冰嬉その3 朝鮮国冬至使の見た冰嬉2~実録読み比べ~

 さて、時間をおくと更新出来なくなりそうなので、取りあえず切りのいいところまで更新してしまいます(ホントはこれ以外にも冰嬉ネタはあったのです)。

 で、時は乾隆60(1795)年、いよいよ乾隆帝も長い治世を終えて退位する事となります。
 朝鮮国でも当然大きな関心を持っており、乾隆帝の退位と嘉慶帝の即位の様子も冬至使は伝えていますi。元々冬至使はこういった清朝の政治状況を探る目的がメインで、乾隆帝の還暦や80歳の誕生日を祝った六旬、八旬の盛大なお誕生日会=萬壽盛典を開いたりしないか(費用負担があった模様)、太上皇帝となった乾隆帝と新皇帝の嘉慶帝の二人の聖節=お誕生日のお祝いの使節=聖節使をそれぞれ送るべきかなど、割と現実的な課題が大きなウェイトを占めたようです。新皇帝の即位を祝って大々的に冰嬉でお祝いしても良さそうなもんですが、おそらくそれ報告するどころじゃなかったんでしょうね。
 で、その年の12月にも冬至使が派遣されますが、今回はちょっと様子がおかしいです。

○(正祖21=1797年2月)戊子(17日)。冬至正使金思穆、副丈柳焵,在燕馳啓曰:“臣思穆,去年十二月二十七日,追到燕郊堡,與副使臣,書狀臣翊模會竣使事。間於皇帝宴戲,輒進參,太上皇召至榻前,親酌御酒凡三賜之。又頻賜食物,命撰進觀燈詩,臣等各製七言律詩一首以進,賜緞疋筆墨。圓明園宴時,太上皇使和珅傳言:‘爾還以平安以過,傳于國王。’又問曰:‘世子年紀幾何?’臣等對曰:‘八歲矣。’又問:‘已經痘乎?’臣等對曰:‘未也。’”ii

 サラッとした記事ですが、サッと訳してみましょう。

訳:(正祖21=1797年2月)17日。冬至正使金思穆副丈(使?)・柳焵北京から報告書を送ってきたが、その報告書によると「臣、金思穆は去年の12月27日に北京城に到着し、副使柳焵書状官李翊模は任務を完了致しました。皇帝陛下が開いた宴戯の時にしばしば謁見する機会があり、太上皇帝は榻の前に招き、親ら御酒を三回お酌されました。また、頻繁に食べ物を下賜され、観燈詩を作るように命じられ、臣等は七言律詩を一首を作って進呈したところ、束になった筆墨を賜りました。圓明園での宴席で、太上皇帝ヘシェンを使わされ、『汝等は無事に帰って、国王に伝えなさい』と言われました。 また、『世子は何歳になったか?』と言われたので、臣等は、『8歳になりました。』とお答えすると、 また、『もう天然痘に掛かったのか? 』と問われるので、臣等は「まだです」とお答えした。」とのことだった。

 と、どうやら冬至使一行は年末に北京に到着した旨は明記されているのですが、珍しくいつ乾隆帝に謁見したのか明記されていません。《高宗純皇帝実録》と《仁宗睿皇帝実録》には嘉慶元年年末の記事には金思穆らの名前が見えないので、少なくとも朝鮮国冬至使との謁見はなかったようです。
 しかし、年始には並み居るモンゴル王公に混じって金思穆柳焵の名も見えるのでiiiiv 、謁見自体は事実でしょう。ただ、この辺の《仁宗睿皇帝実録》の記載は《高宗純皇帝実録》と比較すると内容がかなり淡泊でv金思穆柳焵の名前すら表記されていません。いやぁ…この辺コピペしてるもんだと思ったんですが、意外と違うんですね。
 内容に戻ると、《朝鮮王朝実録》には”間於皇帝宴“とあるので、もしかしたらこの時にも冰嬉が実演されたのかもしれませんが、恐らくそれどころじゃねーよって事なんでしょうね。

 で、その翌年も冬至使の報告に冰嬉が出てくるので見てみましょう。

○(正祖22=1798年2月)癸丑(19日)。冬至正使金文淳、副使申耆,自燕京離發馳啓曰:“臣等一行,文淳病留柵內,臣與書狀官洪樂游,奉表、咨文,先爲離發,十二月十八日入北京。陪表、咨文,詣禮部,無弊呈納,淸侍郞多永武,率諸郞官,依例領受。後,臣等退歸南小館。二十一日,太上皇帝,觀氷戲 ,因禮部知會,臣耆及書狀官,詣西華門外祗迎。太上皇帝,乘黃屋小轎,到臣等祗迎處,使閣老和珅傳旨曰:‘國王平安乎?’臣等對曰:‘平安矣。’又問曰:‘一國安乎?’又對曰:‘安矣。’太上皇帝入西苑門,仍令臣等隨來伺候於瀛臺近處。有旨賜食,引臣等一行,坐於殿門簷階上,俱賜飯卓,又賜臣等御卓上克食。少頃,太上皇帝出御兩龍雪馬,設氷戲,臣等亦隨後觀戲。vi

 そこそこ細かいですね。一応訳しましょう。

訳:(正祖22=1798年2月)19日。冬至正使・金文淳、副使・申耆北京から出発する際の報告書で「臣等一行の内、金文淳は発病のために柵内viiに留まったので、臣申耆と書状官・洪樂游は表と咨文を奉じて先に出発して、12月18日に北京に入城しました。表と咨文を奉じて礼部に詣でたところ、問題なく献上品を提出し、viii(礼部)侍郎ドヨンゴix礼部の官員を引き連れてこれを受領致しました。その後、臣等は南小館に帰りました。12月21日には太上皇帝氷戯を観戦されるので、礼部は口頭で臣申耆及び書状官西華門外に来て祗迎するように口頭で通達してきました。太上皇帝は黄色い屋根の小さな轎に乗ってこられ、臣等の祗迎處に到着され、閣老のヘシェンを使わされて伝言して「国王は息災か?」と仰ったので、臣等は「息災でございます」とお答えしたところ、また「国内は治まっているか?」と問われたので、「治まっております」とお答えしました。太上皇帝は西苑門から(西苑に)入り、臣等に随行して瀛台近くに伺候するように命じられました。食事の下賜があり、臣等一行は案内されて殿門の軒先に座り、倶に飯卓を賜り、また臣等に御卓の料理を賜りました。少しすると、太上皇帝は兩龍雪馬xに乗って氷戯の準備されたので、臣等もそれに従って観戦したしました。

 ここ見るに太上皇帝になっても相変わらずヘシェンが扈従している関係性がその場を仕切っていて、当然同行していたハズの嘉慶帝については比較的存在が軽かったと言うのが、朝鮮王朝側の史料でも分かるって事ですね。
 それはそうと、やはり、皇帝氷牀が先行して競技場に入り、ゲートなどを設置していたみたいですね。
 で、この事は《高宗純皇帝実録》にも記述はあるんですが…。

○(嘉慶2年12月)丙辰(21日)。太上皇帝幸瀛臺。回部四品伯克瑪穆特等二人、五品伯克謨們聶咱爾阿布都里體布等四人、朝鮮國正使金文淳、副使申耆等三人、琉球國正使東邦鼎、副使毛廷桂等二人、於西華門外瞻覲。xi

 冰嬉の記述がないのはいつものこととしても、途中で脱落したはずの金文淳の名前が入っているのはいいんですかねぇ…。まぁ、冬至副使申耆が持ってきた表には当然金文淳の名前が冬至正使として記載されていたんでしょうけど、こんなんでいいんですかね。多分、その下の書状官洪楽游もその場に居たんでしょうけど、その辺りの記載ないですね。なんだか、乾隆末年のお役所の硬直化の象徴的なサンプルに見えてしまうような。
 で、当然嘉慶年間の事なので《仁宗睿皇帝実録》にも記載はあります。

○(嘉慶2年12月)丙辰(21日)。上侍太上皇帝幸瀛臺。閱冰技。回部四品伯克瑪穆特等二人、五品伯克謨們聶咱爾阿布都里體布等四人、朝鮮國正使金文淳、副使申耆等三人、琉球國正使東邦鼎、副使毛廷桂等二人、於西苑門外瞻覲。xii

 こちらにはたったの三文字ですが”閲冰技“と、冰嬉らしき記述が出てきます。実は、《仁宗睿皇帝実録》を見ると、嘉慶元年から氷技冰嬉の記述はありますxiiixiv。しかし、外交使節への歓待儀式としての氷技冰嬉はこの記事が初出となります。何故、嘉慶期に作成された《高宗純皇帝実録》に冰嬉の記載がなく、道光期に作成された《仁宗睿皇帝実録》には記述があるのかは分かりませんが、以後、《清実録》には毎年のように冰技冰嬉の記事が出てくるようになります。
 で、この翌々年の正祖23=1799=嘉慶4年1月には乾隆帝は崩御します。この様子も冬至使朝鮮国王に伝えたようですxv。更にその翌年のヘシェンの誅殺も冬至使が伝えていますxvi
 と、同時に《朝鮮王朝実録》からも清朝の外交行事としての氷戯冰嬉に関する記述も一切なくなってしまいます。恐らくは乾隆帝肝煎りの儀式であったから、朝鮮正祖冬至使冰嬉の様子の報告を期待したのでしょうが、その一方で主催者側の記録である《高宗純皇帝実録》には冰嬉のことは一言も記載されていません。嘉慶帝乾隆帝を継いで、外交儀礼としての冰嬉も頻繁に開催されたものの、朝鮮王朝などは儀式としての冰嬉には関心を失って《朝鮮王朝実録》からは冰嬉の記載がなくなってしまう…という感じでしょうか。
 たかが冰嬉=スケート競技の事ではあるんですが、意外と調べると面白いですね。

参考サイト

明實錄、朝鮮王朝實錄、清實錄資料庫合作建置計畫
명실록·청실록(明実録・清実録)
漢籍電子文獻資料庫

  1. ○正祖20=1796年3月○壬子(6日)。(中略)次對。召見回還正使閔鍾顯、副使李亨元等。上謂鍾顯曰:“新皇帝何如?”鍾顯曰:“仁孝端重,在諸王中,最有令譽。觀於宴饗之時,侍坐上皇之側,只視上皇之動靜,而一不轉囑。觀於此亦可見其人品矣。”上謂亨元曰:“詔勑順付之奇,得聞於先來之前。卿之周通,固所稔知,而今番之事,可謂大生光矣。”先是,亨元在燕館,以諺書,報勅書順付消息于義州府尹沈晋賢,俾轉達于朝廷故也。上又曰:“八月聖節,別送賀使之論,卿等意見如何?”鍾顯等曰:“歲前賀使之行,先期差送,斷自聖衷,而及其趁期入達也,彼人莫不稱歎。事大之誠,太上皇亦以忱誠可感,諄諄言之。今番詔勑之順付、謝恩之命停,未必非賀使先送之效。明見萬里之聖鑑,臣等欽仰萬萬矣。第謝使旣不發送,拖至冬間,始有節使之行,則其間日月,未免太久。若趁八月聖節,治送賀使,兼爲謝恩,則似無妨。”上謂右議政尹蓍東曰:“卿意何如?”蓍東亦言無妨。上曰:“上皇聖節,旣送賀使,則新皇帝聖節,又不可一送而一否,然則冠蓋相望於道矣。今年聖節,旣與六旬、八旬有異,則何必創爲無於例之事乎?”⇒《朝鮮王朝實録》正祖實録 巻44 [戻る]
  2. 《朝鮮王朝實録》 正祖實録 巻46 [戻る]
  3. ○(嘉慶2=1797年正月)辛亥(10日)。太上皇帝同皇帝御紫光閣。賜蒙古王。貝勒。貝子。公。額駙。台吉。吐魯番郡王阿奇王伯克伊斯堪達爾等十六人。及霍罕伯克那爾巴圖來使博巴占。錫哩布等二人。朝鮮國正使金思穆副使柳焵等二人。暹羅國正使呸雅梭挖粒巡吞握派嘮喇突。副使廊窩們蓀泥霞握巴突等宴。並賞賚有差。⇒《高宗純皇帝實録》巻1496 [戻る]
  4. ○(嘉慶2=1797年正月)丙辰(15日)。太上皇帝同皇帝御正大光明殿。賜朝正外藩等宴。左翼。科爾沁和碩親王拉旺。多羅郡王和碩額駙索特納木多布齋。多羅郡王喇什端羅布。喇什噶勒當。多羅貝勒古穆扎布。輔國公諾觀達喇。納遜巴圖。公品級一等台吉琳沁多爾濟。一等台吉敏珠爾多爾濟。巴林親王品級多羅郡王巴圖。公品級一等台吉索特納木多爾濟。四等台吉布彥濟爾噶勒。奈曼多羅郡王拉旺喇布坦。一等台吉巴勒楚克。敖漢多羅郡王和碩額駙德親。鎮國公固山額駙納木扎勒多爾濟。固山額駙扎勒瓦。土默特多羅貝勒理藩院額外侍郎索諾木巴勒珠爾。固山貝子朋素克琳沁。翁牛特多羅貝勒濟克濟扎布。二等台吉巴顏巴圖爾。哈斯巴圖爾。烏珠穆沁多羅貝勒旺楚克。阿巴哈納爾多羅貝勒瑪哈巴拉。喀喇沁輔國公瑪哈巴拉。拉扎布。溫都爾瑚。公品級固山額駙丹巴多爾濟。多羅額駙扎密揚多布丹。喇特納巴拉。固山額駙扎南吉爾第。右翼。喀爾喀和碩親王固倫額駙拉旺多爾濟。多羅貝勒納木薩賚扎布。瑪哈錫里。袞布車琳。固山貝子遜都布多爾濟。班珠爾遜都布。鎮國公達什格埒克。輔國公索諾木扎布。公品級幹珠爾扎布。扎薩克一等台吉楚克蘇木扎布。貢楚克。一等台吉貢格喇什。喀喇沁親王品級多羅郡王和碩額駙滿珠巴咱爾。蘇尼特多羅郡王車凌袞布。多羅貝勒恭桑扎勒。浩齊特多羅郡王敏珠爾多爾濟。喀什噶爾阿奇木伯克回部多羅郡王伊斯堪達爾。郡王品級多羅貝勒哈第爾。青海多羅貝勒德哩巴勒珠爾。輔國公拉特納錫第。阿巴噶固山貝子巴雅爾錫第。扎薩克一等台吉巴勒丹色楞。烏珠穆沁輔國公瑪哈布爾尼雅。鄂爾多斯輔國公丹津多爾濟。歸化城土默特輔國公索諾木旺扎勒。附察哈爾旗綽羅斯三等台吉瑚勒哈齊。四等台吉肯則。尼勒庫。納木庫。達瑪林扎布。又霍罕伯克那爾巴圖來使博巴占。錫哩布等。朝鮮國正使金思穆副使柳焵等。暹羅國正使呸雅梭挖粒巡吞握派嘮喇突。副使廊窩們蓀泥霞握巴突等。隨大學士領侍衛內大臣。以次就坐。諸樂並作。太上皇帝同皇帝進酒。召左翼科爾沁和碩親王拉旺。巴林親王品級多羅郡王巴圖。奈曼多羅郡王拉旺喇布坦。土默特多羅貝勒理藩院額外侍郎索諾木巴勒珠爾。翁牛特多羅貝勒濟克濟扎布。右翼喀爾喀和碩親王固倫額駙拉旺多爾濟。喀喇沁親王品級多羅郡王和碩額駙滿珠巴咱爾。喀什噶爾阿奇木伯克回部多羅郡王伊斯堪達爾。郡王品級多羅貝勒哈第爾。並各國正副使臣。王御座前。賜酒成禮。⇒《高宗純皇帝實録》巻1496 [戻る]
  5. ○(嘉慶2=1797年正月)丙辰(15日)。上侍太上皇帝御正大光明殿。賜朝正外藩等宴。⇒《仁宗睿皇帝實録》巻13 [戻る]
  6. 《朝鮮王朝實録》正祖實録 巻48 [戻る]
  7. 恐らく朝鮮王朝領域内 [戻る]
  8. もしかしたら礼部右侍郎のニュアンスを残す清かも? [戻る]
  9. doyonggo 滿州鑲藍旗 《清史稿》部院大臣年表5上、嘉慶2年の禮部滿右侍郎欄に名前が見える。⇒《清史稿》巻186 表26 部院大臣年表5上 [戻る]
  10. 皇帝専用の氷牀のことか? [戻る]
  11. 《高宗純皇帝實録》巻1497 [戻る]
  12. 《仁宗睿皇帝實録》巻25 [戻る]
  13. ○(嘉慶元年12月)己卯(8日)。上詣大高殿行禮。○侍太上皇帝幸瀛臺。閱冰技。⇒《仁宗睿皇帝実録》巻12 [戻る]
  14. ○(嘉慶2年12月)癸卯(8日)。上侍太上皇帝幸瀛臺。閱冰技。⇒《仁宗睿皇帝実録》巻25 [戻る]
  15. (正祖23=1799年2月)○己丑朔(1日)。(中略)○義州府尹李基讓馳啓言:“淸國乾隆皇帝訃勅出來,正使散秩大臣侯張承勳,副使內閣學士恒傑,六品通官倭克精額、太平保,七品倭昇額,八品通官繼文、保德,俱於本年正月十三日起程云。又稱照牌錄文云,似是謄送牌文,而禮部粘紙,計開原牌文,初不付來,事係無前。”敎曰:“邊情尤嚴於遵禮守法。所謂鳳城謄送之牌文,卽不過私報灣尹之馳通,則我國豈可以城將灣尹私自往復之文蹟,取信而設都監送儐使乎?在藩臣邊臣之道,但當據理責喩,還送私通,以其形止,具由馳聞而已。何敢以馳通一度,上送備邊司等語,循例措語,有若巡檢彼人之每朔接待然乎?國綱所在,駭然莫甚。已自昨日狀啓,極爲屑越,廟堂之尙無一言,其可乎哉?平安監司韓用龜、義州府尹李基讓等,所當令該府,拿問嚴繩,而客使非久出來,爲念民邑之弊,姑先施以越俸十等之典。雖以儐臣言之,觀察使以下不勤者,許以自斷論勘,而看作例事,不爲請罷。此後申明修擧之意,回諭迎接都監,自今夜權罷,仍又嚴飭灣尹,覓出眞箇木牌文,上送然後,更爲會同仕進。”⇒《朝鮮王朝實録》 正祖實録 巻51 [戻る]
  16. ○(正祖24=1800年3月)庚申(8日)。○召見回還進賀正使金載瓚、副使李基讓。進賀使首譯金倫瑞,進聞見別單:“一,皇帝旣除和珅,卽以徒黨罔治之意,布諭中外,咸令自新,然厥後帝所信任者,皆是平日不附和珅之人,而因事廢黜者,無非珅之餘黨。一,皇帝深懲上皇末年威權下移,事無大小,躬自摠攬,每至日晏忘食,夜分始寢,刑賞法制,一遵雍正故事。一,琉球貢使,適在京師,每於皇駕迎送處相會,見其面貌柔順,擧止從容,蓋其國俗然也。爲問:‘年前貴國人漂到我國,故善護出境,交付上國矣,其果無事返國否?’其從官中一人善華語答云:‘其人卽八重山人,我居中山,相距甚遠,不得見面,而聞人傳說,則貴國垂憐殘命,供頓過望,得以生還故土。敝邦之人,莫不知感云。’又問我國人,亦或漂到貴國否?答云:‘年前有漂到者,故厚給資糧,撘付貢船,護送福建界上云。’一,乾隆名臣,阿桂爲最,皇帝素所敬重。其孫那彦成,曾任戶部尙書,少有才略,皇帝命出征敎匪。官軍大敗,彦成爲賊所傷,民間或云彦成已被傷死,而尙不以聞云。一,上國人帽簷制樣,比前稍異。年前,上皇謂以帽簷,向上高捲,所戴頂子,爲簷所蔽,朝臣職品,有難驟辨,因命低捲帽簷,百姓效之,無頂子者,亦皆低簷云。”⇒《朝鮮王朝實録》 正祖實録 巻53 [戻る]

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