シナ海域 蜃気楼王国の興亡

 と言うワケで、久しぶりに読み応えがある歴史本を読んだので、メモ。ってあれ?Kindle板あるじゃん……あるじゃん…。

 いや、確かに講談社だからもしかしたらとは思ったけど…あるんだ…。未来だぜ…。
 作者の上田信センセは新版講談社中国の歴史で、第九巻『海と帝国 明清時代』を執筆された先生。このシリーズは、今は講談社学術文庫に入っている旧版講談社中国の歴史との差別化からかピーキーな内容の本が多かったんですが、特に海洋貿易に特化した内容のこの本は異彩を放っていましたね…。

 と、気を取り直して内容をザッと紹介します。わかりにくい題名から内容のコトを察しにくい本書ですが、基本的にはモンゴル時代以降のアジアの海洋世界とその中心となった人物をメインに執筆されています。蜃気楼王国って言うのは、確実に勢力圏として存在したはずなのに、記録が残っていない海の民の王国ってニュアンスでチョイスされた単語なんだと思います。内容としては…

序章:概論…と鉄砲伝来 第一章:足利義満と朝貢貿易 第二章:鄭和と東南アジアのムスリム社会 第三章:王直と嘉靖倭寇の実態 第四章:小西行長と慶長・文禄の役 第五章:鄭成功と最後にして最強の蜃気楼王国

って感じデス。と言うワケで内容についてのメモ。基本的に文の後にカッコでくくっている部分と※のついている部分は宣和堂の個人的な感想デス。

第一章
足利義満は対外的には源道義と名乗った⇒氏と姓の関係から名乗りは姓を、また日本国王に册封されたときには義満は出家しており法号は道義であったため。
准三后の称号と法体での貿易促進は平清盛の前例に沿っている。
明・洪武帝時代に日本国王に封じられた良懐とは何者か?⇒南朝の西征大将軍・懐良親王とその後継者・良成親王を合わせた”標識”だったのでは?(流石にこれは同意できない。《明史》日本伝は”阿奇支”と”明智”という二つの表記で明智光秀を混同しているくらいなので、あまり信用が置けないと思うのだが…)
足利義満がに日本国王に封じられたのはあくまでも棚ボタ⇒義満が書簡を明に送った当時は靖難の変の最中で書簡を受け取った建文帝は劣勢から藁にもすがる思いで日本国王冊封を切り出し、その後、実際に義満を日本国王に封じた永楽帝も靖難の変後で権威を示したいのと当時も問題になっていた倭寇を義満に取り締まらせるのが目的だった
地方勢力を緩やかに束ねるくらいの権力しか持たなかった足利義満には倭寇を取り締まるような権力を持たなかった。しかし、義満も明側の誤解を訂正せず、あたかも日本を統一的に支配する国王として振る舞った。
※足利義満が封じられた日本国王には実体が伴わず、その後も将軍家は朝貢貿易で主導的立場に立てず、大内氏・細川氏に独占される。

第二章
鄭和の父親は元末の混乱で明に征服された雲南で、占領軍である明に対してレジスタンスを行っていた中心人物だったのでは?⇒それ故に後世本名が伝えられていない。
三保太監、三宝太監という鄭和の別名は彼の幼名であったと言う説もある⇒アラビア語でヒジュラ暦の八月を意味するシャバーン(ムスリム社会では生まれた月を名前につけるのはよくあることらしい)?ペルシア語起源のウイグル語で土曜日を意味するシェンベ?
鄭和の元々の名前はフサインなりハーキムだった可能性がある(音通はトンデモでよく見られる根拠なのでこの辺は話半分で)
明の南海遠征は皇帝の私的な領域で計画されたので、宦官を中心に実行された。足利義満の日本国王册封の交渉も義満の私的な家臣である阿弥号を持った同朋衆が中心となって行われたことと軌を同じにする。
鄭和の南海遠征に関する資料は後世あまり残らなかったが、ジャワ北岸の港町・スマランにある三保廟に残された資料に基づいて編纂されたと言われる『編年史』にはある程度の記録が残されている…が、英訳のテキストしか存在しない(『東日流外三郡誌』みたいな偽書臭さが…)
鄭和の南海遠征は自身が帰依するハナフィー派(スンナ派法学派の一派)華人コミュニティーを東南アジアに扶植し、ハナフィー派華人ネットワークによって南海の秩序を再編成することにあったのでは?
※鄭和の南海遠征に対する情熱は宗教的な情熱が大半を占めたというのは面白いけど、そもそも永楽帝が何故南海遠征をバックアップし続けたのかについては触れていない。
※鄭和の本名について考察しているものの、自分が以前から気になっていた、皇帝から下賜される姓が何故”鄭”だったのかについての言及は無い。これが国姓の”朱”であれば何の違和感も無いが、何故”鄭”だったのか?やっぱり鄭和は謎に包まれている。
※現在の東南アジアのイスラム化は鄭和の南海遠征に端を発するという説を提示している。鄭和の南海遠征の成果ってキリンと景泰藍くらいしか無いんじゃ無いの?と常々思っていたので、これは面白い視点。

第三章
王直の本名は《日本一鑑》によると王鋥。五島列島と平戸を本拠地として、どうやらちょんまげも結っていた模様。”汪”は母方の姓。徽州歙県出身。
火縄銃の日本伝来は汪直が関わっていたのは定説だが、もしかしたら硫黄・硝石とセットで日本に売るという意図があったのかも知れない。
嘉靖大倭寇とは明と王直の海域国家との戦争。⇒王直は徽王を名乗り一勢力の王であった。
王直を捉えた胡宗憲も徽州出身。胡宗憲は王直の招安を行い互市…王直の統制下で行われる交易を認めようとしていたが、収賄と弾劾されたため保身のために王直を裏切った?

第四章
小西行長には1:商人・小西立佐の息子としての名前=小西弥九郎 2:豊臣大名としての名前=豊臣行長 3キリシタンとしての洗礼名=アゴスチノ行長 がある。
堺商人の息子として瀬戸内海の海路を掌握し、豊臣大名として九州に領地を有して港街・八代を拠点としていた。
行長にとっての慶長・文禄の役は明との通貢とキリスト教の中国での布教を目的としていた?
※小西行長に宗教的な情熱があったにしても、それを朝鮮侵略の目的の一つとするのはちょっと流石に納得出来ない。

第五章
鄭成功は山・海に大別される五大商を組織し、山の系列では京師(北京)・蘇州・杭州・山東に拠点を持っていた⇒諜報活動もこの五大商が中心となって行われ、その一端が明らかになった際には輔政大臣・ソニンが直々に捜査に当たっている。
五大商は挙人・成員など科挙身分を持つ地域有力者に取り入って貿易を盛んに展開していた。
五大商は思明州・泉州を中心とした山路ネットワークを管轄する仁・義・礼・智・信という五行(ギルド)、杭州を中心とした海路ネットワークを管轄する金・木・水・火・土という五行(ギルド)を置いた。
更に東シナ海の日本・台湾・フィリピンなどを航行する東洋船、南シナ海の台湾・ジャワ・アユタヤなどを航行する西洋船を分けて管轄していた。
思明州など大陸の根拠には従兄の鄭泰、主な交易場所である平戸には弟の田川七左衛門を交易の中心に据えた。(田川七左衛門なんていう弟がいたというのは初耳!生母である田川松は大陸に移り住み、福建陥落の時に死亡しているので、その後の田川七左衛門が気になる!)
鄭氏勢力が衰退したのはこの五大商ネットワークを熟知した黄梧が軍需物資を備蓄した福建の海澄県ごと清に降ったのが遠因。
台湾の連合東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie 略称VOC、所謂オランダ東インド会社)攻略についてはかなり指数を割いている。
台湾の漢人がオランダ人に虐待されていると言うのが、台湾攻略の大義名分。同じようにフィリピン(ルソン)にも攻め込もうとしていた矢先に鄭成功が急死した。台湾・フィリピンを勢力圏に置くことが鄭成功の初期の構想。
※鄭氏勢力が長続きしたのは五大商の交易と諜報活動と在地勢力の抱き込みが原因として、衰退の原因もこれに求めている。これは面白い。また、鄭成功の死因も息子の鄭経が乳母と通じたため…という通説も紹介しながら、鄭芝龍の処刑と鄭氏墓所の破壊が決定打であったとしている(しかもこれを提案したのがまた黄梧)。

と気になったところをメモするとこんな感じデス。眉唾なことも多いんですが面白かったデス。

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