冰嬉その2 天命年間の氷上運動会

 と言うわけでご無沙汰ですが、気がついたら冬期北京オリンピックが開催されていますね。個人的にはアメリカのNFL中継なんかを見ていると、去年はCMでTOKYO TOKYOうるさかったのに、今回はOlympic2022みたいな表記が多くてBeijingとは一言も言わない辺り政治的な意図を感じていささかビビってます。それはともかく人から聞かれて、清朝のスケート競技である冰嬉の検索をしたらちょっと面白い事が書いていたのでメモです。

清代冰嬉的盛与衰

 北京市政协のこの記事自体も2013年と古いんですが、以前、自分が冰嬉に関する記事を書いたのが2014年、8年も前のことなんですなぁ…。負けず劣らず古い。ともあれ、そのときは発見出来なかったのですが、《満文老檔》に冰嬉の記事があったようなのでメモを残しておこうかと。

由于统治者大力提倡冰上活动,冰嬉活动大有发展。17世纪满族入驻辽沈地区,后金天命八年(1623年),盛京(今沈阳)附近的辽阳城毁坏,大本营迁于太子河岸(今辽宁境内)。据《满文老档》记载,天命十年正月初二日(1625年2月8日),努尔哈赤在太子河宽阔平整的天然冰场上,举行颇具规模的冰上娱乐活动——男子球赛和女子径赛大会,并在赛后于冰面大设酒席,国宴庆贺。“汗(即努尔哈赤)率众福晋,八旗诸贝勒、福晋,蒙古诸贝勒、福晋,众汉官及官员之妻,至太子河冰上,玩赏踢球之戏。诸贝勒率随侍人等观球二次之后,汗与众福晋坐于冰之中间,命于二边等距离跑之,先至者赏以金银,头等各二十两,二等各十两。……跑时摔倒于冰上者,汗观之大笑。遂杀牛羊,置席于冰上。”满族入关前的这次具有开创意义的太子河冰上活动,影响深远。

 ともあれ、天命10(1625)年正月2日にヌルハチ主催の氷結した太子河冰嬉大会が催されたと言う感じですね。この記事、面白いには面白いのですが、他の箇所では出典を確認すると当該記事が見当たらなかったりするので、ほんまかいなとちょっと東洋文庫の『滿文老檔』の記事を確認して見ました。期日をちゃんと入れてくれてるのですぐ見つかったのです。

○ noihon ihan aniya aniya biyai ice juwe de,han,han i fujinsa, jakūn gūsai geren beise,fujisa,monggo i beise, fujisa, nikan hanfasa, hanfasai sargata be gamame,tai dz ho birai juhe de mumuhu fesheleme efime tucifi, beise geren giyajasa be gaifi, mumuhu juwe jergi efihe, han, fujinsa,jehe i dulimbade tefi juwe ergide ba boljofi sujubume,neneme isinjiha niyalma de aisin menggun šangname efihe,uju de orita yan, jai jergi de juwanta yan, menggun be juwan jakūn bade jafabufi, nikan hafasai sargata be sujubume gaibuha, sujume amala tutaha juwan jakūn hehe be menggun bahakū seme ilata yan menggun buhe, terei ilhi orita yan menggun be jakūn bade sindafi, monggo i buya taijisa i satgata be sujibume gaibuha, amala tutaha jakūn hehe de juwanta yan menggun buhe, terei ilhi orita yan menggun, emte yan aisin be juwan juwe bade sindafi, geren sargan juse, buya taijisa i sargata sujisa, monggo i fujisa be sujubufi, srgan juse, seise i sargata fujisa neneme isinafi gaiha, monggo i fujisa tutafi bahakū same, juwan juwe hehe de emte yan aisin, sunjata yan menggun buhe, tere sujure dem juhe dem juhe de han tuwame ambula injehe, ihan honin wafim dere dasafi juhe i dale sarilafi, indahūn erinde hecen de dosika;i

冰嬉圖

 満文だと何が何だかなので、邦訳を見てみましょう。

乙酉の年〔天命十年、天啓五年、1625〕正月二日、Hanは后妃、八旗の衆諸王とその夫人達、蒙古の諸王とその夫人達、漢人の官人等とその妻等を率ゐて、太子河の氷上に蹴鞠遊びに出て、諸王が多くの家丁を率ゐて二度蹴鞠をした。Hanと后妃は氷の中央に座つて、兩方に場所を定めて競争さえ、先に到着したした者に金銀を賞して遊んだ。一等に二十兩づつ、二等に十兩づつの銀を十八箇處で持たせて、漢人の官人の妻達を競争させて取らせた。走り遅れた十八人の女は銀を得られなかつたとて銀三兩づつ與へた。その次には銀二十兩づつを八箇處に置いて、蒙古の小taijiの妻達を競争させて取らせた。遅れた八人の女には銀十兩づつ與へた。その次には銀二十兩と金一兩づつを十二箇處に置いて多くの娘等、小taijiの妻や夫人達、蒙古の夫人達を競争させたが、娘達と諸王の妻や夫人達が先に到つてその金銀を取つた。蒙古の夫人達は遅れて取れなかつたとて、その十二人の女達に金一兩と銀五兩づつを與へた。その走る時、氷上を轉ぶのをHanは眺めて大いに笑つた。牛羊を殺して卓を整へて氷上で酒宴を張つて、戌の刻に城に入つた。ii

 記事を読む限り、冰嬉ヌルハチの頃からすでにあったようですね。正月2日開催と言う辺りマンジュの正月行事だったのかしら?と思って他の年に記事もをザッと見たんですが、冰嬉の記事はこの年だけだったので、正月行事というよりはこの年たまたまヌルハチの興がのって、マンジュモンゴル王公とその夫人、漢人官員とその夫人が集まった際の余興として行ったようですね。
 競技として見てみると、まず男性チームで氷上サッカーを2回、女性チームが所属別懸賞付きスピードスケートを3回行って最後は氷上宴会を行ったというので、冬期に於ける巻狩の代替的なイベントと考えた方が良さそうですね。興味深いのは、①氷上サッカーは厳密には所属旗対抗ではなく旗王とその家丁の対抗戦、②スピードスケートの参加者はマンジュモンゴル王公、漢人官員の配偶者と言う辺りでしょうか。乾隆年間冰嬉とこの辺りのルールは違いそうです。また、皇帝というかハンを中心に競技エリアを設定して、ハンが氷上に座って競技を観戦するスタイルはこの頃からあったのかと驚く一方で、《冰嬉圖》で有名なスケート靴履いて、コースに沿ってグルグル回りながらゲートに掛けられた的を射るみたいな氷上流鏑馬みたいな競技は出てきませんね。どこから出てきたのか、やっぱりよく分かりませんね…。と言うか、見た限り乾隆まで冰嬉の記事自体がなさそうなんで、ヌルハチ時代のこの記事を元に乾隆帝冰嬉というマンジュしぐさを創作した位のことは疑った方がいいんですかねぇ…。

【追記2/6】というか、よくよく考えて見たら『滿文老檔』にあるのはヌルハチが氷上運動会開いたって記事だけで、スケート靴履いてたかどうかはよくわからんですね…。まぁ、競技内容は冰嬉ッぽい感じはしますが。

参考文献
滿文老檔研究會譯註『滿文老檔 Ⅲ 太祖3』東洋文庫

  1. 『滿文老檔』Ⅲ 太祖3 P.953~954 [戻る]
  2. 『滿文老檔』Ⅲ 太祖3 P.953~954 [戻る]

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