艾度禮 その2
と言うワケで以前書いた艾度禮という記事にコメントを頂きまして…。
どうやら、この時に取り上げた鎮國公・アイドゥリが磯部淳史「清朝順治初期における政治抗争とドルゴン政権」『立命館東洋史學』第30號で言及されてる様ですね。こないだ大学図書館に行ってEvernoteにクリップしておいたので、確認してみました。
(前略)やはり、ウラのブジャンタイの娘を夫人に持ち、後に順治帝への不敬行為から死罪となった鑲藍旗のアイドゥリ(愛度礼 Aiduri、ヌルハチ同母弟シュルガチ〔舒爾哈斉 Šurgaci〕の次子アミン〔阿敏 Amin〕の子でジルガランの甥)もまた、太宗の死に際してはドルゴンを支持していたのだろう。i
(前略)アイドゥリは順治帝即位後、幼帝の即位を不満とする誓文を密かに作成し、ウラ=ナラ氏の夫人とろもに死罪に処されている。ii
サラッと書いてますが、何処にそんな事書いてあるのか教えて!あと、アイドゥリがドルゴン派だったかどうかは、自分は不確定要素が多くて結論が出せないのでこの点は保留にします。系図に関しては…《愛新覚羅宗譜》とかにサラッと書いてあるのかも知れません。《八旗通志》初集の”艾度禮“という標記とは違う”愛度禮“という標記してますから、漢文史料でも他にソースがあるんでしょう。”愛度禮“で検索かけたら、何か出てきましたね…。
生活地區:庚戌年三月十三日亥時生,嫡母輝發納喇氏台詩貝勒之女。
職業/身份:原封鎮國公,當太宗崩眾發誓時因伊誓詞異於眾,順治元年甲申六月初十日處死年三十五歲。子孫黜去宗室為庶人,康熙五十二年七月恐伊子孫湮沒給予紅帶子為記。父/母
愛新覺羅阿敏 (ài Xīn Jué Luó ā Mǐn), 四大貝勒中排位第二
兄/弟/姊/妹
愛新覺羅宏科泰 (ài Xīn Jué Luó Hóng Kē Tài), 長子
愛新覺羅固爾瑪深 (ài Xīn Jué Luó Gù ěr Mǎ Shēn), 三子
愛新覺羅恭阿 (ài Xīn Jué Luó Gōng ā), 四子
愛新覺羅果蓋 (ài Xīn Jué Luó Guǒ Gài), 五子
愛新覺羅果賴 (ài Xīn Jué Luó Guǒ Lài), 六子
愛新覺羅三女,郡主 (ài Xīn Jué Luó Sān Nǚ Jùn Zhǔ)iii
系図では父親はやはりアミンになっています。母親はホイファナラ氏のダイシ・ベイレの娘と有りますが、夫人については記述がありません。あと、没年もサラッと書いてますし謎です。ただ、康煕52(1713)年段階、子孫が相変わらず庶民に落とされたままだったとか、記述が具体的過ぎるのでこれもなんかソースがありそうですね。
念のために《清史稿》を確認すると…
康煕五十二年(中略)秋七月壬子,詔宗人削屬籍者,子孫分別繫紅帶、紫帶,載名玉牒。iv
…と、宗籍を剥奪された皇族の子孫を調査して、紅帯、紫帯に分けて《玉牒》に載せたことがあったようです。先ほどの記事もこの事件のことを別角度で書いた資料を元にしてるのかも知れません。
と言うコトで、《清史稿》のアミンの伝を見てみましょう。
阿敏子六,有爵者五:愛爾禮、固爾瑪琿、恭阿、果葢、果賴。愛爾禮、果葢、果賴皆封鎮 國公,愛爾禮坐罪死,果葢諡端純。v
……ビンゴですね。多分、この愛爾禮がアイドゥリなんでしょう。ただ、《清史稿》を検索しても”愛爾禮“はこの箇所でしか出てきてないようですね。残念。
どうやら、アミンの子供には男子が六人居て、その中で有爵者が五人居たこと、その中ではアイドゥリは年長だったことが予想できます。おそらくアイドゥリはアミンの長子か次子だったのでしょう。ちなみに先に引用したホームページではアミンの長子を宏科泰…ホンカタイ?として、アイドゥリはアミンの二子としています。
他にも増井寛也「清朝入関前の〈アゲ〉ageについて─天命期を中心に─」立命館文學第582号と言う論文の付録でも、《愛新覚羅宗譜》に準拠という形でまとめた系図の中で、”愛度礼“がアミンの息子であることを紹介しています。
鑲藍旗は元々シュルガチの影響下にあったグサで、天命年間~天聰年間はアミンが旗王として鑲藍旗を支配していましたから、アミンの息子であるアイドゥリが鑲藍旗のグサ・エジェンに任命されていてもおかしくはないと思います。個人的には順治元年当時の鑲藍旗グサ・エジェンはアイドゥリであったと確信しました。
で、更にご指摘を頂いて、マンジュ文書である《内国史院檔》の漢語訳である《清初内国史院満文檔案訳編》光明日報出版社 にアイドゥリの記事の漢語訳がある事を知ったので、取り寄せてみました。他のご指摘によると、重修以降の漢文実録を参考にしているので、扱いには注意が必要な書籍のようですが、マンジュ本文が手軽に閲覧できない状態なので、取りあえずこの本を参考にします。真面目に研究する人は東洋文庫に行こうね!と、確認すると、結構長めに記事がありますね。
(顺治元年六月二十七日)是日。正月十五日众人誓文、命苏尔泰于十四日撰拟。十四日晩、镇国公艾度礼私命其包衣牛彔下穆成格缮拟誓文、誓文曰:二王胁迫盟誓、艾度禮我但面从、心实不服。主上幼冲、我意不悦。今虽竭力从事、其谁知之。二王擅政之处、亦不合我意。毎年发誓、予心实难相从。此誓文、天地神明、其鍳察之。遂书其词、于十五日晨邀护军公马福琛前来。俟穆成格我前去时、其妻尚未起床、遂命我往堂屋里送炭。我开门跪地烧炭、然后进里间、束带载帽、将呈王览阅之誓文賷送衙门。我拟此誓文时、我曾于拟文处爲其持尖角灯。少女额音哲在女主人剪云子时、曾爲其持灯照明、知晓此事、且公子海达礼亦在。海达礼曾有言:应于誓期前焚其誓文。然艾度礼则曰:可于誓期前清晨焚烧。穆成格、卓佛和遂欲發其事而缮讼文、并将讼文给包衣医者阅看、问何时可首。医者曰:尔以何事发其事?穆成格、卓佛和曰:尔先发誓后再告。医者遂发誓、然后倶言始末、且又言于海达礼。海达礼告知其父艾度礼、艾度礼自首于摄政和硕郑亲王。和硕郑亲王告于诸官、遂將穆成格、卓佛和拿审。供稱:诉讼此事是实。艾度礼夫妻命苏尔泰缮拟众人之誓文是实。然所谓十四日夜命穆成格拟誓文一事、则属无影之事。隨又讯海达礼、供稱:彼夜晩、我仅看得穆成格持笔研墨、而后我即往另间屋内用餐故其是否拟文、我等全然不知、亦未闻其言此。所谓于誓期前焚烧其语、则属无影之事。亦讯额音哲、供稱:我曾爲女主人持灯、穆成格于主人处拟文是实、而我却不知其缘由。然该额音哲见主人后、却改嘴曰:系挙神树缮拟祭文。遂将此下法司鞫审。其私拟誓文发誓情形是实。艾度礼夫妻并海达礼及医者拟斩、启摄政和硕郑亲王、内大臣塔瞻公、宗室锡翰、多尔济徳和莫、启心郎索宁等后、和硕郑亲王遂集和硕兄礼亲王、多罗饶餘郡王及诸大臣于大政殿、告诸官后、將艾度礼夫妻并海达礼、加扣铁镣监禁、并启摄政和硕睿亲王。摄政王奉命大将军咨文摄政和硕郑亲王曰:若艾度礼犯罪确信无疑、则岂能容忍向天发誓行恶者生存、应照尔等审理完结。艾度礼夫妻并海达礼及医者并弃市、其家产及诸申倶交和硕郑亲王。vi
大雑把に訳しましょう。順治元(1644)年6月27日、この年の1月15日にある集会が催され、そこで誓詞が交わされた事が発覚した。誓詞は苏尔泰=蘇爾泰=Surtai スルタイに命じて作らせた。14日の晩に鎮國公・アイドゥリはそのボーイ・ニル(王府直属の家臣)の穆成格=Mucengge ムチェンゲに願文を作成させた。誓詞には「二王(睿親王、鄭親王)に脅迫されて誓詞を交わしましたが、私アイドゥリは表面上従いながら、内心これに不服でした。幼主が立つと言うことが、私には面白くありません。今は必死に(この事を隠して)幼主に仕えているので、誰もこの事を知りません。二王が政治を独占している状況も、私の意図するところではありません。毎年、意にそぐわない宣誓をするのは本当に心苦しい事です。この誓詞は天地神明に誓って恥じるところはございません。」と書かれていた。この辺は訳は一段と適当ですが、アイドゥリが幼主を擁立することも、ドルゴンとジルガランが二巨頭体制でこれを補佐することも本意では無かったようで、このことを王府直属の家臣であるムチェンゲに命じて願文にまとめさせたようですね。
この誓詞を15日早朝に護軍公・馬福琛=Mafucan マフチャンを招いて見せた。「ムチェンゲが来るのを待って私が外に出た時、妻はまだ起床していなかったようです。(アイドゥリがムチェンゲに?)命じて堂内に炭を持ってこさせました。私は門を開けて跪いて炭を焼いた後で堂内に入りました。正装してこの誓詞を王(鄭親王?)に閲覧して頂くために衙門(役所)に提出しにいく準備をしました。私はこの願文をまとめる時、小間使いの少女・额音哲=額音哲=Einje エインジェに灯りを持たせていたいました。この小間使いは、かつて女主人(アイドゥリの妻?)が切り紙をする時に灯火を持つ役でした。この事は公子・海達礼=海達禮=Haidari ハイダリもその場に居たので知っています。」と、自分はこの文章の主体をアイドゥリとしましたが、なんだか護軍公・マフチャンの供述のような気もしてます。どっちにしろ、誓詞の内容を知っていたのは、灯りを持つ役だった小間使いのエインジェとその場に居合わせたアイドゥリの息子・ハイダリだったと言うことを供述しているようです。小間使いさん、字が読めたんですかねぇ…。話を聞いたって事でしょうか。
ハイダリはかつて「祈願前に願文を焚くべきだ」と(アイドゥリに)提案したことがある。その際、アイドゥリは「祈願前に晴れた早朝に願文を焚くべきだ」と答えた。ムチェンゲと卓佛和=Jofuho ジョフホは、この陰謀を役所に訴えて暴こうとして、訴訟文を王府直属の医者に見せて、いつ届け出るべきか意見を求めた。医者が「何故告発しようとするんですか?」と質問すると、ムチェンゲとジョフホは「君がまず我等に忠誠を誓うなら、その質問に答えよう」と答えた。医者は彼らに忠誠を誓ったので、事の始末を教え、(医者が?)ハイダリにこの事を告げた。ハイダリが父・アイドゥリにこの事を報告すると、アイドゥリは摂政和碩鄭親王(ジルガラン)に自首した。どうやらアイドゥリはボーイ・ニル=王府直属の家臣のムチェンゲとジョフホに裏切られそうになり、それを聞いた医者がハイダリを通じてアイドゥリに知らせたため、アイドゥリが自首したと言う顛末のようですね。願文を焚こうとして相談しているので、ハイダリもこの事知ってそうですが、なんか以下の供述ではしらばっくれてるんですかね…。
和碩鄭親王は諸官にこの事件を発表し、ムチェンゲとジョフホを拘束して審理を行った。(ムチェンゲとジョフホは)ともに「この訴訟は事実です。アイドゥリ夫妻がスルタイに命じて誓詞を作成させ、人を集めて誓わせたのは事実です。しかし、14日の夜にムチェンゲに願文をまとめさせた等という一件は根も葉もないことです。」と供述した。一方、ハイダリは「あの晩、私もムチェンゲが筆を持ち墨をすっていたのをちょっと見ています。しかしその後、私は別室で夕食を摂っていたので、文章作成の有無については全然分かりませんし、そのことについては話も聞いていません。それに、祈願前に願文を焚くと言う発言に関しては根も葉もないことです。」と供述した。また、エインジェに尋問したところ「私はかつて奥様のために灯火を持つ役目でした。ムチェンゲが御主人様の所で願文を作成していたのは事実ですが、私はその理由を知りません。」と供述した。しかし、エインジェは主人を見た後、急に手のひらを返して「神樹に作成した祭文を括り付けていました。この尋問を受けて、私は(御主人様が)願文の誓約を行ったことを事実だと認めます。」と供述した。なんだか、ムチェンゲとジョフホにしろ、ハイダリにしろ自分に都合の良い供述をしたようで、藪の中みたいですね…。エインジェに関してはアイドゥリを見るなり会って話をしてから、急に話を改めたところ見ると、主人を慮って口を閉ざしていたのをアイドゥリが供述を勧めでもしたみたいに取れますね。それか、庇い立てしても良いコトは無いとエインジェが主人を裏切ったかですが…それこそ真相は藪の中ですね…。どっちにしろ、願文は焚いてしまった後で現物がなかったみたいですね。願文は神樹に括り付けられた後に焚かれて、その後アイドゥリは祈願したんですかね…。アイドゥリがフリンの擁立とドルゴン・ジルガランの二巨頭体制に不満を持っていたのは分かるんですが、それを願文にまとめて神に誓うということ自体の意味がよく分からないので、どうもその後の供述がよく分かりませんね。
アイドゥリ夫妻とハイダリ及び医者は斬刑と判断されたが、和碩鄭親王(ジルガラン)、内大臣タジャン公、宗室シガン、ドルジ・デヘメ、啓心郎ソニンによって審議された。和碩鄭親王は和碩兄禮親王(ダイシャン)、多羅饒餘郡王(アバタイ)にも、大政殿で開催する審議に参加するよう要請し、諸官の前で発表した後、アイドゥリ夫妻とハイダリは鉄の枷をはめて拘禁し、摂政和碩睿親王(ドルゴン)にも審議を仰ぐことになった。摂政王奉命大将軍は公文書で和碩鄭親王に「もし、アイドゥリの犯した罪が確実で疑問を挟む余地がないのならば、どうして天に向かって誓約までした悪人を生かしておくことを容認できようか?君たちの審議で結論は出ている。」と、返答した。アイドゥリ夫妻とハイダリ及び医者は棄市され、その家財と旗下の兵は和碩鄭親王が没収した。最終的にはジルガランの独断ではなく、内大臣タジャン、宗室シガン、ドルジ・デヘメ、啓心郎ソニンら黄旗大臣たちと、留守番役の旗王であるダイシャン、アバタイも審議に参加して貰った上で、北京のドルゴンにもお伺いを立ててるみたいです。《順治朝実録》の記事ではなんとなくジルガランの独断でアイドゥリの処刑が決定したような印象を受けましたが、どうもそうでもなさそうですね。漢訳だとアイドゥリ達は瀋陽で拘禁されたままのようにとらえられますが、どうもマンジュ語本文ではアイドゥリ達は枷をはめられたまま北京に移送された事が書かれているみたいですvii。アイドゥリは自供通りの罪が認められたんでしょうが、その妻はなんでその巻き添えを食ったのか?息子のハイダリは嘘の供述をしたと見なされたんでしょうけど、本当のところはどうだったのか?なんでまた密告されそうになっていることを主人に告げただけの医者が巻き添えを食っているのか?他の登場人物が供述があるのに対して、アイドゥリの妻と医者にだけ供述がないのは何故か?供述が他の人間と食い違うムチェンゲとジョフホは罪を問われなかったのか?罰せられたアイドゥリの妻の小間使い・エインジェはどうなったのか?スルタイやマフチャンは罪に問われなかったのか?そもそも、1月15日に集会を開いたときにアイドゥリに同意した人はどれほどいたのか?アイドゥリが望んだ政治体制とはどのような体制だったのか?等々、記述が多い割に謎ばかり残りますね。
もう一件、《清初内国史院満文檔案訳編》の中でアイドゥリの記事を見つけたんですが、長くなったのでまた今度にします。
例の史料を再度確認致しました。先日私が「ドルゴンのもとに移送させられた(「takvrafi遣わして」)ので」とコメント致しましたのは,動詞takvrambiの対象をアイドゥリ達と理解したことに基づきます。しかしながらアイドゥリ達は使者ではなく罪人です。「移送する」と解釈するには,動詞unggimbi(送る)が使われるべきです。従って宣和堂様が解釈されたように,アイドゥリ達は北京に移送されていないと考えられます。檔案のこの箇所は下記のようになっています(拙訳ではわざと直訳にしています)。
満文:aiduri eigen sargan haidari be sele futa tabuhai loo de horifi doro be aliha hoxoi mergen cin wang de takvrafi.
拙訳:アイドゥリ夫妻・ハイダリを鉄の鎖を留めたまま牢に監禁して,政を執るホショのメルゲン親王(=ドルゴン)に[人を]遣わして,
つまり[]で補ったようにtakvrafiの目的語が省かれている文ということになるでしょう。ここに訂正してお詫び致します。
登場人物に「?」を付しておられますので,各人の満文の綴りをお伝え致します。スルタイsurtai,ムチェンゲmucengge,護軍公馬福琛はmafucan gebungge bayara gung(漢訳ではひっくり返っています),エインジェeinje,ジョフホjofuhoとなります。
>蒙古旗人様
アイドゥリの刑死場所の件、ご教授ありがとうございます。マンジュ本の本文見ていないので何とも言えないのですが、漢訳の文脈から何となくドルゴンには報告して瀋陽で処刑って感じに受け取ってしまいました。マンジュ語の訳は難しそうですね…。
人名の件、ありがとうございます。本来なら自分で本文確認の上でやるべきですが、本文にフィードバックさせてもらってよろしいでしょうか?
自分は馬福琛は漢人かマンジュか悩んだんですが、マフカン?というマンジュなんでしょうかねぇ…。
どうぞ、フィードバックして頂いて構いません。馬福琛はmafucanマフチャンと分かち書きせずに綴られていました。もし馬という姓の漢人ならma
fu canと三つに分けて綴りますのでマンジュで間違いありません。
>蒙古旗人様
お返事遅れまして済みません。ありがとうございます。早速フィードバックさせてみました。マフチャンの件もありがとうございます。
あと、《八旗通志》初集見ると、ムチェンゲらしき人が鑲藍旗に居るんですね。もっとも、アイドゥリとどう言う関係にあったのかは書かれず、ドルゴンの入関に従い武勲を上げ…みたいなトコから始まっているので、果たして同一人物なのかは確証が取れませんが…。