リンダン・ハーンの遺産─制誥之寶とマハーカーラ像─

清朝の成立に際して必ず触れられる「制誥之宝」という玉璽があります。調べていて結構知らないことあったので、今回はそのメモです。 Read more
宣和堂の節操のない日記
清朝の成立に際して必ず触れられる「制誥之宝」という玉璽があります。調べていて結構知らないことあったので、今回はそのメモです。 Read more
と言うわけで、自分でよくわからんくなってきたのでメモ。整理用にかなり乱暴に纏めました。 Read more
たびたび、ドルゴンの対モンゴル外交については比重の大きさは感じていたものの今ひとつ流れを捉え切れていなかったのでメモ。
まず、ドルゴンとモンゴル外交の経緯を追っていくと…
①:順治3年5月⇒”騰機思”の離反
②:同年7月⇒ドドによる”騰機思”遠征
③:~順治4年5月迄⇒”二楚虎爾”の清朝との敵対
④:~順治5年8月迄⇒”騰機思”の投降
⑤:順治5年12月⇒大同総兵・姜瓖の叛乱⇒ドルゴン2度(順治6年2月と7月)遠征
⑥:順治6年10月⇒大同総兵・姜瓖の叛乱平定
⑦:順治6年10月⇒ドルゴンの”二楚虎爾”遠征
⑧:順治7年7月⇒ハラ・ホトン離宮建造の奏上
⑨:順治7年12月⇒ドルゴン、ハラ・ホトンで狩猟中に薨去
と言うことになります。順治3年からこっち、順治7年に死没するまで、ドルゴンは毎年モンゴル関係で忙殺されていた事になるかと思います。特に姜瓖と二楚虎爾については、ドルゴン本人が軍を率いて遠征してます。ドドやホーゲが他界し、アジゲが信用ならない状況下では他に選択肢はなかったんでしょうけど、少なくとも漢土の南明以上にモンゴル情勢は重視していたと考えられます。
なんですが、そもそも、騰機思とか二楚虎爾って何やねんって所からですよね…。
書いてたら長くなったので、今回はまず、①と②、④のテンギス(Tengis 騰機思)について見ていきましょう。まずは《欽定外藩蒙古回部王公表傳》の蘇尼特部總傳から。
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ここのところネタにしている、バトゥ麾下のイギリス人将校ネタで取り寄せていた、ガブリエル・ローナイ 著/榊優子 訳『モンゴル軍のイギリス人使節─キリスト教世界を売った男─』角川選書262 が手元に届きました。とりあえず、巻末に上がっているナルボンヌの聖職者イヴォーの書簡を採録したマシュウ・パリスのイギリスの年代記からの引用の中で、件のイギリス人に関連するところを引用してみましょう。
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と言うわけで、昨日の記事を上げたところ、ありがたいことにTwitterでご指摘を頂きまして…。
@sengnadow 失礼します、おそらくこの書籍ではないかと…。モンゴル軍のイギリス人使節―キリスト教世界を売った男 (角川選書) https://t.co/efbYW4YzcK
あと確かドーソンの『モンゴル史』にも記述がありました。平凡社版だと2巻の172pです。— 吉本稔@同人傭兵崩れ (@niseyoshimoto) 2016, 2月 13
確認したら確かに記述がありましたので、メモついでにこれも上げておきます。