康煕帝諸皇子の王府

 と言うワケで、前回のエントリ・康煕帝の諸皇子に続いて康煕帝の諸皇子のネタです。北京の観光名所・雍和宮雍正帝が即位前に雍王府として使用されていた王府だと言うコトは自分も知っていたのですが…さて、他の王府って今どうなっているんだろう?っていう事に興味が出たので、ツラツラ《北京古建築地図 上》を見ながらチェックしました。で、更に《乾隆京城全図iの目録を元にGoogleEarth版で確認を取りました。おおよそココかなぁ…って言う場所を比定したところもあります。ただ、他に確認しようもないので自信ないですねえ…。乾隆年間北京に対してはいつもは力強い《日下旧聞考》も王府については書かれてません。雍正帝潜龍邸であった雍和宮についても記述がありませんしねぇ。《乾隆京城全図》は乾隆15(1750)年ごろに成立したと言われていますので、この頃の事情を反映した内容になってます。なので、この年に没した輔国公弘曣の府邸も書き込まれてるわけです。
 さて、ザッと目を通してGoogleMapに康煕年間に封爵された皇子雍正年間に封爵された皇子を色で分けて各々の王府府邸の場所を比定して目印をつけてみました。案外、バラけてないですし八旗の管轄と王府の位置にも関連性は無いように見えますし、場所によっては王府が隣り合わせだったりしますね。しかし、《乾隆京城全図》で改めて見ると、王府ってかなりデカイですねぇ…。ちなみに、康煕帝皇子の府邸にはアルファベットを振ってます。その子供達に関しては点だけです。目抜き通りに作られた怡賢親王祠は白抜きにしてあります。
 ちなみに清代の制度では、爵位は特に何も功績がなければ一世代ごとに一段階下がります。なので、親王の子供は郡王ベイレベイセ鎮国公⇒輔国公と等級が下がっていきます。これに対して、入関当初武功が高かった鉄帽子八王家は爵位が下がらず世襲します。ちなみに怡親王家雍正帝によって九番目の世襲親王家とされています。
 あと、皇子達の爵位や後継者については《清史稿巻一六五 表五 皇子世表五 世宗系を見るとすこぶるわかりやすいです。


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  1. 国立情報学研究所 – ディジタル・シルクロード・プロジェクト 『東洋文庫所蔵』貴重書デジタルアーカイブ 乾隆京城全図 [戻る]

マンジュ史書を整理してみた

 と言うワケで、こないだの記事で《満洲実録》を扱ってから悶々としていた宣和堂です。うーん。実はこの辺が良くわからんのですよね…。

《満洲実録》ヌルハチ首実検

 ご存じの通り、現在知られる満洲語の歴史書で一番有名なのは、内藤湖南日露戦争終結の頃に瀋陽故宮で発見した、通称《満文老檔》です。
 で、この際に見つかった他の書物が清朝歴代皇帝の実録である《清朝実録》 と、合戦絵図と言われる《満洲実録》です…。中身や成立過程については後回しにしましょう。
 あと同じく名前が挙がるのが《五体清文鑑》ですね。元々は満洲語の辞典で元々の題名も《Han i araha manju gisun i buleku bithe(漢語題名《清文鑑》)》。これが増補を繰り返し、漢語チベット語モンゴル語ウイグル語をも収録した拡張版が《五体清文鑑》と言うコトのようです。検索したらこれに関してはさっくり画像がありました→《五体清文鑑》早稲田スゲー!むしろ、《満洲実録》も置いてよ!とか思うモノの我慢。

 で、Twitterで満文老檔について発言した時に教えて頂いた本でサクサク検索したところ、疑問が氷解です。

満文老檔
 《満文老檔》と言う名称自体が、そもそも内藤湖南が名付けた便宜上の名前であって、表題は単に《Tongki fuka sindaha hergen i dangse(トンギ フカ シンダハ ヘルゲン イ ダンソ=有圏点檔案)》若しくは《Tongki fuka akū hergen i dangse(トンギ フカ アク ヘルゲン ダンソ=無圏点檔案)》。発見当初は表題だけ見ても何の書物かは分からなかったみたいですね。ただ、自分レベルではこの無圏点本有圏点本の違いはよく分かりません。調べて見ると、内容はともかく冊数と題材は同じようですね…。
 ものの本によると、ヌルハチホンタイジ時代の記録としてはもっとも詳細で重要な根本記事とされているようです。ただ、乾隆年間に編纂されたモノなので、清朝に都合の悪いことはさっくり削除されているわけです。漢化された皇帝という見方をされることの多い乾隆帝ですが、マンジュ視点に立った場合、民族主義を奨励した指導者と言う評価も出来るんですよね。

満洲実録
 《満洲実録》の売りは絵が載ってるコトなので比較的図版が引用されていますね。
 内容については、順治年間に作成された《清太祖武皇帝実録》とほぼ同じ…ここで注意したいのが、現行本の《太祖実録》が乾隆年間の重修本である点ですね。後の時代には忌避しているコトでも採録しているようです。でも、満洲音の漢字表記は乾隆年間の方式に改められているようです。また、絵画については《太祖実録戦図(《清太祖実録戦跡図》?)》の引き写しみたいですね。乾隆年間にいいとこ取りして編纂されたモノの様です。やはり絵画については元絵の《太祖実録戦図》を引いた方が良いみたいですね…。まあ、見当たらないのですが…。どうやら、盛京崇謨閣にはマンジュ文本漢文本との二組が収蔵されてたみたいです。…と、参考図書には書いてますが、書影を見るに戦図に関しては満漢合壁の模様ですね。

清朝実録
 現在中華書局から出版されている《清実録》は巻頭に《満洲実録》を置き、以後《太祖実録》、《太宗実録》、《世祖実録》、《聖祖実録》、《世宗実録》、《高宗実録》、《仁宗実録》、《宣宗実録》、《文宗実録》、《穆宗実録》、《徳宗実録》、《宣統政紀》が収録されているようです。これは全て漢文の模様。
 この内、盛京・崇謨閣にあったのは、マンジュ文漢文の《太祖実録》、《太宗実録》、《世祖実録》、《聖祖実録》、《世宗実録》、《高宗実録》、《仁宗実録》、《宣宗実録》、《文宗実録》、《穆宗実録》の模様…です。で、内藤湖南盛京を調査して《満文老檔》を発見したのは、明治38(光緒31、1905)年ですから、光緒5(1879)年成立の《穆宗実録》までを発見したと考えて良いようですね。《徳宗実録》は中華民国10(1921)年成立ですし、《宣統政紀》に至っては成立年代も良くわからんみたいなので、発見されるわけがないわけです。一応、満洲国務院が《大清歴朝実録》として、これらの《実録》を1937年に刊行した際には、《徳宗実録》と併せて《宣統政紀》が収録されているので、その頃には成立はしていたと考えて良いんでしょうけど…。
 北京皇城内皇史宬にはマンジュ文モンゴル文漢文実録が保管されていたようですが、やはりそれも《穆宗実録》まで。《徳宗実録》は漢文のみ現存しているようですが、マンジュ文はなかったのかも知れませんね…。自分が漠然と、マンジュ・グルンと言うか、清朝がまるきり漢化されたのは光緒年間じゃないかと思うのは、こういう所なんですが、まあ、今回は関係ないので触れません。

旧満州檔》《満文原檔
 で、乾隆年間に編纂された《満文老檔》の元になった檔案が、1931年に北京内閣大庫から《満文老檔》と一緒に発見されたようです。この檔案のことを、日本では《旧満州檔》と称していたわけです。で、あまり研究がなされないうちに、盧溝橋事件が勃発して日本軍の侵攻が始まり、かの有名な文物南遷の際に、この檔案も北京から逃避行に出たわけですね。最終的に台北故宮博物院に収蔵され、《満文原档》という題名で影印出版されたみたいです。この際に《満文老檔》には含まれていない、天聰9年部分の檔案、所謂《天聰九年檔》も収録されたようです。

 とまあ、自分が疑問だった史書類はこれであらかた疑問は氷解という感じデス。この辺の資料はwikiや百度でも記事が足りないので、大変スッキリしました。ちなみに参考資料は以下の通り。

神田信夫・山根幸夫 編『中国史籍解題辞典』燎原書店
神田信夫『満学五十年』刀水書房
清朝とは何か』藤原書店

 

※ご指摘によりマンジュ文献のローマ字変更しました(6/26)

前門の関帝廟

 今まで何となく買いそびれていた、内田道夫 編『北京風俗図譜』東洋文庫 を購入したので、パラパラ捲ってフムフム言ってます。オンデマンド版だと図版が大きくて些かお得気分です。なんか東洋文庫のサイズだと図版ちっこそうで躊躇していた部分はあるんですよねぇ…。で、寡聞にして知らなかったんですが、これ絵画部分は青木正兒センセが留学してた時に現地の絵師雇って書いて貰ったモノの様ですね。もっともこの本の肝は各画の解説部分にあるので、注釈を付けた内田道夫センセの本だと言うコトは間違いないんですけど。
 で、パラパラ捲っているとこんな記事に遭遇。

 神仏をまつる寺廟にも、それぞれはやりすたりはあるが、北京城内のそれは、いずれも整頓されたものが多かった。前門の関帝廟は『三国志』で有名な関羽の霊をまつるもので、鼓楼の関帝廟とともに人を集め、つつましやかな男女の神前にぬかずく姿が見られた。明の成祖永楽帝が蒙古王ベンヤシリを遠征したとき、関公が霊威をあらわし、砂塵煙霧のうちに、常に軍隊を誘導したと伝える(劉侗『帝京景物略』)。i

 かつての北京には至る所に関帝廟があったようですね。その中でも前門関帝廟は場所もあいまってランドマーク的な意味合いもあって大層人気があった模様です。で、上の記事で上げられてる《帝京景物略》が手元にあったのでパラパラ捲ってみたところ、確かに該当の記事がありますね。

關帝廟
關廟白古今、偏華夷。其祠於京畿也、鼓鐘接聞、又歳有増焉、又月有増焉。而獨著正陽門廟者、以門於宸居近、左宗廟、右社稷之間、朝廷歳一命祀。(中略)
先是成祖北征本雅失理、經闊灤海、至斡難河、撃敗阿魯台。軍前毎見沙濛霧靄中、有神、前我軍駆、其巾袍刀仗、貌色髯影、果然關公也、獨所跨馬白。凱還、燕市先傅、車駕北發日、一居民所畜白馬、晨出立庭中、不動不食、晡則喘汗、定乃食、回蹕則止。事聞、乃勅崇祀。ii

 と、まあこんな感じデス。砂漠でいきなり砂嵐に遭遇したら、髯のオッサンが現れて先導してくれたわけですね。髯だからアイツ関羽だったんじゃね?と軍中で噂になって、帰ってきたら前門に妙ちきりんな白馬がいるからとりあえず祀ってやるさ!って感じですかね?
 胡散臭さ満点なので、多分関帝廟の箔付けのために永楽帝に仮託された与太話なんでしょうけど、少なくとも明代には前門には関帝廟があったという証拠にはなるでしょう。

 で、その前門関帝廟は今現在存在しません。いつの間に消えて無くなったんでしょうか?

 明代はとにかく軍人中心に関羽信仰が強かったと言われます。何せ、豊臣秀吉朝鮮出兵の際に、朝鮮半島に進駐した明軍は駐屯地に関帝廟をワザワザ建設されたと言いますiii。遠征の駐屯地にすら関帝廟を欲するくらいですから、国都の中心たる前門関帝廟があったとしても驚くには足りないのかも知れません 。
 次の清代ではマンジュ皇族からして大の関羽好きです。入関前にはホンタイジ漢人官僚に批判されるくらい《三国演義》にのめり込んだり、のめりこむあまり《三国演義》のマンジュ語訳が国家事業としておこなわれたり、その後もダイチン・グルン歴代皇帝は毎夕坤寧宮シャーマン関羽を祀ったといいますから、国を挙げて関羽が好きだったみたいですね。 試しに手持ちの絵画を捜してみたら、康煕帝が南巡した際の様子を描いた《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》の部分に前門甕城内に描かれた関帝廟らしき建物が確認出来ました。

《康煕帝南巡図巻・回鑾京師》(部分)iv


 清代では天壇で祭事を行う際、歴代皇帝前門・関帝廟を参拝して線香を供えたと言いますから、余程崇拝されたんでしょうね。

 で、その後の顛末をWikipediaで確認して見ると、前門こと正陽門は1900年の義和団事件で戦乱に巻き込まれて外郭である大柵欄が焼け、それに続く八ヶ国連合軍進駐の際に見張りに立っていたインド兵の不審火が原因で火事が発生して前門が焼け落ちたみたいですv。当然、この際に件の関帝廟も焼け落ちたと考えても良いでしょう。

 で、焼け落ちたのなら今の正陽門は何なの?と言うコトになりますね。現在の正陽門中華民国3(1914)年に再建されたモノです。その際に関帝廟も再建された様ですね。
 ただ、1909年刊行の『北清大観』という写真集にも関帝廟菩薩廟らしき建物が写っているviので、再建されたモノなのか?元々甕城内は被害が軽微だったのかは自分には判断出来ません…。
 中華民国4(1915)年に京奉鐵路敷設のために前門甕城が除去された際も、関帝廟は壊されなかったようです。その後、軍閥抗争の際にも、日中戦争時にも、国共内戦の時も、再建された関帝廟は壊れずにいたようですね。
 下の写真は1957年頃撮影された正陽門ですが、バッチリ関帝廟菩薩廟も写ってます。
 

1957年頃の前門vii


 では、戦火を潜り抜けてきた関帝廟はいつ消えて無くなってしまったのか?というのを、先のWikipediaの記事で確認して見ると…案の定、文革の時に壊されてしまい、そのまま今日まで再建されていないようですね…viii

正陽門(2008年11月宣和堂撮影)


 今、民国初期風の街並みをモデルに綺麗に整備された正陽門の前に関帝廟を再建すれば、それなりに観光客を集めることにはなるんでしょうが、なんだかやるせないですねぇ…。勿論、考証的にはココに関帝廟がないとおかしいんですが…。まあ、以前なら文革でぶっ壊れたなんて言う記事は捜しても見つからなかったはずですから、時代も変わったと信じましょう。

  1. 内田道夫『北京風俗図譜 2』P.18 [戻る]
  2. 劉伺・于奕正《帝京景物略》北京古籍出版社 P.97 巻之三 城南内外 [戻る]
  3. この辺は本ではなく三国志学会 第ニ回大会で金文京センセの発表で聞いた話。詳しくはこのページを参照→2005年7月31日「三国志シンポジウム」雑感1 三国志ニュース [戻る]
  4. 《清史図典》第三冊 康煕朝 上 P.91 [戻る]
  5. 正阳门箭楼在1900年义和团拳民焚烧前门外大栅栏时被飞溅火星引燃烧毁,城楼在当年冬天被生火取暖的印度士兵不慎烧毁,目前的正阳门是民国三年(1914年)改建的。 Wikipedia 正阳门 [戻る]
  6. ディジタル・シルクロード 東洋文庫アーカイブ 北清大観 : vol.1 P.141 [戻る]
  7. 『北京』岩波写真文庫 P.19 [戻る]
  8. 文革期间,正阳门关帝庙与观音庙一同拆除。Wikipedia 正阳门 [戻る]

金銭鼠尾

 Twitterで辮髪好きな方と絡むことも多くなったんですが、未知の大地に辮髪の花は開くモンなんですね。日本にもこんなに辮髪を愛する人たちがいるなんて胸が熱くなりすぎます。時代は変わったよ…ボクは一人じゃないんだ…と、独りごちるコトしばしです。
 で、その中で、ラーメンマン辮髪について話が出たりしたわけですが、自分もネットか何かでラーメンマン辮髪も史実として存在したという記事を見たことがあります。しかも、ラーメンマン辮髪自体は正当なマンジュ風俗で、映画等にでてる辮髪は清末の大衆的な髪型であって、どちらも正解という感じでした。そんなこんなで、ラーメンマン辮髪の正式な言い方の方はすっかり失念していたんですが、ご指摘いただいたとおり、金銭鼠尾という名称みたいですね。語源は、銅銭程度の髪を残して、の尻尾のように結んで垂らす…というところみたいです。
 ちなみに、清朝において薙髪令で定められたあの髪型のことを日本では古くから辮髪と呼んでいたわけですが、当地ではそんな呼び方をしてはいないみたいなんですよね…。ちなみに、辮髪という用例自体は検索すれば古文でいくらでも引っかかるので和製漢語というわけではないです。ただ、清朝で通行したあの髪型をそう称すことは日本だけみたいですが。ではなんと呼ぶかというと、大体は大辮子とか単に辮子と言う言い方するみたいなです。これはPigtailと同じく女の子のお下げ髪のことも指すわけで、検索するとお下げ髪の女子の方がヒットしてノイズありまくりでナカナカ思ったような結果が得られませんでした(何かエロい記事とかも多いので特に)。で、金銭鼠尾というキーワードを入れてみると、ザクザク辮髪記事辮髪画像が得られるわけです。やった~!

 で、検索結果出てきたのがこの文章です…→清代辫子的演变:从鼠尾、猪尾到牛尾

 どうも、この新聞記事?がそこら中にコピペされて検索に引っかかりまくってるようですね。iこの記事によると、清朝初期、入関した頃は金銭鼠尾といわれる、所謂ラーメンマン辮髪にしていたようですね。髯をどこまで伸ばして良いのか?といった規定まであったと、この記事では書いてますね。このあたりは自分も初耳です。
 と言うワケで以下は訳ではなく大意、意訳デス…念のため。

辮髪今昔

1-後金時期:ダイチン・グルンは降伏した漢族に帰順の意思表示としてその辮髪を強要した。結果的にダイチン・グルン領内の漢人男性の大部分は頭髪を剃り上げることになった。その際には頭のうしろの毛を小指ほど残して結んで垂らしていた。髯も上唇にはやすだけであった。これを金銭鼠尾式といった。ii

2-入関時期:明の旧領を接収したダイチン・グルンは領土内の全ての漢人に辮髪を強要する。辮髪を嫌って反乱を起こす漢人は多く犠牲となった。この時期から徐々に髪を残す部位は頭の後から頭頂に移動したが、これも金銭鼠尾式と称しても良いだろう。iii

3-清代中期:髪を生やす部位は変わらなかったが、髪を留めておく面積が増えてた。かつては金銭一枚分の面積だけだったのが、この頃には金銭四~五枚分=こぶし一個分の面積を残すようになっていた。髯は上唇だけでなく、あごまで伸ばしても良くなった。iv

4-清代後期:嘉慶以後、次第に頭頂を中心とした髪の周縁を部分を剃るだけになっており、髪は頭の後で三つ編みにして垂らしていた。この髪型は辮子とか、髪辮と呼ばれた。v

5-清代末期:清末から清の滅亡まで、開明的な知識人や学生は民主化や革命運動の中で、辮髪を切り落とすことを重要なコトだと捉えていた。清全土で身分の上下を問わず辮髪を切り落とす現象はどこでも見られた。

 で、あと辮髪変遷の傾向として上げられているのが以下の三点です。

1-頭髪を残す範囲が段々大きくなる傾向がある。初期の金銭鼠尾式から中期の髪をこぶし大残すモノでは面積が大きくなっているし、後期は殆どの髪を残すまでになっている。このことを比喩的に表現すると、はじめは鼠の尻尾で、次第に豚の尻尾になり、最後には牛の尻尾になったと言える。また、頭髪は時代を経ると面積本数ともに増える傾向にあり、辮髪は編み目が大きく荒くなる傾向がある。

2-清代通しての辮髪の変遷を整理すると、為政者の意志を反映したモノではなく、また、リーダーシップを取った者も不在で、ごく自然発生した変遷であったこと。漢満の別もなく、軍民の別もなく、官吏・商人・農民・市民・皇帝の別もなく、皆一様に変化している。

3-辮髪の変化の速度は一様ではないこと。順治元(1644)年の清の入関から、嘉慶4(1799)年までの間は155年あり、清朝267年の歴史の大半を占める。髪を留めておく面積は増加の傾向にあるものの、その速度は実にゆっくりとしたものであった。嘉慶年間に入っても、最も多い人間でも髪は全体の三分の一程度であった。しかし、嘉慶以後髪を留めておく速度は加速し、百年もしないうちに頭髪の大部分を残し、全体の三分の二まで残すようにまでなった。髪型の変遷のスピードは清朝の統治能力の強弱と丁度反比例しており、統治能力が高い時は変遷は緩やかだが、統治能力が落ちると変遷は加速している。

 最終的にこの文章では、テレビドラマの辮髪は皆、清代後期辮髪を参考にしていて、考証的には間違っていると指摘してますね。ドルゴンなら後頭部型の金銭鼠尾式のハズですし、乾隆帝なら中期のこぶし大辮髪のハズですからねぇ。
 とはいえ、ちょっと図版等を見るとこの記事鵜呑みには出来ないなぁ…とも思うわけで…その辺はまた機会があれば。

  1. 百度の金銭鼠尾の項はこれを思いっきりコピペしてたからか?現在閲覧出来なかったり…Googleのキャッシュにはあったので内容は確認済み。 [戻る]
  2. 図で言うところの前期の絵の後頭部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  3. 図で言うところの前期の絵の頭頂部から辮髪が伸びているタイプ? [戻る]
  4. 図で言うところの中期の絵? [戻る]
  5. 図で言うところの後期の絵? [戻る]

精武風雲 陳真

  と言うワケで、甄子丹映画と言うことで、《精武風雲 陳真(英題:Legend of the Fist: The Return of Chen Zhen)》も見てみました。平たく言うと、李小龍の《精武門》の続編です。と言いつつ何だかケイトーモドキが日本軍ぶん殴る映画なので別に続編でなくても…という気がしますが…。そもそも、あの映画だと陳真ラストで死んでますしね…。と言うワケでネタバレ全壊での感想です。
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