雍正帝の後宮
と言うワケで、BSフジで始まった《後宮甄嬛伝(邦題:宮廷の諍い女)》をゆるゆる観ています。以前観ていた《歩歩驚心(邦題:宮廷女官・ジャクギ)》の様な、辮髪乙女ゲードラマなのかと思ったんですが、どうやらこれは、辮髪大奥モノの様ですね…。辮髪昼ドラでもなかった模様です。たわしコロッケとか出て来る話でもないみたいですしね…。巫術は出て来るみたいですが。
と言うワケで、元々が舞台も特に清代に特定したわけではないネット小説が原作なので、華妃=年貴妃が存命なのに九阿哥が既に罪人とされていたりと時系列があれだったり、架空の人物が大手を振って宮中を闊歩して居るみたいですね。なんで、史実の人物を纏めてもあんまり意味の無いことだとは思うモノの、取りあえずモデルを知りたくて纏めてみたり…。
孝敬憲皇后
満洲正黄旗、ウラナラ(烏拉那拉)氏出身。康煕年間の権臣・フィヤング(費揚古)の娘で、嫡母はギョロ(覚羅)氏(ヌルハチの玄孫。皇長子・チュエンの系統)。
康煕年間には四阿哥・胤禛に嫁いでいた模様。康煕37(1698)年に四阿哥がドロ・ベイレ(多羅貝勒)に封じられると、嫡福晋に封じられている。なので、部屋住みの平皇子の頃から雍親王に連れ添っており、帝位に就いてからもその情は継続した模様。康煕36(1697)年には嫡長子・弘暉を産むが、康煕43(1704)年に8歳で夭折。弘暉は没後、乾隆年間に入って端親王に封じられている。
雍正元(1723)年、胤禛が雍正帝として即位すると、ウラナラ氏も皇后に冊立された。雍正9(1731)年、住居を暢春園に移した後、逝去。雍正13(1735)年に孝敬憲皇后に追封した。棺は田村嬪宮に安置され、乾隆2(1737)年、雍正帝と共に清西陵の泰陵に埋葬された。
☞《後宮甄嬛伝》の皇后娘々のモデル。
孝聖憲皇后
満洲鑲黄旗、ニウフル(鈕祜禄)氏の出身。父は四品典儀官・凌柱。
康煕44(1705)年、十三歳の時にドロ・ベイレ(多羅貝勒)・四阿哥 胤禛の邸宅に輿入れし、ゲゲ(格格)となった。名門の出身ながら、父親の身分が高くなかったので、嫡福晋・ウラナラ氏はおろか、側福晋である年氏や李氏よりも位としては下である。雍親王が病を患った際、ニウフル氏はかいがいしく看病し、それが切っ掛けで寵愛を賜ったらしい。康煕50(1711)には皇四子・弘暦を雍親王府で出産。
弘暦が十歳の時、雍親王が弘暦を連れて牡丹を観に円明園に赴いて康煕帝に謁見すると、弘暦は康煕帝に気に入られ、皇帝自ら皇宮で弘暦を養育した。これにより更にニウフル氏は雍親王の寵愛を受けた。
雍親王・胤禛が即位すると、雍正元(1723)年、熹妃に封じられ景仁宮に入り、雍正8(1730)年には更に熹貴妃に封じられたi。雍正9(1731)年に孝敬憲皇后が逝去すると、宮中のことを取り仕切った。
雍正13(1735)年、皇四子・弘暦が即位して乾隆帝となると、熹貴妃は聖母皇太后として敬われ、崇慶皇太后の尊号を贈られ、慈寧宮に移り住んだ。乾隆16(1751)年には六十寿、乾隆26(1761)年には七十寿、乾隆36(1771)年には八十寿と、息子である乾隆帝から国家事業として長寿を祝われている。子供から福禄寿を祝われた女性として最高の人生を送った人物として憧憬の対象とされ、慈嬉皇太后も憧れたと言われている。
乾隆42(1777)年、慈寧宮で崩御。享年86歳。死後、孝聖憲皇后に封じられる。雍正帝の泰陵の東北、泰東陵に葬られた。
☞《後宮甄嬛伝》の甄嬛のモデル…らしい…。女性としての幸せの具現者みたいに言われる人物だけに、大奥モノの主人公としては孝荘文皇后よりもそれっぽいカモ知れませんね。
敦肅皇貴妃
漢軍鑲黄旗の出身。元々、年一族は明代は宦官官人の家系だった模様ii。康煕朝の権臣である湖廣巡撫・年遐齢の娘であり、雍正帝即位に尽力した撫遠大将軍・年羹堯の妹。
康煕50(1711)年頃、雍親王・胤禛に嫁ぎ、側福晋となる。康煕54(1715)年には雍親王の第四女を出産、その後康煕59(1720)年には雍親王の第七子・福宜、康煕60(1721)には第八子・福恵、雍正元(1723)年には第九子・福沛を立て続けに出産しているが、いずれも夭折している。ちなみに他の雍正帝の皇子は弘+日の入った文字という命名法なのに、年貴妃の子供だけは福○のような命名法なのは何か意味があるのかも知れない。
雍正帝の即位に際して、雍正元(1723)年、貴妃に冊立される。雍正3(1725)年、病が篤くなり11月に皇貴妃に晋封されるが、12月病没。諡号は敦肅皇貴妃。棺は田村嬪宮に安置され、乾隆年間に入って雍正帝の陵墓である清西陵の泰陵の妃園寝に陪葬される。
年羹堯の失脚も雍正3(1725)年12月、賜死は翌雍正4(1726)年なのは、年貴妃の死と無関係ではないはず。しかし、子供の中で一番長生き(と言っても8才)の福恵は雍正6(1728)年までは在世しているが、年一族の罪状で累が及んだ形跡もない模様。ちなみに、福恵は死後懐親王に封じられているが、この時期には四阿哥・弘暦、五阿哥・弘昼は親王には封じられていないので、これを雍正帝の年貴妃と福恵に対する寵愛の証拠と見る説もある。
☞《後宮甄嬛伝》の華妃のモデル。しかし、九阿哥の死はおろか、年羹堯の失脚の前に亡くなっていたようなので、ドラマの様な絶大な権力を振るう暇はなかった模様。
純愨皇貴妃
耿氏、管領・耿徳金の娘。雍親王時代の雍王府に輿入れしてゲゲ(格格)となる。康煕50(1711)年に雍親王の第五子=後の和親王・弘昼を出産。雍正帝が即位すると、雍正元(1723)年、裕嫔に冊立され、後に裕妃に晋封される。
乾隆2(1737)年、乾隆帝に皇考裕貴太妃に封じら、乾隆43(1778)年には九旬の祝いに皇貴妃に封じられた。乾隆49(1784)年、病没。没年は96才であった。諡号は純愨皇貴妃。泰陵の妃園寝に葬られた。
☞《後宮甄嬛伝》の端妃のモデル。五阿哥・弘昼のおかんなんやなと…。
斉妃
李氏、漢族の出身で知府・李文燁の娘。
康煕50(1711)年頃、四阿哥・胤禛に嫁ぎ、側福晋となる。康熙34(1695)年、雍正帝の第二女・和碩懐恪公主を出産(雍正帝の皇女の中で唯一成人した皇女。後に星徳に降嫁された…が、23才で早世している)。康熙36(1697)年、には弘昐を出産するが三歳で夭折、康熙39(1700)年には、二阿哥・弘昀を出産し、康熙43(1704)には三阿哥・弘時を出産。弘昀は11歳で逝去している。
雍正帝が即位すると、雍正元(1723)年に斉妃に册立された。当時、成人した皇子は三阿哥・弘時のみであったので、斉妃は皇后・ウラナラ氏に次いで権勢を誇った。しかし、後に弘時が八阿哥=廉親王一党と結託して皇位に意欲を持っていると雍正帝に疑われて皇族から籍を削られると、生母である斉妃は寵愛を失った。親王府時代、共に側福晋であった年貴妃は皇貴妃に晋封されたが、斉妃は位をそのままとされた。
乾隆4(1738)年、斉太妃は重病を患い、北海の五龍亭に移された。乾隆帝は皇太后=崇慶皇太后を伴って斉太妃を見舞ったが病没した。享年62才。死後、泰陵の妃園寝に葬られた。
☞《後宮甄嬛伝》の斉妃のモデル。ドラマと違って三阿哥は実質的な皇長子で雍正帝の即位時には子供もいたので、後継者の最有力者と見なされていた。なので、八阿哥一党が処罰される前はあんなに斉妃も冷遇されていなかった模様。
寧妃
漢軍鑲黄旗出身。知州・武柱国の娘。生年月日は不詳。
しかし、雍親王府時代に輿入れしたと考えられる。雍正12(1734)年没。死後、寧妃に封じられ、棺は田村嬪宮に安置され、乾隆年間に入ってから泰陵の妃園寝に葬られた。
☞《後宮甄嬛伝》の寧嬪のモデル?経歴よりも名前だけでは…。しかも、BS放送分ではまだ登場していない模様。
懋嬪
宋氏、主事・金柱の娘。漢族っぽいのに父親と姓が違うことについてはスルーされている。
雍親王府時代に輿入れし、ゲゲ(格格)となる。康熙33(1694)に17才で雍正帝の長女を出産し、康熙45(1706)年に三女を出産したが、いずれも夭折している。
雍正帝が即位すると、雍正元(1723)年に懋嬪に册封された。雍正8(1730)年、逝去。棺は田村嬪宮に安置され、乾隆年間に泰陵の妃園寝に移葬された。雍正帝の妃園寝に埋葬された唯一の嬪である。
☞《後宮甄嬛伝》の襄嬪のモデル…って、まだBS放送分だと登場してない模様。
安貴人
安貴人は雍正帝の貴人。乾隆14~15(1749~50)年没、死後は田村嬪宮に葬られた。
☞《後宮甄嬛伝》の随一の不幸顔・安答応のモデル?名前だけのような…。
英答応
雍正帝の答応。生没年不詳。
☞《後宮甄嬛伝》の瑛答応のモデル?これもまだ放送では出てきてませんね…。
と言うワケで、雍正帝の後宮にいた人々の中で《後宮甄嬛伝》に出て来ている人のモデルっぽい人をピックアップして紹介してみました。こう見ると、華妃や皇后は当然モデルはいるわけですが、モデルが居そうな麗嬪や曹夫人、沈貴人はオリジナルなんですねぇ…。まぁ、余宮女子は明らかにオリジナルなんでしょうがwそもそも、主人公がマンジュから漢族に変わってたりしますしねぇ…。
ちなみに劇中の十七阿哥もどちらかというと、十三阿哥みたいな役どころでしょうし、どうせオリジナルならそんなに史実に寄せなくても良いと思うんですけどねぇ…。ある程度ネタバレになりそうデスが、殆ど意味無いかもですね。たいして史実に沿っていなかった《歩歩驚心》よりも史実には沿ってないようです。
- 貴妃については定員がある為、雍正帝即位後のニウフル氏の官位については疑問があるらしい。雍正帝即位後はウラナラ皇后の他、年貴妃、斉妃の二人が居るのみで、他は貴人、答応、常在のみだったはず。年貴妃が雍正3(1725)年に逝去し、斉妃が息子である弘時の件で寵愛を失ったため、皇后に次ぐ寵愛は受けたモノの正式にニウフル氏が貴妃に封じられた一次資料は発見されていない模様 [戻る]
- 四代前の先祖が明の遼東錦州指揮使として現地に赴任。崇徳5~7(1640~1642)年の松錦会戦中に曾祖父・年有升、祖父・年仲隆が捕虜となった。その後一族はマンジュの奴婢とされて、清の入関に従い北京に移住。祖父・年仲隆が順治12(1655)年に科挙に及第して進士となると、奴籍から漢軍鑲黄旗に移籍された。 [戻る]
『宮廷の諍い女』の登場人物と物語が史実とどの程度同じ、あるいは違うのか知りたいと思い、こちらに行き着きました。
雍正帝の時代の史実や后妃たちのことが分かる日本語の資料がありましたら教えていただけませんでしょうか?
唐突な質問をして申し訳ありません
>櫻井 閑さま
この辺は日本語資料で分かりやすいのはないです。
岡崎由美 王敏 監修『中国歴代皇帝人物辞典』河出書房新社には歴朝の皇后の伝記が纏まって載っているんですが、ここには雍正帝の后妃は載ってない。あえて新書で探そうとすると、入江曜子『紫禁城─清朝の歴史を歩む』岩波新書1141 や中野美代子『乾隆帝 その政治の図章学』文春新書567あたりでしょうか…、ほんのちょっとだけ、皇后ニウフル氏の話も出てきますが、基本的に名前ぐらいしか出てきません。雍正帝の伝記なら今は古くなってしまいましたが、宮崎市定『雍正帝―中国の独裁君主』中公文庫が有りますが、后妃のことはあまり詳しく載ってないです。こんな感じで良かったでしょうか?
宣和堂様
早速のご返事ありがとうございます
実は、私の仕事上の関係の方が、このドラマをみてとても興味をもち、
史実とどの程度違うのか知りたいが資料はないかとたずねられ困っていました。
宮崎市定の『雍正帝』も図書館で借りてみてみようと思っていたところでしたが、
孝聖憲皇后のことはあまりのっていないのですか、、。残念です。
宣和堂様のこのドラマの登場人物と史実の人物の照らし合わせは個人の知識からのものでしょうか?
宣和堂様のこの登場人物と史実の人物の照らし合わせ部分を資料としてお渡ししても
かまわないでしょうか?典拠となる資料がありましたら教えていただけるとありがたいのですが。
桜井 閑
>櫻井 閑さま
自分の記事は相当適当に訳しているので、もっとまともな方に根本史料を訳して頂いた方が確実だと思いますよ。
この記事は基本的にはそれぞれの皇后の名前の所にリンクしてある百度の記事を自分が適当に訳したものです。なので、これに相当する日本語の文章はありません。それに、百度の記事はWikipediaよりも信用度が低いと評判なので、元ネタの《清史稿》や《皇朝文献通考》あたりの漢籍を訳出する方が確実ではないでしょうか。ただ、この辺の漢籍では面白い話はあんまりのってないんですよねぇ…。
宣和堂様
ありがとうございます。
このドラマの原作もかなりフィクションだと聞いてはいたので、
やはり、日本語の文献で探すのは無理のようですね。
突然の質問に丁寧に回答くださりありがとうございました。
桜井 閑
>桜井 閑さま
あまりお役に立てませんでスミマセンでした。
自分が知らないだけでもしかしたら日本語文献も論文とかであるかも知れませんが…。
宣和堂様
いえいえ、
このドラマの登場人物と史実の人物比較はとても参考になりました。
また、中国の歴史等で質問をさせていただくことがあると思います。
そのときはよろしくお願い致します。
遅い時間までお付き合いいただきまして本当にありがとうございました
桜井 閑
敬妃がなぜいないの?
>宮廷の諍い女大好きっ子ちゃん 様
モデルとおぼしき人が見当たらなかったのです。