尚食 その3 ティムール朝使者の見た三大殿焼失
で、前回までは長めだったので、今回は短めに…。前回の記事で触れ魚・呂の乱なんですが、ネット見るにこの魚氏は音通の喻氏のことではないかという説があるようなのですよな…。
(永樂19(1421)年3月)甲申(22日)。賢妃喻氏薨。上輟朝一日。賜祭。謚昭順喪葬禮視昭獻貴妃云。i
永樂十九(1421)年夏五月壬戌朔(1日)(中略)加謚昭順賢妃喻氏為忠敬昭順賢妃。ii
前回触れた記事でも魚氏の印象が薄い割に魚・呂の乱と真っ先に名前が挙げられていたりよく分からないのですが、誅戮が出るような事件の発端になった人に追号なんてもらえるんでしょうかねぇ。ちょっと、この辺りからしてピンとこないので、自分が書いた記事もモヤッとした記事にはなってます。
多分、権妃が毒殺された事件と、呂氏と魚氏の密通事件は関係がなかったんだと思います。後付けで罪が加算されたとか、ありそうな話だとは思います。あと、金黒の語る事件自体が発生した詳しい年月が分からないので、魚氏と喻氏の関係もそうなんだかどうなんだか…。
ただ、喻氏については、もう一つ興味深い記事があります。朝鮮の記録から今度はティムール朝の使者であるギヤースッディーン・ナッカーシュの記録…の和訳です。
【永楽帝の妃の死】
とかくしている間に妃たちのうちで皇帝の龍愛を受けていた妃が薨去した。その哀悼のため、[それ以降]もはや皇帝にお目見えすることができなくなった。その一件は、哀悼の後が準備万端整うまで伏せられていたが、数日後のJumādā I月8日(1421/5/11)になって、皇帝の奥方様がお亡くなりになった、明日その葬儀を執り行なう、との告知が出された。iii
ヒジュラ暦と明朝の大統暦の差異がどれくらいなのかが自分には分からないのですが、同じ年の出来事ですね。ここでの永楽帝の妃は喻氏だった可能性は高いと思われます。
で…。問題の箇所ですが…。
【宮殿の火事】
その晩、天から下った神の命により az qażā-yi ilāhī az āsmān 突如として火事が起こった。その火事は、かの新築成ったばかりの皇帝の宮殿 kūškの頂に落ちた落雷が元で火の手が上がったのだった。まるで10万本もの松明が油と芯もろとも一斉に燃え上がったかのようであった。この最初に火の手の上がった建物は見の間 bārgāhīで、奥行き70ギャズ幅30ギャズの広さ、その円柱 ustuwāna-hā はラピス・ラズリlāzward(校本lājwardī)を溶かして用いた上に油をかけたもので、3人の男で周囲を抱きかかえても足りないほどの太さであった。火事の明るさで町全体が煌々と照らし出されたようだった。火はそこから燃え移って20ギャズ離れた一宮殿にまで達した。その謁見の間の背後には、さらに手の込んだ造りの後宮殿があったがそれも焼けてしまった。その周囲には諸々の宮殿や家屋が立ち並び、そのひとつひとつが宝物庫であったが、火はそこも襲っておよそ250棟を焼き尽くし、数多くの男女が焼死した。昼になるまでこのようにして燃え続け、その日は午後の礼拝時になるまでどんなに力を尽くして頑張ってみても火の勢いが鎮まることはなかった。
だが、皇帝は高官 umarāを連れ立って宮中より外出中であったため、その火事について知らずにいた。というのもその日は彼ら異数徒の信仰では吉日のひとつであったからである。けれども[皇帝は事態を知って]悲嘆のあまり偶像寺院 but-gānaに赴き、繰り返し嘆願した。
「天なる神 hudā-yi āsmān は余にお怒りになり、余の王宮を焼き払われた。だが余はいかなる悪しき業も行なってはいないし、父母を苦しめたこともなく、また圧制を行なったこともないではありませんか。」[皇帝は]心痛のあまり病気になってしまった。iv
と言うわけで、宮廷で火事があったこと、永楽帝は火事を天罰とは感じなかったことなど、金黒の証言と重なることがあるので、魚氏は喻氏?という説の根拠みたい言われるわけですが、金黒の証言では魚氏の死期と三大殿の焼失は関連づけられているものの、発生時期などは曖昧です。流石に無理あるんじゃナイかなと思うんですが、《尚食》の中で喻美人がやけくそになってボヤ騒ぎを起こす筋の元ネタはここら辺みたいですね。どうせなら三大殿焼き尽くすスケールでやれば良かったんでしょうけど。
【妃の葬儀の準備】
この事件があったせいで、かの亡くなられたお方(寵妃)がどんな風にして葬られたのか、またどのように(čūn.あるいは「いつ」)墓所に運ばれたのかは判らなかったけれども、たいそう飾り付けが施されていた(ārāyiš karda būdand)。すなわち色紙で作って図柄を施されたたくさんの旗や竿が並び、厚紙でできた10ギャズ dah gaz(校訂本は「10ギャズ四方」dah gaz dar dah gaz)の台の上には紙の人形や大きな馬や駱駝を模ったものが置かれ、その馬や駱駝はみな彩色され人工の毛や手綱や轡その他ひと通りのパーツが付けられていた。さまざまな幸やダラスン(msとMaitraになし)とアラクの酒が満載の食膳が千から2千卓も[用意された]。
かの婦人(妃)のかつての持ち馬はみな、墓穴dabmaのある山に放たれて自由に草を食み、もはや誰かに捕えられる虞れも一切なくなった。その墓穴には側近く仕えていた数多くの召使いの娘や宦官たちがその中に皆で洞穴を掘り彼らの5年分の食糧を前にして、まさにその場所に食糧が尽きる時まで留まるのだが、彼らもまたそのままそこで死んでしまうのである。このようなことを万端手配していたにもかかわらず、その火災のせいでそのお方(妃)がどのように葬送されたのかは判らなかった。
皇帝の困憊の度合が重くなると、その子息が調見の間に来てそこに居ることが多くなった。
そのうちに使節たちに対しては退去の許可が出た。だが彼らはまだ準備が整っていなかったため、許可が出てから以後もまだ町に留まっていたので、食糧は給されなかった。v
ギヤースッディーン・ナッカーシュの記事が面白いのはこの辺ですよね。葬儀期間の街の様子が結構細かく書かれています。更に、殉死はなにも皇帝に限ったことではなく、后妃の付き人に対しても行われていたと言うこともサラッと書かれてます。金黒は生き残っただけラッキーだったんでしょうかねぇ…。
ともあれ、結構《尚食》のドラマも《朝鮮王朝實録》や「ティムール朝遣明使節行記録」など、結構マニアックなところからネタをつまんでるんだなぁ…と言うことですね。ワザワザ金沢大学まで論文見に行った甲斐がありました。
- 《明 太宗實錄》卷235 [戻る]
- 《明 太宗實錄》卷237 [戻る]
- 小野浩「ギヤースッディーン・ナッカーシュのティムール朝遣明使節行記録 全訳・註解―ハーフィズィ・アブルー『バイスングルの歴史精華』から―」窪田順平(編)『ユーラシア中央域の歴史構図 13~15世紀の東西』総合地球環境学研究所 P.328 [戻る]
- 小野浩「ギヤースッディーン・ナッカーシュのティムール朝遣明使節行記録 全訳・註解―ハーフィズィ・アブルー『バイスングルの歴史精華』から―」窪田順平(編)『ユーラシア中央域の歴史構図 13~15世紀の東西』総合地球環境学研究所 P.328 [戻る]
- 小野浩「ギヤースッディーン・ナッカーシュのティムール朝遣明使節行記録 全訳・註解―ハーフィズィ・アブルー『バイスングルの歴史精華』から―」窪田順平(編)『ユーラシア中央域の歴史構図 13~15世紀の東西』総合地球環境学研究所P.329 [戻る]