尚食 その2 永楽年間二つの後宮疑獄事件

《三陽開泰》

 と言うわけで、前回紹介した韓麗妃の記事ですが、《朝鮮王朝実録》の同じ箇所に興味深い記事がありましてですね…。まぁ、《尚食》で言うところの6話~7話辺りの喩美人の放火に関わることですね…。

先是,賈人子呂氏入皇帝宮中,與本國呂氏以同姓,欲結好,呂氏不從,賈呂蓄憾。及權妃卒,誣告呂氏點毒藥於茶進之,帝怒,誅呂氏及宮人宦官數百餘人。後賈呂與宮人魚氏私宦者,帝頗覺,然寵二人不發,二人自懼縊死。帝怒,事起賈呂,鞫賈呂侍婢,皆誣服云:“欲行弑逆。”凡連坐者二千八百人,皆親臨剮之,或有面詬帝曰:“自家陽衰,故私年少寺人,何咎之有?”後帝命畫工圖,賈呂與小宦相抱之狀,欲令後世見之,然思魚氏不置,令藏於壽陵之側。及仁宗卽位,掘棄之。亂之初起,本國任氏、鄭氏自經而死,黃氏、李氏被鞫處斬。黃氏援引他人甚多,李氏曰:“等死耳,何引他人爲?我當獨死。”終不誣一人而死。於是,本國諸女皆被誅,獨崔氏曾在南京,帝召宮女之在南京者,崔氏以病未至,及亂作,殺宮人殆盡,以後至獲免。
韓氏當亂,幽閉空室,不給飮食者累日,守門宦者哀之,或時置食於門內,故得不死。然其從婢皆逮死,乳媪金黑亦繫獄,事定乃特赦之。i

 ちょっと難解だったんですが、韓麗妃の死後にその事績を纏めている箇所なので、時系列がかなり飛ぶんですよな。

 まず、ちょっと時系列を追いながら訳を…。
①これ以前、商人の娘である呂氏が皇帝の宮中に入った。朝鮮国の呂氏と同姓の誼で近づいてきたが、(朝鮮国出身の)呂氏はこれに従わなかったので、商家の呂氏はこれを恨みを募らせた。権妃が死んだ時に、(商家の呂氏は、朝鮮国の)呂氏が(権妃に)毒薬を入れた茶を淹れて出したと偽って告発した。(永楽)帝は(これを聞いて)怒り、(朝鮮国の)呂氏および(関係のあった)宮女や宦官数百余人を誅殺した。
 と、いきなり宮女同士の毒殺事件から、《明實録》にもそれっぽい記事がない数百人単位の疑獄事件に進むわけですが、そもそも権妃って誰よって事になるので、少し寄り道して権妃の履歴を見ていきましょう。

恭獻賢妃權氏,朝鮮人。永樂時,朝鮮貢女充掖庭,妃與焉。姿質穠粹,善吹玉簫。帝愛憐之。七年封賢朵憐之。七年封賢妃,命其父永均為光祿卿。明年十月侍帝北征。凱還,葬於臨城,葬嶧縣。ii

 《明史》列伝では永楽帝の后妃は3名しか立伝されていませんが、その中の一人が権妃です。なんで《朝鮮王朝実録》でサラッと出てくるかというと、この人も朝鮮国出身の后妃だからですね。ともあれ、永楽7(1409)年に賢妃に封じられて、翌永楽8(1410)年には北元に遠征する永楽帝に従っていたところ、客死したことが分かります。

 ついでに《勝朝彤史拾遺記》を見てみると…

權妃者,朝鮮人。永樂七年五月,朝鮮貢女充掖庭,妃隨眾女入。上見妃色白而質復譴猓問其技,出所攜玉喲抵,窈眇多遠音。上大悅,驟拔妃出眾女上。逾月,冊賢妃,授妃父永均為光祿卿。八年十月,妃侍上北征,凱還而疾,至臨城曰:「不能復侍上矣。」遂死。上哀悼,親賜祭,謚曰恭獻,命厝其柩於澤縣,敕縣官守之。時朝鮮所貢女,其見具位號者,復有任順妃、李昭儀、呂婕妤、崔美人四人,皆命其父為京朝官。順妃父添年為鴻臚寺鄉,昭儀父文,婕妤父貴真為光祿少卿,美人父得霖為鴻臚少卿。其後永均以宣德【一作洪熙】中卒。iii

 と、こちらは《明史》より詳しく書いてますね。入宮したのも永楽7(1409)年であることが分かります。また、同様に朝鮮国から来た宮女に順妃、李昭儀、呂婕妤、崔美人の4名が居て、権妃含めてその親族が明国と朝鮮国との外交官的な官職に就いていたことも書かれています。ここでは、権妃の父が権永均で光祿卿であったことが記されています。

 で、実はこの辺り、《明實録》を検索してみると、この辺りは確認が取れるんですよね。

(永樂7(1409)年2月)己卯(6日)、冊立張氏為貴妃。權氏為賢妃。任氏為順妃。命王氏為昭容。李氏為昭儀。呂氏為婕妤。崔氏為美人。張氏故追封河間忠武王。王之女。王氏蘇州人。餘皆朝鮮人。iv

 権妃が冊封された月こそ違うものの、順妃、李昭儀、呂婕妤、崔美人の4名が朝鮮国出身である旨明記されています。

(永樂7(1409)年2月)庚辰(7日)(中略)命賢妃父權永均為光祿寺卿。昭儀父李文命、婕妤父呂貴真為少卿。順妃父任添年為鴻臚寺卿。美人父崔得霏為少卿。v

 権妃の父・權永均初め、永楽帝の後宮に入った朝鮮国出身の宮女の親族の名称も、任じられた官職も一致しています。

(永樂8(1410)年10月)丁巳(24日)、車駕次臨城時、賢妃榷氏【榷氏:舊校改榷作權】侍行以疾薨。賜祭。謚恭獻。權厝于嶧縣。vi

 永楽8(1410)年に10月に権妃が北元に遠征する永楽帝に従っていたところ、臨城(山東省棗莊市?)を過ぎるあたりで客死し、嶧県(同じく山東省棗莊市)で仮葬されたことも確認が取れます(文字の異同はありますが)。

(洪熙元(1425)年閏7月)乙卯(18日)。故光祿寺卿朝鮮國權永均(後略)。vii

 更には権妃の父である光祿寺卿・権永均も洪熙元年には他界していたことが明記されています。この辺りは《勝朝彤史拾遺記》の記述は少なくとも《明實録》とは大きな異同はなさそうです。

 が、《朝鮮王朝実録》を確認するとちょっと違うようで…。結構詳細に記事が残ってるので、多めに拾っていきます。

(太宗8=永楽6(1408)年4月)甲午(16日)。朝廷內史黃儼 ‧田嘉禾‧海壽‧韓帖木兒、尙寶司尙寶奇原等來(中略)上拜勑訖,升自西階,就使臣前跪,儼宣諭聖旨云:“恁去朝鮮國和國王說,有生得好的女子,選揀幾名將來。”上扣頭曰:“敢不盡心承命!”《朝鮮王朝 太宗實錄》卷15

 まず、権妃入宮の1年前の4月に、お馴染み黄儼が選処女を行うよう永楽帝から下命を受けて朝鮮国に来ます。恐らく、この時はこの前年の永楽5(1407)年に仁孝文皇后徐氏が崩御しているviiiのを受けてなんでしょうが、これ毎度のパターンなんでしょうかね。

(太宗8=永樂6(1408)年7月)辛亥(5日)黃儼等再擇處女。儼等至闕,上出廣延樓下,立辭而送之,遂如景福宮擇處女。其衣粧首飾,皆用華制,儼曰:“間有僅可者三四人而已。”留權執中、任添年等女子三十一人,餘皆放遣。ix

 で、3ヶ月後の7月の記事に、権執中、任添年などの娘31人が選考に残った…という形で権妃らしき人物が出てきます。明側の史料と父親の名前が違いますね。

(太宗8=永樂6(1408)年10月)乙酉(11日)(中略)上如景福宮,與黃儼、田嘉禾等,更選處女,被選者凡五人。故典書權執中之女爲首,前典書任添年、前知永州事李文命、司直呂貴眞、水原記官崔得霏之女次之。賜酒菓,各賜中朝體制女服,皆用綵段。上還宮,謂代言等曰:“儼之選定高下等第誤矣。任氏直如觀音像而無情態,呂氏唇闊額狹,是何物耶?”x

 そして、10月には選考者はおよそ5名に絞られ、故・權執中の娘を一番として以下、任添年の娘、李文命の娘、呂貴眞の娘、崔得霏の娘が選ばれたとあります。それぞれ、順妃、李昭儀、呂婕妤、崔美人のことでしょうから、權執中の娘は権妃で間違いないでしょう。ただ、権妃の父親は権妃の入宮前に他界しているので、官職を得ようがないわけですが。

(太宗8=永樂6(1408)年11月)丁未(3日)。處女權氏等五人,詣中宮辭,靜妃厚慰之。xi

 そして1ヶ月後には準備も整ったのか、権氏等5名という形で朝鮮王朝宮廷に出発の挨拶に出ています。

(太宗8=永樂6(1408)年11月)丙辰(12日)。黃儼等以處女還京師,上餞于慕華樓。以藝文館大提學李文和爲進獻使,齎純白厚紙陸千張赴京。附奏曰:永樂六年四月十六日,欽差太監黃儼等官到國,傳奉宣諭:“恁去朝鮮國,和國王李諱。說,有生得好的女子,選揀幾名將來。”欽此。臣諱欽依,於本國在城及各道府州郡縣,選揀到文武幷軍民家女子,與同欽差官等選揀女子五名,差陪臣李文和,根同欽差太監黃儼等官赴京外,今將各女子生年月日幷父職名籍貫,一一開坐,謹具奏聞。一名,嘉善大夫工曹典書權執中女,年一十八歲,辛未十月二十六日巳時生,籍貫慶尙道安東府,見住漢城府。一名,通訓大夫仁寧府左司尹任添年女,年一十七歲,壬申十月二十六日戌時生,籍貫忠淸道懷德縣,見住漢城府。一名,通德郞恭安府判官李文命女,年一十七歲,壬申十月十八日戌時生,籍貫畿內左道仁州。一名,宣略將軍忠佐侍衛司中領護軍呂貴眞女,年十六歲,癸酉十一月初二日巳時生,籍貫豐海道谷城郡,見住漢城府。一名,中軍副司正崔得霏女,年一十肆歲,乙亥十月初八日午時生,籍貫畿內左道水原府。從者女使一十六名,火者一十二名。xii

 その9日後に黄儼が選処女の選出者5名と北京に出発するので、餞別の宴が催されます。その際の奏状が転記されてますが、面白いことに選出者5名全員の父親の官職姓名、年齢、生年月日(時間まで!)、本籍、居住地がつらつらと書かれています。それによると、嘉善大夫工曹典書・権執中の娘が18歳で、辛未年12月26日巳時生まれで本籍は慶尙道安東府で居住地は漢城府。訓大夫仁寧府左司尹・任添年の娘は17歳で壬申年10月26日戌時生まれ、本籍は忠清道懐徳縣、居住地は漢城府。通徳郞恭安府判官・李文命の娘は17歳、壬申年10月18日戌時生まれ、本籍は畿內左道仁州(居住地の記載なし)。宣略將軍忠佐侍衛司中領護軍・呂貴眞の娘は16歳で癸酉年11月2日巳時生まれ、本籍は豊海道谷城郡で居住地は漢城府。中軍副司正・崔得霏の娘は14歳で乙亥年10月8日午時の生まれ、本籍地は畿內左道水原府(居住地の記載なし)。こんなに細かい后妃の個人情報始めて見ました…。

 で、翌年には彼女たち5名の消息と、親族の出世?が記されます。

(太宗9=永樂7(1409)年4月)甲申(12日)。謝恩使李良祐、副使閔汝翼,回自京師。良祐等言:二月初九日,帝幸北京。本國所進處女權氏,被召先入,封顯仁妃,其兄永均,除光祿寺卿,秩三品,賜綵段六十匹、綵絹三百匹、錦十匹、黃金二錠、白銀十錠、馬五匹、鞍二面、衣二襲、鈔三千張,餘皆封爵有差。以任添年爲鴻臚卿,李文命、呂貴眞光祿少卿,秩皆四品;崔得霏鴻臚少卿,秩五品。各賜綵段六十匹、綵絹三百匹、錦十匹、黃金一錠、白銀十錠、馬四匹、鞍二面、衣二襲、鈔三千張。又賜李文和及任添年之族子金和各馬二匹、鞍一面。xiii

 永楽7(1409)年2月【9日】に権氏が【顯仁妃】に封じられ、【その兄】である権永均が光祿寺卿に除されたとあります。
 あらら、《明 太宗實録》では2月【己卯】(6日)に権妃が【賢妃】に封じられ、2月【庚辰】(7日)に【賢妃】の【父】権永均が光祿寺卿を命じられていますので、大まかな所は符合しますが細かいところで異同があります。【顯仁妃】という封号は明朝の後宮としては違和感があるものの、親族の関係は《朝鮮王朝実録》の方が説得力があります。年の離れた兄の養女という形でも取ったんでしょうかねぇ。

(太宗11=永樂9(1411年)3月)己丑(29日)。光祿卿權永均,回自京師,啓曰:“去庚寅年十月二十四日,顯仁妃權氏,以病卒于濟南路,仍殯于其地,令濟南民蠲役守護,將欲遷之,合葬于老皇后也。”永均曾拜光祿職,未受誥命,至是錫之,其待遇之厚,倍於前日。帝賜言之時,含淚傷嘆,至不能言。xiv

 ですが、その3年後、突然権妃薨去の報せが届きます。なんで10月のニュースが年跨いで3月になって朝鮮王宮にもたらされたのかは謎ですが、済南路(元朝に現在の山東省に設置されたが明朝は済南府に改めた。この頃は臨城も嶧県も済南府に所属。)という辺りも含めて大きな違いはなさそうです。入宮して2年足らずで妹(養女?)が他界してしまったわけですから、それは権永均じゃなくても茫然自失です。涙を吞んで言葉を失っても仕方ない。

 それはともあれ、そろそろ本題に入りましょう。権妃の死から3年も経ったある日、突然事件が発覚?します。

(太宗14=永樂12(1414)年9月)己丑(19日)。命囚呂氏之母與親族于義禁府。尹子當通事元閔生回自京師(中略)閔生奉傳宣諭聖旨:
皇后沒了之後,敎權妃【卽顯仁妃】管六宮。的事來這呂家【卽呂美人】和權氏對面說道:“有子孫的皇后,也死了,爾管得幾箇月?”這般無禮。我這里內官二箇和爾高麗內官金得、金良,他這四箇,做實弟兄,一箇銀匠家裏,借砒礵與這呂家。永樂八年間,回南京去時,到良鄕把那砒礵,硏造末子,胡桃茶裏頭下了,與權氏喫殺了。當初我不知這箇緣故,去年兩家奴婢肆罵時節, 權妃奴婢和呂家奴婢根底說道:“爾的使長,藥殺我的妃子。”這般時纔知道了,問出來呵果然。這幾箇內官銀匠都殺了,呂家便著烙銕,烙一箇月殺了。爾回到家里,這箇緣故備細說的知道。和權永均根底,也說呂家親的,再後休著他來。xv

 急に呂氏の母が捕らえられます。恐らくは、権妃と一緒に入宮した呂婕妤に何かあって、その母親が拘束されたのでしょう。父親はどうしたのさ!と言うことになりますが、太宗11年には父親である呂貴真は他界していますxvi 。やむなし。ともあれ、北京から帰ってきた現地の外交官的な仕事をしていた尹子當からの使者の曰く…。皇后没後は権妃は六宮を管理した…六宮は後宮のことなので、皇后と同じ権力と責任を有したと言うことでしょうか?この時に呂氏は権妃に面と向かって「子や孫が居る皇后ですら死んでしまいました。あなたは何ヶ月後宮を管理出来るのでしょうね」と無礼なことを話した。…なんだか、徐皇后ですら永楽帝に殺されたように受け取れること言ってておっかないですが、公式には徐皇后は病死と言うことになってます。
 ここの内官二人と高麗人の金得と金良の二人は兄弟の様に仲が良く、ある銀匠の家で砒礵xviiを借りて、呂氏に渡した。永楽8年に南京に還った際に良郷県(北京郊外で現在の北京市房山区南東)で、かの砒礵を持って行き、薬研で擦って粉末にして、胡桃茶の中に入れて、権妃に飲ませて殺害した。当初は私(外交官である尹子當)はこのような縁故があるとは知らず、去年両家の奴婢が罵り合った際に、かつて権妃付きであった奴婢が呂氏の奴婢に「私らの妃はおまえらの妃に薬で殺された!」と言ったことから事件が発覚した。関係した内官や銀匠を皆殺にして、呂氏はすぐに烙銕(焼いた鉄を押し当てる刑罰)に処されて、一ヶ月後に亡くなった。おまえ(使者)は国に帰って事件の詳細を伝えよ(と尹子當に言われた)。權永均は呂氏の家族と親しかったため、抑留されている。…まさかの胡桃茶の元ネタがこんな所に…(多分違う)。

(太宗14=永楽12(1414)年9月)辛卯(21日)。欽問起居使尹子當回自京師。上御便殿,引〔見〕河崙、南在、李稷、六曹判書及子當等,上曰:“近因元閔生之言,囚呂氏親黨,然權氏爲妃,而呂氏爲美人,雖有尊卑,而非嫡妾之分。且其酖殺曖昧,而吾等遠體皇帝之怒,遽然族誅,予所不忍也。”在與稷曰:“姑囚繫,以待權永均之還,知帝指意決之,亦未晩也。”上然之,徧問諸相,右代言韓尙德曰:“權氏未爲皇后,豈可以弑論,而夷三族乎?謀故殺人,律則輕矣,以謀反大逆論,而孥其族何如?”上曰:“帝謂元閔生曰:‘吾以權氏管六宮之事。’尊則尊矣。”崙曰:“考諸律文,凡爭鬪於宮中者亦死,況肆行如此之謀?上致天子之怒,下貽本國之羞,其親戚雖不與謀,然生此尤物,自是家禍。臣謂,聞如此之變,不可緩也,宜速正王誅,以答天意。”上意遂定曰:“雖誅止一人可也。”上曰:“呂氏之罪,考之於律,則大逆也。大逆之罪,不可誅及其母。以呂氏之母定爲官賤,餘皆釋之。”命義禁府鎭撫盧湘,告于河崙、南在、李叔蕃等,崙曰:“殿下之至仁甚善,然呂氏之罪,弑逆之大者。弑逆之罪,必及其父母,父旣死矣,宜殺其母,以懲後人。且以是達於帝則必曰:‘體朕心而罪之。’不然則其於天意之所向何如?”在與叔蕃等曰:“只以閔生之言,殺之未便,待永均之還,知帝之指意而後,處之何如?”湘具以啓,上不忍以律外之刑加之,釋呂氏親族,只留其母張氏。xviii

 で、その3日後に手紙を送った欽問起居使・尹子當が北京から朝鮮に帰還します。で、太宗王と引見しますが、太宗王は「おまえの使者の報告で呂氏の親族を捕らえた。権氏は妃で呂氏は美人で階級に差があるが、正妻と妾の分がある。なおかつ毒殺の状況というのが曖昧で、我らは遠くに居る皇帝の怒りで(呂氏の)親族が誅殺されたと聞いて忍びない。」…どうにも、太宗王も降って湧いた毒殺騒ぎが怪しいものだとは思ってたようですね。呂氏は婕妤のハズなのに美人になっているのも気になりますが、雖有尊卑,而非嫡妾之分とあるのも気になります。情報が不足していてよく分からないんですが、もしかしたら権氏は庶出で、呂氏は嫡出って事なんでしょうか。或いはその逆か、何とも言えんですね。訳に戻ります。臣下は「呂氏の母親は捉えておいて、権永均が戻るのを待って、永楽帝の考えを確かめてからでも遅くはないでしょう」と言うのを、太宗王はその通りだとした。他の臣下は「権氏はまだ皇后に封じられてはいないものの、どうして死刑を伴う極刑が行使されるのか、三族にまで刑が及ぶのか、殺人を計画したのか、規則を軽んじているのか、謀反・大逆を謀ったと言うのなら、その一族はどうすべきか?」太宗王は「永楽帝は使者に『我は権氏に六宮のことを管理させる』と言われたという。(皇后と同じくらい)位は尊いと言うことだ。」…と言うことで、以後、よく分からない毒殺騒ぎで呂氏の母親を死罪に処するのに忍びない太宗王と、呂氏の罪が大逆なのか、弑逆なのかという臣下の議論を経て、呂氏の母親は抑留したままとして、親族は釈放したようですね。その拘留も長くはなかったようで、呂氏の母親・張氏もその5日後には釈放されたようです。xix太宗王の情が勝ったんでしょうね。

(太宗14=永楽12(1414)年12月)癸酉(4日)。權永均、任添年、李茂昌、崔得霏等,回自北京啓曰:“帝諭永均曰:‘呂氏不義,與內史金得謀買砒礵,和藥飮之,再下麪茶,以致死了。朕盡殺呂氏宮中之人。’留臣等五十四日,賜宴優渥,待之不衰。賜永均銀三丁、馬五匹、段子十匹、綵綃七十匹、兜羅綿二部、鈔五十張、羊三十二口,餘各有差。永均祭顯仁妃于天壽山,在京北一百二十里。”永均等各獻羊口、馬匹、白銀、綵段。xx

 その三ヶ月後に権永均ほか、永楽帝の後宮に入った妃達の親族が北京から帰ってきて、永楽帝から告げられた呂氏の罪状を報告しています。曰く、呂氏は内官・金得と謀って砒礵を購入して、薬に混ぜてこれを(権妃に)飲ませた上、再び麺茶(北京名物の軽食)に混ぜて飲ませて(権妃を)死に至らしめた。朕は宮中の呂氏関係者を殺し尽くした。詳細がちょっと違うけど概ね同じような内容ですね。にしても、サラッと恐ろしいこと言う皇帝ですね…おっかない。
 臣等(権永均ら)は54日間抑留されたが、期間中は宴会が催されたり、人によって差はあったものの銀や彩絹を多数賜った。権永均は北京より北120里にある天寿山で権妃の祭礼を行った云々。

 と、遠回りしたので、再度韓麗妃の記事を見てみましょう。

先是,賈人子呂氏入皇帝宮中,與本國呂氏以同姓,欲結好,呂氏不從,賈呂蓄憾。及權妃卒,誣告呂氏點毒藥於茶進之,帝怒,誅呂氏及宮人宦官數百餘人。後賈呂與宮人魚氏私宦者,帝頗覺,然寵二人不發,二人自懼縊死。帝怒,事起賈呂,鞫賈呂侍婢,皆誣服云:“欲行弑逆。”凡連坐者二千八百人,皆親臨剮之,或有面詬帝曰:“自家陽衰,故私年少寺人,何咎之有?”後帝命畫工圖,賈呂與小宦相抱之狀,欲令後世見之,然思魚氏不置,令藏於壽陵之側。及仁宗卽位,掘棄之。亂之初起,本國任氏、鄭氏自經而死,黃氏、李氏被鞫處斬。黃氏援引他人甚多,李氏曰:“等死耳,何引他人爲?我當獨死。”終不誣一人而死。於是,本國諸女皆被誅,獨崔氏曾在南京,帝召宮女之在南京者,崔氏以病未至,及亂作,殺宮人殆盡,以後至獲免。
韓氏當亂,幽閉空室,不給飮食者累日,守門宦者哀之,或時置食於門內,故得不死。然其從婢皆逮死,乳媪金黑亦繫獄,事定乃特赦之。xxi

 ……。商人の呂氏はどこに出てきたの?って感じですが、まずは永楽9(1411)年の権妃の死から3年経って、永楽12(1414)年に呂氏が罪に問われてその一党が粛正されたと言うことですね。これが先に訳したこの文章の第一段。
 その後、商人の呂氏と宮人魚氏が宦官と密通しているのが永楽帝にバレたが、二人を寵愛していた永楽帝はこれを表沙汰にしなかった。しかし、二人は恐れて首を吊って自殺してしまった。これに永楽帝は怒り、商人の呂氏の侍女を取り調べたところ、皆「(商人の呂氏は)弑逆を実行しようとしていました」と誣告した。おおよそ連座するものは2、800人、皆この禍から逃れることは出来ず、ある者は永楽帝の面前で「永楽帝の陽の気が衰えたから、年少の寺人(=宦官?)に密通したのだから、何の罪があると言うんだ?」と罵る者も居た。後に永楽帝は画工に命じて、商人の呂氏と小宦官が抱き合う様を描かせてこれを公表しようとしたが、魚氏のことを思い公表を控え、寿陵の側に保管させた。洪熙帝が即位すると、これを穴に埋めて廃棄させた。乱が起こった時に朝鮮国出身の任氏と鄭氏が首を吊って死んだ。黄氏、李氏は取り調べを受けて斬刑に処された。黄氏に連座した人は甚だ多かったが、李氏は「死を待つのみ、どうして他人を巻き込もうとするのか?私は一人で死ぬ」と言って、遂に一人も巻き込まずに死んだ。この事件で朝鮮国出身の宮女は殆ど誅殺されたが、崔氏はだけは南京に居た。永楽帝は南京の宮女も召喚したが、崔氏は病気で応じることが出来なかった。呂魚の乱が起こって宮女は殆ど殺し尽くされ、以後は(朝鮮国からの?)貢女は免除された。
 韓氏はこの乱で、幽閉されて食事すら供されなかった。門を守っていた宦官はこれを哀れに思って、ある時門内に食事を置いたので、死なずに済んだ。しかし、お付きの侍女は皆逮捕されて死んでしまい、乳母の金黒も投獄されたが、事件が解決された後に特赦で放免された。
 朝鮮王朝の宮女絡みでも永楽年間だけで、2回も虐殺が二度も起きてるというのが心底恐ろしいですが、具体的な年代は書かれてません。金黒も覚えてなかったんでしょうね。ドラマの中で莊妃が飢えて死にそうなのを、姚子衿が差し入れして助けたのは、この辺がモデルでしょうね。
 にしても、権妃と一緒に入宮した任順妃、李昭儀、崔美人と、韓妃と一緒に入宮した黄氏の末路が書かれているんですね…。鄭氏も《朝鮮王朝実録》に記事がある人物でしょうxxii
 入宮するのも悲劇なら、その末路も疑獄で自死を強いられたり、刑死したりするのも悲劇ですね…。

初,帝寵王氏,欲立以爲后,及王氏薨,帝甚痛悼,遂病風喪心,自後處事錯謬,用刑慘酷。魚、呂之亂方殷,雷震奉天、華蓋、謹身三殿俱燼。宮中皆喜以爲:“帝必懼天變,止誅戮。”帝不以爲戒,恣行誅戮,無異平日。後尹鳳奉使而來,粗傳梗槪,金黑之還,乃得其詳。xxiii

 で、金黒の記事の〆がこのようになってます。最初、永楽帝は王氏を寵愛して皇后に立てようとしたが、王氏は薨去してしまったので永楽帝は酷く悲しみ、ついには心をなくし、諸事判断を誤り、酷刑を適用することが多くなった。魚・呂の乱が発覚し、奉天殿、華蓋殿、謹身殿に雷が落ちてみな灰になってしまった。宮中では皆喜んで「永楽帝は必ずや天変を恐れて、誅戮を止めるに違いない」と噂したが、永楽帝はこれを戒めとはせず、恣に誅戮を行い、いつもと変わることがなかった。後に金黒が帰還したので、事の詳細が伝わったのだ。
 

(永樂18(1420)年7月)丙子(10日)貴妃王氏薨。xxiv

 と言うわけで、王貴妃は永楽18(1420)年に薨去していますので、魚・呂の乱はそれ以後に発生したと言うことでしょうね。にしても、同時代の隣国から見ても永楽帝は恣に誅戮する皇帝なんですな…。でも、魚・呂の乱と言われる割に魚氏の印象が薄い記事ですね。

 ちなみに王貴妃は《明史》にも伝が立てられてますが、やはり詳しいのは《勝朝彤史拾遺記》です。

昭獻王貴妃,蘇州人也,隨父宦在京。永樂初,選擇良家女,妃入宮,冊為昭容。時宮中上下多朔產,略少委曲。獨妃具才德,能從容婉娩以行其意,以故妃佐理宮政稱愜伏,仁孝愛之。永樂七年,仁孝服闋,進貴妃,上自仁孝崩後,在宮多任性,間或躁怒,宮人皆惴惴懼。妃特輾轉調護,徐俟意解。自皇太子、親王、公主以下,皆重賴焉。十八年七月丙子,以疾死。上震悼,為輟朝五日,賜祭謚照獻貴妃。命禮臣考高皇帝成穆貴妃故事,一視其喪葬,以寵恤之。xxv

 この記事読む限り、王貴妃が居れば永楽帝も権妃に六宮を管するとか言わなそうな気もするんですが、その辺何とも言えんですねぇ…。
 と言うわけで、なんだか長くなってしまいましたが、今回はおしまい。次の記事はちょっと毛色の違う史料からの話です。

  1. 《朝鮮王朝 世宗實錄》 卷26 [戻る]
  2. 《明史》卷113 列傳第1 后妃1 [戻る]
  3. 《勝朝彤史拾遺記》巻1 成祖朝永樂 [戻る]
  4. 《明 太宗實錄》卷88 [戻る]
  5. 《明 太宗實錄》卷88 [戻る]
  6. 《明 太宗實錄》卷109 [戻る]
  7. 《明 宣宗實錄》卷6 [戻る]
  8. (永楽5(1407)年7月)乙卯(4日)。皇后徐氏崩后⇒《明 太宗實錄》卷69 [戻る]
  9. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷16 [戻る]
  10. 《朝鮮王朝 太宗實錄》 卷16 [戻る]
  11. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷16 [戻る]
  12. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷16 [戻る]
  13. 《朝鮮王朝 太宗實錄 卷17 [戻る]
  14. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷21 [戻る]
  15. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷28 [戻る]
  16. (太宗11年8月)甲辰(15日)。(中略)開光祿寺少卿呂貴眞病故。⇒《朝鮮王朝 太宗實錄》卷22 [戻る]
  17. 三酸化二ヒ素⇒ヒ素酸化物、無味無臭で大量摂取すると腎不全を巻き起こす [戻る]
  18. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷28 [戻る]
  19. (太宗14=永楽12(1414)年9月)丙申(26日)。釋呂氏之母張氏。⇒《朝鮮王朝 太宗實錄》卷28 [戻る]
  20. 《朝鮮王朝 太宗實錄》卷28 [戻る]
  21. 《朝鮮王朝 世宗實錄》 卷26 [戻る]
  22. (永樂7=太宗9(1409)年11月辛巳(13日)。黃儼、祁保以處女鄭氏 還,上餞于太平館。儼曰:“ 鄭氏非美色,宜更求以待。”上曰:“國小力薄,今所進馬,僅萬匹耳,若美色則敢不更求!”⇒《朝鮮王朝 太宗實錄》卷18 [戻る]
  23. 《朝鮮王朝 世宗實錄》 卷26 [戻る]
  24. 《明 太宗實錄》卷227 [戻る]
  25. 《勝朝彤史拾遺記》巻1 成祖朝永樂 [戻る]

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