《瀋陽状啓》八月二十六日

 さて、清初を扱った論文を読んでいると、《瀋陽状啓》という書名にぶち当たることがあります。これ何かというと、瀋陽ムクデン・ホトンに人質として抑留させられていた李氏朝鮮世子…つまり王太子である昭顕世子朝鮮王仁祖に提出していた報告書ですね。存在は知っていたモノどういった性質の書物かよく分からず、興味はあったのですがほったらかしにしてたんですが、サクッと検索したところ国立国会図書館デジタルアーカイブに戦前の本が登録されてるのをうっかり発見しました。

国立国会図書館デジタルコレクション 瀋陽状啓

 戦前の帝大であった京城帝国大学の法文学部の出版ですね。どうやら朝鮮王朝奎章閣に保管されていた書簡を校訂して出版したようです。影印が巻頭に載っていますが、これを解読するのはさぞ骨が折れたと思います。しかも、純粋な漢文ではなく朝鮮王朝で使用された漢文なので、朝鮮語発想で書かれた文章は非常に読みにくいです。これは日本で書かれた漢文日本語発想で書かれているので却って読みにくいのと同じことでしょうね。語尾に謎の文字列が登場しますが、あまり気にしない方向で読み飛ばしました。

 さて、まずは《瀋陽状啓》の記述の中でも特に注目される癸未仁祖21年崇徳8(1643)年8月の記事iを《清史稿》や《順治実録》と比較して確認していこうと思います。

(崇徳)八年秋八月庚午,太宗崩,儲嗣未定。和碩禮親王代善會諸王、貝勒、貝子、文武群臣定議,奉上嗣大位,誓告天地,以和碩鄭親王濟爾哈朗、和碩睿親王多爾袞輔政。ii

 ホンタイジが崩御したときの《清史稿世祖本紀の記事です。ホンタイジが崩御したときには、後継者が決まっていなかったので、和碩禮親王ダイシャンの発起で諸王ベイレベイセ、文武の群臣が会議が開催されて、フリンの継位と、和碩鄭親王ジルガラン和碩睿親王ドルゴンが輔政することが決定した旨サラッと書かれています。

(崇徳八年八月)庚午亥刻、太宗文皇帝賓天。(中略)(乙亥)於是和碩禮親王代善會集諸王貝勒貝子公及文武群臣。以天位不可久虛伏睹大行皇帝第九子。天縱徇齊昌符協應爰定議同心翊戴。嗣皇帝位共立誓書昭告天地王等誓詞。(中略)諸王貝勒公議以和碩鄭親王濟爾哈朗、和碩睿親王多爾袞輔理國政。誓告天地。iii

 つぎに《順治朝実録》を見てみると、語彙に違いはあるモノのホンタイジの第九子であるフリンが継位したことがやはりサラッと書かれています。省略したのは継位に賛同した諸王大臣の名前が列挙されている部分です。

九(八)iv月二十六日 秘密 承政院開折
十四日、諸王皆會於大衙門。大王發言曰「虎口帝之長子、當承大統」云。則虎口曰「福小德薄、非所堪當」。固辭退去。定策之議、未及歸一。帝之手下將領之輩佩劔而前曰「吾属食於帝衣於帝、養育之恩、倶天同大、若不立帝之子、則寧死從帝於地下而已」。大王曰「吾帝以兄、常時朝政、老不預知、何可恭於此議」既起去。八王亦隨而出。十王默無一言。九王應之曰「汝等之言是矣。虎口王既譲退出、無繼統之意。當立帝之第三子。而年歳幼稚、八高山軍兵、吾輿右眞王、分掌其半、左右輔政。年長之後、當既歸政。誓天而罷」云。所謂第三子、年今六歳是如爲白乎旀。v

 で、《瀋陽状啓》です。人名の標記が違うので注釈すると、大王ダイシャンvi虎口ホーゲvii八王アジゲviii十王ドドix九王ドルゴンx右眞王ジルガランxiです。あと、高山グサxiiですね。サラッと内容を要約しますと、崇徳8(1643)年8月14日に大衙門(場所不明)で継位を決める会議が開かれたことが記されています。まず、ダイシャンが「ホーゲは帝の長子なので、皇統を継ぐに相応しいのでは?」と発言しますが、ホーゲ自身が「自分は福少なく徳も薄いので、帝位を継ぐに値しない」と言って固辞して退席します。そこで、ホンタイジ直下の将領(おそらくソニン以下黄旗大臣達)が「帝の恩義に報いる為にも、後継者は帝の子でなくてはならない。もし、帝の子以外が帝位を継ぐようなら殉死して帝に従うまでだ」と剣をチラつかせます。この下りはちょっと演出が過ぎる気がするので、眉に唾つけてみるべきでしょうけど、《瀋陽状啓》にこうある以上は黄旗大臣が皇位について何らかの発言をして、それが会議に方向性を決めたのは事実なのでしょう。そこでダイシャンは「私は帝の兄だ。これまで朝政にあずかってきたがもう年だ。あとは君らに任せるわ」と、ホーゲに続いて会議の席を立ちます。アジゲもこれを追って退席し、ドドは無言のママ一言も発言しなかったようです。ここでドルゴンが「君たちの発言は正しいが、ホーゲは既に帝位を譲って退席してしまった。ここは帝の嫡三子を擁立すべきではないか?幼いとは言え、八旗の将兵は私と鄭親王(ジルガラン)が分掌して左右で輔政する。帝が成長したら政権をお返しする。これを皆で天に誓ってしまいにしよう」と発言してそれが採用されたようです。わずか六歳のフリンの継位が決定した…と言うコトですね。フリンホンタイジの第九子ですが、嫡出という意味ではホーゲとその同母弟・ロロ(天命3(1618)年病没)に継いで第三子と数えたみたいです。ホンタイジ皇后モンゴルから迎えた五人の妃を別格としていますが、それ以前はおそらく継妃ウラナラxiiiアンバ・フジンとされたのでしょうから、ホーゲとその同母弟は嫡出扱いだったと思われます。
 ここでの注目点は、まずダイシャンホーゲを推戴してホーゲが辞退している点。黄旗大臣達が継位に意見をしている点。アジゲドドが会議の進行を快く思っていないと思われる点。フリンの継位をドルゴンが提案している点…ですね。この辺、《清史稿》と《順治朝実録》には記載が無いものの大筋で矛盾しない上、非常に生々しい記述です。議事録ですよね。確かに評価されるのも分かります。

 さて、次にこの会議の二日後、多羅郡王アダリグサベイセショトドルゴンの擁立を画策したとして、誅殺される事件の記載も《瀋陽状啓》にありますから見てみましょう。

(崇徳八年八月)丁丑,多羅郡王阿達禮、固山貝子碩託謀立和碩睿親王多爾袞。 禮親王代善與多爾袞發其謀。阿達禮、碩託伏誅。xiv

 《清史稿》はやはりサラッとしてますね。アダリショトドルゴンを擁立しようと画策して、和碩禮親王ダイシャン和碩睿親王ドルゴンがこの謀議を暴いてアダリショトが誅に伏した…とあります。

(崇徳)八年八月、世祖章皇帝嗣統。郡王阿達禮、貝子碩託謀立睿王多爾袞。禮親王代善發其謀。阿達禮、碩託伏誅。阿達禮爲代善孫、碩託、代善第二子也。衆咸謂王大義滅親、比烈周公云。xv

 実録に行く前に《八旗通志初集ダイシャンの伝を見てみましょう。こちらではアダリショトの陰謀を暴いたのはダイシャン単独の功績にしてますね。《八旗通志初集はまだドルゴン皇籍を剥奪されている状態の時に編纂されているので、ドルゴンの功績が省かれているのかも知れません。しかし、アダリダイシャンの三子・サハリヤンの継子、ショトダイシャンの二子であったことから、この事件でダイシャンは肉親の情よりも公議を重んじる周公のような人物!と賞賛されたとあります。でも、元々ヌルハチ在世中にもダイシャンショトを継母と姦通したと告発して殺そうとしてますし、ホンタイジに接近したサハリヤンとは必ずしも利害が一致していたわけでもないようですし、なんか賞賛されるような内容では無いとは個人的には思いますが…。

(崇徳八年八月)丁丑、多羅郡王阿達禮、往謂和碩睿親王多爾袞曰「王正大位。我當從王」。又往謂和碩鄭親王濟爾哈朗曰「和碩禮親王、命我常至其府中往來。又固山貝子碩托遣」。吳丹至和碩睿親王所言「內大臣圖爾格、及御前侍衛等皆從我謀矣。王可自立為君」。阿達禮、碩托、又往視和碩禮親王代善足疾。偕多羅貝勒洛宏、同行阿達禮、碩托登床。附和碩禮親王耳語曰「眾已定議立和碩睿親王矣」。王何默默。於是和碩禮親王、和碩睿親王、白其言於眾。質訊俱實。阿達禮、碩托擾政亂國以叛逆。論阿達禮母、碩托妻結黨助逆。及同謀之吳丹俱伏誅。羅洛宏因同詣和碩禮親王所收系。以不知情免罪大學士剛林、亦收系因曾白於諸內大臣往伺伊王阿達禮動靜。又將伊王交與和碩睿親王且一一具首於內大臣等。亦免罪以和碩禮親王即行舉發籍阿達禮家盡給之。大學士剛林撥入正黃旗籍。碩托家並其子位哈、齊蘭布、給和碩睿親王。大學士范文程撥入鑲黃旗。以阿達禮弟勒克德渾、杜蘭、給和碩肅親王。xvi

 次に《順治朝実録》です。こっちではアダリがまずドルゴンの所に行って「王は帝位につくべきです。私は王に従います」と告げた後に、ジルガランの所に行って「和碩禮親王ダイシャンは私にその王府(睿親王府?)に赴くように命じ、グサベイセ・ショトも派遣しました」と述べたようです。呉丹(ウタン?)という人物も睿親王府に赴き、「内大臣トゥルゲイ始め御前侍衛はみな私の謀に同意しています。王は速やかに帝位にお即き下さい」と説得しに行っています。この人物の調べは付いてないのですが、アダリショトの関係者だと思われます。アダリショトドロベイレホロホン(ヨトの継子)を伴って再び禮親王府に向かい、ダイシャンにだけ聞こえるように「皆の結論は既に睿親王を推戴することに決まりました」と報告しました。ダイシャンは黙ったまま何も答えませんでしたが、遂にダイシャンドルゴンは連名でこの陰謀を暴露して、アダリショトの罪を問いました。おそらく諸王ベイレ、ベイセの出席する議政王大臣会議アダリショトの陰謀は国政を乱す反逆罪と判決が下り、アダリの母親とショトの妻が結託して叛逆を助けたとされて同罪とされます。特に母系親族や婚姻関係のある一族=閨閥の関係性が強いとされるマンジュ皇室ですから、おそらくバックにはドルゴンも属しているウラナラ閥が存在したのではないかと言われる所謂ですね。呉丹も同じ陰謀を謀ったとして誅殺されています。ロロホンも彼らに伴って禮親王府に行ったことで罪に問われます…が爵位を落とされたわけでもないですし、本当に考えなしに同行しただけと見なされたようですね。大学士ガリンはこの謀議を知らなかったので罪に問われていません。ここで罪に問われると言うコトは、ガリン自体がアダリショトと近しい関係にあったからだと考えられますが、他にガリンと彼らの関係を示す文章がない以上何とも言えません。ただ、伊王アダリってなっているのは気になりますね。アダリはただの多羅郡王で封号がなかったように言われていますが、多羅伊郡王だったんじゃないか?と思ってしまいますね…。マンジュ文の《順治朝実録》はどうなってるのか、機会があったら確認したいですね。ただ、”この王”…という事なのかも知れませんが…。ともあれ、ガリンアダリの謀議に関する調査に対して、アダリ王府に於ける動静やドルゴンとの交友関係などを洗いざらいに話したために罪を免れて正黄旗に編入しています。…ってコトはガリン正紅旗アダリ旗下の旗人だったと考えるべきなんでしょうね。直接は告発はしていませんが、ココでもやはり王族が失脚するときに、その身内が旗王を弾劾して黄旗に編入されて出世する…というパターンが生きているんだと思います。なんだかアダリの家財はダイシャンがいち早く没収しているんですね…。ショトの家財はドルゴンが没収し、ショトの子供である位哈(ラハ?)と齊蘭布(ジランプ?)もドルゴン預かりとなったようです。ここで何故か大学士范文程の名前が出てきますが、この人もガリン同様アダリショトの縁者だったんでしょうね。ショトの家財の記事の次に書かれているので、ショトの旗下に在籍したのかも知れません。ともあれ、范文程鑲黄旗に移籍しています。更に、アダリの弟であるレクデフン杜蘭(トゥラン?)が和碩肅親王ホーゲの庇護下に置かれた事が書かれています。

俊王及小退密言於大王曰「今立稚兒、國事可知、不可不速爲處置」云。則大王曰「既立誓天、何出此言。更勿生他意」。往問於九王。則九王亦牢拒而入。往十王家要見。則十王曰「此非相訪之時」。終始不出見。亦問於大王。則大王曰「何爲再發妄言。禍必立至。任汝所爲」旋既發告。九王曰「吾亦聞知」云。而十六日夕、捉致俊王・小退於衙門。露體綁縛。並其俊王之母及小退之妻、既縊殺之。要退xvii之子及俊王之弟二人、既縛而旋釋、黨餘皆不治。俊王財産軍兵、没入大王。小退財産軍兵、没入九王。小退・俊王、既大王之子輿孫也。刑政徐拜、大小國事、九王專掌之。出兵等之事、皆属右眞王。八王則心非其立幼、自退出之後、稱病不出。帝之喪次、一不往來云云是爲白乎旀。小退籍没之財、九王皆不入已、散給率軍人、馬八百匹、分將官等。范文程以下漢人三百名移送於皇帝高山。其餘軍卒三千三百名、自領是如爲白乎旀。虎口王曰「俊王兩弟皆幼。無所依歸。骨肉不可棄也」。率去養育是如爲白乎旀。xviii

 さて、次に《瀋陽状啓》です。ここでも固有名詞の標記が他と違うので注釈を入れておきます。俊王アダリxix小退ショトxxです。
 アダリショトダイシャンに密かに「今、幼主が立つと国事が立ち行かなくなります。早急に対処しなくてはなりません」と言うと、ダイシャンは「既に継位は天に誓っているのに今更何を言っている。そのようなことを二度と口にするな」と答えています。次にアダリショトドルゴンを訪問しますが、ドルゴンは門を固く閉ざして二人を門前払いにします。次にアダリショトドドを訪問しますが、ドドは「今は皇族が往来するような時期では無い」として、また門前払いにあっています。仕方なく、アダリショトダイシャンの元に戻りますが、ダイシャンは「どうしてそのような妄言をまた言うのだ。汝らがいると禍の元だ!」と言って二人を告発し、ドルゴンはこの告発に同意しています。何だか、《清史稿》や《順治朝実録》と違ってアダリショトドルゴンどころかドドにも門前払いされたことになっているので、《瀋陽状啓》ではアダリショトの行動が一層滑稽な感じがします。8月16日の夕方にアダリショト衙門(場所不詳)でいきなり諸肌剥かれて縄で縛られて拘束されます。なんでまた諸肌露わにして縛られたのを強調してるんですかね。で、やはり、アダリの母親とショトの妻の関与が取りざたされて縊殺されています。ショトの子とアダリの弟二人も拘束されたモノの釈放された旨記述されています。また、アダリの財産と旗下の軍営はダイシャンが没収し、ショトの財産と軍営がドルゴンに没収されたこと紹介されていますね。《順治朝実録》の記述通りです。ショトとアダリがダイシャンの息子であり孫であることを明記して、国政が既にドルゴンが掌握している事を指摘しています。更に出兵等軍事面はジルガランが掌握している事も指摘しています。実際、《清史稿》などの記事を見ていると、入関作戦以前での明清国境の小競り合いはジルガランアジゲなりアバタイなりが担当しています。アジゲは幼主が即位したことを内心快く思っていなかったので、病と称して王府に引き籠もったようです。ホンタイジの葬儀にも仮病使って出席しなかったようですね。これはマンジュ側の記録では見られない記事で注目に値します。また、ドルゴンは没収されたショトの財産や軍馬を自分のモノにせず、旗下の将兵に分け与えたようです。ドルゴンのバラマキ政策が特筆されているくらいですから、金の汚さについては定評のあるダイシャンはやはり没収したアダリの財産は自分のモノにしたんでしょうね。ガリンのことは触れていませんが、范文程以下漢人300人が皇帝高山皇帝グサ黄旗に編入された旨も記述されています。他のにどれだけ漢人が所属していたのかは他に記述がないので比較のしようがありませんが、この記述から行くとショト旗下のマンジュ旗人3,300名はドルゴン旗下の鑲白旗に移籍し、漢人旗人300名は黄旗に移籍したってコトですかね。また、ホーゲは「アダリの二人の弟は幼いのに身寄りが無い。我等の一族を捨て子のようにするのは忍びない」として引き取ったとしています。《順治朝実録》でもアダリの弟であるレクデフントゥランを引き取った旨書かれていましたが、《瀋陽状啓》ではなんだかホーゲが随分と男前に記録しているように感じます。代わりに大王と書かれながら、孫を路頭に迷わせたり、子供の財産をがめつく独り占めするダイシャンが酷く格好悪く書かれている様に感じるのは気のせいですかね…。

 で、次は《瀋陽状啓》だけの記事デス。

二十二日、九王人送於八王曰「雖有病患、皇帝喪事、久不來恭。揆而事理、殊甚不當叱分不喩、行迹異常、不可一向退伏。今日完歛大會、强疾來恭爲可」云。則八王引入於臥內曰「病勢危重、不得運動、若不至此、豈有引入不出之理乎」。荅送云云爲白乎旀。八王、翌朝完斂、扶病來恭爲白乎旀。虚實間、隨所聞馳啓爲白乎旀。xxi

 自分には難解な記事なんでスッ飛ばしますけど、要するに仮病を使い続けるアジゲに対してドルゴンがいい加減に外に出て来いや!ってやってたみたいですね。アジゲも危篤状態なのに外に出られるか!と、担架に担がれたような状態で入内して芝居打ったみたいですがなんだかめんど臭い人なんだなって印象しかありません。仮病なのか本当に病気だったのかはよく分からないみたいに書いてますけど、仮病でしょうね…。

 ともあれ、八月の記事を読むだけでも《瀋陽状啓》はココでしか見られない記述が多くて面白いと言うことだけは分かりました。ただ、確かに難解な漢文なので、手に負える気が全くしませんが…。

  1. 具体的に言うと、コマ番号312、P.601~コマ番号313、P.603 [戻る]
  2. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖本紀一 [戻る]
  3. 《順治実録》巻一 [戻る]
  4. 原本にも九月の横に”八”と書き添えている。内容的に八月の報告か? [戻る]
  5. 《瀋陽状啓》癸未年 八月二十六日啓 [戻る]
  6. アンバ・ベイレの称号から大王 [戻る]
  7. Hoogeの音訳 [戻る]
  8. ヌルハチ嫡出子の排行から [戻る]
  9. ヌルハチ嫡出子の排行から [戻る]
  10. ヌルハチ嫡出子の排行から [戻る]
  11. 和碩鄭親王=Hošoi ujen cin wang の音訳で右眞王 [戻る]
  12. Gusaの音訳 [戻る]
  13. アジゲ、ドルゴン、ドドの母親であるアバガイと同族の女性 [戻る]
  14. 《清史稿》卷四 本紀四 世祖本紀一 [戻る]
  15. 《八旗通志》初集 巻一百二十九 宗室王公列傳一 禮親王代善 [戻る]
  16. 《順治朝実録》巻一 [戻る]
  17. 宣和堂駐:小退の”小”の脱字か? [戻る]
  18. 《瀋陽状啓》癸未年 八月二十六日啓 [戻る]
  19. おそらくはサハリヤンの王号Hošoi sure cin wangから俊王? [戻る]
  20. Šotoの音訳 [戻る]
  21. 《瀋陽状啓》癸未年 八月二十六日啓 [戻る]

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