样重塑了玛哈噶喇金佛,重六十四斤二两的珍贵金佛在西藏大昭寺等寺院举行加持、开光、装藏等仪式后,于2016年1月10日,被重新供奉在实胜寺。”とありますが、按照历史原样重塑了玛哈噶喇金佛と言うのがどの程度残っていた史料があるのか、どんな史料を元に再現したのかも…については記述がありませんね…ちょっと謎です。しかし、勝手にマハーカーラ像は等身大仏像だと思い込んでいた自分にとっては、このサイズ感はなかなか衝撃的でした。なるほど、これならチャハルから逃げてきても携帯できそうですね…。

实胜寺玛哈噶喇楼(《大清图典》1巻P.226)


 と言うわけで、リンダン・ハーンの遺産たるホンタイジのマジックアイテムは「制誥之寶」もマハーカーラ像も現在までに行方不明になっていると言うことがわかった次第です。

参考文献:
片岡一忠『中国官印制度研究』東方書店
石濱裕美子『早稲田大学学術叢書 清朝とチベット仏教 ─菩薩王となった乾隆帝─』早稲田大学出版部

  1. 《大清太宗文皇帝實録》巻24 [戻る]
  2. 《大清太宗文皇帝實録》巻28 [戻る]
  3. 《大清世宗憲皇帝實録》巻89 [戻る]
  4. 漢文満文の有無など詳しいことは国家清史纂修工程 中華文史網交泰殿二十五玺参照。また、印文の画像は同サイトのこちらの記事を参照のこと⇒清二十五宝玺(一) 清二十五宝玺(二) 清二十五宝玺(三) [戻る]
  5. 《四庫全書》本 乾隆《大清會典》巻2 [戻る]
  6. 「制誥之寶」の信憑性についてはこんな記事も⇒皇太极所得“传国玉玺”考绎 [戻る]
  7. 《高宗純皇帝實録》巻324 [戻る]
  8. ⇒この辺は《皇朝通志》巻12 六書畧2 清篆を参照のこと。 [戻る]
  9. 交泰殿二十五寶:『中国官印制度研究』P.289~291 [戻る]
  10. 《高宗純皇帝實録》巻325 [戻る]
  11. ちなみに、親王以下の印璽についてもこの時に刷新された模様⇒(乾隆十三年十一月戊寅=二十八日)大學士等奏。寶印改刻清篆。臣等業遵篆法、擬文呈覽。已蒙訓定。查親王金寶。郡王金印。惟在各府尊奉。向無鈐用之處。交該衙門、行令諸王、各將寶印送禮部、照式改刻。朝鮮國金印。應襲封時、另換鑄給。內外文武衙門印信。請先改鑄內部、院、領侍衛內大臣、八旗都統、外督、撫、藩、臬、將軍、都統、提、鎮。餘依次改鑄。從之。←《高宗純皇帝實録》巻329 [戻る]
  12. 盛京十寶:『中国官印制度研究』P.288 [戻る]
  13. 盛京十寶與晚清禦寶(圖) [戻る]
  14. ②「皇帝奉天之寶」が「皇帝奉命之寶」になっているくらい [戻る]
  15. 《太宗文皇帝實録》巻21 [戻る]
  16. 《太宗文皇帝實録》巻27 [戻る]
  17. 《太宗文皇帝實録》巻43 [戻る]
  18. 『清朝とチベット仏教』P.34 [戻る]
  19. 遗失国宝级“大黑天”金佛像重铸再现沈阳实胜寺 [戻る]
  20. 风直播|难得一见!沈阳皇寺玛哈噶喇金刚法舞第二届沈阳皇寺抬佛节启幕:玛哈噶喇金佛驾临 [戻る]

3 comments

  • へまむし入道

    はじめまして。玉璽のことを話されているので質問なんですが、ウィキペディアの「清」の項目で国章に「大清帝国玉璽」と書かれた印璽が用いられているのですが、こんなの使ってたんでしょうか?

    • ◇へまむし入道 様
      はじめまして。お返事遅れましてすみません。
      >「大清帝国玉璽」
      正しくは「大清帝國之璽」です。『中国官印制度研究』P.354~355によると光緒末年から宣統改元まもなく、清朝の満漢合璧の寶璽は漢文のみの寶璽が作成されたようです。
      「大清國寶」「大清皇帝之寶」「大清帝國之璽」「大清帝國皇帝之寶」があったようで、同書P.472~473の【326】、【327】、【328】、【329】がそれに相当します。
      実際に使用した詔書などは確認できなかったので、どんな文章に使用したのかはちょっと自分もわかりませんが、実際に清朝で使用されたことは確かなようです。

  • へまむし入道

    回答いただきありがとうございました。
    国章の所に寶璽が使用されていたので、なんか納得できなくて調べているところでした。

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