清朝初期のチベット僧たち:1
気がつくと一年以上放置してましたね…。と言うわけで、コロナでバタバタしてたら静岡から東京に居を移すことになって更にバタバタしてました。記事を書くほどに暇が出来たわけではないのですが、お蔵入りしていた記事を引っ張り出してきました。
と言うわけでこの記事は、池尻陽子『清朝前期のチベット仏教政策』汲古書院 を読みながら、清朝治下で活躍したチベット僧を並べてみたものです。と言ったところで、他の論文読みながら補足もしてるんですけどね…。何にしても、この辺は清朝のモンゴル政策とも絡んでくる部分なんですが、あまりお手軽にアクセス出来る情報がなかったので、お手軽な備忘録を作ってみたものです。
この辺の前史は以前纏めた明末チベット僧のインテリジェンス活動~袁崇煥と王喇嘛、李喇嘛~をご覧になっていただくとして、とりあえずは苦心したヌルハチ~ホンタイジ期です。
◇ヌルハチ期◇
遼陽遷都と同時に蓮華寺を建立し、ホルチンからダルハン・ナンソを招聘しましたが、遼陽に来て3ヶ月程度でダルハン・ナンソが急逝して仕舞ったので、ヌルハチのチベット仏教政策の全容はよく分からないままです。
■オルロク・ダルハン・ナンソ(斡祿打兒罕襄素 Örlüg Darqan Nangsui/odlog darhan nangsuii)
元はホルチン部のミンガン・ベイレ次子のハタン・バートル麾下の有力者だったようです。しかし、天命6(1621)年6月、ヌルハチの招聘に応じてホルチン部から衆を率いてマンジュに帰順しています。iiiiv
天命6(1621)年3月、ヌルハチは遼陽に遷都すると、5月にマンジュ=後金≒清朝初のチベット仏教寺院・蓮華寺(喇嘛塔園)をダルハン・ナンソの為に建立していますv。しかし、ダルハン・ナンソは同年8月22日viか10月viiに入寂しています。
その後、ヌルハチの命によってダルハン・ナンソの舎利を納める塔の建設が命じられています。その後まもなくヌルハチ自身は他界しますが、舎利塔は9年の歳月を要して天聰4(1630)年になって完成していますviii。
◇ホンタイジ期◇
マンジュに帰順したハズの内ハルハが、明朝のチベット僧を使った寝返り工作を受け、ある程度の効果を上げていたことは、ホンタイジにとって相当なショックな出来事だったようです。王喇嘛、李喇嘛の訪問から前後して、チベット僧の活躍が見られます。当時はチャハルのリンダン・ハーンや、そのモデルケースとなったトゥメトのアルタン・ハーン、更に遡って元朝のクビライに倣ったとおぼしきチベット仏教政策を実施しました。すなわち、壮麗なチベット寺院を建立したり、チベットから高僧を招いたり、霊験のある仏像を招来したりと、マンジュをチベット仏教の大施主として認識させる事によって、モンゴル世界での地位向上を確立させようとしました。当初、チャハルを意識してかサキャ派僧のビリクトゥ・ナンソにムクデン=盛京(遼寧省瀋陽)に建立した実勝寺を任せるなどサキャ派を重用していましたが、崇徳年間に入ってからはアルタン・ハーン以降モンゴル世界…特にハルハで信仰を集めていたゲルク派のダライ・ラマ5世の招請を企画したり、バンディタ・ノモンハンやイラグクサン・ホトクトなどゲルク派の僧侶を重用するなどしてゲルク派よりに転向しています。
■バ・ラマ(白喇嘛 ba lamaix)
別名:バガバ・ラマ(baga ba lama)x。ダルハン・ナンソの弟弟子xi。マンジュ≒清朝で始めて外交を担ったチベット僧です。
天命6(1621)年10月、ダルハン・ナンソが入寂すると、ダルハン・ナンソの遺言で後継者に指名されたため、ホルチンから招聘されて蓮華寺の座主を務めています。
ホンタイジの即位後、天聰2年に天啓帝の弔問と、崇禎帝の即位祝賀の使節として明朝に派遣されていますxii。また、天聰3(崇禎2=1629)年には明朝の袁崇煥への和平交渉の使者として派遣されています。
天聰4(1630)年には遼陽でダルハン・ナンソの舎利塔が完成したため、落慶式に参加してますxiii。
天聰5(1631)年からはホンタイジに招聘されて、瀋陽の三官廟に居住し、明朝の捕虜・張春と同居して帰順の説得に当たっていますxiv。
しかし、張春を説得出来ないまま、6年後の崇徳2(1637)年に瀋陽で入寂しています。
と言うわけで、王喇嘛、李喇嘛に対抗する感じで活躍を期待されたバ・ラマです。康煕・乾隆あたりの宣教師にも言えることですが、宗教関係者わりと便利に使われてますね。
■ビリクトゥ・ナンソ(Tib.bi lig thu nang so bla ma>Mon.biligutu nangsu blam-a)xv
サキャ派の支派ゴル派の還俗僧。チベット僧としての地位は低かったようですが、チベット語、モンゴル語など言語能力に長けたことからマンジュ=後金に重用されましたxvi。また、マハーカーラ像の招来や実勝寺、盛京四塔寺の創建を主導するなど、盛京時代のチベット仏教政策を主導しています。
天聰8(1634)年、チャハル崩壊に伴って、マハーカーラ像を携えて逃亡してきたメルゲン・ラマの帰順を担当しています。xvii
まず、天聰9(1635)~崇徳3(1638)年、盛京=ムクデンの実勝寺(Man.šu ilgai soorin i yargiyan etehe fucihi soorin)及び四塔寺の建立に従事していますxviii。
更に、天聰10(1636)年正月、マハーカーラ像の供養会が盛大に開催されていますxix。当然、ビリクトゥ・ナンソが式典を主導したものと思われます。
しかし、順治年間に入り清朝が入関を果たすと、ムクデンの実勝寺に起居したビリクトゥ・ナンソは、清朝のチベット仏教政策に携わる機会は減ったようですxx。
ただ、ムクデンを代表するチベット僧であったことは確かなようで、順治9(1652)年、ダライ・ラマ5世の北京招請には携わり、以後順治13(1656)年まで、ダライ・ラマ5世との間に断続的に書簡の往来があったようです。xxi
と言うわけで、清朝初期の宗教政策を支えたビリクトゥ・ナンソですが、言語が堪能な点が評価された当たり、清朝では王喇嘛のような活躍の仕方を期待されたのかもしれませんね…。それでも、マハーカーラ像の招来、その像を安置するべく建立された実勝寺の創建、首都ムクデンを守護すべく計画された四塔寺の建設と、清朝初期の宗教政策の重要案件にはすべて関与しています。ムクデンもジャサクラマ制度では一大拠点になりますから、その基礎を築いた僧侶です。
■メルゲン・ラマ(Mergen Lamaxxii)
天聰8(1634)年8月、チャハルからマハーカーラ像を招来した僧です。メルゲン・ラマについてはこれ以上の事績は分かりません。マハーカーラ像は元々リンダン・ハーンがサキャからチャハルに招来した仏像ですね。
個人的にはチャハルのマハーカーラ像の招来が、北元の正統を清朝が継承した象徴とされた…というのは買いかぶりなんではないかとは思うものの、招来した僧侶にも触れておくべきかと。
■マンジュシュリ・ホトクト(Man.manjusiri kūtuktuxxiii)
別名:アシャン・マンジュシュリ(Tib.a zhang manydzu sirixxiv)。清朝内に於けるチベット仏教の一大派閥・サムロ派興隆の切っ掛けを作ったチベット仏教僧です。清朝のチベット仏教政策の拠点であるシレトゥ・フレーの原型を作ったシレトゥ・フレーの実質的な初代ジャサク大ラマです。
デプン寺ゴマン学堂のサムロ・カムツェンで修行後、トゥメトの寺院で修行していたところアルタン・ハーンの尊崇を受けるようになり、自らの親族であるダダライ・ラマ3世(ソナム・ギャンツォ)を招請することを薦め、両者は青海湖東岸のチャップチャールでその後のチベット、モンゴルの趨勢を決定する歴史的な会見を行ったxxv…とされています…が、流石に年代が離れているので転生僧の前世の話でしょうかね…。また、アムド東部にあるウシタク寺も創建しています。この辺も前代の事績である可能性ありますね。
気を取り直して、マンジュシュリ・ホトクトとマンジュとの関係を見ていきます。天聰3(1629)年2月に華北遠征中のホンタイジの陣中見舞いに潘家口(河北省唐山市迁西县境)まで赴き、その後、ホンタイジに招聘を受けて、天聰4(1630)年にムクデン(盛京=瀋陽)に赴いて歓待を受けていますxxvi。
壬申(=天聰6、1632)年にはホンタイジより家畜を伴った移動式の僧院・フレー(庫倫)を賜与され、後にフレーが一カ所に固定されたので、南モンゴルでも遼東寄りの当該地(現在の中国内蒙古自治区通遼市庫倫旗)はマンジュシュリ・ホトクトに因みマンジュシュリ・フレーと呼ばれましたxxvii。甲戌(天聰8=1634)年にはマンジュシュリ・ホトクトはホンタイジの万寿の祈願を行っていますxxviii。
乙亥(天聰9=1635)年、マンジュシュリ・ホトクトは病床に伏したので自らの引退を奏上しましたが、ホンタイジは慰留しています。しかし、翌(崇徳元=1636)年8月にマンジュシュリ・ホトクトは入寂していますxxix。
マンジュシュリ・ホトクトは清朝のジャサク・ラマ制度の一大拠点となるシレトゥ・フレーの実質的な初代責任者ですね。恐らくはホンタイジのチベット仏教界でも地位の高い僧侶に帰依して、保護下に置く、という構想の一番成功した例なのではないかと思います。
■シレトゥ・ダルハン・チュージェ・ナンソ
マンジュシュリ・ホトクトの弟で、別名:ナンソxxx。
崇徳元(1636)年にマンジュシュリ・ホトクトが入寂すると、シレトゥ・ダルハン・チュージェが遺言に従って第2代ジャサク大ラマに就任しました。このため、同地はシレトゥ・フレーと称されるようになりますxxxi。
丙戌(順治3=1646)年にシレトゥ・ダルハン・チュージェは入寂しています。
事績がよく分からない二代目シレトゥ・フレー・ジャサク大ラマですが、その名シレトゥをフレーの名称とする位には影響力はあったものだと思われます。
■イラグクサン・ホトクト(Mon.ilaγuγsan qutuγtu)
別名:セチェン・チュージェ(Tib.se chen chos rje)xxxii若しくはグーシ・チュージェ。若しくはセチェン・チュージ・ギェルウェー・ティンレーバ・ジンバ・ギャンツォ(Tib.se chen chos rje rgyal ba’i ‘phrin las pa sbyin pa rgya mtsho)。ミニャク(四川省西部)出身xxxiiiでアムド地方東部のパージュ寺の創始者xxxiv。清朝の勢力下にあったチベット僧ではなく、チベットから清朝に派遣された最初の使節僧です。後述のバンティダ・ノモンハンと経歴が混同されたり、一代後の転生イラグクサン・ホトクトの方が政治史的にはインパクトあるので混同されたりと、経歴を調べるだけで疲労がたまる人物でした。
1625(天啓5=天命10)年にパンチェン・ラマから「国師=グーシ」号を授与されていますxxxv。
崇徳2(1637)年10月にセチェン・グーシ・チュージェという人物が使者としてホンタイジと接見していますxxxvi。この使者をイラグクサン・ホトクトと同一人物であると比定して、ホンタイジからシレトゥ・フレーの初代ジャサク大ラマ、マンジュシュリ・ホトクトの後任を打診されて、マンジュシュリ・ホトクトの弟であるシレトゥ・ダルハン・チュージェを推挙した、とのではないか?と、いう説もありますxxxvii。
鉄辰(1640=崇徳5=崇禎13)年、パンチェン・ラマ一世とダライ・ラマ五世の指令を受けて、施主として清朝を見極めるための使者としてムクデンに派遣されます。この際に、両ラマからイラグクサン・ホトクト号を授与されていますxxxviii。
崇徳7(1642)年10月、イラグクサン・ホトクトがムクデンに到着すると、ホンタイジは諸王ベイレを引き連れて城外で出迎え歓迎しています。その後イラグクサン・ホトクトはムクデンに8ヶ月滞在した後、崇徳8(1643)年5月にホンタイジからの信書を携えた清朝側のチャガン・ラマ等の使節団とともにチベットへの帰路についています。
火犬(順治3=1646)年後半にハルハに派遣されますが、順治4(1647)年正月までには入寂したxxxixようなので、ハルハで客死したようですxl。
事績を纏めるのが難しい一人目のイグラクサン・ホトクトですね。チベットからの外交使節といった活躍で知られています。清朝のチベット僧というワケではありませんが、清朝に派遣されたり、ハルハに派遣されている上、次代のイラグクサン・ホトクトと事績が混乱しやすいので、紹介しておきます。
■チャガン・ラマ(Cha gan bla ma)xli
崇徳年間から清朝とチベット及びモンゴルの外交渉に携わり、平行してダライ・ラマ5世招請使として活躍したチベット仏教僧です。
ホンタイジの頃にどこかから逃げてきて清朝に帰順したようですがxlii、天聰10(1636)年2月には、ホンタイジの命令に従って明朝との交易所・殺胡口に貂皮や高麗人参を持参してを交易行っていますxliii xliv。
崇徳元(1636)年には清朝の使者としてハルハ左翼のセチェン・ハーンに派遣されいますxlv。と言うことで、チャガン・ラマは清朝からハルハに派遣された初のチベット仏教僧と言うことになりますxlvi。
崇徳4(1639)年にはダライ・ラマ5世招請使としてチベットの諸勢力に派遣されていますxlvii。
しかし、翌崇徳5(1640)年、ダライ・ラマ5世招請使を共同で送る盟約を交わしていたハルハ右翼のザサクト・ハーンが招請使の派遣を拒否したためxlviii、これを背反行為と捉えたホンタイジはダライ・ラマ5世の招請プロジェクト自体を中止しています。
更に、ホンタイジの治世の頃から”内のグモン(gumeng)のフレー“のジャサク・ラマに任命されていますxlix。文脈からムクデンのチベット仏教寺院を統括する地位にあったと言うことでしょうかねぇ。
木猿(順治元=1644)年、チベットからの使節の返礼使としてチベット使節 セチェン・チュージェ(後のイグラクサン・ホトクト? 前述)に同行してムクデンから出発してチベットに到着しl、順治3(1646)年、チベットから直接北京に帰還していますli。入関時期にはムクデンではなくチベットに居たってことなんでしょうけど、ムクデンで生活していたはずなのに、家財を北京に持って来れたのか気になりますね…。
更に、順治8(1651)年に、ダライ・ラマ5世招請使としてチベットに派遣されていますlii。ホンタイジの頃にハルハと共同して行おうとして一旦断念したダライ・ラマ5世招請を、順治帝になって清朝単独で行おうと仕切り直して企画されたってことでしょうね。
その後も変わりなくダライ・ラマ5世招請を主導したようで、順治9(1652)~10(1653)年のダライ・ラマ五世の北京招請の際にはダライ・ラマ5世と接見していますliii。
順治13(1656)年には、ダライ・ラマ5世招請の功績を顕彰する意味で、順治帝からダルハン・チュージ号を授与されたようですlivが、チベット側の記録を見ると、順治8年のダライ・ラマ5世招請使に出発した段階でダルハン・チュージェ号を有していた可能性がありますlv。
で、少なくとも順治16(1659)年までには京師のジャサクラマ(札薩克喇嘛)としてチベット僧を統括する地位にあったようですlviが、これはムクデン時代からその責務を負っていたと考えた方が良さそうですね。
そして、順治18(1661)年11月以降、入寂したようですlvii。その後、転生僧と認められてジャサクラマ制度の上層部に見られるホトクト号を受封されているのも、ダライ・ラマ5世の招致が高く評価されてのことなんでしょう。
と言うわけで、崇徳から順治にかけてダライ・ラマ5世招致計画の交渉を担当し、最終的にはそれを実現させたチャガン・ラマです。そりゃ清朝としては転生僧認定もしますわね…。
ご覧のように、清朝のチベット仏教政策を追うと、どうにもチベット政策とモンゴル政策が密接に関係していることが見て取れるかと思います。と言うわけで、次回は順治年間から康煕前半かなと思ってます。
◇参考文献
新藤篤史「清朝前期統治政策の研究」大正大学 2018年度 博士(文学) 32635甲第120号博士論文
李勤璞《白喇嘛與清朝藏傳佛教的建立》中央研究院近代史研究所集刊 第30期
池尻陽子『清朝前期のチベット政策』汲古書院
池尻陽子「入関前後における清朝のチベット仏教政策」『満族史研究』3
石濱裕美子『清朝とチベット仏教─菩薩王となった乾隆帝─』早稲田大学出版部
- 〈白喇嘛與清朝藏傳佛教的建立〉 [戻る]
- 「清朝前期統治政策の研究」P.47 [戻る]
- 「清朝前期統治政策の研究」P.19 [戻る]
- 宣和堂註:しかし、この際ダルハン・ナンソの部衆はホルチンから”逃げてきた”と表記されていることから真っ当な招聘だったのかは注意が必要。 [戻る]
- 宣和堂註:「清朝前期統治政策の研究」ではダルハン・ナンソが招聘されて蓮華寺が建立されたとしているが、前述のようにダルハン・ナンソが帰順したのが6月なら帰順前から蓮華寺が建っていたことになり、1ヶ月の矛盾が生じるのではなかろうか…。 [戻る]
- 「清朝前期統治政策の研究」P.11に引く〈大金喇嘛法師寶記〉 [戻る]
- 「清朝前期統治政策の研究」P.46に引く《旧満洲檔》 [戻る]
- 「清朝前期統治政策の研究」P.11 [戻る]
- 〈白喇嘛與清朝藏傳佛教的建立〉 [戻る]
- 「清朝前期統治政策の研究」P.11 [戻る]
- 「清朝前期統治政策の研究」P.12に引く〈大金喇嘛法師寶記〉漢文版 [戻る]
- (天聰2年正月)甲子(2日)。先是。明寧遠總兵祖大壽 部下人銀住。為我兵擒獲。至是。遣銀住齎書往寧遠。書曰。彼此互為大言。徒滋支蔓。何所底止。夫搆兵則均受戰爭之禍。息兵則共享太平之福。此理之易曉者也。我欲通兩國之好。共圖太平。擬遣使同白喇嘛致祭爾先帝。竝賀新君即位。及閱爾來書。有弔喪者為誰。講和者為誰之語。是以停止遣使。但令銀住同來使往訊。如謂以禮往來為善。則我即遣使往矣。⇒《太宗実録》巻4。 [戻る]
- 「清朝前期統治政策の研究」P.12に引く〈大金喇嘛法師寶記〉漢文版 [戻る]
- (天聰5年11月)丙戌(17日)。上曰朕觀副將張洪謨佳士也佳士當付與賢貝勒養育墨爾根戴青善於養人舉動皆合朕意故以與之監軍道張春 不肯薙髮令與白喇嘛同居三官廟諸副將參遊等官每旗分隸四員祖大壽 子姪。各賜房屋。以客禮恩養之。⇒《太宗実録》巻10 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.34 [戻る]
- 『清朝とチベット仏教』P.51 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.35 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.35 [戻る]
- 「清朝前期統治政策の研究」P.11 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.34~35 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.35 [戻る]
- 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」P.135 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.39 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.45 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.45 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.46~47 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.47 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.48 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.49 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.49 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.50 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40 [戻る]
- 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」P.137 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.62 [戻る]
- 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」P.137 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.62 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.65 [戻る]
- 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」P.137 [戻る]
- (順治4年正月)壬戌(20日)。(中略)遣理藩院副理事官羅多理。賜故喇嘛伊拉古克三胡土克圖鞍馬。緞疋。器皿茶香等物。⇒《世祖実録》巻30 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.52 [戻る]
- 「入関前後における清朝のチベット仏教政策」 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.42 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.39 [戻る]
- 宣和堂註:当時は清朝と明朝は交戦状にあって直接交易が出来なかったので、勢力下のトゥメト部などのモンゴル王公やチベット僧を介して交易を行っていたらしい [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.38 [戻る]
- 宣和堂註:前年天聰9(1635)年のセツェン・ハーンからの使者の返礼と思われる⇒清初、清朝とハルハ左右翼との関係史 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.38 [戻る]
- 宣和堂註:崇徳2(1637)年にダライ・ラマ5世招請使を直接提案してきたのは外ハルハとオイラートを代表した…と称したハルハ左翼のセツェン・ハーンなので、ザサクト・ハーンがこの話をまともに信じていたかは確認を要する。⇒清初、清朝とハルハ左右翼との関係史 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.42~43 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.40 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.41 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.42 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.42 [戻る]
- 『清朝前期のチベット仏教政策』P.43 [戻る]