延禧攻略の小ネタ6 孝賢純皇后
と言うわけで《延禧攻略(邦題:「瓔珞(エイラク)~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」)》を相変わらずツラツラと見ています。今回は以前調べたことの追加…と、漢語版Wikipediaで皇后フチャ氏のモデルである孝賢純皇后の項とか魏瓔珞のモデルである魏佳氏の項目を見てたら、あの挿話も元ネタあるのかよ…というのが何個かあったので、纏めました。
まず、遮陰侯の話ですね。前回発見出来なかった遮陰侯の文章を何個か見つけたのでメモを。
〈探海侯〉とは北海公園の団城内にある西に向かって曲がりくねった一株の古松である。その枝先は城壁の姫垣を掠めて下に傾き、あたかも太液池の広々としたさざ波を見下しているかのようなので、乾隆帝が〈探海侯〉の名を与えた。さらに団城の承光殿の東側の古柏には〈遮陰侯〉、その傍らの二株の白松には〈白袍將軍〉の称号を与えた。現在〈探海侯〉はすでにないが、二株の〈白袍將軍〉はうち一株が、また〈遮陰侯〉は健在である。i
まずは北京の風俗画集である『燕京風俗』の解説パートに遮陰侯が出てきますが、白袍将軍はともかく探海侯とか初耳なんですが、ともかく書籍で遮陰侯の記述を発見出来ました…まぁもっとも1980年代出版の本なんで、この頃にはこの伝説は定番になっていたと言うところでしょうかね…。
で、前に調べた時には遮陰侯は北海に生えてるから、御花園にはないやろ!とか、古栝はアブラマツだから柏ではないのでは?と思ったんですが、どうやら元ネタになるような記事もあったようです。
擒藻堂院壁、恭刻高宗純皇帝聖製御花園古柏行。石上恭刻皇上御製古柏詩。
古柏布清陰、悲含寸草心。先皇遺澤厚、雨露億年深。ii
と言うわけで、嘉慶年間勅撰の《國朝宮史續編》に御花園擒藻堂の記事があります。ついでに言えば《清宫述闻》に解説があるので引用してみましょう。
按:皇上、清嘉庆帝也。高宗《古柏行》首四句:“擒藻堂边一株柏、根盘厚地枝擎天。八千春秋仪传说、厥寿少当四百年。”(古柏今尚存。)梁诗正《矢音集・恭和元韵》首四句云:”承光殿前有古栝、曾经丽藻垂九天、御花园柏更奇矫、长歌复作识岁年。”(承光殿在团城内、古栝今尚存。)iii
御花園にある擒藻堂の壁には乾隆帝の《古柏行》が刻まれている…と、で、詩に詠まれた古柏はまだ《清宫述闻》の記述当時にはまだ健在だったと。乾隆年間の大臣である梁詩正の著作《矢音集》恭和元韵の項で乾隆帝御製の詩ivを紹介しているようです。曰く、承光殿の前には古栝があり、御花園の柏は更に趣があった…と。遮陰侯伝説のある古栝と御花園の古柏が乾隆帝の同じ詩の中で詠まれていると。恐らくこの辺りがドラマの霊柏の元ネタなんでしょうね…というかこんなの調べてたのかよ!
更に、先の柏は堆秀山に隣接する擒藻堂近くに生えていたようですね。で、堆秀山というとドラマでは9月9日の重陽の日に皇太后を招いて各后妃が宴会開いた御景亭のある場所なんですが、割とガイドブックではそういう紹介の仕方をされているんですが、《國朝宮史》にも《日下舊聞考》にも《國朝宮史續編》にも出てこないのでホンマかいなと思っていたんですが…。
堆秀山
【初】叠石为嵩山、山正中有石洞、旧门额曰:堆秀。左侧恭镌高宗纯皇帝御笔”云根”二字。山巓有亭曰:御景亭。(《国朝宫史续编》)
按:堆秀山、明曰堆绣山、万历间拆去观花殿、叠石为之。
又按:乾隆帝《赋御花园花朝》诗有”堆秀山前景物芳”之旬。
九月九日、前清帝王、皇后、妃嫔登高、在御花园之堆秀山。(《帝京岁时纪胜笺补》稿本)
按:清嘉庆帝有《登堆秀山歌》。山南有一轩、矮而小、内壁以竹嵌成、极精雅、额曰:禊赏。v
と、またも《清宫述闻》に記述があるんですね。引用されている《帝京歳時紀勝箋補》は今ひとつどういう本なのかは調べが付かなかったんですが、”前清“と書いているからには民国以降の著作だと思われるので、信憑性と言う面では眉唾ですかねぇ…。正直そんなに広いように見えないので、入れて精々4~5人くらいな物だと思いますが。
で、続いて皇后娘々のネタに…。序盤の瓔珞がまだ繍房に居た頃、任された皇后娘々の誕生日祝いに新調する礼服に使用する孔雀糸を盗まれて、鹿尾の毛糸で袖に刺繍したことがありましたが…。元ネタあるんですね…。
朕讀皇祖御製清文鑑知我國初舊俗、有取鹿尾氄毛緣袖以代金線者、蓋彼時居闗外、金線殊艱致也。去秋塞外較獵、偶憶此事、告之先皇后、皇后即製此燧囊以獻、今覽其物、曷勝悼愴、因成長句、以誌遺徽。練裙繒服曽聞古、土壁葛燈莫忘前。共我同心思示儉、即茲知要允稱賢。鉤縚尚憶椒闈獻、縝緻空餘綵線連。何事頓悲成舊物、音塵滿眼淚澘然。vi
と、こんなことでもない限り紐解かない《清高宗御製詩》二集に納められた詩にはこんな感じのことが書いてあります。適当に訳すと、乾隆帝が清文鑑を読んでいたところ、清朝が入関前の旧俗として(礼服は)金糸の代わりに鹿尾の毛糸で袖を刺繍されていたと、清朝が関外に居た頃は金糸は大変貴重だったのだと。かつて秋に塞外に出猟した際に偶々この事を先の皇后(=孝賢純皇后)に話したところ、皇后は鹿尾の毛糸で装飾した嚢を作って乾隆帝に献上した云々と。元々、皇后は乾隆帝からこのネタを聞いて、倹約の故事として気に入ったようですね。
で、この手のネタの宝庫のお馴染み《嘯亭續録》にもやはり記事がありました。
純皇后之賢德
孝賢純皇后富察氏,文忠公之姊也。性賢淑節儉,上侍孝聖憲皇后,恪盡婦職。正位中宮,十有三載,珠翠等飾,未嘗佩戴,惟插通草織絨等花,以爲修飾。又以金銀線索緝成佩囊,殊爲暴殄用物,故歲時進呈純皇帝荷包,惟以鹿羔[毛蒙][毛戎]緝爲佩囊。仿諸先世關外之製,以寓不忘本之意,純皇每加敬禮。後從上東巡,崩於德州舟次。純皇帝深爲哀慟,故於文忠父子恩寵異常,實念后之德也。vii
ここでも、孝賢純皇后の美談として紹介されていますね。曰く、宮中に皇后として13年在位しながら、宝玉のついた装飾を身につけたことがなく、草花を用いて装飾していたと。また、金糸や銀糸を使った嚢は贅沢だとして、鹿尾の糸を使った嚢を使っていた。これは関外の頃に使われていたものの模倣品だといい、倹約の心を忘れぬようにと身につけておられたと云々。
元ネタは確かに礼服の袖を鹿尾の毛糸で刺繍したという話のようですが、どうやら、孝賢純皇后が鹿尾の毛糸を使ったのは礼服の袖ではなくて、巾着か匂い袋の刺繍としてのようですね…。女官の才知を皇后娘々が褒めると言った筋でもないわけですが…。
また、ドラマでは乾隆帝が病にかかった際に、皇后娘々が看病する話が出てきましたが、似たような話が残ってるようですね…。
孝賢皇后
阿文成公云:「純聖壯年,曾患癤,甫愈,醫云:須養百日,元氣可復。孝賢皇后聞知,每夕於上寢宮外居住奉侍,百日滿後,始回宮。」viii
文正公・アグイ(agūi 阿桂)はかつて「乾隆帝が壮年の頃、おでき(?皮膚疾患?)を患ったが中々癒えなかった。医者が言うには、百日も療養すれば回復するという。孝賢純皇后はこれを伝え聞くと、毎夕乾隆帝の寝宮の外に待機して、百日たった後にようやく自分の宮殿にお戻りになった。」と語った。と言うわけで、そう言えばドラマには出てきてないアグイが語るというかたちの逸話ですが、これが載っている《郎潛紀聞》って光緒年間に成立しているので、結構後になってからの記録ですね…。まぁ、何にしても皇后娘々が乾隆帝を甲斐甲斐しく看病するという逸話はすでに清代にはあったと言うことになりますかね。
あと、魏瓔珞のモデルである魏佳氏が元は孝賢純皇后の付き人であったという話ですね。
孝賢皇后陵酹酒
那能恝爾去、仍趁便而來。
言念曽齊案、奚堪更酹杯。
草猶逮春緑、松不是新栽。
舊日玉成侣、依然身傍陪。
註:令懿皇貴妃爲今皇后斫教養者並附地宫。ix
探すのに苦労する《高宗御製詩》の四集にありました(辛い)。まぁ…詳細は省きますが、乾隆帝の自注で一応そのことに触れられています。まじかぁ…。
参考文献・サイト
画 王羽儀/題詩 端木蕻良/監修 内田道夫/解説 臼井武夫『燕京風俗』東方書店
慶桂 等編纂《國朝宮史續編》北京古籍出版社
章乃炜 等編《清宮述闻》故宫出版社
昭槤《嘯亭雑錄》中華書局
漢籍リポジトリ 御製詩集
维基文库 《郎潛紀聞二筆》九巻