艾度禮
崇徳末年の王公序列記事で詳細が分からなかった艾度禮…多分アイドゥリの経歴をツラツラと確認していますが、中々よく分かりませぬ…。取りあえず、《清史稿》と《清実録順治朝実録》、《八旗通志》初集をザラッと見た感じを時系列に並べて見ました。
(天聰)九年(中略)五月、遂於毎牛彔下選擺牙喇二人、以多鐸爲師、命艾度禮阿格等輔之、隨率兵入明廣寧地方。i
天聰9(1635)年当時はアイドゥリ・アガと称されていたようですね。タイジよりも下程度の皇族の若年者へ尊称って感じでしょうか。要するに無冠の部屋住みだったようです。
(崇徳四年)五月戊午,以貝子篇古有罪,削爵。(中略)庚辰,以鎮國公艾度禮為都統。ii
で、どうやら崇徳4(1639)年5月には鎮國公になっていたようで、かつこのタイミングで都統=グサ・エジェンに任命された模様。ただ不思議なのは、グサ・エジェンの漢訳を音訳である固山額真から都統と改称するのは順治年間に入ってからのことなんですよね。あと、《清史稿》のこの記述から解釈すると、鑲藍旗グサ・エジェン・フィヤングの後任であるように見えますが、《八旗通志》の八旗大臣年表などを見ると、順治年間になるとグサエジェンは割と空位のママ放置されることもあったようなので、この辺は断定できません。
この頃の八旗満洲については、阿南惟敬センセの「清初固山額真年表考」を見るに付け、この頃のグサ・エジェンは判明しているように思えます。しかし、上の記事から原因は不明ですがフィヤングは爵位を削られるくらいの罪を犯したようです。こういった場合は爵位だけでなく官職も剥奪される事が多いので、記述がないだけでこのタイミングでフィヤングは鑲藍旗のグサ・エジェンの任を解かれたと解釈する方がすんなりいきます。「清初固山額真年表考」の様に崇徳から順治にかけてフィヤングが一貫して鑲藍旗グサ・エジェンであった…とするのには、自分は問題があるとは思います。崇徳4(1639)年以降、鑲藍旗のグサ・エジェンはフィヤングからアイドゥリに変更されたとみるのが無理がない解釈でしょう。
(崇徳)七年九月、與貝子羅託、尼堪、固山額真公艾度禮、宗室拜尹圖、固山額真恩克圖、俄莫克圖等、率師往代公博和託等駐防錦州。iii
さて、前の記事だけでは用語の点から誤植や勘違いの可能性は棄てきれませんでしたが、ココではグサエジェン・公・アイドゥリと明記されていますから、旗色はハッキリしないモノのアイドゥリは少なくとも崇徳7(1642)年当時グサエジェンであったことは間違いありません。
(崇禎八年)六月癸酉,多羅饒餘貝勒阿巴泰師還(中略)己卯(中略)艾度禮代戍錦州。iv
で、崇徳8(1643)年のこの記事では、アイドゥリはアバタイの交代要員として登場しています。
さらに同年8月にホンタイジが急逝すると、王公に列して十三位の皇族として記録されています。
(順治元年)二月辛巳,艾度禮戍錦州。v
(順治元年二月)辛巳。命固山額真鎮國公艾度禮同梅勒章京伊爾德等更番駐防錦州。vi
更に翌順治元(1644)年2月にまた軍事行動に従事していますが、ここでも《順治実録》ではグサ・エジェン・鎮國公・アイドゥリとされています。同メイレン・ジャンギンとされている伊爾德は《八旗通志》の八旗大臣年表によると、順治元年当時は正黄旗のメイレン・ジャンギンだったようです。ただ、《順治実録》によると正黄旗のグサ・エジェンはタンタイでこれも大実力者ですから、アイドゥリと伊爾德と同じ旗だという意味では無いようですね。
(順治元年三月)甲辰。防守錦州、鎮國公艾度禮等所解逃人稟稱、大兵既下前屯等城。寧遠一帶。人心震恐。聞風而遁隨下令修整軍器。vii
同年3月も相変わらず軍事行動に従事しています。
(順治元年六月)癸未,艾度禮有罪,伏誅。viii
(順治元年六月)癸未。鎮國公固山額真艾度禮於誓期前日、私言二王迫脅盟誓。我但面從心實不服主上幼衝。我意不悅。今雖竭力從事、其誰知之二王擅政之處亦不合我意。每年發誓予心實難相從天地神明。其鑒察之。遂書其詞於誓期之晨焚之。有穆成格、卓佛和欲發其事令醫者占何時可首。因具道始末醫者以告艾度禮子海達禮。艾度禮遂自首於攝政和碩鄭親王濟爾哈朗。事下法司鞫問得實。艾度禮及妻、並其子海達禮及醫者並棄市。家產及所屬人口、俱交與和碩鄭親王。ix
しかし、同年6月になると事態は一変します。《清史稿》ではアイドゥリが誅に伏したと簡単に書いてますけど、《順治実録》を見るとかなり生々しい事書いてますね。ホンタイジ崩御後、フリン即位の際に皇族王公が誓詞をかわした時からアイドゥリは幼主を立てることに不満を持っており、更にジルガランとドルゴンの二巨頭態勢にも納得がいかなかったようです。思い悩んだ末に妙な呪い師に引っかかってジルガランやドルゴンにこのことを告げようかどうしようかと相談してあれこれ悩んでいる内に、呪い師からアイドゥリの子供であるハイダリにそのことが漏れたためにアイドゥリ自らジルガランに自首したと言う感じですかね。自首したモノのアイドゥリとその妻及び子のハイダリは揃って棄市となってますから、あるいは皇族内の権力闘争の結果なのかも知れませんが、アイドゥリ以上にその妻のバックボーンが分からない以上、何とも言えません。ただ、アイドゥリが棄市にあった後、ジルガランがその財産を管理したようです。身内に不始末があったときには、一番近しい親族が財産を相続するのがこの頃のマンジュの風習で、特に同じ旗に属する者なら尚のこと罪の問われた人の財産管理を旗王が任されることが多いので、アイドゥリが鑲藍旗のグサ・エジェンだと自分が考える根拠になってます。
ただ、この6月と言うタイミングを考えて見ると、いささか特殊な時期です。4月からは入関作戦が始動していてドルゴン以下入関組は戦地に赴いていますが、マンジュの故地を空にしたわけではなく、留守番役がムクデンに盤踞しています。6月時点ではおそらくアイドゥリも留守番でムクデンに居たのだと考えた方が自然です。10月には清朝は遷都して、皇族も大挙して北京に移動しますが、それまではジルガランがムクデンの政治を一手に引き受けていたようです。
とすると、この事件はジルガランの主導…というか、彼の独断で処理されたと考えて良いでしょう。少なくとも幼帝・フリンを後見する孝荘文皇后の同意を得てはいたでしょうけど。また、入関作戦以前に発生した、ホーゲのクーデター未遂容疑事件ではホーゲは有力な支持者を失ったモノの、官職と宗籍を剥奪されただけで幽閉やまして棄市などされずに済んでいます。一方のアイドゥリは現体制に不満を持っていたとは言え、読んだだけでは何のこっちゃよく分からない罪状で棄市までされているというのは違和感があります。状況から考えると、ジルガランにとっては都合の悪い身内だったために口実を設けて排除された…って感じに見えるんですが、穿ちすぎですかねぇ…。この時期によくある権力闘争の一環に思えます……が、いかんせんこれだけではこれ以上のことは何も分からないので、ドルゴン留守中のムクデンにもイヤーな雰囲気が漂っていた!と言うコトくらいしか言えませんね。
で、《八旗通志》初集の八旗大臣年表は順治年間からしか記述がありませんが、順治元年の鑲藍旗のグサ・エジェンは巴篤理という人物が11月から任命されたという記述がありますが、それまで誰がこの任にあったのかは記述がありません。《清史稿》にも巴篤理と言う人物の記事もあるので、アイドゥリと混同したと言うコトはおそらくは無いと思います(表記の違いであればおそらく、鎮國公巴篤理と表記されるはずなので)。ただし、翌順治2年にはベイセ・トゥンチがグサ・エジェンに任命されて長期に渡ってその地位に居るので(順治5年にジルガランを告発するのはトゥンチなので、どちらかというとドルゴンより人物だったと思われる)、この辺もなんだかドルゴンとジルガランの確執が関係あるようにも見えます。
と言うワケで、謎のアイドゥリを調べて見たモノの、やはり謎のママでしたということですね…こりゃ。
磯部淳史「清朝順治初期における政治抗争とドルゴン政権」(『立命館東洋史学』30号)が,アイドゥリに言及しています。典拠が挙がっていないのが残念ですが,磯部氏の記述によればアイドゥリはアミンの子とのことです(なおアイドゥリはウラ=ナラのブジャンタイの娘を娶っているとのことです)。ということは,ジルガランは彼のおじということになりますので,自首する相手としては適切かと思います。また彼が鑲藍旗グサ・エジェンに任じられたのも当然かと思います。私も編纂史料におけるアイドゥリについてのまとまった記述を探しましたが,見つかりませんでした。ホンタイジに失脚させられたアミンの子である上,伏誅したため記録が残されなかったのかもしれません。
たびたびすみません。アイドゥリはaiduriとつづられます(『旧満洲檔』崇徳元年9月28日条)。
>匿名様
ご教授ありがとうございます。その論文読んだハズなんですがすっぽり抜けてました。Evernoteから掘り起こして読み直します!
アイドゥリがアミン系なんじゃないかというのはうっすら疑っていたのですが、やはりそうなんでしょうねぇ。それだと前提条件的には矛盾しませんし。多分、宗譜あたりを見ればハッキリするんでしょうから、機会捕まえて確認してみます。ありがとうございました!
先日の匿名です。蒙古旗人と名乗らせて頂きます。
『満文内国史院檔』順治元年6月27日条に,上記『順治朝実録』よりも詳しく事の経緯が記されています。『清初内国史院満文档案訳編』ですと中巻pp.29-30に,その漢訳が掲載されています。
それによれば,アイドゥリが自首した後ジルガランは大臣たちを《大政殿amba dasan i yamun》に集めてこの事を告知したそうです。下のURLの論文では盛京(瀋陽故宮)の大政殿の満洲語名をamba dasan i yamunとしていますので,宣和堂様が推察されたようにアイドゥリは盛京にいたとして間違いありません。
http://www.npm.gov.tw/hotnews/9811seminar/download/b/335000000E-I6Z-549.pdf
その後アイドゥリ夫妻と子のハイダリhaidariは枷をかけられてドルゴンのもとに移送させられた(「takvrafi遣わして」)ので,処刑は北京で行われたとみてよいでしょう。なお満文では単純にwaha(殺した)とあり,表現がストレートです。
なお大政殿に集まった大臣たちというのは,内大臣タジャンtajan公,宗室シハンsihan,ドルジ=デヘメdorji deheme,啓心郎ソニンsoninです。いずれも順治帝即位後に忠誠を誓った両黄旗の大臣たちですね。
これがドルゴンの陰謀だったとして,なぜアイドゥリが邪魔だったのでしょうか。そこがポイントになるかと思います。なおアイドゥリの妻に関し,名前や出身氏族名などを伺い知ることはできませんでした。
>蒙古旗人様
度々ご教授ありがとうございます。うっかり持っていなかった《清初内国史院満文档案訳編》購入してしまいました。
適当に解釈したアイドゥリの居場所はやっぱり状況証拠通りだったみたいですね。それにしても、ジルガランが瀋陽で処理したのは間違い無いとは思いましたが、その後ドルゴンの元に送られていたんですね…。これはちょっと想定外です。自分はアイドゥリが鑲藍旗の親ドルゴン派かホーゲ派だったかで、後ろ盾が不在の間にジルガランから排斥されたモノだとばかり思っていたのですが、ワザワザドルゴンの元に送っているあたりどう解釈すれば良いんですかねぇ。
何にしてもドルゴン派、フリン派はこの時期の対立はそう深くないと自分は思っているので、アイドゥリは幼主が立つのが不満でドルゴンとジルガランの二巨頭体制も不満だったとすれば、やはりホーゲ派の残党だったと考えた方が良いのかもしれません。妻子も同じく棄市されているところからも、婚姻関係でホーゲ派と繋がりがあることが確認できればその辺は分かるかも知れませんが、《玉牒》でも見ないと無理ですかねぇ…。
でも、他の皇族の排斥については、排斥される皇族の身内から告発からの目くるめく罪状の山…と言うのと違って排斥される皇族の自白からの排斥っていうのはちょっと違和感がありますよね。この辺も史料がない以上状況から憶測するだけしかないんでしょうけど…。