明末チベット僧のインテリジェンス活動~袁崇煥と王喇嘛、李喇嘛~

大金國璽影印

 清朝チベット仏教政策を調べていたら、清初…というか明末に対モンゴル、対マンジュ交渉…というか諜報活動で活躍した二人のチベット僧が出てきたので、とりあえず纏めておきます。縦横家のように舌先三寸でモンゴル諸部をマンジュから離反させた王喇嘛と、袁崇煥ホンタイジとの和平交渉を担った李喇嘛の事績が中心です。

王喇嘛(ワン・ラマ Wang-lama)
 東北チベットアムド地区の一部、ド・メー地方出身のチベット僧。出家して三吉八蔵(サンジェ・パサン sangs-rgyas Pa-sangs)と称しましたが、明朝側、後金/清朝側双方からは王喇嘛と記録されることが多いです。ド・メー地方はチベット人モンゴル人漢人の雑居地区でワン・サンジェ・パサンのように漢人姓チベット名を持つ「漢人喇嘛」を多く排出しました。王喇嘛もその中の一人の漢人であったようですi
 モンゴル語に巧みであったため、少なくとも天啓2(天命7 1622)年までには兵部尚書兼右副都御史王在晋麾下の宣化鎮モンゴル政策に携わったようです。
 まず、天啓2(天命7 1622)年4月、マンジュと連携していたハラチン部罕孛羅(ハンボロ?)に明朝との歴代の旧恩を強調して明朝に寝返らせる事に成功しますii iii
 その後、同年6月には内ハルハホンギラト部の有力者・ジャイサイ(宰賽 jaisai)をヌルハチとの確執を焚きつけて明朝に寝返らせる事に成功していますiv
 次いで同年8月にはチャハルリンダン・ハーンと対マンジュ国軍事同盟を締結する事に成功するvなど、対マンジュ国戦でモンゴル諸部を明朝側に引き込む謀略に携わっています。
 立て続けに工作を成功させていることから、これが一連の経略だったと考えた方が合理的でしょう。この頃、一度はマンジュに帰順したモンゴル諸部…というか内ハルハ諸部が帰順や離反を繰り返すのがどうも分からなかったのですが、こういう暗躍が裏にあったと言うことなんですね。
 更に、まさにチャハル工作が奏功したその日、天啓2(天命7 1622)年8月に、天啓帝のお気に入りの兵部尚書孫承宗山海関を視察してvi、その5日後に遼東経略王在晋の不備を指摘して失脚させてvii viii、その後任に立候補してix遼東に赴任します。
 孫承宗は若くして科挙に及第して、天啓帝日講官を務めたことから信任を得たようです。山海関を視察してその不備を指摘しただけではなく、弾劾して失脚させた王在晋の後任に収まってることから、自分なら遼東の劣勢を挽回出来るという自負もあったのではないでしょうか。また、山海関に入ってからはほぼ孫承宗を指す代名詞と言っていい”枢輔“と言う称号で呼ばれることからも、天啓帝からの絶対的な信任を感じます。経歴だけ見ると鼻持ちならないエリートのようですね…。清朝華北侵入に一家でに抗した”忠臣“ではあるんですけどねぇ…。
 天啓3(天命8 1623)年、孫承宗体制に移行してからも王喇嘛は対モンゴルの工作に従事していたようですがx、前任者が採用した諜報員と言うだけでも孫承宗は気に入らなかったようです。
 ついで、天啓4(天命9 1624)年、ちょっとした行き違い?で王喇嘛の裏切りを確信して、王喇嘛を処刑するよう上奏していますxi xii
 しかし、翌天啓5(天命10 1625)年2月には王喇嘛は勅命を受けているのでxiii、どういう経緯かは不明ですが、処刑されずに遼東に留まったようです。
 もっとも、その後、同年9月には孫承宗柳河之役での敗戦で弾劾を受けて、遼東経略を辞任して自宅療養させられていますxivから、王喇嘛との確執は有耶無耶になったものと思われます。この孫承宗の失脚も魏忠賢が己に附和しないのを快く思っていなかったので、敗戦にかこつけて失脚させたと言われています。明朝の末期的状態がここでも見て取れてしまいますね…。
 天啓6(天命11 1626)年、マンジュ軍が遼西回廊を進撃して錦州城を包囲しつつ寧遠城を攻撃すると、王喇嘛祖大寿等と協力して防戦に協力しxv、戦捷後の論功行賞ではモンゴル諸公ヌルハチから遠ざけたことxvi袁崇煥から評価されて副総兵待遇に昇格していますxvii。この寧錦大捷後の同年8月にヌルハチは戦傷が元で没しているので、間接的にヌルハチを死に追いやった…と言うと言い過ぎですね。
 更に天啓7(天聰元 1627)年5月には、王喇嘛チャハルリンダン・ハーンの娘婿グイェン・ヒヤ(貴英哈 güyeng kiy-a)を通じてチャハルを動かして、マンジュを北から牽制させていますxviii xix xx
 この年3月に袁崇煥は後述する李喇嘛を弔問使としてムクデン(盛京=瀋陽)に送っていますが、書簡の往来の中で李喇嘛が自身とともに王喇嘛の名前を挙げて、ホンタイジ袁崇煥の間を取り持つと説得していますxxi。仲介役として相応しい地位としてマンジュにも名の知れた僧侶だったという事でしょう。
 翌崇禎元(天聰2 1628)年には、王喇嘛チャハルの西遷に伴って遼東から離れて大同に着任しましたが、5月~6月にチャハルグイェン・ヒヤ長城を越えて大同を包囲していますxxii王喇嘛チャハルの統御に完全に成功していなかったと言うことでしょうし、チャハル明朝の言いなりになっていたわけではないと言うことでしょう。
 王喇嘛グイェン・ヒヤを説得してなんとか退却させましたxxiiiが、崇禎帝は国境の一ラマが外交や同盟を主導している状態は中国としての威厳が保てないのではないか?と批判していますxxiv。その後も袁崇煥には功績を評されているものの、明朝側の資料から王喇嘛の記載はこれ以降途絶えます。

 しかし、一方で清朝側の資料ではこれ以降も王喇嘛の名前はトゥメト部のタブナン(駙馬)として散見されます。王喇嘛李喇嘛の業績を纏めた李勤璞は2人の王喇嘛説を採って、遼東で活躍した王喇嘛トゥメト部のワン・ラマは別人としています。しかし、同時期に明朝王喇嘛トゥメト部のワン・ラマが活躍していた様でもないですし、明らかに別人と分かる記載もないので、同一人物と考えても問題ないようにも思います。モンゴルの人名としても王喇嘛なりワン・ラマはかなり珍しい部類に入ることも確かです。
 ただし、明朝の外交政策を主導したチベット僧と、トゥメト部支配層の娘婿とでは、かなり立場が違いますし、後で見るように明朝王喇嘛が謀略や交渉で活躍していたのに、トゥメト部のワン・ラマは戦働きしかしていませんから、明朝王喇嘛トゥメト部のワン・ラマの間には断絶があることは明白ですが、もののついでなので崇徳年間に活躍したトゥメト部のワン・ラマについても業績を併記しておきますxxv

 崇徳元(崇禎9 1636)年7月~9月、トゥメト部のタブナンワン・ラマ睿親王ドルゴンに従って華北に侵入し、北京近郊や山東省を転戦していますxxvi xxviixxviii
 その後、崇徳5(崇禎13 1640)年、トゥメト部の一員としてマンジュの要請に従って、睿郡王ドルゴン粛郡王ホーゲに従って錦州を包囲しましたが、敗戦の責を問われて支配下の領民と家畜を削られますxxixが、その後、崇徳6(崇禎14 1641)年9月までには戦死したのでxxxホンタイジワン・ラマダルハン号を追贈しています。

 崇徳7(崇禎15 1642)年には、ホンタイジワン・ラマの子・單巴松(タンパソン? Bstan-pa Gsung?)にダルハン号の襲号を許していますxxxi
 崇徳元年の華北侵入の際の《満文老档》の記事を見るに、ワン・ラマトゥメト部のグム・タイジ(Gumu Taiji)と行動を共にしていることからグムの関係者であると考えられます。この時期のトゥメト部のグム・タイジは《欽定外藩蒙古回部王公表傳》のジャサクグサベイセグム(扎薩克固山貝子固穆)に比定されますxxxiiから、ワン・ラマは年代から考えるとグムの父親であるオムブ・チュフル(鄂木布楚琥爾)のタブナン(=娘婿)で、グムの義兄弟と推定されます。崇徳5年時点ではオムブ・チュフルと行動を共にしてともにして、ホンタイジに罰せられているので、可能性は高いと思いますが…推測に推測を重ねた状態ですし、《欽定外藩蒙古回部王公表傳》にはグム崇徳元年の華北侵入に参加したという記載がないですから、推測の域は出ません。

ホンタイジ⇒袁崇煥書簡

〈清太宗皇太極致袁崇煥書〉《清史図典》第一冊 太祖 太宗朝 P.99

李喇嘛(リー・ラマ Lii Lama)
 出家して鎖南木座(ソナムツォ bsob nams mtsho)と称しましたが、明朝側、後金/清朝側双方から李喇嘛として記録されています。少なくとも天啓6(天聰元 1627)年には袁崇煥麾下で対モンゴル工作に従事していたようですxxxiii。有名なホンタイジ袁崇煥の往復書簡の発端となった人物です。
 天啓6(天命11 1626)年、袁崇煥ヌルハチの弔問とホンタイジの即位の祝賀に李喇嘛後金に派遣しますxxxiv。この際に袁崇煥李喇嘛を使わした理由は、ヌルハチ死去の虚実を確認するためで、更に隙あればヌルハチの諸子や配下の離間、または明朝に帰順するように説得、従わないなら拘束して朝廷の処分に委ねる様に指令が下されていますxxxv xxxvi
 スパイ映画のような指令ですが、明朝側の史料から確認出来ますから、少なくとも袁崇煥は朝廷には諜報活動を行うように李喇嘛に指示した旨報告しています。ワクワクしますね。
 これに対して、ホンタイジは自国の情勢を隠さず、むしろ李喇嘛に自勢力の軍勢や装備、帰順したモンゴル集団について調べさせxxxvii xxxviiiバーリンxxxixジャルートへの遠征部隊の凱旋にも同席させていますxl。そして袁崇煥宛の信書を李喇嘛に託して送っていますxli
 袁崇煥はどうやらヌルハチが死んだことで、マンジュ明朝に帰順して遼東の兵乱が収まることを期待していたようですが、返礼使の奉書に「大金」とあることで、ホンタイジが父の意思を継ぐ意思があることを察して落ち込んでいますxlii。しかし、袁崇煥マンジュ国の状況を報告した李喇嘛の功績を天啓帝に上奏して褒賞を賜与することを提案して許されていますxliii
 一方、チベット僧明朝後金マンジュの間の中立的存在を期待していたホンタイジは、李喇嘛明朝袁崇煥に肩入れする態度に不信感を抱いてxliv明朝マンジュ国の講和は成立しませんでした。或いは、朝鮮遠征時に後背を衝かれないようにする時間稼ぎだったとも言われています。

 しかし、李喇嘛ホンタイジから袁崇煥と別に本人宛の信書を往来させているxlv xlviことからも、充分にホンタイジに存在を認識されていたと考えられ、清朝チベット仏教政策にも影響を及ぼしたと考えられます。ホンタイジ李喇嘛を批判した仏僧は中立ではないのか?という言説も、ホンタイジ自体がその後、崇禎帝即位時にバ・ラマ(ba lama 白喇嘛)というチベット僧を派遣しているxlviiことから、仏僧の中立を建前と承知していたか、もしくは李喇嘛の活躍にヒントを得てチベット僧の活用に思い至ったのか…どちらにしろチベット僧を介して外交交渉することを具体的にホンタイジに認識させたのは李喇嘛だと言ってもいいと思います。
 また、明朝側は少なくともマンジュが間諜を領内に放っていて、中にはチベット僧に扮する者も居ると考えていたxlviiiようなので、王喇嘛の影響もあったのかもしれません。
 
 ただ、この二人のチベット僧明朝に信任され重用されていたかと言うと又別の話のようで、孫承宗崇禎帝のように軍事の枢要にチベット僧が介入することを快く思わない人が居たことも確かです。それに、上司である薊遼総督ですら、モンゴル人チベット僧の姿をしていれば誰でも敬うし、中には呪術や幻術を使うような怪しげな輩もいて、王喇嘛李喇嘛チベット僧と言っても漢人であるしそれらと変わらないし、本場のチベット僧と違って教養も怪しい紛い物だと思っていたようですxlix。むしろ、袁崇煥が彼らを高く評価している方が当時としては奇特だったのかもしれません。
 王喇嘛にしろ李喇嘛にしろ、それなりに成果を上げたハズなんですが、こう報われないと明朝のシステム自体に問題があるとしか思えないんですよねぇ…。

参考文献:
李勤璞〈明末遼東邊務喇嘛《中央研究院歴史語言研究所集刊》第71本第3分
李勤璞〈白喇嘛與清朝藏傳佛教的建立〉《中央研究院近代史研究所集刊》第30期
新藤篤史「清朝前期統治政策の研究」博士論文
神田信夫『清朝史論考』山川出版社 「袁崇煥の書簡について」
三朝遼事實録17卷總略1卷 国立国会図書館デジタルコレクション
大清太宗文皇帝實録》(一)台湾華文書局總發行
明實錄、朝鮮王朝實錄、清實錄資料庫合作建置計畫
漢籍電子文獻資料庫

  1. 王、李二喇嘛、雖曰番僧、猶是華種。⇒《明實録》熹宗 巻73 [戻る]
  2. 王在晉題撫賞諸夷。其夷屬夷來守關外也。始於罕孛羅勢之窺犯、一時聲勢甚大、寒上人心悚悚皇皇、若朝夕不能自保者。臣差加銜、都司閻守信、通官王擒胡、又差、番僧喇嘛王三吉八蔵、遊撃守備等官張定、王朝宗再往論、宣布皇上威徳。罕酋憣然省悟、懐我好音、自云『我家祖父老把都、青把都、白供大等受了天朝撫賞厚恩五十餘年、今遼東欲剿殺奴兒哈赤、我願出力報效、發帳房三百頂、傳調朶顔猍暈大等帳一千頂、同去哨守山海關外』。此屬夷守寧前之因也。(後略)⇒《三朝遼事實録》巻8 天啓2年壬戌4月 [戻る]
  3. (前略)河西淪陷之後、潰兵逃民、號呼晝夜、山鳴海沸、不忍見聞。西虜罕孛羅勢、擁鐵騎二萬餘壓境而陣、自關以西、洶洶皇皇、都門晝閉、良賤易服、士民商賈、飭裝南還者、絡繹於道、此乾坤何等時也。臣身在危關、生死呼吸、不可複支矣。急遣都司閻守信、通官王擒胡持諭帖宣布朝廷威德。又遣游擊張定、番僧王喇麻從邊外、假爲使於虎墩兔而遇諸途者、從旁勸誘。仰藉我皇上寵靈、酋罕聞諭感泣、懷我好音、自發夷帳三百頂、傳令屬夷發夷帳一千頂、來守關門。而後關門之闔者始開、賣柴賣米互相貿易、胡越一家。據撫夷各官冊報。諸夷爲我運送過大小銃炮一百七十七位、紅黃銅鉛十萬一千二百觔。救送難民男婦八千四百七十七名口、接送馬騾牛驢四百二十二匹頭只隻。我之出哨游騎、始及中前、漸而進於前屯、又漸而進於寧遠廣寧、而關外城堡、雉堞連雲、澤鴻安堵、耕獲盈野、橐裝載途、遂使關外二百餘里之河山、還我祖宗版圖之舊、原其始、文吏誰紓一籌、武弁誰發一矢。不有諸夷護關領哨、吾兵何能東向一步。兩年以來塵靖烽消、不可謂非屬夷力也。律以八議之法、其功豈可盡沒。(後略)⇒《皇明經世文編》巻424 王司馬奏疏二〈遵旨撫處屬夷報竣事撫處屬夷〉 [戻る]
  4. (前略)先是、喇麻僧土三吉叭[口蔵]及通官朱梅等、每言宰賽必圖報怨。聀謂宰賽有子女在彼、安能撒脫。據云宰賽一子巳逃回、有一子二女在奴中、賽常言「譬如死了、止出得一身汗」。因囑番僧・通官、令諸部酋長挑其怒以激之。今兩報不約而同、指爲宰賽事。顧宰酋之力、未足以攻奴。所云占住金台石・白羊骨舊寨、其言尚未可信也。然以夷攻夷之計、小試其端、而奴之役役以守鎮江南衛、則職之累疏請兵請餉、接濟毛文龍者、不爲虚招矣。(後略)⇒《皇明經世文編》巻424 王司馬奏疏二〈備陳撫欵事宜疏〉 [戻る]
  5. 經略王在晉恭奉虎酋受款併陳塞外夷情、以嚴防範事。(中略)八月十三日令山海道閻鳴泰・關外道袁崇煥・同撫夷官李増等出關、俾令[門/身]刀插血、立有盟詞。願助兵滅奴、併力恢復天朝疆土。若奴兵到、憨兵不到、斷革舊賞。倘奴酋通賂、背盟陰合、罹顕罰。蓋指天爲證矣。(中略)是舉也、副将王牧民先約朱梅・張定・喇嘛王桑吉叭[口蔵]自爲盟、而後與虜盟。所以通官無所刺謬于其間、而浮費絶。(中略)奉聖旨。西虜受款、知卿控虜有方、其效勞文武各官、統候事竣錄取。⇒《三朝遼事實録》巻11 天啓2年壬戌9月 [戻る]
  6. (天啓2年8月)丙子(13日)兵部尚書大學士・孫承宗、廵歷山海。⇒《明實録》熹宗 巻25 [戻る]
  7. (天啓2年8月18日)改兵部尚書王在晉為南京兵部尚書。⇒《明實録》熹宗 巻25 [戻る]
  8. 承宗面奏在晉不足任,乃改南京兵部尚書(後略)。⇒《明史》巻250 列伝138 孫承宗伝 [戻る]
  9. 在晉既去,承宗自請督師。詔給關防敕書,以原官督山海關及薊、遼、天津、登、萊諸處軍務(後略)。⇒《明史》熹宗 巻250 列伝138 孫承宗伝 [戻る]
  10. 王喇嘛自西部還、文貴以蝋書歸款⇒李勤璞〈明末遼東邊務喇嘛〉引用の《高陽太傅孫文正公年譜》巻3 [戻る]
  11. 孫承宗疏云、近日刑部諮稱臣傳将要殺王喇嘛。見今、喇嘛日在羅城原爲張經世從宣鎭招來。而督臣用之款虜、毎見臣事有賞慰、何曾要殺、何曾在逃。大約反側之窺伺。豈其無因而番快之捶楚、何求不得也。⇒《三朝遼事實錄》巻13 天啓4年甲子 [戻る]
  12. (天啓4年2月)癸丑(29日)、大理寺丞・吳之皞爲左少卿・孫承宗言「臣見、捕獲奸細紛然見告。而左袒經略者捕皆巡撫之人。左袒巡撫者捕皆經略之人。甚至喑啞孤兒立殺受賞其勑所司調劑寬嚴毋以遼民之在苦。而疏于防毋以遼民之可疑。而苛於誅。」上是之。
    《兩朝從信錄》大學士・孫承宗、弭邊釁張曰。臣于視部時、曾見捕獲奸細紛然見告。而左袒經畧者捕皆巡撫之人、左袒巡撫者捕皆經畧之人。此豈奸細分曹、而應抑。豈遊徼擇人、而捕罔不、招辭成獄口。口為真甚至喑啞之孤兒。立殺受賞賣刀之殘卒。以紿相獲。即如近日、刑部咨稱、臣傳稱將要殺王喇嘛、奸細・董成俊、從羅城密放。 王喇嘛逃走。見今 王喇嘛日在關城、原為尚書・張經世從宣鎮招來。而督臣用之款。讋毋見臣時有賞慰。何曾要殺、何曾在逃。⇒《明實録》熹宗 巻39 [戻る]
  13. (天啟五年二月)丁未(28日)。遣兵部郎中董象恒齎勑命圖書、頒給西僧喇嘛王桑吉叭[口蔵]等。⇒《明實録》熹宗 巻56 [戻る]
  14. (天啟5年9月7日)兵科給事中・王鳴玉、都給事中・羅尚忠、刑科給事中・蘇兆先、各具疏參劾馬世龍并及樞輔孫承宗。承宗亦引疾乞罷。得旨輕進失事責在。鎮臣再整軍容嚴加備禦還仗。卿督率彈厭以安人心、封疆重任何人堪代。豈得遂欲求歸。既而承宗再疏告病。上復勉留之。⇒《明實録》熹宗 巻63 [戻る]
  15. (天啟六年四月)辛卯(19日)、薊遼總督王之臣、查報犒賞。優恤山海寧前軍士、用過銀一萬八千三百六十六兩。有奇。
    兵部覆敘寧遠功次。先是、廵関御史洪如鐘題、據袁崇煥報
    正月十八日、奴賊率眾渡河。左輔・蕭昇・鄧茂林・陳兆蘭等俱從右屯等處收回。
    二十一日、城外收聚畢時、城中士卒不滿二萬。緫兵滿桂、副將左輔、參將祖大壽、皆習見奴兵未可爭鋒以死守爭。大壽遂發塞門之議。諸將朱梅、徐敷、奏并王喇嘛皆主大壽議。而何可綱按劍决之。於是 王喇嘛請撤西洋大砲入城。彭簮古率勍兵挽。而登之盡焚城外民舍積蒭。令同知程維、模查察姦細。通判金啟倧、按城四隅編派民夫供給飲食衞官裴國珍鳩辦物料諸生守巷口有一人亂行動者即殺城上人下城者即殺滿桂提督全城而以東南首衝身任之左輔分西面祖大壽分南面朱梅分北面蓋。
    二十二日、而城中部署定。
    二十三日、賊薄城矣。先下營西北遠可五里、大砲在城上。本道家人・羅立素、習其法、先裝放之殺賊数十人。賊遂移營而西。
    二十四日、馬步車牌勾梯砲箭一擁。而至箭上、城如兩懸牌間如。蝟城上、銃砲迭發每用西洋砲。則牌車如拉朽。當其至城、則門角兩臺攢對橫擊、然止小砲也。不能遠及故門角兩臺之間。賊遂鑿城高二丈餘者、三四處於是火、毬火把爭亂。發下更。以鐵索垂火燒之、牌始焚。穴城之人始斃賊稍郤。而金通判、手放大砲堯、以此殞城下賊屍堆積。
    次日、又戰如昨攻打至未申時、賊無一。敢近城、其酋長持刀驅兵僅至城下。而返賊、死傷視。前日更多俱搶屍於西門外。各甎窑拆民房燒之、黃煙蔽野。是夜、又攻一夜。而攻具器械俱被我兵奪。而拾之且割得首級如昨。
    二十六日、仍將城圍定。每近則西洋砲擊之。賊計無、施見覺華島有煙火。而氷堅可渡、遂率眾攻覺華兵將俱死、以殉糧料八萬二千餘及營房民舍俱被焚。
    次日、賊引去。是役也。⇒《明實録》熹宗 巻70 [戻る]
  16. (天啟6年4月19日)西夷不撫、奴勢不狐。王牧民與朱梅、祖大壽、孫懷忠、王世忠、 王喇嘛李喇嘛、此撫夷有功者也。⇒《明實録》熹宗 巻70 [戻る]
  17. 得旨。寧遠挫賊恢復有機。朕心嘉悅內外文武各官功。(中略) 王喇嘛給副緫兵廩給、增其徒從。餘俱依擬。⇒《明實録》熹宗 巻70 [戻る]
  18. (天啟七年五月)甲申(19日)遼東廵撫・袁崇煥題、奴圍錦州甚嚴、関外精兵盡在前鋒、今爲賊攔斷兩處。夷以累勝之勢、而我積弱之餘、十年以來、站立不定者。今僅能辦一守字、責之赴戰、力所未能。且寧遠四城爲山海藩籬、若寧遠不固則山海、必震此天下安危所係。故不敢撤四城之守卒、而遠救只發奇兵、逼之方募死士二百人、令其直衝夷營如楊素用。寡法今已深入、未卜存亡。又募川浙死卒帶銃砲夜警其營、又令傅以昭舟師東出、而抄其後。且令王喇嘛諭虎酋領賞夷使貴英恰率拱兔、乃蛮各家從北入援、無所不用其力。⇒《明實録》熹宗 巻84 [戻る]
  19. (天啟七年五月)庚辰(15日 中略)廵撫遼東兵部右侍郎袁崇煥題、奴氛逼近、內外二鎮恊力守錦州、臣堅守寧鎮。以副縂・左輔、統余國奇官兵爲左翼。令都司・徐敷統官兵從大凌河入錦佐之。其西壁以副縂朱梅等各官兵守之。而趙率教居中調度、賈勝領奇兵東西策應至于寧遠。以副將・祖大壽爲主帥統轄各將分、信地相機戰守沿邊小堡俱歸。併于大城會同関門鎮臣節節防禦。領賞西夷、臣遣王喇嘛宣諭、令其結營自固、决不至疏虞。貽皇上東顧之憂也。(後略)⇒《明實録》熹宗 巻84 [戻る]
  20. (天啟七年八月)乙未(2日 中略)兵部敘寧錦功。得旨、寧錦大捷、朕心嘉悅、內外文武諸臣、宜行敘賚。(中略)兩喇嘛僧、王桑吉、李鎖南、各賞銀十兩。⇒《明實録》熹宗 巻87 [戻る]
  21. (天聰元年3月)壬申、(中略)若汗說七宗惱恨。固是往因。然天道不爽。再一說明。便可放下。袁巡撫是活佛出世。有理沒理。他心下自分明。所說河東地方人民諸事。汗當斟酌。良時易遇。善人難遇。有我與王喇嘛二僧在此。隨緣解說。事到不差。煩汗與各王子。放得下。放下了。難捨者。捨將來。佛說苦海無邊回頭是岸。干戈早息。即是極樂。我種種譬喻。無非為解化修善演我如來大乘慈悲至教也。敬修寸楮。⇒《太宗實録》巻2 [戻る]
  22. (崇禎元年五月)丁亥(27日)(中略)插漢貴英哈爲虎墩兔憨婿、狡猾善用兵、既死新平堡、其妻兀浪哈丈、率眾自得勝路入犯、自洪賜、鎮川等堡折墻入。忽報插漢至孤店三十里、初不傳烽、以王喇嘛僧止戰也。急收保、倚北関爲營、遂圍大同。虎墩兔屯海子灘。代王同士民力守、乃分屯四營、流掠渾源・懷仁・桑乾河・玉龍洞二百餘里、遣人至縂督張曉所脅賞。⇒《崇禎實録》卷1 [戻る]
  23. (崇禎元年五月)丁亥(27日)(中略)曉遣西僧王哈嘛往諭、時苦旱乏水草、援兵漸集、乃退。(中略)六月庚寅朔(1日)、西人犯大同、山陰知縣劉以南禦郤之。(中略)癸巳(4日)插漢虎墩兔憨出塞。⇒《崇禎實録》巻1 [戻る]
  24. (崇禎元年六月)丙辰(27日)、(中略)兵部尚書・王在晉曰「大同燹掠、宜以按臣勘報、不煩旂尉。」上曰「疆事伏一哈嘛僧講欵、不將軽我中國哉。」⇒《崇禎實録》巻1。 [戻る]
  25. 一応、明朝の方は王喇嘛、トゥメト部の方はワン・ラマ表記にしておくが、史料上での表記には差がない [戻る]
  26. (juwan uyunn)wang lama i olji,niyalma juwan ilan,ihan emke,eihen emke,uheri tofohon(後略)⇒[崇徳元丙子年、崇禎九年、1636、七月](十九日)王喇嘛の俘虜は、人十三人、牛一頭、驢馬一頭で、合計十五である。⇒『満文老档VI 太宗3』P.1195 [戻る]
  27. (ice jakūn)tumet i gumu taiji,wang lama,šanggiyan jase de okdoko cooha de gidaha,cang ping ni hoton be wan kalka arafi jergi de efaha,tagein de gumu,wang lama ding hing ni cooha de gidaha,juwan morin baha⇒[崇徳元年丙子年、崇禎九年、1636、九月](初八日)Tumet の Gumu Taiji、王喇嘛が長城で迎撃した敵兵を破つた。昌平の城を梯子、楯を作つて攻撃を加はつた。掠奪に行つて Gumu と王喇嘛は、定興の総兵を破り馬十頭を得た。⇒『満文老档V 太宗4』P.1260 [戻る]
  28. (崇徳7年8月16日)爾父王喇嘛。原係土默特部落塔布囊。和碩睿親王過燕京。略山東時。迎往出邊。擊敗山寨敵兵。⇒《太宗文皇帝實録》巻62 [戻る]
  29. (崇徳5年3月)庚子(19日)。先是、往略明中後所、土默特部落俄木布、竟未披甲。王喇嘛遇敵敗走。至是喀喇沁部落、查薩袞杜稜、塞冷、土默特部落、查薩袞達爾漢及參政塞冷、尼堪於邁賴袞俄魯木地方、議其罪。俄木布、家產牲畜人口、應籍其半。 王喇嘛、家產牲畜人口、應籍三分之一。奏聞。上命免籍家產。罰俄木布、人十戶。 王喇嘛、人五戶。⇒《太宗文皇帝實録》巻51 [戻る]
  30. (崇徳6年9月)乙亥(2日)、(中略)先是、梅勒章京・碩翁、科羅巴圖魯、勞薩、護軍參領・丹代、土默特王喇嘛、察哈爾國昂邦章京・多尼、都喇爾、達爾漢諾顏等。隨多羅睿郡王多爾袞、多羅肅郡王豪格與明洪承疇兵戰歿。至是。上遣內大臣往奠之。⇒《太宗實録》 巻57 [戻る]
  31. (崇徳7年8月)癸丑(16日)。賜單巴松。噶爾瑪。賀琫。號為達爾漢。各賜敕書。賜單巴松敕書曰。爾父王喇嘛。原係土默特部落塔布囊。和碩睿親王過燕京。略山東時。迎往出邊。擊敗山寨敵兵。及隨和碩睿親王。和碩肅親王。第三次圍錦州時。敗洪承疇三營步兵於營外。墜馬身歿。是用賜號達爾漢。以爾單巴松襲之。免供應馬匹糗糧。所賜名號。仍准世襲。賜賀琫敕書曰。爾父達爾漢拜賽。隨和碩睿親王。和碩肅親王。第三次圍錦州時。敗洪承疇 三營步兵。陣亡。是用命爾賀琫。仍襲達爾漢號。免供應馬匹糗糧。所賜名號。仍准世襲。賜噶爾瑪敕書曰。爾父祁他特。原管旗事。隨和碩睿親王。和碩肅親王。第三次圍錦州時。敗洪承疇 三營步兵。被創身歿。是用賜號達爾漢。以爾噶爾瑪襲之。免供應馬匹糗糧。所賜名號。仍准世襲。⇒《太宗實録》巻62 [戻る]
  32. 扎薩克固山貝子固穆列
    察喀爾・林丹汗、恃其强侵不已。固穆父鄂木布楚琥爾、約喀喇沁部長・蘇布地等擊察哈爾兵四萬、於土黙特之趙城復殺。其赴張家口、請明賞兵三千與交惡恐不敵。本朝天聰二年、偕蘇布地上書乞援。三年六月、遣台吉卓爾畢㤗入貢尋率屬來朝。九月、上親征察哈爾、鄂木布楚琥爾從。十月、從征明北京。六年、由都爾弼從征察哈爾林丹汗遁。詔隨貝勒阿濟格略明大同宣府邉。九年授扎薩克。崇徳三年隨豫郡王多鐸、圍明中後所、總兵祖大夀襲我軍。鄂木布楚琥爾潰走。議罪罰馬。四年、卒。子固穆嗣掌扎薩克。六年、從圍明錦州、敗總督洪承疇援兵。八年、遣屬布達爾從征明。⇒《欽定外藩蒙古回部王公表傳》巻25 土黙特部總傳 [戻る]
  33. (天啟6年4月19日)西夷不撫、奴勢不狐。王牧民與朱梅、祖大壽、孫懷忠、王世忠、 王喇嘛李喇嘛、此撫夷有功者也。⇒《明實録》熹宗 巻70 [戻る]
  34. (天命11年11月)乙酉(16日)。遣明使李喇嘛還。令方吉納。溫塔石。并七人偕往。因遺書曰。大滿洲國皇帝。致書於大明國袁巡撫。爾停息干戈。遣李喇嘛等。來弔喪。竝賀新君即位。爾循聘問之常。我亦豈有他意。既以禮來。當以禮往。故遣官致謝。至兩國和好之事。前皇考往寧遠時。曾致璽書與爾。令汝轉達。至今尚未回答。汝主如答前書。欲兩國和好。我當覽書詞以復之。兩國通好。誠信為先。爾須實吐衷情。勿事支飾也。⇒《太宗實録》巻1 [戻る]
  35. (天啓6年10月)壬子(13日)。遼東廵撫・袁崇煥、遣喇嘛僧鎖南等、入奴偵探情形。具疏上聞、且言、臣欲乘奴子爭立、乘機進勦。但錢糧器械乞勑該部預為料理、其方略機宜仍懇皇上裁酌施行。上嘉其忠猷、仍諭整備戎行、一應錢糧器械、該部預處具覆。⇒《明實録》熹宗 巻77 [戻る]
  36. (天啓6年)十二月。遼撫袁崇煥題。臣先于鎭守内臣劉應紀、紀用、鎭臣趙卒教東巡、而得奴死之信。蓋聞之而未見其的也。無一確探以相聞、邊臣所任何事。亟往偵其虚實、一也。困離間其諸子、與夷上下、二也。且諭其毋仍前叛逆、東手歸命、聴朝廷處分、三也。遂商之經、督二臣、以喇嘛僧鎖南木座往、同守備傅以昭等、共三十三人以行、臣與鎭、道密授之策。私計、此一役也。漢人重観威儀、與西虜在彼者、追念舊事、寧不共與中國聖明之思、諸奴子安能有其眾耶。臣酌酒酒淚、而壯本僧之行色。在庭之人且有耻不得與東行之選者矣。⇒《三朝遼事實録》巻16 [戻る]
  37. (天命11年10月17日)明寧遠巡撫袁崇煥 。遣李喇嘛。及都司傅有爵。田成等三十四人。來弔太祖喪并賀上即位。因潛窺我國情形。⇒《太宗實録》巻1 [戻る]
  38. (天啓6年12月)辛亥(13日)。(中略)初、遼撫袁崇煥以奴死、虜信未的、奏遣喇嘛僧李鎖南、以燒紙爲名往偵之、至是還。言、渡三岔河、河氷忽合、自西連東、如橋而渡。奴以爲神、供億一如內地。酋四子待以客禮、令僧閱其兵馬・器械・并搶粆花夷人以示威、仍具參・貂・玄狐・雕鞍、差夷答謝。既而又奏、自寧遠敗後、旋報死亡、只據回鄉之口、未敢遽信。幸而廠臣主持於內、鎮守內臣、經督鎮道諸臣具有方略、且謀算周詳。而喇嘛僧慧足當機、定能制變、故能往能返。奴死的耗與奴子情形我已備得、尚復何求。不謂其懾服皇上天威、遣使謝弔、我既先往以爲間、其來也正可因而間之、此則臣從同事諸臣之後、定不遺餘力者。謹以一往一還情形上聞。
     得旨。據奏、喇嘛僧往還奴中情形甚悉、皆廠臣斟酌機權、主持於內、鎮督經臣協謀於外、故能使奉使得人、夷情坐得。朕甚嘉焉。(後略)⇒《明實録》熹宗 巻79 [戻る]
  39. (天命11年10月)丙寅(27日)。楞額禮。阿山。還自巴林。俘獲甚多。上率諸貝勒大臣。竝明使李喇嘛。及官四員。出迎十五里遍閱人口牲畜畢楞額禮等叩見上親加慰勞。特許行抱見禮刲八牛祭纛凡獲人口二百七十一。駱駝三十四馬一百一十一牛一千二百一十一羊二千五百八十六。內以駱駝二十四。馬四十。牛六百。羊一千分賜貧人。餘按品級功績均賜出征將士。并賜 李喇嘛駝一馬五羊二十八。⇒《太宗文皇帝實録》巻1 [戻る]
  40. (天命11年11月)癸酉(4日)。凱旋諸貝勒列八旗兵來見。上率諸貝勒大臣出迎。立八纛。拜天畢上御黃幄凱旋。諸貝勒大臣。跪見。上以大貝勒代善。阿敏。二兄跪拜。不欲坐受。率大貝勒莽古爾泰 。及諸大臣答禮。上命巴克什達海。傳旨問曰。二兄及諸貝勒。在行間安否。巴克什庫爾纏。前跪代奏曰。荷蒙上天福佑皇上威靈。所向克敵。幸不辱命。代善。阿敏。及諸貝勒群臣。以次跪見上。行抱見禮。上以仰承太祖鴻業。兵威素著。今茲遠征。剋期制勝。因追憶太祖功德。念諸兄弟勤勞。愴然淚下。代善及諸貝勒群臣無不感泣。見畢。以次列坐。嗣明使李喇嘛等見上。又見三大貝勒。於是以凱旋。行飲至禮。⇒《太宗實録》巻1 [戻る]
  41. (天命11年11月)乙酉(16日)。遣明使李喇嘛還。令方吉納、溫塔石、并七人偕往。因遺書曰。大滿洲國皇帝。致書於大明國袁巡撫。(後略)⇒《太宗実録》巻1 [戻る]
  42. (天啓6年12月)庚申(22日)。(中略)崇煥又奏。奴遣方金納溫台什二夷奉書至。臣恭敬和順三步一叩。如遼東受賞時、書封稱大人。而猶書大金字面。一踵老酋故智臣。即封還之。潛偵其意。則深悔奴之悖逆。⇒《明實録》熹宗 巻79 [戻る]
  43. (天啓6年12月)庚申(22日)。疏末復歸功魏忠賢、且請獎賞西僧得旨。(中略)賞軍西李鎖南本座任使效勞著重、加獎賞餘俟奏來。另行甄別。該部知之。⇒《明實録》熹宗 巻79 [戻る]
  44. 天聰元年4月甲辰=8日)答李喇嘛書曰。觀來書。以佛門弟子。為介紹之人。所言皆欲成兩國之好。爾喇嘛博通理道明哲人也。我兩國是非。洞然明白。曲在我則規我。曲在彼則規彼。宜無偏袒之心。故我以衷言相告。自古以來。或興或廢。何代無之焉。可枚舉。如大遼天祚無故欲害金太祖而兵起。大金章宗無故欲害元太祖而兵起。萬曆無故侵陵我國。偏護葉赫。而我兩國之兵起。我師既克廣寧。諸貝勒將帥咸請進山海關。我皇考太祖以昔日遼金元不居其國。入處漢地易世以後。皆成漢俗。因欲聽漢人居山海關以西。我仍居遼河以東。滿漢各自為國。故未入關。引軍而返。彼時意漢人或來議和也。遲之四載。明人乘間修葺寧遠。伺隙搆兵。我因出師以攻寧遠。時適嚴寒。兵士勞苦。用即班師。及皇考太祖升遐。爾喇嘛來弔。此天欲我兩國和好之時矣。故具書議和。遣官偕往。又以書詞不合。封還至再。今爾喇嘛書內又云有仍願兵戈一語難以轉奏。夫我以衷言致書於明。明國皇帝亦以書報我。彼此通達明析。則和好可成。若不使直吐衷情。止令順從彼意。欲議和好。⇒《太宗實録》巻3 [戻る]
  45. (天聰元年3月)壬申(5日)。方吉納溫塔石。偕明寧遠使臣杜明忠等齎袁崇煥 李喇嘛書各一函至。⇒《太宗実録》巻2 [戻る]
  46. 天聰元年4月甲辰=8日)答崇煥書曰。(中略)故遣使同李喇嘛致書於爾。(中略)答李喇嘛書曰。(後略)⇒《太宗實録》巻3 [戻る]
  47. (天聰2年正月)甲子(2日)。先是。明寧遠總兵祖大壽 部下人銀住。為我兵擒獲。至是。遣銀住齎書往寧遠。書曰。彼此互為大言。徒滋支蔓。何所底止。夫搆兵則均受戰爭之禍。息兵則共享太平之福。此理之易曉者也。我欲通兩國之好。共圖太平。擬遣使同白喇嘛致祭爾先帝。竝賀新君即位。及閱爾來書。有弔喪者為誰。講和者為誰之語。是以停止遣使。但令銀住同來使往訊。如謂以禮往來為善。則我即遣使往矣。⇒《太宗実録》巻4 [戻る]
  48. (天啟六月閏六月乙丑(25日))廵視南城御史・王時英、盤獲番僧於廣寧門外十方庵。(中略)當今奴酋得計全在姦細乞勑法司譯審、刑部移文、禮部取譯字。⇒《明實録》熹宗 巻73 [戻る]
  49. (天啟六月閏六月乙丑(25日))廵視南城御史・王時英、盤獲番僧於廣寧門外十方庵。頭結黃髮、面目異、甞語若鳥聲、字如蛇跡因、而驗察隨身番經数十葉。原領四川、長河西魚。通寧遠軍民宣慰司、批文一紙內稱、大西天羅漢哈喎。願遊漢地名山道、院寺觀等。語踪跡可異。當今奴酋得計全在姦細乞勑法司譯審、刑部移文、禮部取譯字。生譯審批文可據。又有上荊南道掛號分守川西道、查驗各印信関防。又蕳出西天舘本內番字、真實名經一卷、與本番認識。本番即踴躍捧誦法。司硑研審實係西番非東夷也。薊遼總督閻鳴泰疏言。夷狄之人、聞中國之有聖人、重譯來朝此盛世之風也。
    目今関門、王李二喇嘛出入虜巢、玩弄夷、虜於股掌。而在夷地者如古什喇嘛、朗素喇嘛等、靡不摶心內向、屡効忠謀。盖夷狄之族、敬佛一如敬天、畏僧甚於畏法。而若輩亦聞有密呪幻術、足以攝之。虜酋一見喇嘛、必拜必親、聽其摩頂受記、則不勝喜。王、李二喇嘛、雖曰番僧、猶是華種、夷狄敬服已自如此、況真喇嘛乎。
    乞該部將、番僧觧發臣衙門如道術。果有可用何惜片席之地容此比丘如止是行腳庸流即驅逐出境詔許之。⇒《明實録》熹宗 巻73 [戻る]

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