清初モンゴル政策メモ
と言うわけで、自分でよくわからんくなってきたのでメモ。整理用にかなり乱暴に纏めました。
清朝成立時にはモンゴルは大体3分されていた。
漠南モンゴル⇒ゴビ砂漠より南を遊牧地とするモンゴル(明代に東遷した元朝正統王家であるチャハル部、清朝の婚戚ホルチン部等々)
漠北モンゴル⇒ゴビ砂漠より北を遊牧地とするモンゴル(ハルハ部⇒左翼:ジャサクト・ハーン家、右翼:トシェート・ハーン家、チェチェン・ハーン家)
漠西モンゴル⇒ゴビ砂漠より西を遊牧地とするオイラート(ホシュート部、ジューンガル部等々)
力関係としては元朝正統のチャハル部をハルハ部は支持し、ハルハ部と戦って散々痛めつけられたオイラートはハルハ部に従属している状態。
狭義のモンゴルは漠南モンゴルと漠北モンゴルで、漠西モンゴルは明代以降オイラートと称されるので、今回は除外した。
■漠南モンゴルと清朝
清朝成立前から漠南蒙古はジュシェン(女真)と大きく関係しており、チャハル部のリンダン・ハーンはハダ部のスタイ太后を娶っている。スタイ太后は後にチャハル部を継いだエルケ・ホンゴル・エジェイの実母。
萬暦21(1593)年、ヌルハチ勃興期にジュシェンのイェヘ部を中心に9部連合軍がグレ山でヌルハチ率いるマンジュ(建州女真)と会戦して大敗すると、連合軍に参加していたホルチン部はヌルハチと修好した。
天命元(1616)年にヌルハチがアマガ・アイシン・グルン(後金国)を建国し即位すると、ホルチン部等はモンゴル語でクンドゥレン・ハーンの尊号を奉った。
天命4(1619)年、ヌルハチがイェヘ部を滅ぼして念願のジュシェン統一を果たすと、チャハル部のリンダン・ハーンはヌルハチに、チャハル部の交易拠点であった明朝広寧を攻撃しないように手紙を送ったが、ヌルハチはこれを拒否し後金とチャハル部は断行するに至っている。
天命9(1624)年には後金とホルチン部は対チャハル部の攻守同盟を結んでいる。
ヌルハチ没後、ホンタイジが後金ハンとして即位すると、天聰2(1628)年、チャハル部のリンダン・ハーンはトゥメト部、ハラチン部を滅ぼし、明朝との交易拠点となっていたトゥメト部のフヘ・ホト(フフホト、帰化城)と、トゥメト部が発見、所有していた玉璽「制誥之宝」を奪った。更にオルドス部を従属させ、ハルハ部の有力者 トゥメンケン・チョクト・ホンタイジもリンダン・ハーンに臣従を誓ったので、南北モンゴルはリンダン・ハーンの支配下に入った。
天聰8(1634)年、リンダン・ハーンはチベット遠征を企図して青海に入ったところで不意に病没してしまう。リンダン・ハーンはモンゴル統一を勧めようとしていたが、当時は同列であった部族もチャハル部の下に置く扱いであったため、モンゴル内では反発も多く、チャハル部から離反して後金に降る者が多かったという。
漠南モンゴルに生じた権力の空白時期を見逃さず、ホンタイジは睿親王 ドルゴンらを派遣して即座にフヘ・ホト(フフホト 帰化城)を摂取し、リンダン・ハーンの遺児 エルケ・ホンゴル・エジェイは生母スタイ太后と共に後金に降伏した。
天聰9(1635)年、ドルゴン率いる遠征軍はスタイ太后とエジェイを保護して瀋陽に凱旋。玉璽「制誥之宝」とフビライ・ハーンがパクパに作らせたというマハー・カーラ像を得て、ホンタイジはモンゴルの正統継承者となったことを宣言し、崇徳元(1636)年、国号をダイチン(大清)と改め、二次即位を行った。
■漠北モンゴルと清朝
漠南モンゴルが清朝勢力圏に入ったことにより、清朝は漠北モンゴルと直接境界を接することになり、天聰9(1635)年にはハルハ部から清朝に使者が派遣されている。しかし、ハルハ部のチェチェン・ハーン ショロイはリンダン・ハーン没後にスタイ太后を保護しようと計画したり、リンダン・ハーンの強権を嫌って離反したチャハル部支部のスニト部やウジュムチン部を保護下に置いたりと、チャハル部を摂取してモンゴル内での覇権を確立することに野心があったものと考えられる。
明朝と交戦していた清朝からは、明朝との交易を控えるよう要請され表向き承諾したものの、実際はフヘ・ホトでトゥメト部遺衆を介して明朝と交易を行い、重要な軍需物資である馬を明朝に提供していた。後にトゥメト部がハルハ部と明朝の交易を仲介することを後金から厳禁されると、ハルハ部は大同まで赴き明朝と直接交易を始めた。
崇徳4(1639)年、ハルハ部の保護下にあったスニト部等がチェチェン・ハーン家から離反して清朝に降っている。
また、清朝を警戒してハルハ部内の有力者とオイラートの有力者を一堂に集め、崇徳5(1640)年、対清朝の攻守同盟を結び、「モンゴル・オイラート法典」を制定する。
崇徳8(1643)年、ホンタイジが没し、順治帝が即位し、翌順治元(1644)年に清朝が入関すると、翌順治2(1645)年、ハルハ部の有力者は祝賀の使節を送っている。
しかし、順治3(1646)年にスニト部のテンギスが清朝から離反し、再びチェチェン・ハーン家を頼って帰投すると一気にハルハ部と清朝の関係は悪化する。清朝は漠南モンゴルに招集をかけ、豫親王ドドを揚威大將軍に任命してテンギスを追跡させ、ついに捕捉して攻撃するも逃走される。更に追跡するとトシェート・ハーン ゴンボ麾下の軍とチェチェン・ハーン ショロイ麾下の軍と遭遇してこれを破った。
清朝は凱旋したものの、この後トシェート・ハーン ゴンボの一族に当たるエルケ・チュフル(ダンチン・ラマの兄弟)が報復のために清朝麾下のバーリン部を略奪する。
ハルハ部のジャサクト・ハーン スベデイ、トシェート・ハーン ゴンボ、チェチェン・ハーン ショロイら有力者達はあわてて使節を送ったものの、外交文書は清朝とハルハ部を対等として、おれおまえ位の字句で書かれていた。清朝はテンギスの引き渡しとバーリン部の賠償をハルハ部に要求し、交易を中止した。
順治5(1648)年8月、トシェート・ハーン、チェチェン・ハーンはバーリン部の馬千頭、駱駝百頭を贈って賠償を行い、数日後、スニト部のテンギトが清朝に再度帰順した(テンギスは既に病没)。これで一時ハルハ部と清朝の関係は緩和された。
しかし、早くも順治5(1648)11月に2チュフルの清朝襲来の風説のために、清朝は大同に軍を集結させたり、順治5(1648)年末から順治6(1649)初頭にかけて、ジャサクト・ハーン家の有力者 オムブ・エルデニ(バトマ・エルデニ・ホンタイジ)とバルブ・ピントゥがフヘ・ホトを襲撃し、トゥメト部を略奪する。2月には大同総兵・姜瓖が反乱して、これにチェチェン・ハーンが呼応して南下し、10月にはドルゴンが2チュフル遠征に向かうなど、清朝とハルハ部の間は緊張が絶えない状態が続く。ジャサクト・ハーンの侵入を防ぐためドロ郡王・ヨロを宣威大将軍に任命してフヘ・ホトに駐在させた。
順治7(1650)年10月、トシェート・ハーン、チェチェン・ハーン、ダンチン・ラマ、ジェプツンダンバ・ホトクトらの使節が北京に訪れ、自らを臣下と称する外交文書をもたらした。清朝とハルハ部は対等な関係ではなく、清朝が優位であるとハルハ部が認めた形。しかし、清朝は満足せず、更にバーリン部の賠償とオムブ・エルデニとバルブ・ピントゥのフヘ・ホト略奪の賠償を求めた。しかし、清朝の意に従って貢納の義務を果たすなら毎年一回の交易を再開するとも通達し、ひとまずハルハ左翼との和平は保たれた。
順治7(1650)年12月、ドルゴンがハラ・ホトンで没して順治帝の親政が始まったが、対モンゴル政策には特に変更は生じた様子はない。
順治9(1652)年、順治帝がダライ・ラマ五世と会談。順治4年から交渉を始め、順治5年には決定していた会談が実現。
順治12(1655)年、4月ハルハ左翼のトゥシェート・ハーン、チェチェン・ハーン、ダンチン・ラマ、ジェプツンダンバ・ホトクトらは2チュフルによるバーリン部略奪の罪を乞い、歳貢を献上した。5月、清朝はハルハ左翼の謝罪を受け入れ、バーリン部の賠償を免除したが、ハルハ右翼についてはジャサクト・ハーンにフヘ・ホト略奪の賠償と謝罪を要求した。そして、12月、安郡王・ヨロにハルハ左翼と会盟させた。この時取り決められた朝貢制度が所謂九白之貢。
順治14(1657)年、ハルハ右翼のジャサクト・ハーンが謝罪の使者を送り、順治帝はこれを受け入れ、順治16(1659)年4月、ついにハルハ右翼が清朝と会盟し、歳貢=交易を許した。これをもって漠北モンゴル=ハルハ部の清朝帰順は完了とみした。完全に清朝版図に含まれるのはジューンガル部の侵攻後になるが、それはまた別の項で。
と言うわけで、宣和堂の最近の興味が漠北ハルハに向いているので、そういう感じのまとめになりました。この辺はチャハル部もそうですが、終始一貫して清朝とは交易関係でもめていて、時折テンギス事件や2チュフル事件、帰化城略奪事件が発生して、その謝罪をハルハ部三ハーンに求めてた感じですかね。清朝入関後、テンギス事件以後は漠北モンゴルに対する経済制裁を続けていて、最終的にはハルハ部側が根を上げたってとこでしょうか。この時期、清朝は台湾の鄭氏勢力に対して遷海令を発令して交易を禁じていましたが、モンゴル方面でもハルハ部に対して交易を禁じてたわけですね…。オイラートというかジューンガル部やチベット及びホシュート部とは書簡のやりとりはあったようですけど、交易に関しては盛んだったわけではないでしょうし、漢土の中だけで何とかなったんですかねぇ…。
ともあれ、漠北モンゴルとの関係が一応の安定を見ていたことは、順治帝を継いだ康熙帝にとってもよき遺産だったはずです。輔政大臣オボイの失脚や三藩の乱もモンゴルとの関係が安定していた事が前提でしょうから、順治年間のモンゴル政策は決して軽視できないと思うんですけどねぇ…(日本での先行研究はあんまり多くないのです)。
参考文献:
岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店
岡田英弘『蒙古源流』刀水書房
齐木徳道尔吉〈1640年以后的清朝与喀尔喀的关系〉 《内蒙古大学学报(人文社会科学版)》 1998(04)
达力扎布〈清太宗和清世祖对漠北喀尔喀部的招抚〉 《历史研究》2011(02)
李凯灿〈多尔衮与清初民族关系〉 《河南师范大学学报(哲学社会科学版)》2003年05期
N.哈斯巴根〈顺治六年多尔衮出兵喀尔喀始末〉 《西部蒙古论坛》2010年01期