呉三桂と薙髪令

 つらつら《清初内国史院満文檔案訳編》を読んでいたら、面白い記事に出くわしました。以下は実録の方からですが…。

(順治元年四月)己卯。師至山海關。吳三桂率眾出迎王大喜。設儀仗、吹螺。同三桂向天行禮畢。三桂率所屬各官謁王。王謂三桂曰「爾回可令爾兵各以白布系肩為號。不然同系漢人以何為辨。恐致誤殺語畢、令之先行。」i

 これは、滅亡後、李自成北京に入城して崇禎帝が自縊した後、呉三桂ドルゴンに共闘を持ちかけて、ドルゴンが兵を引き連れて山海関に到達した時の記事デス。実録を時系列で追っていくと、ドルゴン征明(征順?)を企図して軍を動かした後、呉三桂から共闘の申し入れがあったコトになります。
 で、上の記事デスが、ドルゴン呉三桂に同士討ちを避けるために肩に白い布を巻き付けて、李自成軍との区別を付けるように言ってますね。李自成軍には降伏した軍も多数加わって居たはずですから、軍装はまるで同じ規格でしょうし、すぐにも開戦しようって言う時期に面倒なことは出来ないでしょうから納得の処置ですね。まぁ、揉み手して機嫌取ろうとして現れた呉三桂に、いきなり軍事行動の指示を出すあたり既にイニシアチブ取られてるわけですが…。おまけにこれ、死にたくなかったら肩に布巻いとけって感じのニュアンスでしょうしね。
 次に実録李自成軍と軍の合戦の記事を見てみましょう。

遂入關時、賊首李自成率馬步兵二十餘萬自北山橫亙至海列陣以待。是日、大風迅作塵沙蔽天咫尺莫辨。我軍對賊布陣不能橫列及海。攝政和碩睿親王、集諸王、貝勒、貝子、公及諸大臣等謂曰「爾等毋得越伍躁進、此兵不可輕擊。須各努力破此、則大業成矣。」我兵可向海對賊陣尾鱗次布列。吳三桂兵分列右翼之末、號令畢。諸軍齊列及進兵、令軍士呼噪者再風遂止各對陣奮擊。大敗賊眾追殺至四十里。賊首尾不相顧遁走燕京獲駝馬緞幣無算。ii

 ココで注目すべきは、①李自成軍が騎兵歩兵併せて20数万動員して横陣で待ち構えていたこと。②風が強くて砂塵が舞っていたこと。③清軍山海関の立地的に海岸線が逼っているので、横陣では布陣できなかったので、合戦前に隊列を乱さないようドルゴンが特に命令を下していること。④清軍李自成軍と正対して海に向かって魚鱗陣を布いて、呉三桂軍はその右翼の端に布陣していたこと。⑤強風を避けながら隊列を整えて進軍したこと。あたりでしょうか。
 通説で言われているように、まず呉三桂軍が李自成軍と当たって、側面をマンジュ騎兵が突いて李自成軍総崩れ…って訳ではないようです。あくまで主力は清軍で、正面から李自成軍主力とあたり、先駆けして布陣を崩すことがないように厳命して、実際にその通り陣形を乱さずに行軍したことで李自成軍を撃破した事が分かります。この時、ドルゴン全軍の三分の二を率いていたようですが、二十万と比較して兵数が多かったハズはないでしょうね…。それが、真正面からブチ当たって相手を潰走させて、一日で形勢を決めてしまうわけですから、チートに過ぎますね…。

故摄政和硕睿亲王集诸王、贝勒、贝子、公及固山额真、纛章京等、谓之曰;尔等毋得越伍躁进、此兵不可轻击、须各努力、破此则大业成矣。我兵可向海对贼阵尾、鳞次布列、吴总兵之军、分列右翼之末。若以吹螺进兵。号令毕、诸军齐列、及进兵、路远不得闻也、故由王处传呼、俊二次呼噪、诸军齐列进兵。号令毕、诸军齐列、及进兵、呼噪者再、风遂止、各对阵奋击、大败贼兵、追杀至四十里。贼首李自成幸免被杀、遁去。贼首尾不相顾、散兵不収、遁走燕京。iii

 《清初内国史院満文檔案訳編》を見ると、法螺貝吹いただの号令を何回かけただの、色々書いてあって興味深いですね。で、責任者を集めて隊伍を整えて進軍するように命令を下していますから、功を焦って我先に突出する様なことがなければ、確実に勝てるとドルゴンは踏んでいたようです。

俱給賞隨征將士。是日、進吳三桂爵為平西王。賜玉帶、蟒袍、貂裘、鞍馬、玲瓏撒袋、弓矢等物。令山海城內軍人、各剃發以馬步兵一萬隸平西王。隨攝政睿親王直趨燕京。追殺流賊又與諸將誓約。iv

 で、その日のうちに早速論功行賞を行うわけですが、平西伯であった呉三桂を早速平西王に封じます。奉命大将軍摂政和碩睿親王と長たらしい名前を背負っているモノの、昨日今日降伏してきた軍閥をドルゴンが勝手に王位に封じて良いもんかと思いますが、ナチュラルにやってますね…。呉三桂も王位を受けるって事はに降るって事なんですが、その辺覚悟の上なんでしょうが、有無を言わさぬ怒濤の展開でその日のうちに後々の禍根を残さないような手を打ってるわけですね。
 更に、見逃せないのが次の記述ですが、元・山海関の守兵であった呉三桂旗下の将兵を、髪を剃った上で改めて呉三桂に与えているという箇所デスね。つまり、呉三桂以下、山海関の将兵は李自成戦後に辮髪にされたと言うことです。通説では呉三桂らは恭順の意を示して辮髪にした上で、李自成戦に挑んだとされていますが、時系列に修正を加えなくてはならないですよね。李自成に勝った後、論功行賞のどさくさに山海関の守兵は自発的に辮髪にする様求められて、これに応じた者が呉三桂旗下に配されたんでしょうから、拒否した人達は推して知るべしですね。

令山海关城内军人各剃发、帽顶系缨。剃发系缨后、以马歩兵一万隶平西王v

 この箇所を《清初内国史院満文檔案訳編》で見るとこんな感じデスね。より明確に辮髪にした上で、呉三桂に与えたという感じになっていますね。

隨諭眾曰此次出師所以除暴救民。滅流寇以安天下也。今入關西征勿殺無辜、勿掠財物勿焚廬舍。不如約者罪之仍曉諭。官民示以取殘不殺共享太平之意。諭下凡百姓逃竄山谷者莫不大悅。各還鄉里剃發迎降。vi

 で、実録に戻って山海関での回戦後、北京入城までの間にその沿道の城市は、髪を剃って軍を歓迎したと有ります。まぁ、実際には降伏条件に辮髪にすることって言うのがあったんでしょうが、薙髪令を下す前から軍属以外の民衆にも辮髪を強要していたことが分かります。薙髪令の構想自体は北京入城前という比較的早い時期にあったと見ていいでしょうね。ただ、実際には呉三桂以下山海関の守兵に対しても、対李自成戦前というナイーブな時期は外して戦勝後強要するといった、政治的な駆け引きを既にドルゴンは模索していたと言うことで、なんというか呆れるばかりです。
 《清初内国史院満文檔案訳編》の四月二十三日の項を見ると、この時既に今後の統治方針は決定していたようですね。

大清国摄政王谕明国诸官民百姓曰:是以、我国拟文告诫明国官民、曾三次进兵攻略、示意于明国、明国之君无奈而欲通好也。vii

 の遺民に対しては「前の三回の遠征は、と国交を開きたかったからやっただけで、の国君(敢えて皇帝とは言わない)はそれを望まなかった(からあんなことになった)」と布告してますが、《清初内国史院満文檔案訳編》による、以下に見える清軍に対する命令ではもっとぶっちゃけてますが、真剣さが伝わります。

摄政王谕诸将士曰:我等此次进兵、与前三次伐明不同。此次不杀无辜、惟恃天恩图大业、招降民人、以定国家。入关西征、勿杀各城归降者、惟应剃发。勿犯民人财物、勿杀闲人、不拿俘兵、不扼衣物、不毁厩舍、不掠器皿。凡城内民人、不归降者杀、归服不杀。viii

 色々書いてますが、要するに、今回の遠征は前回までの都合三回の遠征とは同じではないから、略奪したり虐殺したりするなと。入関以降は辮髪にするコトに応じて投降した者は殺してはならない。しかし、従わないのであれば殺してしまえ…と、こう書いてます。長いんで引用しませんが、この後に続けて部下を統御できなければ、諸王ベイレなど宗室グサ・エジェンメイレン・ジャンギンら要職についている者も容赦なく罰すると厳命しています。
 (後金)軍は天聰年間~崇徳年間、領内に略奪目的で三回遠征していますから、同じノリで略奪するなと言うことですね。漢土の民衆も清軍は冬になる頃には北に帰ると楽観視していた人達も居たようです。しかし、今回の遠征は、崇禎帝の仇を討つための義軍であり、天命を失った大明に代わって大清が新たに帝位に即くことをニカン(漢土)の人間に納得させるためにも、秋毫も犯さず…と表現される行軍をしなくてはいけないと、ドルゴンは自覚していたと言うことですね。無論、洪承疇范文程漢人ブレーンが居たにせよ、ホンタイジが崩御してから一年もしない間に、これだけ遠大なビジョンを描けるもんでしょうか…。やっぱ想像付かないですねぇw

  1. 《清世祖章皇帝實録》巻三 [戻る]
  2. 《清世祖章皇帝實録》巻三 [戻る]
  3. 《清初内国史院满文档案译编》中巻 P.5~6 [戻る]
  4. 《清世祖章皇帝實録》巻三 [戻る]
  5. 《清初内国史院满文档案译编》中巻 P.6 [戻る]
  6. 《清世祖章皇帝實録》巻三 [戻る]
  7. 《清初内国史院满文档案译编》中巻 P.6 [戻る]
  8. 《清初内国史院满文档案译编》中巻 P.7 [戻る]

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