康煕年間の十三阿哥

 ツラツラとWikipediaで康煕帝の十三阿哥・胤祥の中文記事を読んでいたら、おもろい事書いてあったのでメモ。

康熙四十七年九月废太子,并将皇太子、皇长子、皇三子、皇五子、皇八子、胤祥圈禁。十一月康熙解除其他皇子圈禁,继续对皇长子和胤祥实行圈禁[1]。i

 康煕47(1708)年9月の廃太子事件とその後の廃嫡謀議事件の影響で、皇太子(理親王)、皇長子(大阿哥・直郡王)、皇三子(三阿哥・誠郡王)、皇五子(五阿哥・恒親王)、皇八子(八阿哥・廉親王)…と十三阿哥胤祥が拘禁され、その後同年11月には他の皇子達は解放されたものの、大阿哥と十三阿哥は引き続き監禁されたと書いてます。
 そもそも、《清史稿》では十三阿哥の康煕年間の事績については全然触れられていません。

怡賢親王允祥,聖祖第十三子。康熙三十七年,從上謁陵。自是有巡幸,輒從。六十一年,世宗即位,封為怡親王。ii

 康煕37年から61年までの30年近くがスッ飛んでます。かなり雑ですが、康煕年間には十三阿哥は封爵されていなかった事は分かると思います。しかし、監禁状態にあったとかそう言うことは書いてません。ドラマなどでは上のような展開はお約束になっていて、この監禁によって十三阿哥は身体を壊して寿命を削ったと言うコトになることが多いのですが、自分は何かソースがあるのかな?と、気になってました。九阿哥、十阿哥、十二阿哥、十四阿哥は康煕48(1709)年に始めて封爵されていることから、康煕47(1708)年に何らかの事件があり、十三阿哥だけが封爵から漏れたというのは状況から見てあり得ることです。
 で、Wikipediaの上の記事には引用したように註が引かれていますが、そこも引用してみましょう。

1.^ 乾隆年間皇八子胤禩的後嗣弘旺在《皇清通志綱要》中寫道:“(康熙四十七年)九月,皇太子、皇長子、皇十三子圈禁。”“十一月,上(玄燁)違和,皇三子同世宗皇帝、皇五子、皇八子(原注:先君)、皇太子開釋。” 又,雍正年間蕭奭(shì)在 《永憲錄》中記載,康熙四十七年九月,皇十三子胤祥“因廢東宮事波及,削爵”。iii

 で、十三阿哥監禁の根拠として弘旺(八阿哥の息子・菩薩保)が責任編集した《皇清通志綱要》の記事が引用されています。で、この本や本文を検索したんですが、電子テキストに溢れた大陸サイトは愚か、国内の図書館検索でも引っかかりません。刊本として出版されたようですが、あまり流通してる本でもなさそうですね…。というので、こちらは確認が取れませんでした。でも、これが本当なら事件にかなり近い所にいた人物の記述としてかなり信用が置けます。
 で、もう一つ上がっている雍正年間の書物《永憲錄》ですが…こちらは中華書局の清代史料筆記にも入ってますね。

逮尚書法海。命順承郡王錫保訊其悖亂妄行諸罪。(中略)海字淵若。號悔翁。甲戌進士。選庶常。累官侍講學士。於懋勤殿侍皇十三子、十四子讀書。戊子九月。皇十三子今怡親王因廢東宮事波及。削爵。海降檢討。iv

 どうやら、法海(ファーハイ?)という人物に関する記事の一部の様です。当該する人物は検索するとこんな記事が出てきましたノデ。

法海,字淵若,號悔翁,滿洲旗人。康熙甲戌進士,改庶吉士,授檢討,官至兵部尚書。有《悔翁集》。v

 って《晚晴簃詩匯》って徐世昌の編纂ですか…。ともあれ、この法海は満洲旗人なので白蛇伝とは関係ないみたいですね。お坊さんじゃないです。あと、上の記事ではサラッと侍講學士については触れられていませんね…法海にとっても十三阿哥の教師をしていたって言うコトは黒歴史ナンですかね…。検索すると、法海は佟法海ともされているので、どうやらトンギャ氏の出身みたいですね。先の記事は兵部尚書だったときに逮捕された記事に付随して、元々はこう言う経歴の人物で……という部分の記述のようですね。《清史稿》を検索すると法海という人は結構出てくるんですが、立伝されていないので詳細は分かりません。それはともかく、内容です。
 法海は侍講學士の職に就いていたときに、懋勤殿で十三阿哥と十四阿哥の教育を担当していた様ですね。で、懋勤殿ってどこにあるんだろうってトコですが、こういう時に役に立つ《日下旧聞考》を見てみるとこんな感じデス。

乾清宮西廡向東與端凝殿相對者懋勤殿vi

 皇帝のプライベートゾーンである後宮の中でも、康煕年間は皇帝の居所であった乾清宮の中の区画ですね。懋勤殿は皇子の教育に使うには皇帝の目も届く良い場所だったのかな?という感じデス。
 で、康煕戊子=47(1708)年に十三阿哥が廃太子事件で罪を問われたことに連座した法海は爵位を削られ、侍講學士から檢討に降格させられたと言うことのようです。Wikipediaの執筆者は”削爵”を十三阿哥のことだと思ったようですが、このとき無爵だった十三阿哥の爵位が削られたとなると矛盾してますからねぇ。ともあれ、法海は十三阿哥の罪状に深く関わっていたのかどうかはこの記事では分かりませんが、状況から見て指導責任を取らされたという所でしょうか?罪を犯しているのを知りながら告発を行わなかったとか、積極的に十三阿哥に荷担したと言うコトなら、下手したら死罪でしょうしね。

 ともあれ、起居注なり実録からはサックリこの事は削除されたので、康煕年間の十三阿哥の経歴については謎ってコトになってしまうわけですね…。でも、大阿哥と同様に康煕年間監禁されてたって事は、皇太子を呪詛した大阿哥と同様とみられる罪状があったんでしょうね。即位した四阿哥こと雍正帝は後継者レースで最有力視されていた同母弟・十四阿哥を失脚させたものの、冷や飯食らいで干されていた八阿哥と監禁生活していた十三阿哥をそれぞれ廉親王、怡親王に封じて抜擢しているあたり、雍正帝は実はこの二人を評価してたんじゃないかと自分は思うんですけどね。廃太子=二阿哥は皇宮から北京近郊の理親王府に移動され、十三阿哥と同じような状況にあった大阿哥はそのまま監禁生活をおくり、八阿哥党とされた九阿哥や十阿哥は冷遇されているあたり、この人選には意味があると思います。雍正帝は九阿哥に関してはかなり悪感情を持っていたようですが、八阿哥にはそれほど悪い印象持っていなかったように思います。どちらかというと、九阿哥や十阿哥との決別を強いられた八阿哥が雍正帝に反抗した…ってコトなんじゃないか?と個人的には思います。
 あ、《永憲錄》には十三阿哥が拘禁された事は書いてあったけど、その後、監禁生活を強いられたって事は《皇清通志綱要》見ないと分からないのか…。むむむ…。

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  2. 《清史稿》卷二百二十 列傳七 諸王六 聖祖諸子 怡賢親王允祥 [戻る]
  3. 2015/06/27アクセス [戻る]
  4. 蕭爽《永憲錄》卷四 [戻る]
  5. 徐世昌《晚晴簃詩匯》巻五十四 [戻る]
  6. 《日下旧聞考》巻十四 國朝宮室 [戻る]

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